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3.放浪娘が森に泣く

 ちりちりと膚を焼く空月のきつい日差しを受けて、ちいさな滝を受ける川面は魔法のようにきらめいている。

 膝の上までその水につかってたたずむカリハ・シャールカの姿は、水の精に負けないほど美しかったが、水の精そのものと讃えるには隙のない輪郭にみなぎる力がするどすぎた。

 背後の林ではやかましく蝉が鳴いている。

 岸辺で師匠を見守るキャムの額に汗がにじむ。

 すっ、とカリハ・シャールカの右手がわずかに浮いた。

 キャムはまばたきをやめた。

 カリハ・シャールカの右手がひらめき、上体が沈み、ひきつけた鞘から剣が抜かれ、舞い、目の前のちいさな滝が貫かれる。

 すべては、たった一度のまばたきで見逃しそうな一瞬のうちだった。

 水音も水しぶきもない。滝はもうなにもなかったように流れつづけている。

「すごい! 滝に穴があいた!」

 キャムは手をたたいた。

 カリハ・シャールカはこちらをむいて苦笑した。

「いまのが見えるようになったのか」

 修行にうちこみながらも同時に自分の様子をもうかがっていた師匠に、キャムはあらためて舌を巻いた。

「だって、大事なのは『目』でしょ」

 答えながら、キャムは自分のはしばみ色の目を指さす。

「相手の剣先がどこに来るのか、どれくらいの速さか、強さか。そういうこと、みんなわからなきゃ」

「あいかわらずいい目だ」

「だって、強くなりたいもの」

 にこりと微笑んで、だが、それからカリハ・シャールカは吐息をついた。

「……おまえをそばに置くように決めたのは、最近、まちがいだったのかもしれないと思うようになったよ」

 キャムは驚いた。

 カリハ・シャールカはさらに言った。

「わたしはおまえに、剣をふるう自分しか見せてやれない。おまえはその目で、もっとほかのいろいろなものを見られたはずなんだ」

 この三年、キャムはカリハ・シャールカとともに旅をつづけてきた。やっと背も伸びて力もついて、カリハ・シャールカが長剣を手にすることを禁じる理由もなくなってきた。

 いよいよこれから強くなれる。キャムはそれを楽しみに、カリハ・シャールカのすべての動きを目に焼きつけてきた。自分もそのとおりに動けるように、カリハ・シャールカのように強くなれるように。

 それをいま、カリハ・シャールカは否定しようとしている。

「どうして!」

 キャムは叫んだ。

 カリハ・シャールカが水面を乱して近づいて、水音とともに岸にあがってきた。

「これも見たか?」

 カリハ・シャールカは問い、額をぬぐった手をつきだした。

 水滴になるほどの汗をそこに見て、キャムは息をのんだ。

 言ったとおり、目には自信がある。水面に立っていたときの師匠は、この暑さにも汗ひとつかいていなかった。それがいまは、むしろキャムよりもひどく汗をにじませている。

 しかも、その手はこまかくぶるぶるとふるえていた。

 具合でも悪くなったのかと、キャムは心配になってカリハ・シャールカの顔を見上げた。

 カリハ・シャールカはかぶりをふった。

「暑いとか寒いとか、病気とかじゃない。怖いんだ」

「え?」

「わたしは強くなろうとしている。もう、そこらの剣士に勝てるくらいにはなれた。ここからさらに腕をあげたら、地方予選に出て、聖剣士をめざしたい。そう思って努力している」

「うん、わかってる、知ってるよ」

「まだ強くなれることは、自分でもわかっている。手も、足も、目ですらまだ遅い。もっともっと鍛えられるところばかりだ。だが――いったいどこまで鍛えればいいのか、それが最近はよくわからなくなってきたんだ」

「えっ……」

「たとえ聖剣士になったところで、それで強いと言えるのか、わからなくなってきた。わたしはいったい、なんのために戦っているのか。――」

 キャムが知っているカリハ・シャールカとはちがう。

 急に不安になった。キャムはあわてて叫んだ。

「幸せになるためだよ、師匠! 幸せになれるくらい、強くなるため!」

「強くなるということは、どういうことだろうな」

 カリハ・シャールカは苦く笑う。

「剣で誰かに勝ることだろうか。そして、その誰かの恨みを買って、なお平然としつづけていられることだろうか」

「師匠……」

「強くなることと、強くありつづけることは、また別の話なんだ。一度勝つことと、ずっと負けつづけずにいることは」

「負けたって、いいじゃん! またもう一回勝てば!」

「そのとおりだ、キャム。だが、そうやっていつまでも終わらない戦いのくりかえしの中に、もしくは先に、ほんとうに幸せはあるんだろうか」

 やはりいつものカリハ・シャールカとはちがっていた。キャムはぎゅっとこぶしを握った。

「だって師匠は剣士団を持つんでしょ! 強くなりたい人を強くする手伝いができるような、そんな剣士団を。強くなったら持てるよ、絶対!」

「だといいな」

 カリハ・シャールカの声はやさしすぎて、だからかえって彼女自身がそうした未来をまったく信じていないことがはっきりわかった。

「キャム、強くなるためにはまず目が大事だと、たしかにおまえには言った。わたしもそれなりの目は持っているつもりだった。だが、どれだけ目がよかろうと、運命を見ることだけは絶対にできはしない。わたしは近ごろ、そのことが怖いんだ」

 キャムはむっと口を曲げる。

「運命が見られないのは誰だっておなじだよ! 師匠は他の人より強いんだから、その分、ずっとましなんだよ!」

「強者はむしろ、そう思えるおまえだよ、キャム」

 カリハ・シャールカにそう言われて、キャムはさらに口もとに力をこめる。

「バカにしてる! なにさ、師匠の臆病者! 欲しいものが勝ち取れないかもしれないから戦わないなんて、ただの臆病者の、怠け者の言い訳じゃない!」

「そうなるな」

 あっさりうなずいた師匠の姿に、かあっとキャムの顔が熱くなる。

 カリハ・シャールカはキャムにとって絶対的な存在だった。

 その言いつけであればこそ、キャムは剣を持つことをじっと我慢している。強くなるためには、いまはまだ体を作ること。そのことばを信じて従っている。

 キャムに我慢を命じるのであれば、師匠にはよけいに、ずっと強くいてもらわねば困るというのに、自分で自分を臆病者と認めるなんて。――。

「木イチゴでもないか、見てくる!」

 キャムは森に駆けこんだ。

 森の地面は厚くつもった去年の落ち葉でやわらかく、落ちた枝、倒れた幹がさらに足場を悪くする。

 キャムは足を止めず、それらを飛び越えてゆく。

 旅をはじめて、もう三年。

「剣がなくたって、修行はできるもんね」

 走りながら、キャムはつぶやく。

「師匠が自分を臆病者だって言うんなら、わたしはわたしでやらせてもらうんだから!」

 まわりの樹を自分を囲む相手と想像する。

 襲いかかってくる剣士の群れ。

 風に揺れる枝は彼らの剣。

 体に彼らの剣がとどくより先に、キャムは動く。

 手本はこの世界に満ちている。

 すばやく――木々のすきまを駆けてゆく鹿のように。

 軽く――枝から枝へとわたる栗鼠のように。

「わたしだって、なるんだから!」

 強く――剣を持ってひるむことなどないはずの、〈疾風〉カリハ・シャールカのように。


     †


「――」

 がばっ、とキャムは曲げた膝の上に組んだ腕から頭をあげた。

「……寝ちゃったんだ」

 夢のなごりが涙のかけらとなって、右の目の端からこぼれおちた。

 キャムはあわててこすった。

 気づかれなかったかと、夢より前の記憶にしたがって、そろそろと右をうかがう。

「……」

 短い草の上にうつぶせに長々とのびたマントの男は、ぴくりとも動いていなかった。

 キャムは心配した自分がばからしくなり、よけいな気づかいをさせたこののんきな相手が腹立たしくなって、いささか乱暴な声をかけた。

「ほら、いつまで寝てるのよ! あなたと野宿するくらいなら、わたしひとりで先に行くからね!」

「ぅわっちょまっ!?」

 意味不明な叫びをあげて跳ね起きて、ルヴェルは、きょろきょろあたりを見まわした。まだ街路樹の幹に背をあずけて座っているキャムにやっと気づき、大きく息を吐く。

「よ、よかった……まだいた……」

「まだ、ね」

「……脅さないでくれ」

「脅しのつもりじゃないけど?」

 キャムもスカートをはらいながら立ちあがる。

「あなたには、これで仕事先をふたつもだめにされてるんだから。優しくしてあげる義理なんて、これっぽっちもないと思うけど?」

「ああ、その件については、王立錬成院が責任を持って新しい就職先を」

「おことわり、って言ったでしょ。なんだってくろねずみのひげがひくついてるようなところで働かなきゃならないのよ」

「しかしだな、橋の上の洗濯屋だの、死神みたいな女主人の葬儀屋だのよりは、ずっといいところを紹介できるんだぞ。ああいう店は、その、あまり上品とはいえないし」

「そりゃ、王立錬成院に入るような方々には、もっとお上品なお店があるものね。金貨が飛びかい、香水がかおり、商談の合間には新しい詩と小説と歌劇の感想を語り合うのよね」

「ま、まあ、そこまでじゃないが」

「ほんとお上品ですてきよね。だけどわたしは、銅貨を奪い合って、汚水と安酒がにおって、誰と誰とがくっついただの別れただのってさわぎたてるようなお店でいいの」

「……想像以上に上品じゃない」

「ええそうよ。でもね、投げ与えられるふかふかのパンより、自分で稼ぐひからびたパンの気楽な味のほうが、ずっとわたしの口には合うの。――さ、歩いてよ。あなたの足がやわなせいで、予定が遅れっぱなしなんだから」

 ひとり街道に戻ったキャムのあとを、ルヴェルがあわてて追いかけてきた。

 山のようにわらをつみあげて、伏し目がちの辛抱強そうなろばにひかせた荷馬車が、ゆっくりとキャムの横に並んだ。

「どこまで行くんだい?」

 声がおちてきた。キャムは横の荷馬車に顔をむけた。

 目深にかぶった帽子の下、目もとを隠すぼさぼさの髪で、御者の顔ははっきりしない。

「ええ、ちょっと」

「乗っていくかい?」

 ぱあっと顔を輝かせたルヴェルをしり目に、キャムはにっこり笑ってかぶりを振る。

「だいじょうぶよ。ありがとう」

「節約する旅かい? 金なんていらないよ。だいたい、一緒にいるのは王立錬成院の人だろうに」

 キャムは連れをふりかえる。

「ただで乗せてくれるって。どうする?」

 ルヴェルはますます顔を輝かせ、口をひらいて――答える寸前、はっと表情を改めてキャムに聞く。

「……おまえはどうするんだ?」

「歩くわよ」

「おれひとり乗ったところで、意味がないじゃないか!」

「いいじゃない、好きにしたら? わたしがあなたに合わせる義務も、あなたがわたしに合わせる義務もないんだから」

 ルヴェルはがっくり肩を落とすと、御者にかぶりを振った。

「……すまんな。好意には感謝する。行ってくれ」

「やれやれ、なんの意地を張ってるんだかねえ」

 御者は草を編んだ真新しい鞭でろばの尻をかるくたたき、行ってしまった。わらの山の上には鳥かごが乗っていて、中の鳩が、小首をかしげてこちらをいつまでも眺めていた。

「意地なんて張らずに、乗せてもらって先で待ってればよかったのに」

 キャムは言った。

 ルヴェルはむっと口を曲げた。

「意地を張っているのはおまえのほうだろう! ただで乗せてくれるって話だったぞ」

「そうね、それも断わった理由」

「はあ?」

「ただで、なんて最初から言ってくるのは、なにかたくらんでるからかもしれないでしょ。危ないことは最初からしないことに決めてるの。この辺の人にしちゃ、なまりもなかったし」

「え――じゃ、じゃあ、いまのは?」

「知らないわよ。ふつうの農家の人だったかもしれないわよ。町に出たはいいものの、うまくいかなくて故郷に戻った人かもしれないし、あなたがくろねずみだから、もともとお金なんてとれないってあきらめてたのかもしれないし。ただ、もしそうじゃなかったら、困ったことになるでしょ」

 ルヴェルが情けなく眉じりを下げる。

「だからジァトペックの役所で馬か馬車を借りようと――」

 キャムは足を速めた。

「いまは女剣士なんかを追っかけているけど、ほんとうはこの国をよくしたいんでしょ? だったら庶民の暮らしに目をむけなさいよ。馬だの馬車だので旅だなんて、それ、どこの金持ちの話? 靴があったらもうけもの、山の奥のほうの村なんて、岩だらけの道を裸足で歩いてたりするけど?」

「いやでもほらその」

「走らなくていいの。歩くだけでいいの。それにあなたには、そんなに立派な革の靴まであるの。楽なものよね?」

「……」

 背後で、ルヴェルがはああとため息をつく。二、三歩急ぐ足音とともに足もとに影がさして、ルヴェルが隣に並んだ。

「そういえば、その女剣士というのはどういう人間なんだ? カリハ・シャールカ以外にそんな女がいたなんて記録はなかったが」

「でしょうね。さっさと剣を捨てちゃったもの」

 キャムはすたすた歩きながら答える。

「名前は?」

「自分で聞いたら?」

「どういう関係なんだ?」

「知り合い」

「……答えになってないぞ」

「あーもう、うるさいな。師匠の友人、わたしの知人。これでいい?」

「なんでそう機嫌が悪いんだ」

「ふつうよ。いやなことと、もっといやなこととのどっちかを選ばされた割には」

「……それは、おれのことか?」

「順番どおりに言うなら、山魔姥(イェジババ)とくろねずみね」

 ルヴェルが小走りに前に出ると、体ごと立ちふさがるようにふりかえった。

「なんだって、そうも嫌うんだ?」

 手の甲でルヴェルの胸もとをぱしりとかるくはらってどかせ、キャムはまったく足をゆるめることなく先へと進む。

「くろねずみなんか、好きになるわけないじゃない」

 ルヴェルが急いで隣にやってくる。

「ちがう、おれのことじゃない。聖剣士をめざすことだ」

「もう言ったはずだけど? 師匠の遺言だって」

「しかし、実際おまえは戦う能力までは捨ててないじゃないか。いくらカリハ・シャールカのもとで修行したことがあるといっても、強くありつづけるためには相応の努力が必要だろう? おまえはそれをやっている。だから橋の上から飛んで逃げだり、おれをいいようにもてあそんだりできるんだ」

「ちょっと!」

 キャムはさすがに横をむいて抗議する。

「変な言い方しないでよ! あれは、あなたの体をちょっと借りただけ――じゃない待って――そう、動かしただけよ!」

「動かせるでもあやつるでもなんでもいい、だから、そういうことはふつうの娘にはできやしないと言っているんだ」

「あのね、わたしはむかし、体の使い方のコツを知ったの。コツっていうのは、時間がたっても忘れないの。ここのところの騒動は、不幸のくろねずみがまとわりついているせいであって、あなたがいなければわたしもなーんにもしなくてよかったの。わかった?」

 キャムはまた前をむいて、先ほどよりいっそう足を速めて歩いていく。

 ルヴェルも隣にならんで離れない。

「それはちがう。好きなことでなきゃ、そうそうつづけられるものじゃない。おまえは好きなんだ。戦うことが」

「全っ然好きじゃありません」

「いいや、おまえは好きなんだ。認めろ」

「ええ、いくらでも。戦いなんて嫌い、つきあわされるのはもっと嫌い」

「戦うことが嫌いなら、なんだってカリハ・シャールカの弟子になった?」

「師匠が好きだっただけ」

 キャムはさらに加速する。

 隣のルヴェルの息が乱れてくる。

「それは結局、気に入った相手にくっついていただけじゃないか。はじめるのもやめるのも、カリハ・シャールカだなんて、おまえ自身が考えるおまえの生き方は、ないのか?」

 ぴた、とキャムは足を止める。

 一歩行きすぎてから、ルヴェルもまた立ち止まる。

「……三つの願いって、知ってる?」

 うつむいて、キャムは聞いた。

「三つの願い? ああ、精霊がかなえてくれるというおとぎ話か?」

「そう」

「それがどうした?」

 キャムは顔をあげた。

「精霊にじゃなくて、あなたに願ってもいい?」

 彼をにらみつける目はそのままに、口もとばかりを無理やりに微笑ませる。

 ぎょっとたじろいだルヴェルに、

「――黙って、歩いて、くろねずみ」

 ひとことひとこと区切りながら言い捨てて、キャムはいきなり全速力で歩き出す。

「さ、最後のは願いじゃないじゃないか!」

 キャムは肩越しにちらりとふりかえる。

「だ・ま・れ」

ルヴェルは口をつぐんだ。


 石畳の坂道の先に、クロー王宮はある。赤い屋根の尖塔がたちならび、石壁の重厚さを薄らがせて、かろやかな雰囲気をかもしだしている。

 その日、金薔薇剣士団団長イグナッツ・バーツは、王の昼食に招かれていた。フェルルーグ王国産の銀毛馬にまたがり、金薔薇を模したブローチでマントを止めて従者とともに入城してくると、城中の女官たちがそわそわした。

 もっとも、一番彼を歓迎したのは、少年のような王だった。

「イグナッツ!」

 食事の席に入ってきたティシェクは、出迎えたイグナッツの高い肩を、ほとんど飛びつくようにしてたたいた。

「調子はどうだ!」

 おかげさまで、とイグナッツが答えるより早く、ティシェクは上席にさっさと座ってグラスを指した。影のようによりそう侍従長が王のグラスに、そして壁ぎわに控えていた副侍従長がイグナッツのグラスに、すかさず黄金色の葡萄酒をそそいだ。その間にもティシェクはイグナッツにくすくす笑いかけた。

「地方予選は長いからな! 余も、はやくおまえが戦うところを見たいのだが、いましばらく待たねばならない。これはつらいな!」

「は」

「自信はどうだ?」

「金薔薇剣士団の名を汚すことはあるまいと自負しております。――ただ」

「ん?」

 さっそくグラスをとろうとしていたティシェクが動きを止める。

「今年は、陛下の応援を特にたまわるという幸運に浴した剣士がいるといううわさを耳にしております」

「余の応援だと? さて?」

 イグナッツは淡い水色の目をじっと、陽気すぎる王に据える。

「あのカリハ・シャールカが出るのではないか、と、巷ではうわさしております」

「ああ!」

 ティシェクはぱっと顔を輝かせる。

「惜しいことに、カリハ・シャールカは死んだという話だったのだがな! その弟子とかいう女剣士はいるらしいから、いま、ルヴェルに捜させているところだ。ルヴェルはすごいぞ、天明瞳なんだぞ。どんな女か、見るのが楽しみだ! 強かったら、イグナッツ、おまえと手合わせさせてみようと思っているんだ」

 ティシェクはグラスを取った。

 イグナッツもならってグラスを取った。

 勢いよくグラスをつきだして、ティシェクは乾杯の言葉を述べる。

「すべてはクロー王国と余の名誉のために! 神聖剣戦に勝利を!」

「神聖剣戦に勝利を」

 ふたりはグラスをあおった。

 胃袋を刺激するかおりを先触れに、上質の牛肉と野菜を煮込んだスープが運ばれてきた。

「さ、食べるぞ!」

 大好物を前に、ティシェクは機嫌よく銀のスプーンをとりあげた。

「おばあさまの故郷ではあるが、フェルルーグ王国は気にくわない。この前の神聖剣戦でも勝ったしな。でも、うまい葡萄酒を作ることと、このグヤーシュを発明したことだけは感謝するぞ! もっとも、いまはわがクロー王国のグヤーシュのほうがずっとうまいに決まっているがな!」

 最高の食材を最高の料理人に調理させた自分好みのスープに舌鼓を打ちながら、ティシェクはよくしゃべる。

「イグナッツ、剣士団の料理人は、どんなグヤーシュを作るんだ? あれだけの人数がいるんだから、すごい大鍋なんだろうな? 今度、余にも食べさせろ」

「剣士団はいつでも陛下を歓迎いたします。しかし武骨者のための食事ゆえ、陛下のお口にあいますかどうか」

「なにが武骨者だ、それだけめかしこんでおいて」

「陛下の御前に出るのに、失礼があってはなりませんから」

「おお! いい心がけだな、イグナッツ。うん、聖剣士は強く、美しくなくてはならないものな! ううん迷うな、やっぱりイグナッツもいいな。カリハの弟子と、どちらを聖剣士にしようかな」

「聖剣士とは、母国と陛下の名誉のために戦う神聖な役目です。どちらもなにも、聖剣士とはその国でもっとも強い剣士ではないのですか、陛下」

 もうスープを半分近くたいらげているティシェクは、手を止めてきょとんとイグナッツを見やった。

「でも、イグナッツは無敗で剣士団の団長になったんだろう? 神聖剣戦に出たら、誰が相手になったって勝つに決まっているじゃないか。もしカリハの弟子がおまえよりすこしくらい弱くったって、他の国の聖剣士には勝つさ」

 イグナッツはいくらかこわばった微笑みを返した。

「陛下に高く評価していただけるのはありがたいのですが、勝負とは常に紙一重のものにございます、陛下。私にそれほどまでの力はございません」

「謙遜するな、イグナッツ! 余とおまえとの仲ではないか」

 ティシェクは屈託なく笑った。

「だから余もすなおに話しているんだ。なあイグナッツ、考えてみろ。カリハの弟子なら絶対強いぞ。そんな女剣士を持っている国なんて、ほかにはないだろう? しかも、これよりまだ強い男がクロー王国にはいるんだぞ、ってさらに自慢できるんだぞ」

 ティシェクはうっとりと夢にひたり、幸せな吐息をついた。

「――うん、やっぱり聖剣士はカリハの弟子がいいな!」

 イグナッツは答える代わりに微笑んだ。が、テーブルの下の足には力がこもり、わずかに床をきしませた。


 マルチヌー山では、かつて石材がとれた。そのためにいまだに山肌があらわになっているところがあって、それで遠目にはまだらに見える。

 ふもとには森がある。石材が過去のようにとれなくなってからは、立ち入る者も滅多にない。以前は何台もの馬車が行き来したはずの石切場への道には、草が生い茂り、木々が覆いかぶさって、まるで人以外の世界へ続いているように見える。

「どう、いかにも山魔姥が棲んでそうな雰囲気でしょ」

 からかうようにルヴェルに言って、キャムは森の奥へと踏み入った。

 薄気味悪いのか、後ろからついてきているルヴェルはずっと黙っている。

 木々は厚く葉を茂らせて、それでも木漏れ日をちらちらと足もとに落としてきた。

 鈴を転がすような小鳥の歌声を聞きながら、キャムは迷うことなく先へ進む。

 急にぽっかりと空がひらけた。

 まるで大地の巨人の歯のような、真っ白な崖が出迎えた。

 その横の森のきわに、こんもりとした屋根にびっしりと草を生やした小屋が建っていた。屋根の下の木の壁は黒ずみ、ところどころは苔むして、地面から自然に生えてきたかのようなたたずまいだった。

 キャムは腕をあげて指さした。

「あれが、女剣士の小屋」

 小屋の周囲には、大小さまざまな石のかたまりが好き勝手にころがっている。こちらの白い表面は、雨ざらしになった骨の色に似ていないこともない。

 ルヴェルは小屋とキャムとを見比べた。

「どうしたの? 行かないの?」

 ルヴェルはいそがしく指を左右に振った。

「なによ? どうしたの?」

 ルヴェルの手がいっそうあわただしく宙を動く。

 キャムは腰に手を置き、いらいらとルヴェルをにらんだ。

「だからなに? はっきり言いなさいよ」

 ルヴェルがそろそろと口をひらく。

「……もう、話していいのか?」

「は?」

「黙ってと言っただろう」

 キャムはかるい頭痛に似たものを感じ、目をつぶってこめかみを指でおさえた。

「……で?」

「いや、女剣士に紹介とか、その」

「あのねえ、その口はなんのためについてるのよ? 自分で名乗って、用件を伝えればいいじゃない」

「おまえは行かないのか?」

「誰が好きこのんで山魔姥のところへ行くのよ。すぐに引き返さないと、野宿するはめになるし。じゃあね、もうつきまとわないでね」

「ま、待った、待ってくれ!」

 戻りかけたキャムの腕を、ルヴェルがあわててつかまえる。

「頼む、紹介だけでも!」

「そう怖がらなくたって、取って食いやしないわよ。他はどうだか責任は持てないけど」

「!」

「だいじょうぶだってば。任務にむかって邁進しなさいよ。じゃ」

 天明瞳をいっぱいに見開いて、ルヴェルは両手でキャムにとりすがる。

「食われなくたって、もっと怖いことだってあるだろうが! いやなことっていうのは、いいことの何十倍、何百倍、何万倍もあるんだぞ!」

「ええ、よく知っているわよ、だからわたしは帰るの! 会いたいって人だけ会えばいいでしょ!」

「知り合いだろ、知り合いなんだろ!?」

「そうよ、友だちだなんていつ言ったのよ!」

 そのとき。

「――」

 ぴたりと動きを止めたキャムは、するどい視線をあたりに配る。

「ど、どうした?」

「……あなたのせいよ」

「え」

 ざっ、と茂みが揺れた。

 風ではなかった。

 キャムはとっさに真後ろに跳んだ。

 スカートの裾をかすめて、ついさっきまでキャムが立っていた場所を巨大な緑色の影が通り過ぎた。

「うわっなんだ!?」

「しゃがんで!」

「いっ!」

 頭をかかえてしゃがみこんだルヴェルの頭上を戻ってきた緑色の影がかすめて、また森へと消える。

 キャムはあたりを見わたしながら呼びかけた。

「ミルシェ! やめてよ!」

 一瞬の間があった。

『――あらあ、誰かと思ったらキャウじゃない』

 その声は夢の世界から聞こえてくるかのようにくぐもって、すこしばかり間延びして、ぐるぐるとうずをまきながら頭上のこずえから降ってくる。声の主がどこにいるかは、見当すらつかない。

 また緑色の影が戻ってきた。今度の勢いはいくらか弱まり、キャムはひょいとかんたんにかわす。

 だが、声に気を取られたルヴェルにはかんたんなことではなかった。

「うぉふっ!」

 妙な声とともに、ルヴェルは緑色の影と正面衝突して尻もちをついた。

 ルヴェルが身を張って勢いを殺したそれを、キャムは片手で受け止めた。

 網でぐるぐると巻いて人間大のかたまりにまとめた、干し草の束だった。てっぺんに縄を通して、それを頭上高く木の枝にかけてあるらしい。ひとたび固定した位置から放されれば、その枝を支点に、この小道の上をゆらゆらと行きつ戻りつするようになっている。

「また妙な仕掛けをつくって……ミルシェ、ひまならこの人と遊んであげてよ。わたしはこれで帰るから」

 声が答える。

『あらあ、もう帰っちゃうの? そんなこと言わないで、あなたもゆっくりしていきなさいよ、キャウ』

「用があるのはこっちのくろねずみなの。ミルシェにお願いしたいことがあるんだって。わたしは、案内してきただけだから」

『あらあら、せわしないこと。カーラのお墓に寄れないようなことでもしてるの?』

「してないわよ!」

 キャムは声を荒げる。

『そうお、じゃあいいじゃない。ああそうそう、残念だけど、あなたにその黒い色は似合わないわよ。あとでその髪の色、直してあげるわ』

「いいわよ、別に」

『生まれたまんまの色がいやなら、目の色につりあったきれいな茶色にしてあげる。それともぐっと個性的に、香草色にしちゃう?』

「おことわり」

 くぐもった声はくすくす笑った。

『礼儀がなってないわねえ。そういうときは「結構です」とか「遠慮します」とかって答えるものよ』

「ミルシェ以外の人のときにはそうしてるわよ」

「……おれは、人以外か」

 後ろでぶつくさぼやく声が聞こえたが、キャムは聞こえなかったことにした。

「じゃあお願いね、ミルシェ。またいつか来るから」

『そんなさみしいこと言わないで、キャウ。あなたにあげたいものだってあるんだし』

「だから、おことわり!」

『そう……』

 声がぶきみにほくそ笑む。

『それじゃあ、帰らせないようにするしかないわね』

 キャムは顔をしかめた。

「……ああ、もう! このくろねずみの頭に、一万と一匹のねずみが転がり落ちますように!」

 そんなキャムの呪いの言葉と同時、すぐ横の下生えがわっと跳ねあがった。

「っ!」

 キャムは右に跳んでよける。

 砂よりもさらに細かい白い塵があたりにばらまかれた。

「っぇくしっ! な、なんだ、これは!」

 閉ざされた視界のむこうに、ルヴェルのくしゃみと声が聞こえる。

「自分の身は自分で守ってよね!」

 キャムは見えない彼に声をかけ、塵がとどかない空間までに逃げた。

『あらあ、キャウったら。案内役なら、ちゃあんとあたしの家まで案内しなくっちゃ』

「知らないわよ、こんな不幸の配達人。それじゃ」

 他の罠がないか気をつけながら、キャムは森の入口へ戻ろうとする。

「お、おい、どこだ?」

 無造作に踏み出すルヴェルの影が、白い塵のむこうにふっと揺らいだ。

 その瞬間、風が――否、空気がするどく裂けた衝撃がキャムの頬をなでる。

「うやあああああ!」

 影がはじかれたように飛びあがり、同時、間が抜けた叫び声が高く遠ざかる。

 視界がゆっくりと晴れていく。

 キャムは顔をあげた。

 厚くつもった落ち葉に隠されていた網にとらえられて、ルヴェルが宙づりになっていた。腹から折れ曲がる角度がもうすこしゆるければ、吊り床でのんびりしているのと変わらない格好だった。

 はああ、とキャムはため息をついて額をおさえる。

「……だから、自分の身は自分で守れって言ったじゃない。視界が悪いのにうろつくなんて、どれだけ素人なのよ? くろねずみでしょ?」

「こ、こんな勉強は王立錬成院の課程には入ってなかったんだ!」

「あっそう、だからいちいち身をもって学んでるってわけ。その熱意と努力と大いなるむだは尊敬に値するわね、ほんっと!」

「ああ、自分でもむだだってことくらいわかってるさ! だから十一課になんていたくないんだ!」

 三人目の声が笑う。

『キャウったら、そんないじわる言わないで助けてあげなさいよ』

 しゅっ、とまた空気が切り裂かれる。

 下から上へではなく、上から下へ。

「――」

 キャムは一瞬目をみひらき、すぐにそらせた。

 地面に突き立ったそれは、鋼色の鈍い光をまとった長剣だった。

『縄は、ほら、すぐそこよ』

 なんとか体勢をましにしようと、もがくルヴェルも網をつかんで叫ぶ。

「そうだ、まずはここから降ろしてくれ! この姿勢じゃ腰の剣が抜けないんだ!」

 だが、キャムは微動だにせず、剣から顔をそむけたままでいる。

「……いやよ」

 つぶやくようにキャムは言った。

「わたし、そんな物にはさわりたくない」

『あらあ、それは困ったわね。お友だちのキャウをさしおいて、あたしが助けてあげるわけにもいかないし』

 声がまじめくさって言う。

 キャムはきっと顔をあげて森に叫んだ。

「なに言ってるのよ、そもそもミルシェがやったことじゃない! こいつはここに置いていくから、降ろしてから煮るなり焼くなり好きにしてよ!」

『いやあねえ、お友だちの紹介もないうちに知らない男の人をお世話するような、そんなはしたない女じゃないわよ、あたし』

「……」

 キャムは唇を噛む。

 ミルシェのことはそれなりに知っている。手段を選ばないその性格も、キャムに剣をとらせようというもくろみも。キャムがここで彼女に任せて帰ってしまったら、すくなくともキャムが戻ってくる見込みがあるあいだ、ルヴェルは吊されたままだろう。

 キャムはまた顔をあげた。

「……」

 こちらを見下ろすルヴェルの天明瞳には、いまは涙の気配はない。吊られて揺らされる恐怖よりも、どうなるのかという不安よりも、なぜという疑問がまさっている。

『ほらほら、いつまでもそんなところにいさせちゃ、かわいそうよ』

 まるでそれがみずから体温を放つ生き物であるかのように、キャムは視界の外の剣の存在を膚に感じる。

『そんな特別扱いしなくたって。鎌や包丁と変わらないわよ、キャウ。かんたんなこと』

 たしかに、かんたんなことだった。ふりかえり、剣をとりあげ、網を支える縄を切る。ただの作業と、それに使える道具というだけのことだ。

 だが――

「――わたしには、関係ないわ」

 キャムは無表情につぶやき、くるりとルヴェルに背をむける。

「約束どおり女剣士に会わせたんだから、あとはあなたから上手に説得して、もう二度とわたしにはかまわないでね。それじゃ」

 キャムは歩き出した。

『あらあ、キャウったらほんとに帰っちゃうの?』

 あきれたような声が降ってくる。キャムはそれに答えるように、あるいはふりおとすように、勢いよく頭をふりたてる。

『キャウったら! ほんとにカーラのお墓参りもしないつもり?』

 その声に、ルヴェルの声が重なった。

「カーラとは、カリハ・シャールカのことだな?」

 ただ確認するためだけの質問だった。

『ええ、そうよ』

「ここに、カリハ・シャールカの墓があるのか?」

『そう。だっていうのにキャウったら、すぐに帰るだなんて。師匠の墓参りくらい、人として当たり前のことなのにね』

「キャム・ヴラスタはこれまで墓参りをしていないのか?」

『そう。この子ったら、この森に帰ってきたのは今日が初めてなのよ。森を出ていってけっこうたつけど、やっぱりカーラに顔向けできないような暮らしをしてたのかしらね』

 聞き捨てならない。キャムはきっと眉を逆立ててふりかえる。

「だから、してない! わたしはきちんと師匠のことばを守って暮らしてきたの! 妙な勘ぐりはやめてよ、ミルシェ!」

 ミルシェは、キャムの抗議など風ほどにも感じていない気ぶりで、ルヴェルに聞く。

『ねえくろねずみさん、この子、これまでなにをしていたの?』

 ルヴェルがまたすなおに答える。

「おれが調べたかぎりでは、特にこれといって。足取りが追えた一年弱の期間で、五業種八店を移っている」

「あなたもやめてよ!」

『あらあ、おちつきがないわね』

「ミルシェには関係ないでしょ!」

『そうねえ、だけど、まったく知らない子の話にしたって、その職歴を聞いたらそう思うわよ。こらえ性のない子って』

 キャムはこぶしを握る。

「しかたないじゃない! ひとところにずっといて、もし師匠との関係がばれたら、そこで騒ぎになるもの! 実際、このくろねずみに見つかって大変だったんだから!」

『それはずっと逃げつづけてるからでしょ。自業自得よ。一度、思い切って立ち向かっちゃえば、それですむ話じゃない』

「わたしは師匠のことばを守るの!」

『なるほどね、よーくわかったわ。自分が逃げる言い訳に使っている師匠のお墓には、そりゃあ後ろめたくって行けないわよね』

「!」

 キャムはかっとなった。歯を食いしばり、背をむけて走り出す。

『あらあ、ほんとのほんとに帰っちゃう気なの? ちょっとキャウ、キャウったら!』

 どこだ――キャムはミルシェの位置をさぐる。

 声はあてにならない。おそらく、森の木に管をわたし、あちこちから声が出るような細工をしている。声以外の気配を立てるという相手のしくじりまで待つか、ひそんでいる場所を計算して見つけ出すか、どちらかしかない。

「いろ――」

 キャムはつぶやく。

 声は、キャムの髪を黒だと断定した。この薄暗い森の中、そこまではっきり見えたということは、まちがいなくすぐ近くに彼女はいる。

『キャウ! ――もう、あの子ったら』

 ミルシェが自分の姿をとらえられなくなった位置を、キャムは知った。

 知らない森ではない。

 カリハ・シャールカが愛した森だ。

 キャム自身、もっとも長い一日ともっともうつろな一か月を過ごした、忘れようにも忘れられない森だ。

「――そこね」

 ぐるりとまわりこみ、木の陰を味方につけて、見当をつけた地点にキャムはいきなり飛び出した。

「あ、ら……」

 長身の女が、管をとりつけた大木にもたれかかっていた。ゆっくりふりむいて肩をすくめる。

「もう十八歳になったんだっけ? 小知恵はまわるようになったのね」

 キャムは腕組みをして女をにらみつける。

 あいかわらずの、世慣れておちついた態度。彼女は何歳になったのだろう。二〇代後半といった見かけは、最後に別れたときの記憶そのままだ。ゆるやかにうねったとび色の髪を無造作に束ね、シャツと腿のあたりに余裕のある脚衣(ホーズ)という男装で、これも動きやすそうな袖なしの短上着をはおっている。

 変わってない――そのことにちょっぴり胸がぬくもり、しかしそんなあたたかさはすぐに遠くへと追いはらう。

「その小知恵に負けたのは誰、ミルシェ? 勝手なおしゃべりはもうやめて、あのくろねずみをおろしてよ」

「わかったわ」

 ふたりは連れだって、宙づりのルヴェルのところへ戻った。

 ミルシェはルヴェルを見ると、艶っぽく微笑んだ。

「天明瞳のいい男なんて、おとぎ話かと思ってたわ。たっぷり歓迎してあげなくちゃね」

「!!」

 おびえるルヴェルをしり目に、ミルシェは地面に突き立った長剣を抜くと、一閃させた。

 網を支えてぴんと張り詰めた縄は、きっかり半径分を切られた。あとはルヴェルの体重が仕事をする。切り口から縄の繊維がぴりりとほどけ、それにつれて網がゆっくり下がり、そしてふっつりと縄が切れた。

「てっ!」

 ルヴェルの落下はこぶしひとつ分だった。腰のあたりをおさえながら、それでもなんとか立ちあがる。

 キャムは容赦なく、その脇腹を肘でつついた。

「用件、さっさと言いなさいよ」

「そうね、なあに?」

 キャムとミルシェと、ルヴェルはおびえた目をいそがしく往復させる。

「ま、まちがいじゃないのか?」

 キャムはいらいらと吐息をつく。

「まちがってないから、早く」

 ルヴェルはマントの襟もとのタイを片手で直した。ごくり、と喉を鳴らしてから名乗る。

「お、王立錬成院所属、ルヴェル・サイフェルトだ。任務で、女剣士を捜している。このキャム・ヴラスタに話を聞いて――うゃあっ!」

 つつ、とミルシェの指先に頬をなでられて、ルヴェルはまた奇声をあげてすくみあがった。

「やーだ、かーわいい。くろねずみにもこんな子がいるなんてねえ」

 ミルシェはくすくす笑った。

「あたしはミルシェ。森の彫刻家よ。歓迎するわ、ルウルウ」

「る、ルウルウ?」

「あらあ、ただのルヴェルだなんてそっけない名前よりずうっとかわいいでしょ? とりあえずお茶でもどうぞ。最近、新しい苔を見つけたのよ。お茶にすると変わってるの」

「か、変わってるっていうのは、あまり味については言わないもので……」

 ミルシェはかまわず、片目をつぶってキャムを手招いた。

「さ、キャウもいらっしゃい。いい男と古い友人はいつだって大歓迎よ」

 キャムはこずえの先の空をちらりと見る。

 西の方を染めつつある夕焼けの茜色が、天頂にも忍びよっている。どれだけ急いで森を出ても、いまからでは町にたどり着く前に日が暮れるだろう。

「……大歓迎、ね。たしかに、ある意味での大歓迎ではあったけど」

「いやねえ、キャウったら。女のひとり暮らしは物騒だから、ちょっと用心しただけよ」

「物騒なのはどっちなのよ。わたしだってわかってからだって、全然止めやしなかったじゃない」

「それは、ほら、うふふふふ」

 キャムはミルシェの手の剣に視線を落とす。

「野宿はいやだから、今晩はお世話になるわ。だけど、たとえ口先だけでも歓迎するって言うんなら、それ、もう絶対に無理強いしないでよね」

 ミルシェはふうっと悩ましげに吐息をついて、かついだ剣のみねでとんとんと自分の肩をたたいた。

「もう、いやになっちゃうわ。キャウったら疑り深いんだから」

「身に覚えがないとは言わせないわよ」

「あのねえ、言っとくけど、これって一番いい剣なのよ?」

「はいはい、それはよくわかってます」

 尋ねるようなルヴェルの視線は知ってはいたが、キャムは気づかないふりをした。


 一見いまにも森の土にと戻りそうなミルシェの小屋だが、中はちがった。壁にくっつけて置いた古びた箱椅子、丸椅子、楕円のテーブル、ごちゃごちゃと生活雑貨が乗った棚。よけいなものは一切ないが、清潔で、かつ、ほどよく散らかった、たしかに人が暮らしている空間だった。

 板を並べた天井からさがった縄には玉葱と蕪がくくられて、そのむこうの壁ぎわにはちいさな壁炉と水瓶もある。

「好きなところに座ってー、ルウルウ」

 ルヴェルはこわごわ箱椅子を選んで座ったが、なおも居心地悪そうにその上でもぞもぞと身動きした。

 ミルシェは壁炉の灰の埋み火をおこし、水を入れたやかんをかけた。

「ほらあ、こんな森の奥に女のひとり暮らしじゃない? ルウルウが来てくれて、ほんっと助かるわ。いろいろとやってもらいたいことがあるのよ。ええ、そんな、一宿一飯の恩義は体で返せ、なあんていうつもりじゃないのよ? わかるかしら、ただ好意をお願いしたいだけなんだけど」

「は、はあ……」

 ルヴェルは背を伸ばして視線をめぐらせた。

 途中まではルヴェルの後ろを歩いていたキャムの姿は、小屋の中のどこにもない。

「……キャム・ヴラスタは?」

「カーラのお墓参りでしょ。すぐに戻ってくると思うわ」

「カリハ・シャールカは、いつ亡くなったんだ?」

「ん、と、もう二年近くになるのかしら。人って案外と丈夫なものだけど、そう思っているともろいものなのよね」

「二年か。カリハ・シャールカが世間から消えたころと一致するな。もしかして、カリハ・シャールカが剣を置いたのは、自分の死期を悟ったからなのか?」

「あら、そんなふうに聞いてるの?」

 ルヴェルはかぶりをふる。

「百年前に生きた王や聖剣士のほうが、まだ記録に残っている。カリハ・シャールカは歴史じゃない、伝説だ」

「伝説って、ここまでキャウと来てたんでしょ? なにも聞いてないの?」

「ああ」

 壁炉の前、ミルシェは体ごとふりかえって、あきれ顔を見せる。

「せっかくいい男なのにルウルウったら、女にぐずなのねえ。まあ相手がキャウじゃ、甘いささやきとキスとで迫ったところで、鼻で笑われて張り倒されそうだけど」

「いや、それは……」

「白状しなさい、あの子にこっぴどくひっぱたかれたでしょ?」

「たしかに、ひっぱたかれはした」

「やっぱりね」

「いや、そうじゃなくてだな」

「いいのいいの、言い訳しなくても。そう気を落とすもんじゃないわ。あの子にここまで連れてこさせただけでもたいしたものよ」

「それもちがう。キャム・ヴラスタが自分から、代わりに代表戦に出られる女剣士を教えると言ったんだ」

 ミルシェは喉を鳴らすようにくすくすと笑った。

「代表戦に出られる女剣士ねえ! あの子ったら、どこまでひどいのかしら。自分は逃げておいて、そんな面倒をあたしに押しつけようなんて」

「でも、さっきの剣の腕は、たしかに……それに、〈マルチヌーの醜女〉という二つ名も聞いている」

「むかしのあだ名よ。だけど、それにしたってひどいと思わない? 女には醜女(ブス)だの太女(デブ)だの言えば勝ったと思えるなんて、そのバカさっぷりには感心するわよ。そういう男はやっぱり無能(バカ)だの脂男(テカリ)だのってお決まりの罵倒に負けるのかしら?」

「おれが聞きたいのは、悪口論ではなくてだな」

「うふふ。あたしのことね」

 ミルシェはさらに笑う。

「そうね、あたしも剣で遊んでたこともあるわ――ただし、カーラに会うまでだったけど」

「もう剣は置いたということか?」

「だって、どうやったってカーラには勝てないってわかったんだもの。だからカーラの剣を作ることにしたんだけど、キャウがカーラの跡を継がないんじゃね。だからしょうがなく彫刻家になったのよ」

「じゃ、じゃあ、おれの任務……」

「そうねえ、ただ剣が使える女でいいって話なら、謝礼次第で協力してあげないこともないけど」

 ルヴェルは肩を落として頭を垂れた。

「陛下は、強い女剣士に会いたがっているんだ……せめて、本戦に出る剣士に勝てるくらいの……」

「それじゃあキャウを説得するしかないわね」

 あっさりとミルシェは言った。

「あの子の才能は、たぶんカーラも超えるものだから」

「はあっ!?」

「あらあ、わからなかった? もちろん女だし、体格にも恵まれていないから、その点では不利だけどね。だけど、あの子の目は特別よ。あなたの天明瞳とはちがった意味で、天からの贈り物だわ」

「……やはり、カリハ・シャールカ唯一の弟子か……」

「ただし、あの子はそうかんたんに剣はとらないわよ。いまのままじゃ、たぶん死ぬまで拒むでしょうね。といって、人の説得を聞くような子じゃないし」

「師匠の友人でも?」

 ミルシェは肩をすくめる。

「あの子にとっては、この世の人間はカリハ・シャールカとそれ以外よ。自分自身も含めてね。だから誰がなにを言おうとむだ。それがカーラの言いつけだと思ってるかぎり、あの子は二度と剣をとらないわ」

「ちょっと待て」

 ルヴェルの天明瞳に光が差す。

「思っているということは――ほんとうはちがったのか?」

「と思うわ。あたしはね」

「それをなぜ、キャム・ヴラスタはそんなふうに受け取ったんだ?」

 ミルシェは目を細めた。それまではむしろとろんと、艶っぽくけぶっていた双眸が、だしぬけにするどく光った。

「自分がカーラの死の原因になったと思ったからでしょうね」

「えっ――」

 やかんから白い煙が噴きだした。

 ミルシェは炉からやかんをはずし、並べた陶製のカップに煮出した苔茶をついだ。

「そうね、話してあげるわ。どうしてカーラが死んだのか」


 森の前に、ろばにひかせた荷馬車が停まった。目深に帽子をかぶって前髪を厚く顔にたらした御者が飛びおりた。

「すまなかったね」

 御者は淡々と詫びながら、荷台のわら山の中から、縛られてさるぐつわをされた農家の男をひきずりだした。

「さ、これは返すよ」

 御者――カフュカは農家の男に自分の頭からとった帽子を乗せ、わらくずをはらってやって、縛めをといた。

 農家の男は、ぶるぶるとふるえる手でみずからさるぐつわをとった。逃げもせず、カフュカを見やることもせず、ぼんやりと口もとをなではじめた。ひとことも口をきかずに座りこんだままでいる。その顔は無表情にこわばって、なにをどうすればいいのか考えることすら忘れ去ってしまっているかのようだった。

 カフュカはかまわず、鳥かごから鳩をつかみだすと、その足のちいさな筒に丸めた紙を入れた。そして空へ放りあげた。農家の男にというよりはひとりごとのように言う。

「まったく、世の中には剣士を名乗る輩が多すぎるとは思わないかい。真に剣士の尊厳を持った人間なんて、その中のほんの一握りだ」

 カフュカの肩が揺れ、喉の奥にちいさな音がくぐもった。

 その間に、鳩は空へと消えた。

「とはいえ、使いようによってはなかなか便利なのもたしかだけどね。こちらに価値があれば金を払おうって人間もいるってことだし、金さえもらえれば腕を貸そうって物騒な人間もいるってことだからね」

 長上着の下の体がゆっくり伸びていく。

「さあ――」

 声が低く、太くなる。

「〈灰烏〉が〈不死者(ウーピル)〉に戻る時間だ」

 優に頭ひとつ高くなった男は、ゆるゆると前髪をかきあげた。

 暗い光を宿した右目の下、その頬には深々とえぐられた傷痕がうすじろく口をあけていた。


「師匠、ただいま」

 キャムは、森の中の岩にあいさつした。

 岩は、ちょうどカリハ・シャールカその人が座ったくらいの高さでここにある。以前よりなめらかに磨かれて、おおまかに座った人のかたちをとっている。

 ゆっくり、ゆっくり、ここにカーラをよみがえらせたいの――ミルシェはそう言っていた。

 かつてカリハ・シャールカが大好きだと言った森、旅のあいだに何度も友人を訪ねた森、そして自身の最期の地に選んだ森に。

「ミルシェは、しずかに眠らせてくれる?」

 キャムは岩の横に座って膝をかかえた。

「……師匠は、いまは幸せ?」

 もちろん岩はなにも答えない。

「わたし、ちゃんと剣は捨てたよ。剣に頼らないで、どうやったら強くなれるのか、いろいろ考えてみたよ。いろんなことをやって、いろんな人も見てきたよ。だけどどこにも、師匠みたいな人はいなかった」

 キャムは横の岩を見る。

「ねえ師匠、やっぱり師匠は強かったよ。もっと、ずうっと師匠と一緒にいたかったよ」

 ひくっ、と喉が鳴る。

「わたしがよけいなことさえしなければ、きっといまだって――」

 キャムはそろえた両膝に顔を突っ伏した。

 幸せになりたいと願った、とカリハ・シャールカはかつて言った。その願いをかなえるために、ふたつめは強くなりたいと願った、と言った。

 だが、旅をともにつづけていくうち、そのことばは変わっていった。

 ――いつまでも終わらない戦いのくりかえしの中に、もしくは先に、ほんとうに幸せはあるんだろうか。

 カリハ・シャールカは次第に、キャムとはちがう願いを見つめるようになり、そして。

 あの日が来てしまった。

 ――おまえは、ほんとうに強くなれ。

 最後、カリハ・シャールカはキャムにそう言い残した。それまでよりもいっそう透きとおるような微笑とともに。

「……師匠のことばは、守りたいよ。わたしも強くなりたいよ。だけど、どうすればそうなれるんだろう……」

 キャムは歯を食いしばり、顔を膝につけたまま、岩とは反対側をむく。

「どうせなら、その方法まで教えてほしかったよ、師匠。師匠以外に、そんなことを教えてくれる人なんていないよ……」

 キャムはのろのろと目をあける。黒く染めたままの髪が顔に落ちて、視界をふさいで、暗さを増してきた森を隠す。

 そこに、ルヴェルがいた。

「――」

 自分の髪と彼のマントと森とがほとんどおなじ色に見えて、一瞬、キャムは目の錯覚かと思った。一度まばたき、顔をあげるにつれて流れ落ちる髪が視界から消えるさまを見つめながら、ようやくルヴェルがいるのだと実感した。

「……なに、その顔?」

 ルヴェルは初めて見るほど深く、眉間にしわを刻んでいる。これはこれで「苦悩」や「憂愁」といった主題の芸術にもなりそうだったが、彼の性格を考えれば似つかわしくない。

 ああ、とキャムはすこしだけ同情する。

「ミルシェのお茶、飲んじゃったんだ。ま、おなかをこわさなかっただけもうけものと思いなさいよ。ミルシェの舌って、とにかくおかしいんだから」

「……そうじゃない」

 どうやらミルシェのあやしい苔の茶は喉に来たらしく、ルヴェルの声はおかしな具合に語尾が裏返る。

 キャムは立ちあがってスカートをはらった。

「はいはい、夕飯前になにか一仕事しろって言ってきたんでしょ。まったく人使いがあらいんだから。おかげで、どんな仕事でもやれるって自信にはなったけど」

「ちがう」

「じゃあなに?」

「……おまえの才能は、カリハ・シャールカ以上なのか」

「は?」

 おかしな声にもかかわらず、ルヴェルはそれを気にする気配もなく、真剣そのものの顔でこちらを見つめている。

「だというのに、過去から目をそむけるためだけに、なにもかも捨てたのか。カリハ・シャールカを思い出すよすがとなる物まで、すべて」

「なっ――」

 キャムはぎくりとルヴェルを見やる。顔がこわばるのが、自分でもわかる。

 ルヴェルは容赦なく、さらに言う。

「ミルシェに話は聞いた。おれも彼女の考えに同感だった」

「……なにがよ?」

「カリハ・シャールカの最後のことばは、おまえに剣を捨てさせるためのものじゃない。かつての恋人と弟子のあいだでひきさかれてしまった自分の弱さを、おまえに詫びるためのものだったんだ。カリハ・シャールカはおまえに願ったんだ。こういう自分よりも強くなって、これからも生きていってほしいと」

「うそよ!」

「おまえは、そんなことばのうわべしか理解しないことで、つらい過去を受け止めることを拒みつづけている臆病者だ。師匠の願いを都合よくねじまげて、それで唯一の弟子だと胸を張って言えるのか?」

「ちがう!」

 キャムは歯を食いしばってうつむいた。スカートをつかむ。厚手の布がくしゃりとこぶしの中に寄る。

「……だからお人好しのおっちょこちょいだって言うのよ。さっき会ったばかりの、それも自分を罠にかけたような相手の言うことをほいほい聞いちゃって」

 きっと顔をあげる。

「いい、ミルシェは師匠の腕に惚れて、剣士をやめて、鍛冶になったの! 最強の女剣士に、自分が鍛えた最強の剣を持たせることが夢だったの! だから、師匠がいなくなったら、今度はわたしに目をつけたのよ! わたしに剣を持たせて、自分の夢をかなえたいだけなの! そんな自分勝手なうそにだまされて、お人好しにも程があるわよ! ――ううん、お人好しなんかじゃない、バカよ、大バカ!」

 だが、ルヴェルは動じなかった。

「バカなくろねずみでいいさ。おれは、ちゃんと自分で考えて選んだ自分の道を歩いている。たとえそれがまちがっていても胸を張れる。キャム・ヴラスタ、おまえはどうなんだ?」

「なんだってあなたにそんなこと言われなきゃならないの? よけいなおせっかいはもうやめる約束でしょ!」

「おまえのことはよくよく調べたんだ。カリハ・シャールカと別れて以来、おまえは橋の上あたりの浮き草稼業の店を転々としていただけだ。いったいなにをやってきたんだ?」

「さっきミルシェにも言ったでしょ! それに、王さまのパンをいくらでもかじれるくろねずみさまは知らないでしょうけどね、庶民はその日にかじるかたいパンを稼ぐので精いっぱいなの! すこしでもお給料のいいところがあったら、そっちへ移るのも当たり前じゃない!」

「そんなものはその場その場のことでしかない。どうやってこれから生きていくか、カリハ・シャールカがおまえに望んだように強くなるか、幸せになるか、結局なんにも考えてないじゃないか」

「うるさいわね!」

「おまえは、ありのままの世界を見ないで師匠の幻に逃げこんでいるだけの、バカな弟子だ」

 ぱん、と派手な音が森に響いた。

「――」

 キャムは下唇を完全に噛んで、まばたきもせずにルヴェルをにらみつけた。

 ルヴェルの左の頬が赤かった。彼はそこを左手でかるくさすった。

「全然痛くないな。いつかのほうが、よっぽどきいた」

 それを聞いて、キャムの頬までかっと熱くなる。

 どうしてルヴェルの頬をひっぱたいたのか、自分でもわからない。はいはい知らないからって勝手なこと言って、と聞き流せばいいだけなのに、なぜそうできなかったのか。そんな自分へのいらだちが、キャムの声をますますとがらせる。

「手加減してやったのよ! このバカくろねずみ、どっか行っちゃえ、百万と一匹のねずみにたかられちゃえ!!」

「動揺すると幼児化するんだな」

「誰がよ!! またもう一発張られたいの!?」

 もう一度右手をふりかぶりながら、ルヴェルのまっすぐな天明瞳が初めてまぶしい。キャムは顔をそむけたがる自分と必死に戦う。

 自分で自分の背中を眺めているような、そんな感覚があった。

 顔は笑みを作れる、口は虚勢を張れる。そわそわする手をがまんすることも、貧乏揺すりをする足を止めることもできる。

 だけど背中はうそをつけない。

 キャムの心の目が見てしまったものは、心細げに立ちすくむ、まるで迷子のような自分の背中。

「だからここに来るのはいやだったのよ!」

 キャムは叫ぶと、一目散に走り出した。

「――ミルシェ、あのくろねずみになにを言ったの!」

 小屋の扉を開けざまに怒鳴ると、背すじを伸ばしてお茶を飲んでいたミルシェはよけいにすまし顔になった。

「別に、ただのむかし話よ。カーラとキャウって、ふたりの女の子の」

「だから、なに!」

「剣を超えた強さが欲しかった師匠と、そんな師匠の気持ちもわかろうとしない不肖の弟子のお話」

 ミルシェの双眸がするどく光る。

「そろそろ目を覚まして、きちんと生きてもいいころよ、キャウ」

「眠ってなんかないわよ!」

「あら、そうかしら」

「そう――」

 これまでちゃんとひとりで清く明るくたくましく生きてきたんだから――そんなきりかえしが、いまはどうしても喉につかえて出てこない。

 自分でわかっている。

 森を出てからこれまでの時間を、キャムはただぼんやりと生きてきた。

 朝が来たら起き、食事を得るために働き、夜が来れば眠るだけの生活だった。

 いろんな町へ行き、いろんな仕事をし、いろんな同僚とつきあった。しかし、どの記憶ものっぺりと平坦で、それがどの町のどの店のどの同僚だったか、いったい春だったのか夏だったのか秋だったのか冬だったのか、いまそのひとつひとつを具体的に思い出すのは難しい。

「カーラのことばを守るって言ってる割には、全然守ってないじゃない。いまだって、怒ってるんじゃなくて、当たり散らしてるだけでしょ。そういうのはね、後ろめたいことがある人がするのよ」

 キャムはこぶしをぎゅっと握りこむ。くやしくて、いらだたしくて。ひとことも言い返せない自分がうとましくて。

「……わたし、もう寝る!」

 キャムは壁に立てかけてあったはしごをひっつかみ、天井に四角く切られた穴にたてかけると、さっとのぼってはしごをひきあげた。

 天井裏にはよくかわかした木の葉がつみあげられ、ふかふかのベッドとなっている。

「ちょっとキャウ、家主のベッドを奪うって、どういうことよ?」

 下からミルシェの抗議があがる。

「あたしにあの子と一緒にここでごろ寝しろっていうの? そんな役、ここまで連れてきたキャウが責任もって引き受けなさいよ。この年になると、いいベッドじゃないと気持ちよく眠れないんだから!」

「知らない! わたしにはなんにも関係ない!」

 キャムは体を丸めて頭から毛布をひっかぶった。

 視界が閉ざされる寸前、明かりとりの窓のむこうをよぎった鳥の翼が見えた。


     †


 体の中身がそっくり消えてしまったようだった。足もとはやけにふわふわするし、なにもまともに考えられない。厚い布をとおしたようにはっきり聞こえないミルシェの指示がからっぽのキャムに入って、こだまして、体が勝手にそのとおりに動く。キャムの意志などどこにもない。

 カリハ・シャールカはもういない。

 あれから何日たったのか、もしかしたら何か月も、何年もすぎたのか、時間の感覚もなくなった。百年もこうしていたのだと誰かに言われても、キャムはまったく驚かなかったにちがいない。

 師匠はもういない――ぼんやりと、キャムはそのことを何度もくりかえす。

 いまなら空も飛べそうだった。それくらいキャムはからっぽで、世界はだだっぴろいまやかしのようだった。

 そんなキャムから、涙が出るはずもなかった。

 ある日、食べるようにとミルシェに言われてすくったスープを口に入れたとき、突然キャムの意志が戻った。覚醒は完全ではなく、あいかわらずスープの温度も味もわからない。ただこの日のスープはそのままからっぽの体に満ちて、いきなりぽろりと目からこぼれた。

 この森を出よう――だしぬけにキャムは思った。

 その決意をキャムが告げたとき、ミルシェは「もうひと月たったのね」と言っただけで、止めも勧めもしなかった。

「これは持ってくの、キャウ?」

 彼女の視線の先には、壁に立てかけたカリハ・シャールカの長剣があった。

 わずかな荷物を背負い、革靴の紐もしめて、もうすっかり出かけられる準備をしたキャムは、そろそろと長剣に近づいた。

 息をつめて手を伸ばす。

 長剣の記憶は、まだキャムの手のひらから消えていない。こまかくささくれた革をまいた柄、やっとなじむようになってくれた太さ、そしてなによりその重さ。

 カリハ・シャールカの剣を手にすれば、このからっぽの体もすこしは埋まり、大地を踏みしめて歩いていける以前の世界がもう一度よみがえってくれるだろうか。

 かつて、カリハ・シャールカがそうしていたように。

「――」

 だが、キャムは寸前でぶるっと顔をふって手をひいた。

「どうしたの?」

 尋ねるミルシェに顔をむける。

「だって師匠は、剣に頼るなって言ったから。わたし、だから持たない。絶対持たない」

「カーラの形見よ?」

「形見なんていらない。師匠はわたしの心の中で生きてるもの。ずっと、ずっと生きてるもの」

 ふるえだした手をおさえようと、キャムはぐっとこぶしを握る。

 二度と剣にはさわらない。キャムは固く決意する。そうしなければ、言いつけを守らなければ、カリハ・シャールカがもっとずっと遠くなってしまう。キャムの世界からこんなにもかんたんに消えてしまったように、きっとキャムの心の中からもふっつり消えてしまう。

 いなくならないでと、なにに、いくら願ってもだめだった。だから、もしかしたら、忘れさせないでといくら願ってもやっぱりだめかもしれない。自分の願いなどかなわないかもしれない。

 まして、カリハ・シャールカの願いも聞かないような自分であれば、なおさらに。

 カリハ・シャールカを忘れる――考えただけですくみあがるほど、キャムはそのことが怖かった。どうあってもそんなことにはなりたくなかった。だからキャムは決めた。

「そんなもの、絶対にさわらない」

 ミルシェは腕を組んだ。

「ちょっとキャウ? 作った人間にむかってそんなもの呼ばわりはないでしょ? 失礼ねえ」

「でも、剣だもの。師匠はわたしに頼るなって言ったんだもの。師匠の言いつけは絶対に守るの、そうしたら師匠だってわたしの願いも聞いてくれるかもしれないもの」

 ゆるやかに波打つ髪越しにキャムを見やり、ミルシェはふうと息をついた。

「ねえ、もう子どもって年じゃないでしょ。なにかわいらしいこと言ってんのよ。だいたい、この森の外でどうやって生きていくつもり?」

「なんだってやる。でも、絶対に剣士にだけはならない」

「聖剣士を出したことがあるようなちゃんとした剣士団を選んで訪ねれば、修行中の剣士になにかと便宜をはかってくれるものよ。女ひとりで生きていくつもりなら、利用できるものはなんでも利用しないと」

「それでもいや。絶対にいや」

「じゃ、なにをして生きてくつもりよ?」

 ミルシェにどんな顔をすればいいのかわからなくて、キャムは唇を噛む。

 けれど、心はとっくにはっきり決まっている。

 カリハ・シャールカのいない世界でこれからも生きていかなければならないのなら、もうこれ以上、ほんのすこしでも、カリハ・シャールカの名残を失いたくはない。

「それは――これからさがすの」

 そしてキャムは森を出た。


     †


 夜鳥がときおり鳴く、森の深夜。

 からん、と遠くで、かわいた音が鳴る。

「――」

 腫れぼったいまぶたをこじあけて、キャムは重い体を起こした。

 いまの音がなんの音かはわからない。

 ただ、重苦しい予感がする。

 キャムはてさぐりではしごを見つけ、下へおろした。後ろ向きに降りていくと、暗がりから声がかかった。

「あいかわらずカンがいいわね」

 キャムは目をつぶった。

「いまのは?」

 聞きながら目をあける。先ほどより小屋の暗さに慣れた目に、立ちあがって外の気配をうかがうミルシェの姿が見える。

「ちょっと前から、たまーに、ね。この森にもお客さんが来るのよ。カーラの石の前に足跡が残ってたり、石切場のあたしを森の中からうかがってたり。なにかやろうとしてたわけじゃないからほっといたんだけど、もしおもてなしを要求されたときにあわてたくなかったから、あちこちに呼び鈴を仕掛けておいたってわけ」

「要は鳴子ね。それで、誰?」

「さあ。なんにしたって、お茶を飲ませてもらいに来るには、妙な時間だわ」

 剣士の弟子だった娘と、かつて剣士だった女。

 不意討ち、闇討ちといった荒事は、何度も目にして来ている。キャムとミルシェはすばやく視線を交わす。

 部屋の奥から聞こえるやすらかな寝息が緊張感をそぐ。

「……あいつ、まだ寝てるの?」

「志願して、物置でね。なにか壊したり落としたりした音もしないから、お行儀よくしてるわよ」

 カーテンでこの居間からは仕切られて、空間のほとんどを小石と工具がならぶ棚に占められた狭い場所を、キャムは思い出す。棚とカーテンにはさまれて、ほとんど直立不動の姿勢で眠っているルヴェルの姿がぱっと浮かんだ。

「変なところで器用なんだから……」

 とりあえずそんな想像は追いはらって、キャムは意識を外に集中させる。

「ミルシェ、どうする?」

「あらあ、協力するなんて、やっと心を入れ替えたの?」

「……ミルシェひとりに任せて眠れないだけ。文句があるなら、黙って見るだけにするけれど?」

「そんなつんけんしたって、いいことないわよ」

「悪かったわね、こういう性格なの」

「なんの努力もしない自分をそのまんま受け入れてもらおうだなんて。ずうずうしいわよ?」

「そんなこと思ってない!」

「そうよねえ、ごめんなさい。受け入れてもらわなくったっていいから、ほっといてほしいのよねえ。キャウは、自分を変える努力をするつもりがないってだけなのよねえ」

「……もういい。手伝わない」

「やあだ、ちょっと痛いところ突かれたくらいですねないの」

「痛くもないし、すねてもないわよ! ミルシェがうるさいだけじゃない!」

「静かに。キャウのお客かもしれないんだから」

 その可能性にはとっくに気づいている。キャムはむすっと口をつぐむ。

「ともかく、こんな深夜じゃお客の足もとも危ないだろうから、迎えに行ってあげましょ。今後のためにも、お作法を教えてあげないと」

 ミルシェは壁にかけてあった剣をつかんだ。そこでキャムに聞いた。

「どうせなら、ついでにばかげたこだわりも捨てたらどう?」

 キャムは唇を噛んでミルシェをにらみ、それからふいと視線をそらす。

「……いらない」

「年ばっかとって中身はお子さまのまんま? それって最悪よ」

「最悪でも、いらない」

「はいはい」

 ふたりは森へとすべりでた。

 からん、とまたかわいた音が鳴る。

「近づいてるわね」

 ミルシェがつぶやく。

 段取りは外へ出る前に確認してある。

 小屋への小道を見下ろす木の張り出した枝にキャムは飛びつき、くるりと逆上がりで上に立った。

 あの管をつけた大木へとむかって、ミルシェの姿もすでにない。

 キャムは枝の上から目をこらす。一点を注視しては、かえって見落とす。焦点をどこにも合わせず、視界を広く、闇のむこうに動くものがないかに注意をはらう。

 ――いた。

 下生えに足をとられることを避けて、すなおに小道をやってくる影が、ひとり、ふたり、三人、四人、五人。妙に出っ張った輪郭はかついだ弓らしい。足取りはたしかに、それでいてひそやかに静まって、決してこの深夜の来訪が友好的なものではないことを告げている。

 枝とひとつとなるようまばたきにも気をつかい、キャムはひたすら待つ。

『どちらさま?』

 管をつかったミルシェの声が響いた。

 五人の足取りが止まった。

『寝不足はそろそろこたえるのよ。用があるなら明日、お化粧がすんでからにしてくれないかしら?』

 どっちだ、というささやきがかすかに聞こえた気がした。

 ということは、彼らはこの森に女がふたりいることを知っている。市の日くらいしか町には出向かないミルシェがねらいだとしたら、わざわざ他の誰かがいるときに襲ってきたりはしないだろう。

 標的はわたしだ――キャムは冷静に、導き出された回答を受け止めた。

『それで、どちらさま? 名前を教えてもらえたら、明日の朝一番の面会予約を入れてあげるわよ?』

 影のひとつが動いた。かついだ矢をとり、なにやら腰のあたりをごそごそやったかと思うと、ぽつりと赤いしみのような光点が見えた。

 暗闇に慣れた目を保つため、キャムはとっさに顔をそむける。

 視界の隅で、赤い光が一気にふくらんだ。

 火だった。

 直後、ひゅんと弓弦が鳴って、火が飛んだ。木の根元につきたった火矢が燃え上がり、あたりを照らし出す。

「〈疾風〉カリハ・シャールカの弟子か?」

 低い男の声が尋ねた。

 火縄を出したままの影が、また矢に火をうつして放った。先刻の火矢の隣の木の根元につきたった二の矢が、また森を燃やしはじめた。

 キャムの代わりに、ひきつづきミルシェが答える。

『だから、先に名乗りなさい? ああ、特別に、たちの悪い薪みたいにばらまいてるその火の粉を消してからでいいわよ』

「消火も自己紹介も必要ない。おまえが弟子の女であろうがこの森の女であろうが、どのみち関係のないことだ」

『いやあね、剣士は戦う前には名乗り合うのよ。要するに、これはただのケンカってわけね』

「そんな対等なものだと思っているのか?」

 影がまた火矢を用意する。

 キャムはそのあいだに、幹に巻きついている蔦をとる。木膚からはがすと同時、勢いをつけて投げ落とした。

「っ!」

 中央の影がふるった剣が空気を切り裂いた。しかし、蔦は斬られずに闇に消えた。

「上にいるぞ!」

 火矢がこちらをむく。

 キャムはすばやく、幹の陰になる別の枝へと飛び移る。

 直後、かっと幹につきたった火矢が燃えだした。

「燃やせ、もっと燃やせ!」

 別の影も火矢を射はじめ、ついに下生えに火がうつった。

 ぶすぶすと不気味な音があがり、鼻を刺すいやなにおいがたちこめていく。

「ちょっと、危ないじゃない!」

 ミルシェが飛び出した。

「あんたたち、バカでしょ! こんなところで火にまかれたら、自分たちだって危ないわよ!」

 火明かりに浮かびあがる剣をたずさえたその長身は、立派な女剣士の姿だった。

 同時、火明かりは、襲撃者たちの姿もはっきりさせる。うすよごれた剣闘着をまとう四人、そして彼らの背後にひかえる長上着の男。

「やっといぶり出されたか」

 男たちが剣を抜いた。

 ごくり、とキャムは生唾を呑む。

 先ほど蔦を斬ろうとした男の腕は、ミルシェにもおよばない。

 しかし、男たちは本気だった。キャムだと思っているミルシェの命を、もしくは腕か足かをねらっていた。そして彼らは五人いる。腕が劣っていても、ミルシェひとりでは手に余る。

 キャムはふわりと飛び降りた。木の根元に突き立った火矢を蹴飛ばしざまに、声をかける。

「こっちにもいるわよ」

 ミルシェよりも小柄で、しかもスカート姿では、こちらがカリハ・シャールカの弟子の剣士とは思えないだろう。それでも無視はできないはずだ、とキャムは踏んだ。

 もちろん無視させるつもりもない。男たちに言い放つ。

「顔、おぼえたわ。もう絵にだってできるくらい」

 後方の男の声は短かった。

「始末しておけ」

 蔦を斬ろうとして失敗した男が、こちらに突進してきた。

 どうやらこの男が一番未熟であるらしい。ちろちろとうごめく火明かりに照らされた顔は、キャムの顔をまともに見つめている。

「目って、おしゃべりなのよ」

 読みどおりに振りおろされようとする剣の下に、キャムは逆に自分の体をさらに入れる。

 剣速が鈍った。男はキャムの反応を予測するどころか、意外な反応に動揺するほど未熟だった。

 分厚い刃が肩先をかすめようとする寸前、キャムはくるりと体をひねる。

 剣が無様に宙を斬る。

 一瞬息が止まった男の顔が、至近距離にある。

 微笑んでみせる余裕すら、キャムにはある。

「じゃあね」

 小さく言い捨て、キャムはそのまま男とすれちがい、小道のむこうの森の下生えへと飛びこんだ。

「言っておくけど、カリハ・シャールカの弟子はわたしのほうよ!」

 叫んだが、それを男たちが信じたかどうかはわからない。

 どのみち下されたであろう命令が飛ぶ。

「逃がすな! 行け!」

 暗い森を走りながら、キャムは耳を澄ます。

 夜の獣たちは、人間たちの騒動を静かに見守っている。

 耳にとどくのは、やわらかな落ち葉と下生えを踏みつける自分の足音。追いかけてくる男の足音。

「まわりこめ!」

 先ほどとは別の声が指示を下す。さらにふたり分の足音が追ってくる。

 合計三人。

「音を聞け! 茂みが揺れているほうだ!」

 声はさらに言う。

 しかし、一歩ごとにがさがさとさわがしい下生えをほんとうに味方につけているのは、キャムのほうだった。

「こっちはまかせて」

 キャムはつぶやき、彼女に聞いた森の仕掛けに追っ手を誘導していく。

「ぎゃっ!」

 二束にわけた草を結び合わせただけの単純な罠に、真後ろから追ってきたひとりの足が引っかかった。痛そうな鈍い音は、顔か胸からまともに倒れこんだものだろう。これでしばらくはまともに動けない。

「ひとつめ」

 キャムはつぶやき、息を入れてさらに走る。

「き、気をつけろ、なにかあるぞ!」

 足をゆるめて追っ手との距離を調節しながら、キャムはまた次の罠へと誘導する。

 夜の森の闇のむこうに、腰の高さから地面にむかってななめに張られた細縄がうっすら見えた。

 キャムは特別な結び目をつくった縄の端をひいた。

 結び目が一気にほどけ、たわめられて固定されていたしなやかな若木が、ぶおん、と横殴りに元に戻る。

「ぐはっ!」

 ぴしりという小気味いい音とともに、横手からまわりこもうとしていた男がどさりと倒れた。

「どうした!」

 倒れた男は低くうめくばかりで、尋ねる残った仲間の声にも答えられない。

「ふたつめ」

 キャムはふたたび走り出す。

「くそ! 小細工を!」

 残った男が歯ぎしりした。

「闇討ちに比べたらかわいいものよ!」

 助走の勢いを存分に活かして、キャムは跳んだ。頭上に張り出した太枝に手をかけ、よじのぼる。

 直後、男が追いついた。

 キャムは幹に片手をかけて、男を見下ろした。

「あなたたち、仮にも剣士なんでしょ。何がしたいの? こんなふうにカリハ・シャールカの弟子を討ったところで、なんの名誉にもならないわよ?」

 厚い葉を背後にする樹上のキャムは、樹下の男からしたらまったく見えないはずだ。話しながら、そしてすこしばかり葉を鳴らしながら、位置を変える。

 頭を上げたり下げたりしてキャムをこずえにさがしつつ、男は、音についてくる。

「カリハ・シャールカなんざ、過去の女剣士だろうが。おれたちは仕事を頼まれただけだ。おまえらをつかまえられりゃ、それでいいんだよ」

「見事なまでのごろつきね!」

 キャムは吐き捨てた。

「あなたたちは、ただ剣のふりまわし方を知っているってだけ。剣士なんかじゃない、ただのごろつきよ。誰よ、そんなごろつきを雇ったのは?」

 またすこし位置を変える。

「教えてほしけりゃ金を払いな。金貨五枚で手を打つぜ」

 男がついてくる。

「金貨五枚! 暮らすには十分だけれど、それって良心を売りわたせるほどのお金?」

「高いと思わなけりゃ払いな。それでお互いうまくいくぜ」

「そんなお金、ないわよ」

 キャムの声に誘導されて、男はついにその場所に立った。

 この木の幹にも細縄がしかけられている。

 キャムはすばやくその結び目をといた。

「だから、自分で調べることにするわ」

 男の頭上、こずえの先から、人間大にまとめた干し草のかたまりが落下する。

 幹のほうのキャムの声に気をとられていた男は、あっけなく直撃を受けた。声ひとつあげることなく、男はあっさりのびた。

「みっつめ。これでこっちはおしまい、と」

 キャムは枝から飛び降りると、小屋へと急ぐ。

 まだふたりいる。

 ミルシェがそうかんたんにやられるわけはないが、急がないと火がまわる。

 近づくにつれ、鋼と鋼がぶつかり合う剣戟の音が聞こえてきた。

「ミルシェ!」

 彼女は戦っていた。相手はひとりだけだった。ちょうど相手の一撃を剣で受けて流し、跳びずさって、彼女は叫んだ。

「キャウ! こっちはいいから、小屋を!」

 そのとき、ごうっと不吉な音をたてて小屋が燃え出した。

 火明かりが長上着の男の輪郭を浮かびあがらせた。影はランタンと瓶を持っていた。油をかけて火をつけたのだろう、仕事をすませた影はゆっくりとふりかえる。

「!」

 キャムは息をつまらせた。

 あのころより随分と髪が伸び、逆に体はすっかり痩せこけている。自分の脚で立っているというより、まるで見えない糸で空中から吊られているようで、とても生者だとは思えない。

 それでも、その顔には見おぼえがある。

 右目の下に口をあけたうすじろい傷痕が目印となって、その顔をよりはっきりと記憶からひきずりだす。

「……キャウ……キャム」

 男は低くキャムの名をつぶやいた。

「そうだ……カリハの弟子は、そんな名前だった」

 キャムは無意識に後ずさり、男を見つめたままかぶりをふる。

「そんな……生きていたの……」

 ほんのすこしひらいた距離を、男がすかさず近づいてすぐに埋める。

「ここにいるのは〈不死者〉……墓からよみがえった男だ。どこへ行った。カリハは、あの女は。おれに剣をむけたあの女は、おれを裏切ったあの女は――」

 つまった喉をこじあけて、キャムは無理やりに叫んだ。

「師匠はあなたを裏切ってなんかない! 裏切ったのはあなたのほうじゃない、ヴァルド・ゼレン!」

 カリハ・シャールカの兄弟子だった男。

 剣士団とカリハ・シャールカを捨てた男。

 そして、あの日――カリハ・シャールカを殺そうとした男。

「あの女は、おれを裏切った」

 ヴァルドはつぶやき、無造作に瓶とランタンを放り投げた。そしてゆるやかに腰の長剣を抜いた。

 うすっぺらい体には、力どころか、体重すら感じられない。

 だが。

「――」

 キャムは唇をきつく噛む。

 だというのに、ヴァルドは変わっていない。これほどまでに外貌が変わっても、剣士としてのたたずまいはまったくといっていいほど変わっていない。

 長剣は抜かれたのではなく、みずから鞘を滑り出たようだった。ヴァルドの手に握られているのではなく、自分の意志でそこにとどまっているかのようだった。人と剣と、生者と道具と。まったくちがうはずのそのふたつのものに主従はない。ただひとつの目的を果たすためのものとして一体となっている。

 ますますきつく、キャムは唇を噛む。

 ――世界で一番強い人。

 カリハ・シャールカが透きとおるような微笑でそう語った男。

 それなのに。

「……どうして」

 キャムはつぶやく。

 声は震え、勝手に叫ぶ。

「どうしてあなたは、師匠を裏切ったの! 師匠を捨てて、剣士団を出て、その上どうして師匠と立ち会おうとしたの! あなたさえ、あんなことをしなければ!」

 あの日。

 ふらりと行く手に立ちはだかった剣士を、キャムはいつものようなただの挑戦者だとしか思わなかった。

 カリハ・シャールカの名が持つものに惹かれ、さまざまな剣士が挑戦してくる。だがキャムの師匠は、それらのすべてを風のような剣で倒すのだ。だからキャムはなんの心配もしなかった。師匠の動きの邪魔になるまいと、そろそろと離れた。

 だが、いつもの笑顔を見ようと師匠を見あげた瞬間、キャムは心の底から驚いた。

 カリハ・シャールカは、キャムが初めて見る顔でいた。

 キャムはもう十五歳になっていて、子どもではなかった。それでも師匠の顔が浮かべたすべてを知ることはできなかった。その顔は一見するとおだやかで、よく見れば無表情で、しかしその下に混乱した感情がうずまいていた。

 呆然としながら、キャムは行く手の剣士に顔をむけた。

 剣士は長身だったが、この道を選ぶ者としては目立つほどではなかった。ただ、その顔もまた、カリハ・シャールカとおなじ奇妙な無表情だった。

 相反した、そして巨大すぎる感情が、かえってふたりから表情を奪っていた。

 カリハ、とつぶやいた剣士は、ゆるやかに腰の長剣を抜いた。

 ヴァルド、とカリハ・シャールカも同時につぶやいた。

 師匠の兄弟子がヴァルド・ゼレンという名であったことを、キャムは思い出した。いそいで師匠をふりかえった。

 カリハ・シャールカは指ひとつ動かしていなかった。ためて、瞬時に反応するための力すら、その姿にはなかった。

 師匠、とキャムは叫んだ。だがキャムの声はカリハ・シャールカにはとどかなかった。カリハ・シャールカはただ人形のように突っ立っていた。

 師匠が斬られる――キャムはとっさに、カリハ・シャールカの腰の長剣に飛びついた。長剣をひきぬきざまにふりかえり、ヴァルドにむきなおった。

 どけ、とヴァルドは言ったが、その目はキャムを見ていない。

 どくんだ、と後ろのカリハ・シャールカも言ったが、やはりその目は自分を見ていないことをキャムは知っていた。カリハ・シャールカはヴァルドを、ヴァルドだけを見つめていた。

 師匠の目に自分がうつっていない。その思いがキャムの胸の底を冷たくひっかいた。キャムはほとんど衝動的にヴァルドに斬りかかった。

 ヴァルド自身はキャムを一瞥すらしなかった。だが、その手の長剣はキャムに応じてひらめいた。

 キャムは鈍色の刃が自分の頭上に落ちかかってくるさまを見た。

「……あんなことをしなければ……」

 キャム、というするどい声とともに、手に手がそえられ、ぐんとキャムの限界を超えて突き出された剣がヴァルドの顔面をえぐり、のけぞらせる。

 そして――キャムが初めて聞いた、〈疾風〉カリハ・シャールカの悲鳴。

「……わたしが……しなければ……」

 ことばと同時に、吐き気がこみあげる。キャムは口もとをおさえ、ぎゅっと目をつぶる。

 過去の声がまた耳の底にこだまする。

 ヴァルド、ヴァルド、ヴァルド。カリハ・シャールカは倒れた剣士の名を呼びつづけた。ただひたすらに、ヴァルド、ヴァルド、ヴァルド、と。

 キャムは無理やり師匠の手をひっぱり、長剣をひきずり、その場をいそいで立ち去った。早く師匠をここから遠ざけなければ。その一心だった。

 カリハ・シャールカの体はなんの抵抗もなく、キャムにひっぱられるままについてきた。その弱々しさがキャムをぞっとさせた。ヴァルドと呼ぶことすらやめてしまった師匠を、キャムは恐ろしくてふりかえることができなかった。

 そのとき置いてきたはずのものが、黒い過去からの影となって、いま、キャムの目の前にいる。

「カリハは、どこだ」

 影が問う。

 キャムは激しくかぶりをふる。髪をふりたてて、幾度も、幾度も。

「いない! 師匠はもういないの! いないの!!」

 わたしのせいで――心の奥に封じて、目をそむけつづけてきた思いがあふれだした。

 あれからカリハ・シャールカは無言だった。やっと口をひらいたとき、カリハ・シャールカはそれまで以上に透きとおるような微笑を浮かべて、ミルシェの森へ行きたいと言った。キャムは喜んでうなずいた。師匠はすっかり元に戻ったのだと、キャムは無理やりにでも信じこんだ。

 ミルシェの小屋に着いた夜、あくびをしたミルシェが先に休んでからも、カリハ・シャールカはキャムにいろいろな話をした。そして最後に、剣を置くことを決めたと言った。

 もちろんキャムはひきとめた。

 だが、カリハ・シャールカは笑って応じなかった。そしてあの透きとおるような微笑とともに言った。

 ――おまえは、ほんとうに強くなれ。

 納得はしないながらも、もう遅いからという師匠のことばに従ってキャムは休んだ。

 翌朝、カリハ・シャールカの姿は小屋になかった。

 森の中に横たわっていた彼女の体をキャムが見つけたのは、その日の夕方になってからだった。

「……師匠は、死んだの。この森で」

 キャムはやっとの思いでことばをしぼりだす。

「あなたを、殺してしまったと思ったから、だから死んだの。師匠はずっと、あなたのことが好きだった。あなたが師匠を裏切っても、それでもあなたのことが好きだった」

 ヴァルドの暗い双眸をキャムは見つめる。

「どうして? どうして師匠を裏切ったの? 師匠のお父さんの剣士団で、師匠といっしょに聖剣士をめざせなかったの?」

「最初に裏切ったのは、あの女だ」

 暗い双眸に、感情が埋み火のようにひそんでいる。

「あいつの剣は、日に日に(はや)さを増していった。おれをも超える勢いだった。それでもあいつは剣を捨てなかった。自分の腕があがることでおれのいい相弟子となれると、無邪気に信じて修行に打ちこんだ。そんなあいつを、おれがどれだけ恐れたことか――あいつは、なにも知ろうとしなかった」

「だから師匠から逃げたの!?」

「敵に手の内を見せながら修行できるわけがない」

「師匠はあなたの敵じゃない! 師匠はただ、あなたといっしょに修行できるのが楽しくて、聖剣士をめざすあなたの役に立ちたくて!」

「ああ、あいつはおれに惚れていた。おれもあいつに惚れていた。だから修行した。あいつを堂々と倒せるように」

 ちがう――キャムは思わずかぶりをふる。

 カリハ・シャールカが世界で一番強い人だと言ったこの男は、強くない。カリハ・シャールカの剣が自分より上だと認めることも、そうしたありのままのカリハ・シャールカを愛することもできない、弱い男だ。

 だが。

 師匠はきっとそのこともわかっていたにちがいない、同時にそうキャムは思う。

 兄弟子のそんな弱さを知りながら、それでもカリハ・シャールカは彼をなお愛していた。彼に愛されることこそを願っていた。

 それがカリハ・シャールカの弱さだった。

「カリハを出せ」

 あのとき、カリハ・シャールカはそのことを悟ったのかもしれない。だから体を動かせなかったのかもしれない。剣士として彼に勝つことではなく、かつての恋人として彼に負けることを願ってしまったのかもしれない。

 それを邪魔したのは、キャムだった。

「……」

 キャムは唇を噛んだ。力を入れすぎて歯がすべり、血の味がわずかににじんだ。

「あいつが死ぬわけがない。生きているに決まっている。おれは、あいつを倒す」

 ヴァルドもまた、カリハ・シャールカを負かすことを望んでいた。

「さあ、カリハを出せ」

 いまだに望みつづけていた。

「隠すなら、殺す」

 一歩一歩、みずからの体に残った重さをいちいち足で確かめるような足取りで、ヴァルドが近づいてくる。

 たとえ子どもの足でも、いまのヴァルドからは逃れられただろう。

 だが、キャムは身動きひとつしなかった。

「……師匠」

 口の中でつぶやく。

「今度は、邪魔しないから……そうしたら、また一緒にいてもいい?」

 長剣が迫ってくる。あの日のあの出来事を、もう一度、ゆっくりとやりなおそうとするかのように。

「キャウ、なにしてるの! 逃げなさい!!」

 ミルシェの叫び声が遠い。

 キャムは目をつぶり、顔をあげる。

 あの日、自分に落ちてこなかった刃を、改めて受けるために。

 二度とカリハ・シャールカに逆らわないために。

 今度こそずっと一緒にいるために。――

 扉がたたきつけられる大きな音がした。 

 激しい咳がそれにつづいた。

「――キャム・ヴラスタ!?」

 まだ苔茶が喉にひっかかっているらしい声が裏返る。

 キャムは反射的に目をあけた。

 煙を背後に、マントのすそを焼け焦がしたルヴェルが立っていた。髪は乱れ、顔も汚れている。背を丸めて咳きこむ姿から、大事そうにかかえた長剣の柄がつきでて見えた。

「む――無腰の――女に――長剣なんて――」

 派手な咳の下から、それでもルヴェルは言った。

 ヴァルドがゆらりとふりかえる。

 長剣もまたルヴェルにむく。

「邪魔をするな」

「み――見過ごすわけ――には――」

 ルヴェルはいっそう激しく咳きこんだ。

 中で相当に煙を吸いこんでしまったらしい。キャムは叫ぶ。

「いいから! 来ないで!」

 天明瞳がこちらを見た。

 その手がおおきく下からふりあげられた。

「――」

 キャムは息をのんだ。

 巨大な松明と化した小屋に照らされて、ルヴェルの手から投げられたそれは、あかあかと輝いて見えた。

 キャムめがけて降ってくる、師匠――カリハ・シャールカの剣。

「受け取れ!」

 ルヴェルの声と同時、キャムは反射的に長剣をつかんでいた。ずしりとした感触がなつかしく、心地よく、剣はぴたりとキャムの手にすいついた。

「剣……」

 決してもう手にしないと誓ったはずのものが、手の中にある。

 キャムは呆然としたまま、長剣を投げたルヴェルに目をむけた。

 短剣を抜いて、ルヴェルはヴァルドにむきなおった。

 ヴァルドの暗い目が無造作に、ルヴェルの天明瞳を受け止める。その長剣がもちあがる。

 落ちかかる剣士の長剣と、ほとんど生来の反射だけで受け止めようとする素人の短剣。

 一瞬後の勝敗が、はっきりキャムに見えた。

「――」

 キャムは革を巻いた柄をつかんだ。

 すらりと抜いた剣ごと、一直線に駆けた。

 その瞬間、キャムはなにも感じなかった。迷いも、恐れも、そして胸の底から決して消えることのなかった罪の意識も。

 横手のキャムに気づいたヴァルドが、ねらいをキャムの剣へと変えてくる。

 ぐん、とキャムはいきなり体を沈みこませる。

 宙に残った一房の髪をふっつりと斬って、頭上をヴァルドの剣が通りすぎた。

 同時、一陣の風のように突き出されたキャムの剣は、彼のわき腹を浅からず深からずかすめていた。

「……〈疾風〉……」

 ちょうど自分の敵をしりぞけたミルシェがつぶやいた。

「カーラ……」

 だが、キャムは聞いていない。

 ヴァルドが両膝をついたさまも見ていない。

 ひどくむせかえったあげくに突然とぎれたルヴェルの咳に、いそいでふりかえる。

「ルヴェル!」

 短剣を握ったまま、ルヴェルはばたりと倒れて動かなくなった。

 キャムは彼の横に膝をつき、仰向けにしてゆすった。

「ルヴェル、ルヴェル!」

 よく見れば彼のマントはまだくすぶり、髪もいくらか焼けている。顔はすすに汚れ、額が小指ほどの長さに切れて、血がにじんでいる。おそらくカリハ・シャールカの長剣をさがして、必要以上に小屋にとどまっていたにちがいない。

「しっかりして、目をあけて、起きて! ねずみでしょ、しぶといはずでしょ、ルヴェルったら!」

 ぽん、と後ろから肩に手を置かれた。

「おちついて、キャウ。息はしっかりしてるでしょ」

 ミルシェがあきれたように言った。

「もうちょっと気持ちよく気絶させといてあげなさいよ」

「でも――」

 キャムはミルシェをふりあおいだ。

 ミルシェは、おだやかに微笑んでいた。

「ねえ、ルウルウに怒ってる?」

「どうしてよ! たしかに身の程知らずのおっちょこちょいのお人好しだけど――バカだけど――それでもわたしを助けようとしてくれたんだから!」

「そうよね。ルウルウはあなたを心配してくれて、だから助けようとしてくれたのよね。だけど、要はむかしのあなたとおんなじことをしたわけでしょ」

「――」

「ねえ、カーラはあなたに怒ってたと思う? よけいなことをして許さない、って。こうやって心配してくれる人がいるってことを、恨んだって思う?」

 キャムは目をそらす。

「……死者のことばなんて、生きている人が都合よくすりかえただけのものじゃない」

「あらあ、かわいくない屁理屈は言わないの。あなたの心のカーラが怒ってるかどうか、それだけのことよ。それで、どうなの?」

 目はそらせたまま、キャムは唇を噛んだ。

 こんなふうになるのは、自分の甘えだと思った。つらい過去から逃げ出したくて、だからこうなってしまうのだと思った。

 それでも。

 ――悪い気分ではないな。

 無数の記憶の中から浮かびあがってくるカリハ・シャールカは――はじめて会った日の、あの笑顔だった。

「じゃ、それでいいじゃない」

 キャムの心を見透かしたように、ミルシェは言った。

「さ、ルウルウが目を覚ます前に、まずはその顔を拭きなさいよ。女が泣き顔を見せていい男は、ものにした相手だけよ」

 ミルシェは片目をつぶった。

 キャムははじめて、自分がぼろぼろと大粒の涙をこぼしていたことに気づいた。


 市庁舎への大通りをゆくキャムたちを、市民たちは驚いた顔で見守っている。

 そりゃそうよね、とキャムは声には出さず、つぶやいた。

脇腹に受けた傷もあってか、頭ひとつ分ちぢんだようになって無言のまま歩くヴァルドは、後ろ手に縛られている。

 その縄を持って堂々と歩いていくミルシェは、女にしては珍しい服装と長身とで、そうでなくてもひと目をひきつける。

 先頭をゆくルヴェルにしても、王立錬成院のマントは無惨に汚れてよりねずみらしくなり、髪は乱れ、額に巻いたその場しのぎの包帯はひらひらと後ろにたなびいて、さすがに彼の容姿でもごまかしきれずにいる。

 最後尾のキャムだけが、どこにでもいるふつうの娘の姿で、だがそれだけにいっそう浮いている。

 さまざまな報せを触れまわる公示人が、人目を集める小道具として雇いたがりそうな、なんとも奇妙な一行だった。

もっとも、市庁舎に着いてからは、ルヴェルの身分ですべてがすらすらとうまく運んだ。

 ヴァルドと、縛って森に置いてきた残りの男たちは、放火と襲撃の罪で警吏にとらえられることになった。

 小屋が全焼して住むところを失ったミルシェも、市議会の身元保証を得てしばらく市内で暮らすことを許された。

 市庁舎の外に出たミルシェは、あーあと伸びをして吐息をついた。

「ルウルウの好意はありがたいけど、町住まいは肩が凝るのよねえ。どうせなら小屋の再建費用も負担してくれないかしら」

 彼女の横で、キャムはさりげなく言った。

「用事をすませたら、また戻ってきて、小屋作りを手伝うわ」

 ミルシェはちょっと眉を動かし、そして微笑んだ。

「ありがと、キャウ。待ってるわよ」

 ミルシェの指が、二、三度かるくキャムの頬にふれる。

 彼女の感謝が、頬にも気持ちにもくすぐったい。キャムもおもわずくすりと笑う。

「でもキャウ、用事ってなんなの?」

「うん、ちょっとね」

「そう。これは持ってく?」

 ミルシェは、唯一残った物を差し出した。

「うん」

 キャムはそれを――カリハ・シャールカの剣をとった。

 包帯の端をひらひらさせながら、ルヴェルが戻ってきた。

「これで手続きは全部すんだぞ。ああ、それから、ジァトペック市での裁判官が、収賄の疑いで逮捕されたということだった。まもなく審議に入るそうだ」

「へえ、よかった。で」

 キャムはルヴェルを手招いた。

「ちょっと来て」

「は?」

「いいから」

「……い、いやいい、遠慮する」

「なに警戒してるのよ?」

「いや、よくわからないが、とりあえず……」

「なにもしやしないわよ! その包帯、まきなおしてあげるって言ってるの」

「い、言ってなかったぞ」

「いいから!」

 こわごわ首をすくめるようにしてやってきたルヴェルの頭の包帯を、キャムはきっちりまきなおした。

「――これでよし、と。あと」

「な、なんだ?」

 ますますびくつくルヴェルに、キャムは言った。

「王さまのところに連れてって」

 天明瞳が大きくみひらき、ぱちくりとまばたいた。


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