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九州大学文藝部 初冬号

あなたへ

作者: 藤野遠子

 最後にふたりで散歩した日のこと、憶えていますか。わたしはあの朝が今生の別れになるなんて思っていなかったし、それはあなたも同じでしょうね。春も浅い頃だったから、桜が咲き始めるまではもう少し猶予があると、そうでなくても、そうしようと思えばいつでもそうできるものだと思っていた。あなたは上京、わたしは福岡に残ることが決まって、もう気軽には会えなくなるねなんて話しながら、でもお互いそんなに重くは受け止めていなくて。防波堤を端へ端へと走るわたしを、あなたがゆっくりと追う。バランスを崩して落ちないように気をつけながら、二人して水面を覗き込む。


 ねぇ、思えばわたしたち、不意にちょっと背を押したら簡単に落ちてしまうような場所にずっと、ずっといましたね。それでも一緒にと手を引くことも、突き落とすことも、危ないから戻ろうと声をかけることもせず。ただずっと水底を覗き込もうと身を乗り出していた、不安定で幸福な日々。あなたの無自覚さとわたしの臆病さが、ちょうど同じだけの質量を持って、透明な天秤に揺れていた。


 あなたは汽水域の水面の様子にばかり気を取られていて、そのことには気づいていないようだったけれど。或いは何にも気づかないふりで錘を積んでいくのがとびきり上手だったのかもしれないけれど。そして錘は実は無自覚ではなく無関心だったのかもしれないけれど。どちらにせよ、それで良かったのだと思います。


 そして雲間から地上に降りる天使の梯子を見ましたね。わたしたちはレンブラントのように絵に残せないから、言葉か記憶に留めておくしかなくて。こうして残しておかなかったら、そのうち忘れてしまう。


 あなたに降りた梯子もあの日のように輝いていましたか?




 それから砂浜に降りて。やわらかい砂に足を取られて上手に歩けないわたしを、あなたは待ってくれなくて、でも追いかけるのも楽しくて。わたしはただゆっくりと歩き続けるその背を追いかけながら、夢でないことを確かめたくて、現に確かな証拠が欲しくて、こっそり白い貝殻を拾う。追いついても、人と視線を合わせることが苦手なあなたはいつも前だけを見ているから、見つめるには好都合だけれど、少しだけ泣きそうな気持ちにもなる。それでもあなたの横顔を見上げながら歩く時間は、昔からずっと好きだった。あなたの愛犬が虹の橋を渡ってからも、一緒に歩く習慣は何故か長く続いたから、あなたもこの時間を悪く思ってはいなかったでしょう? もう、それだけでよかった。少なくとも嫌われてはいない、それだけで充分だった。わたしは(たぶんあなたもそう)生きるのがそんなに得意じゃなくて、慢性的な心身の不調を常に抱えてつらい日の方が多かったけれど、それだけで明日の朝まで生きようと思えるくらいには世界は輝いた。


 加減してくれているのにそれでも少し早歩きしないと置いて行かれてしまう歩幅の違いや、わたしよりずっと高くも遠くも見ているであろう瞳。そしてあなた自身が愛していないあなたの弱さや狡さも。わたしが知るあなたの全部が好きだったし、知らないところは全部知りたかった。知れば知るほど知らないことばかり増えて、人一人を理解するとは気が遠くなるほど果てしない旅路なのだと思い知って、苦しかったけれど、その苦しささえも愛しかった。


 最後まで何も言えなかったし、指一本触れることさえなかったけれど。ずっと幸せだったこと、あなたは知らなかったでしょう。それで良かった。きっと正しかった。


 ただ、もらい続けた幸せを、少しも返せないまま、少しも返せないところにあなたが行ってしまったことが悔しい。返し方が分からなかった。あなたは両手に抱えきれないくらいのきらきらするものをわたしにくれたけれど、愛してもらわないことには同じものは返せないから。臆病なわたしはあなたの気持ちを確かめることができなくて。最後の最後までもらう一方だった。わたしが集めて差し出すきらきらを、要らないと拒まれることが怖くて。あなたが拒む訳ないと分かっていたのに、勇気を出すまでに時間が必要だった。その時間が自分にはあると思い違いをしていた。




 あれからわたしの空はずっと夜が明ける直前の昏さで、海は真っ黒に揺れていて。もう進むのも戻るのも怖くて仕方ないのに、あなたがくれたきらきらが行く道を微かに照らすから、なんとかまだ死なずに生きている。眠れない夜にはそれすら呪いのように思えてしまうこともあるけれど、あの日聴いた海鳴りはいつでも心に優しくて、わたしに立ち止まることを許さない。


 全部終わったら今度こそちゃんと返しに行くから、それまでそっちで待っててね。

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