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父、招集される

 昭和十七年六月、日本海軍がミッドウェー島沖でアメリカ海軍に敗北した。

 

 太平洋戦争の趨勢が日本の敗北に転じたその頃、若者の姿をほとんど見なくなった愛知県の某農村では、残された中高年と女子供によって、戦前と大差の無い生活が営まれていた。


「こないだ井戸の水はうみゃあなぁと思って飲んどったらあんたぁ、中で猫が死んどったわ」

「なーにをとろくせゃあ事言っとりゃあすのこの人は」


 近所の明るい女衆と共に、祖母が文字通り井戸端会議を楽しんでいた。

 二歳半の晃は祖母に背負われながら、聞くとも無しに弾む会話を聞いていた。 



 お月さんはいくつ

 十三 七つ

 豆炒って進ぜよか

 豆は歯がないでよう食わん


 会話が落ち着くと、祖母が子守唄を唄ってくれた。


「おばあちゃん、お月様に歯があるわけなゃあてわかっとるのになんで豆進ぜるの」

「あきちゃんは賢いなぁ。この子が孫の中で一番賢いわ」


 祖母は晃を溺愛しており、ませた事を言えば何でも褒めてくれた。

 晃はそれが照れ臭く、褒められる度に口をへの字に曲げていた。


「あれ、怒ってまったかね。あきちゃんは褒められるとすぐに怒ってまうねぇ」


 口をへの字に曲げて黙り込む幼児を面白がって、近所の女衆がますます冷やかす。

 こんな時、晃は二歳半の幼児とは思えない憎らしい顔をして黙り続けた。

 晃の顔が憎らしくなればなる程、女衆は喜んだ。

 

「あきちゃんが怒っとらすでまぁ行くわねぇ」


 祖母が女衆にそう告げてようやく、晃は冷やかしから解放されるのが常だった。




 昭和十八年二月、ガダルカナル島から日本軍が撤退。

 昭和十八年四月、山本五十六大将が前線視察中に戦死。

 昭和十八年五月、アリューシャン列島のアッツ島で日本海軍守備隊が全滅。

 

 昭和十八年の秋、隣町にある役場から、晃の家に吏員が訪ねて来た。


 両親と祖父母が土間で吏員を出迎える中、三歳児の晃は珍しい来客に胸を弾ませた。


 吏員はゆっくりと、鞄から一枚の紙切れを取り出した。

 その場にいた大人達は皆、一様に深刻な顔をして動きを止めた。

 

「赤紙や・・・いよいよ来たわ」


 母が呟いた。 

 母は赤紙と言ったが、晃には赤色よりも少し紫がかっている様に見えた。


 赤紙。陸海軍省が発行する召集令状の通称である。


 その紙切れが晃の目に紫がかって見えたのは、海軍省が発行する紅色の召集令状だったからであろう。


 母の呟きに背中を押されたかの様に、父はゆっくりと、吏員から紅色の紙切れを受け取った。

 祖父は気難しさと気性の荒さで知られた人であったが、この時ばかりは言葉を失ったまま、一人息子の手に取られた紅色の紙切れを見つめていた。

 


 父はこの年、三十二歳になっていた。

 子供は晃を含めて四人。長女は九歳、長男は六歳、次男の晃は三歳、三男は一歳。


 二十歳の年に受けた徴兵検査で、扁平足であった父は乙種とされた。その為、父はこの歳まで出征せずにいられた。

 両親と妻と四人の子供と共に、食うに困らぬ自作農として、戦争の喧騒とはあまり縁の無い片田舎の農家として、穏やかに暮らしてきた。


 そんな、四人の子供を持つ乙種の中年農家を招集しなければならないほど、日本軍の兵員は枯渇していたのだ。


 晃が住む、六十世帯程度のこの村だけを見ても、既に約六十人の若者が出征していた。

 徴兵検査に合格したこの村の二十代の男子、一人も漏らさず全員が、である。


 そして、母の弟を含めた何人かは既に、戦地で亡くなっていた。



 村の若者達が次々に出征し、何人かの若者が早々に英霊となって帰ってくる。

 そんな中、乙種とは言えど徴兵検査に合格していた夫がいつまでも出征しない事に、母は後ろめたさを感じていた。


「ほっとした。これで恥をかかずに済む」


 母は後日、遊びに来た末妹にそうこぼした。

 戦時の狂気を感じさせる発言だが、これが当時の、一般的な主婦の考え方だったのかも知れない。



 季節がもうすぐ冬になるという頃のある日、家の前に村人達が集まった。

 集まった村人達を前に、父が挨拶をした。


「お国の為に、死んで参ります」


 常に無口で穏やか、おっとりとした性格の父がどこへ何をしに行くと死ぬのか、父が挨拶をする姿を眺めている晃には見当がつかなかった。


 短く愛想の無い挨拶を終えると、連呼される万歳の声を背に受けながら、父は町役場の吏員と共にどこかへ向かって歩き去った。不思議と寂しさは無かった。不安も無かった。


 寂しさはともかく、事態を理解して不安を感じるにはまだ、晃は幼な過ぎたのだ。

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