2.葬式娘のヴェールのむこう
首都クローカにおかれた、王立錬成院調査部第十一課の一室。
暗紫色の重厚な机についた髭の上司と、部屋の中央に突っ立った無髭のしたっぱとのあいだには、息苦しいまでの沈黙がたちこめている。
「……ルヴェル・サイフェルト」
シュメタナ主任はやっと口をひらいた。つやつやとした口髭と顎髭を細くととのえ、三〇代半ばとなったいまでも彫像が動き出したのかと見まごうほどの端整な顔立ちは、他の者の審美眼を計算し尽くしたかのような愁いを帯びている。
「一年の歳月と、金貨一〇〇枚銀貨三〇〇枚を費やした成果が、これかね?」
とんとん、と長い指が机に置かれた書類をたたく。
「きみは、時間と予算をかければかけるほど、悪い仕事をするようだな。この程度の結果なら、私は一か月の期間と銅貨三〇〇枚の予算で出せる」
ふうっと息をついて、シュメタナは目もとをもみほぐしはじめた。
「ついでに言えば、この報告書もいただけない。前半三〇頁まではすべて不要だ。後半五頁も同様、紙とインク、そして読まされる私の時間のむだというものだ。きみの苦労話も決意も、報告書には必要ない。すぐに書き直すように」
ようやく手をおろしてルヴェルにむいた顔に、うわべばかりの慈悲深い笑みが浮かぶ。シュメタナは机に両肘をつき、顔の前で手を組み合わせて、いっそう笑みを強くした。
「きみならば立派な報告書が書けると、信じている」
「……すぐに書き直します」
上司の部屋を出たルヴェルは、机と資料で一度も部屋本来の大きさに片付いたことのない、ごちゃついた執務室へと戻った。
「お疲れさん」
隣の席、一風変わった暗紫色の髪を持つ同僚が、にやにや笑いで声をかけてくる。
はあ、と吐息をついただけで、ルヴェルは自分の席につこうとした。
「おっと、わが親愛なる天明瞳くん。その前に、おまえに会いたいって客人が来てるぞ。もちろん最重要任務だ、すぐに行け」
ぴくり、とルヴェルの顔がひきつった。
「……わかった」
ルヴェルはひと息入れる間もなく、すぐに面談室へとむかった。
王立錬成院調査部第十一課に特別にもうけられた面談室は、他の課のそれとはちがい、訴えを持った庶民の声を聞くためのものではない。
第十一課とは、国王がじきじきに選んだ者にみずから使命を与えるための課だ。つまりここを訪れる客人とは――
「ルヴェル!」
面談室の扉をあけた途端、豪華な黒ベルベットの帽子とマントを身につけた客人がルヴェルを出迎えた。
「聞いたぞ、ついにカリハ・シャールカを見つけ出したそうだな!」
癖のない金髪、無邪気すぎる碧眼。小柄で華奢で、ほとんど少年のように若いこの男こそが、栄えあるクロー王国現国王ティシェク五世だった。
ティシェクは勢いよくルヴェルの肩をたたくと、すぐにどさりと椅子に座って身をのりだした。
「それで、どんな女だった? 強いか? 美人か?」
興味丸出しのティシェクは、国王どころか、ルヴェルより年上の二十四歳の男にも見えない。有能な臣下たちに政務を任せ、少年のころからまるで変わらない気楽な生活をつづけていると、中身だけでなく外見もまた年をとることを忘れるのかもしれない。
「いやあ、会うのが楽しみだな! さすがはルヴェルだ、神より天明瞳を授けられた選ばれし者ならば、かならず他の有象無象とはちがうと信じていたぞ! そうだ、褒美をやろう。なにが――」
「っぇぐしっ!」
ルヴェルの鼻から飛び出したくしゃみにさえぎられて、ティシェクは青い目を丸くした。
「すっ、すみません、ご無礼を!」
「なんだ、風邪か?」
「は、はあ……川に落ちてから、どうも」
ティシェクは椅子ごと後ろにさがり、むすっと眉間をくもらせる。
「川遊びとはのんきなことだな! いったい、余はいつになったらカリハ・シャールカに会えるのだ?」
「い、いえ、あの……」
ルヴェルはうつむいて鼻を指でこすり、おそるおそる王を見やった。
「たいへん残念ではありますが、陛下のお耳には、どうやらまちがった話がとどいているようです。カリハ・シャールカは死んでおりました」
きょとん、とティシェクの碧眼が、ルヴェルの天明瞳を見つめかえす。
「…………」
無邪気な目に次第に暗雲がたちこめ、稲妻がひらめき、そして――
「ばかものーっ!!」
雷が落ちた。
その声自体にはまったくといっていいほど迫力はないが、それが王の声となると重みも増す。
首をすくめたルヴェルの上に、たてつづけに罵声が落ちてくる。
「おまえはどんな権利があって余の期待を裏切るんだ! そんな珍しい目をしてるんだったら、魔法か奇跡のひとつやふたつつかってみせたっていいだろう! カリハ・シャールカを連れてこい、連れてこいったら連れてこい!」
「いえ、あの、でも、死人をよみがえらせるなどということは」
「だったら新しい女剣士を見つけて連れてこい! いいか、余の初めての神聖剣戦に出す聖剣士は、もう女と決めているんだ! 女剣士で勝ったら、こんなにかっこいいことはないじゃないか! バスロー王やリストルグ王、フェルルーグ王、それにあの鉄仮面みたいなルス王だってきっとびっくりするに決まってるんだ!」
「はあ、あの、でも」
「いいからっ! さっさと連れてこいっ!!」
ティシェクが椅子から跳びあがった。
「はは、はい!」
ルヴェルが急いで外に出ようとすると、背中に声がかけられる。
「待て、ルヴェル! その前におしおきだ!」
「……はい」
ルヴェルは、あきらめきった目でふりかえる。
「だが、余は慈悲深いから、おまえにも救いの道は残しておいてやるぞ」
こぶしを顔の前にかかげて、ティシェクがにんまりと笑う。
「さあいくぞ! じゃーんけーん、ぽんっ!」
やる気なく広げられたルヴェルの手と、二本の指を立てたティシェクの手。
「すきあり!」
すかさずばちんとティシェクに頬をたたかれて、ルヴェルは無言で頭をさげる。
じゃんけんをして勝ったほうが負けたほうの頬をねらい、負けたほうはそれより早く両頬をおさえてふせぐのは、クロー王国の子どもたちなら誰でもやっている遊びだが、ティシェクはいまだに楽しんでいる。
「あははは、まったくルヴェルはじゃんけんが弱いな! その理由を余は知ってはいるが、教えてはやらんぞ! 自分の欠点には自分で気づかねばな!」
上機嫌で笑うティシェクにもう一度頭をさげて、ルヴェルはそっと廊下に出た。
「……はあ」
自分の平手を見つめて、がっくり肩を落とす。
「ほう、ため息をつくひまがあるとは、きみにはもてあますほどの時間があるようだな、ルヴェル・サイフェルト」
ルヴェルは反射的に背すじをぴっと伸ばす。
腕組みをしたシュメタナが、片足を曲げた姿勢で廊下の壁にもたれて立っていた。
「きみの取り柄は若さだけではないのかね。がむしゃらに、ただひたすらに動いて、すこしでもおのれを磨いておかねばならない時期だろうに」
愁いを帯びて伏せられた長い睫毛越しに、シュメタナはルヴェルを見やった。絶望的な突撃にのぞむ将軍のような顔だった。
「私は決断したよ、ルヴェル・サイフェルト」
「はあ……」
「きみの自分磨きに役立つよう、ジァトペック市への出張を贈ろう。かの地の名士マーシェ家から、葬儀の案内状がとどいている。すぐに出発し、弔問してくるように」
シュメタナは言いたいことだけを言うと、マントをひるがえして靴音高く立ち去った。
上司の後ろ姿を見送りながら、ルヴェルは眉間にしわをよせた。
「……さっき、言い忘れたんだな」
ルヴェルは執務室に戻った。
「よお」
隣の席の同僚が、またにやにやと笑った。
「クローカに戻ると同時にお呼びがかかる陛下のお気に入りとは、いやあうらやましいねえ」
「……」
ルヴェルは物騒な目つきで同僚をにらみ、乱暴に椅子にすわると新しい紙をひきよせ、鵞ペンをインク壺につっこんだ。
「おいおい荒れてるねえ、大損、おっとちがった、天明瞳くん」
ルヴェルは同僚に目もくれず、がしがしと書き殴ると、立ちあがった。
「その報告書、悪いけど提出しておいてくれ。まずは弔問のほうに行ってくる。ああ、がむしゃらに、ひたすらに働いてやるさ! 仕事こなして経験つんで実力つけて、堂々国政担当、第一課へうつってやるさ!」
同僚の返事も待たず、ルヴェルは執務室を飛び出していった。
「報告書、ねえ……」
同僚はぺらりと紙をとりあげ、目を走らせた。
『女剣士カリハ・シャールカはすでに死亡した模様ながら、唯一の女弟子キャム・ヴラスタは健在である。――以上、王立錬成院第十一課所属ルヴェル・サイフェルト報告す。』
紙面にはそう書かれていた。
「まーた女の尻を追っかけるわけかい。それで国政担当志望とは恐れ入るよ」
同僚は肩をすくめ、紙をはじいた。
紙はひらひらと主不在の机の上に落ちた。
クロー王国最古にして最大の剣士団もまた、首都クローカに本部がある。
結成当初は特に名前はなかったが、ほかの剣士団が増えるにつれて、その紋章から『金薔薇剣士団』と呼ばれるようになった。しかしいまだに公的にはただ『剣士団』とのみ表され、最古の存在である矜持を示している。
まもなくはじまる選考戦でも、金薔薇剣士団は国王臨席のもとに行われる王都での本戦からの出場が認められている。当然、その代表は毎回優勝候補筆頭であり、前評判どおり勝利をおさめることも多い。
今回の代表も優勝候補と見なされている。へたな地方予選より厳しいといわれる金薔薇剣士団内の四季戦を堂々七期連続勝った男で、代表に選ばれると同時、新団長にも就任していた。
「――団長だ」
屋外に設けられた剣技場で練習に励んでいた剣士たちは、砂の上におりたった男の姿に、すばやく剣をおさめた。十数人がさっと剣技場にあけた広い空間を、男は当たり前のように専有し、自分の剣を抜いた。
ひきしまった長身、浅黒い膚に映える銀髪、淡い水色の目。
〈白閃の剣士〉との異名をとるイグナッツ・バーツは、一身に受ける剣士たちの注目をきれいに無視して、空気を切り裂くするどい一撃を次々とくりだしはじめた。
金薔薇剣士団、しかも地方支部ではなくクローカの本部には、その気になれば自分の剣士団を立ち上げることも可能な手練れの剣士がそろっている。しかしいまは、剣技場の周囲から一振りの剣の動きに感嘆の吐息をつき、期待のまなざしでながめるだけだ。
そのとき、砂の上に無神経きわまりない誰かがおりた。
即座にけわしい視線をむけた剣士たちは、だが、それが〈灰烏〉と呼ばれる男であることに気づくと、いまいましげに視線をそらせた。
カフュカは、しばらく前から金薔薇剣士団に出入りするようになった男だった。何者なのかははっきりしない。イグナッツ以外の者には口をきかず、いつも手ぶらで、ふらりとやってくる。
そうしたカフュカにうさんくささを感じつつも、この新団長が彼との面会を拒まない以上、剣士たちにできることはない。
左右の足にいちいち体重を乗せるような、のろのろとした足取りで、カフュカは無遠慮にイグナッツに近づいた。
「話があるんだがね」
ぼそぼそとした声に加え、ぼさぼさとつやのない髪がほとんど鼻先まで垂れて、カフュカは年齢も顔立ちもよくわからない。すっぽり体を覆う長上着のせいで、太っているのか痩せているのか、丸めた背を伸ばせばどれほどの上背があるのかもはっきりしない。
イグナッツはまったく手を止めずに言う。
「そのまま言え。ここなら盗み聞きの心配はまったくない」
「ま、そうだがね」
カフュカは億劫そうに首を伸ばして剣技場周囲の剣士たちをぐるりと見わたし、またイグナッツに顔をむけた。
「あんたには残念な報せをもってきたよ。われらが金髪のおぼっちゃんは、やはりカリハ・シャールカをあきらめちゃいない。なんとしてでも見つけ出すつもりらしいね。いつもの天明瞳のくろねずみがすっとんでいったよ」
剣を振るイグナッツの目がわずかに細められる。
「そのくろねずみは、カリハ・シャールカは死んだという報せを持ってきたようだがな」
「……どこからそんな話が出たんだい?」
「おしゃべりなのは、なにも烏にかぎったことじゃない。世間には雀もいるというだけのことだ」
「ああ、王宮雀なんかにだまされちゃいけないよ、イグナッツ。あいつらは聞こえてくる話をついばんで、そこにまた尾ひれをつけて、ぴいちくぱあちくさえずるだけだ。なにがほんとうかだなんて考える頭は持っちゃいないんだから」
「烏はちがうとでも?」
「全然ちがうさ。雀は王宮から出やしない。だけど烏はちがうよ。この〈灰烏〉はね。強い翼で、どこまでだって飛んでいくよ」
「その割に、一向にカリハ・シャールカには追いつけないようだがな」
カフュカの長い前髪のすきまに、暗い目がのぞく。
「まだ二年、もう二年だよ、イグナッツ。もうすぐ、もうすぐだ。カリハ・シャールカにつながる糸は、もうすぐ烏のくちばしにくわえられそうなんだよ。あの女は死んじゃいない。死んでるわけがないんだよ、イグナッツ」
「まあいい。カリハ・シャールカの情報にかけられた賞金はとりさげられないようだ。陛下も望みを捨てていないということだろう」
カフュカがかすかにうなずく。
「あの女も、もう二十五、六歳になるからね。今回が最初で最後になるかもしれない」
「妙齢でなければ、女剣士という価値もさがるだろうからな」
「そうだろうね、あのおぼっちゃんにとってはね」
ひるがえったイグナッツの剣先が、カフュカの顔の前で白光をはじく。
剣風に押されたかのように、カフュカはよろりと力なく顔をひく。
「まさか、この程度の話で金をせびりに来たわけではないだろう?」
イグナッツが問う。
「もちろんだとも。〈灰烏〉は〈白閃の剣士〉を見こんで飛んできたんだ。あんたを助ける話をとどけるために、あんたの敵になる女の目をつつきだすためだけにね」
「どうだかな」
「さっきも言っただろう、イグナッツ。カリハ・シャールカにつながる糸が見つかったんだよ」
「糸?」
「カリハ・シャールカには弟子がいたんだよ。女のね」
「初耳だな。カリハ・シャールカは孤高の剣士と聞いていたが」
「まちがいなくほんとうのことだよ、イグナッツ。もう小娘とは言えないが、十分すぎるくらい若い弟子がいるんだよ。職を転々として地味に暮らしていたようだが、身の軽さはいつだって剣士に戻れるよ」
なるほど、とイグナッツの唇がちいさく動く。
「仮にカリハ・シャールカが死んでいたとしても、今度はその弟子がひっぱりだされるという可能性もあるわけか」
うなりをあげたイグナッツの剣が、見えない敵の胴を撃った。
おお、と遠巻きにしている剣士たちから声があがった。
イグナッツは手を休め、彼らに手をあげてみせ、白い歯をのぞかせた微笑をおくった。だがその唇はかすかに動いて、声になるかどうかというぎりぎりのつぶやきをもらした。
「不正は是正しなければならないという話なら、賛成だ」
カフュカはこまかく肩をゆすり、くくくと喉の奥を鳴らした。笑うとはこうすることだと決めつけて、そのとおり実行してみているだけのような笑い方だった。
「さわやかに怖いことを言う男だね、あんたは。まあいいよ、〈白閃の剣士〉と〈灰烏〉は同志ってことさ。いまも、そしてこれからもね」
イグナッツは、巻きあげた砂埃が練習用の剣に残っていないかをたしかめはじめた。その息はもうほとんどおちついていた。
「どう協力すると言うんだ?」
「その弟子を見つけ出すよ。そしてカリハ・シャールカの居場所を教えるよ。あんたをさしおいて聖剣士になりかねない、おぼっちゃんのごひいきをね」
「弟子はどこにいるんだ?」
「くろねずみはジァトペック市にむかっている。ひとまずそいつを追いかけるよ」
「ジァトペックか」
イグナッツは視線をあげる。
「ちょうどいい、すこし気になる剣士団がある。ついでに見てきてもらおうか」
カフュカはいぶかしげに頭を動かした。
「剣士団?」
「マーシェ剣士団といって、しばらく前からよく金や品物を贈ってくる。懸命にこちらの機嫌をとって、つながりを持とうとしているらしい」
「名誉ある金薔薇の剣士団ともなれば、そういう相手なんて珍しくもないだろうに。どうしてカフュカに調べさせたいんだい?」
「どうもただの追従者じゃない。今度、団長の生前葬をあげるそうだ」
「へえ、それはまたずいぶんとおもしろいことをやらかすね。もっとも、光るものすべてが黄金ってわけじゃないけどね」
イグナッツは剣をおさめた。
「俗諺にはくわしいようだな。だったらこんな俗諺も知っているだろう。りこうな怠け者を上司に選べ、りこうな働き者を部下にしろ、ばかな怠け者には金を出させろ、そしてばかな働き者はたたき出せ」
「……知ってるよ」
「おまえは、金を払うに値するりこうな働き者だろうな?」
カフュカはかすかに息をついた。
「ああ、そうだよ」
イグナッツはうなずいた。
「マーシェ剣士団は、ついこの前もおなじ町の別の剣士団と公開戦をやって、まったく一方的にたたきのめしたらしい。どうも派手すぎる。どんなやつが団長なのか、確かめてきてもらおう」
カフュカはまた息をついた。
「……あんたもたいそうな働き者だね、イグナッツ。剣の腕だけじゃ、剣士団の団長は務まらないってことだね」
「聖剣士もな」
彫りの深い横顔をまるで揺らがせることなく、イグナッツは言った。
ぱんぱんぱん、と葬儀屋のおかみの拍手の音が響きわたり、歌声がやむ。
「ああ、ちがうったら! いいかい、あたしたちはね、どんなにときだって音程を狂わせちゃいけないんだよ、さあもう一度、ひとつ前から行くよ!」
大部屋で横一列に並んだ六人の女たちは、うつむいて黒いヴェールを胸まで垂らしたまま、息を入れ直す。
かつてこの町の名物葬式女だったというおかみは、骨のように白いこけた顔には似合わない美声で、高く、繊細に、それでいて朗々と挽歌を歌い出す。
夕日は沈む
張り裂けるこの胸
命とはかりそめ
ああ、ああ、というすすり泣くような合いの手を、六人の女たちが入れる。
今度の音階はぴったり合った。
おかみは重々しくうなずきながら、指をふる。
六人の女たちは音程をかえて、次の旋律をむかえる準備をととのえる。
おかみはすうっと息を吸い、さらに声をはりあげる。
この地上の故郷から
天上の国へと
魂は旅に出る
六人の女たちの歌声が伴奏となり、おかみの歌声とからみあい、悲しみに満ちた見事な和声が決まった。
ぱんぱんぱん、とおかみがまた手をたたく。
「よーし、いいね、いまの感じだよ。忘れないでおくれ!」
六人の女たちは、ほっと息をついて顔をあげた。
「いいかい、棺をひくときの挽歌の出来は、葬式すべての出来を決めるんだ。あたしたちの声と歌とで、参列者をおもいきり悲しませなきゃいけない。それができなきゃ、御銭をはらってくれる喪主なんていないんだよ。そこのところをよくおぼえておおき!」
「はい」
六人の女たちはそれぞれ答えた。
「よし、それじゃあ今日の挽歌の練習はこれで終わりだ。次は飾り物作りにかかっておくれ。こないだのスデックさんのところの葬式は、そりゃあ盛大にやってくれたからね。これで今度の葬式が終わったら、倉庫がすっからかんになっちまうよ」
おかみはせかせかした足取りで大部屋を出て行った。
六人の女たちは期せずしてほっと同時に息をつき、うっとうしく顔の前にたちこめるヴェールをあげて後ろへ流した。
「やれやれ、まったくおかみさんはやり手なんだから」
年長の女がつぶやいた。
「今度のマーシェ家の葬式を受けたのだって、あのおかみさんがいろいろがんばったって話だしねえ――ちょっと新入りのあんた、いいんだよ、ひと息入れたって」
ひとり、さっさと大部屋の隅のテーブル上の木箱から造花用の布を取り出していたキャムは、ふりかえった。
「でも、わたし、新入りですから」
と、にこりとする。
「そうかい、まあそう気張らないで、ほどほどにね」
女たちはがやがやとテーブルのまわりに集まってきた。
「それにしても、今度の仕事はふつうじゃないからねえ。ちょっとやりづらいよ」
「あ、それそれ。なんか、すっごく変わったお葬式なんでしょ?」
「あたしも聞いたわよう、だあれも死んでないお葬式だって!」
「葬式なんて、人が死んだから出すんじゃないの?」
「それがちがうんだって。生きてるけどお葬式するんだって」
「ええ! 生きたまま埋めちゃうの?」
年長の女がふんと鼻を鳴らす。
「ばかだねえ、そんなことやる奴がいるもんかい。墓穴におろすところまでだってさ」
「へえええ!」
感心しているのかばかにしているのか、ヴェールをあげた葬式女たちの陽気な声はわかりづらい。
彼女たちのおしゃべりを聞き流しながら、んんっ、とキャムはせきばらいした。
あれから髪は黒く染めた。その甲斐があってか、やってきたこの街で葬式女の職にありついた。それはいいのだが、連日の挽歌の練習で日常生活ではいっさい出さない高音を強いられて、喉ががらがらする。本番で声を出せなかったら、あのうるさ型のおかみはきっとなにかしら言ってくるだろう。
あとでひまを見つけて蜂蜜を手に入れないと、とキャムは思った。
ところが、ほかの葬式女たちの喉はまったく平気らしい。おしゃべりはどこまでもつづいていく。
「でも、なんだってそんなことをするのよ?」
「そりゃあマーシェ家が剣士団の家だからだろ」
「え、え、どういうこと?」
「わかった! 剣士団の試合で誰か殺しちゃったんだ!」
「ばかだねえ、だから生きた人間の葬式だって言ってるだろ。だいたい、そんなことしたらのんきに葬式なんか出してられないよ」
「じゃあどうしてよ?」
「なんでも、マーシェ家の息子が初めて予選に出るから、死んだ気になって戦うって決意表明だとさ」
「ねえーえ……それってエルヴィーンさまのことよね?」
「初めて予選に出る息子っていったら、そうなんじゃないかい?」
「きゃーあっ!!」
年長の女の返事に、キャム以外の女たちがおかみにも負けない高い声をはりあげる。
「やだっ、うそ、どうしよーう!」
「棺にエルヴィーンさまが入っちゃうんでしょ、いつもみたいに、浄めの布でお顔をぬぐっちゃってもいいのよね?」
「あたし、とりすがって歌っちゃおうかなー」
「その日はとっておきの香水つけちゃお」
年長の女がかぶりをふる。
「ばかだねえ、ほんっとにばかだねえ。エルヴィーンに色目なんかおくってごらん、おかみさんに足を踏んづけられてほんとうに泣くのがオチだよ」
そんなおしゃべりの輪からひとりはずれて、キャムはせっせとひだを作って花のかたちにまるめていく。
地方予選は五年に一度の盛大な祭りだ。男たちは出場する剣士の勝敗を賭けて騒ぎ、女たちは見た目のいい剣士を見つけ出して騒ぐ。
どうやらマーシェ剣士団の代表は、そういった見た目のいい剣士のひとりらしい。
しかも、予選前にこんな話題を提供するということは、中身も結構な派手好きだという気がした。そうした性格自体は剣士としての資質に関わってくるようなことではないが、好みで言えばキャムは嫌いだった。
「ほんとうはそこまで強くないのかな」
寄せたひだを縫いとめながら、ぼそっとキャムはつぶやいた。
間の悪いことに、まさにその瞬間、女たちのおしゃべりがやんだ。女たちはキャムのつぶやきを聞き逃さなかった。
「ちょっと、なに言うの!」
「あんた、よっぽどの田舎者ね? マーシェ剣士団って、ここのところずっと公開戦で勝ってる実力派なのよ!」
「わ、あの、ごめんなさい!」
キャムはあわててあやまった。目立たずに生きていくためには、周囲の反感は絶対に避けなければならない。
「そう、わたし、田舎者で。剣士団とか、全然くわしくなくって」
「うっそ、信じらんない。女なら誰だって、好きな剣士がいるもんでしょ?」
キャムは困ったように眉をひそめ、うつむいて造花をいじる。
「あまり、知らなくて」
師匠カリハ・シャールカの名を出すべき場面でも、出さねばならない場面でもない。
だいたいキャムは、同僚たちに自分を知ってもらうつもりもなかった。生きていくためには金を稼がねばならず、そのためには仕事をせねばならず、その場には他の同僚もいるというだけのことだ。
それでも、適当に話しているうちに親しくなりかけてしまったときは――長くいすぎたということだ。さっさと別の町へ移って、別の仕事と別の同僚をさがす。さもなければ、知られたくないことまで知られてしまうかもしれない。
絶対にカリハ・シャールカとのつながりを他人に気づかれてはならない。
二度と剣にはかかわらない。
それが、キャムが自分に課した生き方だった。
「うんうん、そうなの、わかったわ」
ひとりの女がうなずいて、ぽんと肩をたたいてくる。
「もういいから、あんたはだまってエルヴィーンさまを応援しなさい。まちがいないから!」
「あーら、あんた、ついこないだまで、大鷹剣士団のロスラフがいいって言ってたじゃない」
「だってこの前の公開戦、エルヴィーンさまにあんなにかんたんに負けちゃうんだもの。百年の恋も冷めちゃうわよ」
「そうねえ、大鷹剣士団はもう終わったって感じよねえ」
年長の女までわけしり顔に加わった。
「たしかに、今年はマーシェ剣士団に勢いがあるね。大鷹剣士団はもう予選も棄権しちまうみたいだし、ひょっとすると、ひょっとするかもしれないよ」
皆が話に夢中になっているあいだにも、キャムはちくちくと造花を縫う。
剣士も予選も関係ない。どうでもいい。ただ今度の葬式できちんと役目を果たすことだけを考えればいい。
おしゃべりを邪魔しないかすかな鼻歌で挽歌の旋律を復習しながら、キャムはひたすら造花を縫った。
廊下のむこうから、せかせかとした足音が近づいてきた。
おしゃべりがぴたりとやんだ。それこそ剣士さながらのすばやい手が、キャムの前からできあがった造花を奪って自分の前に置いた。キャムの前には、縫いあげた造花がひとつもなくなった。
おかみが部屋に入ってきたとき、五人の女たちはそろってうつむいて裁縫にいそしみ、キャムひとりが顔をあげて彼女たちの手もとを眺めていた。
おかみはひややかに、できあがった造花を数えた。
「もうすこし手を急がせておくれ。夕飯までに二〇〇個は行けるだろう?」
はい、と先ほどのおしゃべりとはまったく別人のように殊勝な声がきれいにそろう。
「わかりました」
キャムも答えた。
するとおかみはじろりとキャムを見た。
「あんたに急ぎの造花作りをさせるのは時間のむだのようだね。新入りにもできる、別の仕事をやってもらうことにするよ。おいで」
反論して場を荒立てるまでのことでもない。キャムはうなずき、布と糸を置いて立ちあがった。
「なにをすればいいですか?」
「使いだよ。田舎娘だって、もう道くらいはわかるだろう? マーシェ剣士団まで行って、エルヴィーンさまにこの書き付けをわたして、返事をもらってくるんだ。今度のお葬式の打ち合わせなんだからね、しくじるんじゃないよ」
「はい、わかりました」
キャムは手早く仕度をととのえ、町へ出た。
「……お葬式か」
つぶやく。
「師匠のは、出してあげられなかったな……」
†
「――師匠!」
前をゆくカリハ・シャールカがやっとふりむいた。
自分が立ち止まっていたことなどとっくに知っていただろうに、声をかけるいままで悠然と道をすすんでいたことが、キャムにはよけい腹立たしかった。
しかもその先に、故郷の村があるとあっては。
「どうして! わたし、うちになんか帰りたくない! 何度も何度もそう言ったじゃない!」
キャムは叫んだ。
麦月の日ざしはきらきらとじゃれつくように、昼下がりの道にふりそそいでいる。
もちろんカリハ・シャールカにもその光はあたって、その髪はまぶしいほどに輝いている。だというのに、その顔は困ったように曇っている。
「しかしな。この前、熱を出しただろう。やはりおまえにはまだ旅の暮らしはきついんだ。修道院に戻れないなら、自分の家に戻るしかないじゃないか」
「いや! あんなところ、戻りたくない!」
キャムはぶんぶんとかぶりをふる。ふりすぎて頭がくらくらしてきても、それでもまだふりつづける。
「キャム」
声が近づき、両の頬にカリハ・シャールカの手がそえられて、キャムは動きを止められた。
キャムはぐっと唇を噛みしめる。
「――だって、父さんも母さんもこのままではおまえは村では暮らせないって――だからお金をつけて修道院に行かせなきゃならんって――」
「それは、わたしが話をしてみよう。おまえはまだ子どもなんだ。誰か守ってくれる大人が必要なんだ」
「それならわたし、師匠がいい! どうして師匠じゃいけないの!」
カリハ・シャールカは眉をかるくひそめたまま微笑んだ。
「すまないな。わたしは、自分をすこしでも強くするだけで精いっぱいなんだよ、キャム」
カリハ・シャールカは歩き出した。
キャムはうつむき、自分のつま先だけを見つめてとぼとぼと歩き出した。
そうしているうちに、村に入ったらしい。
横手から、聞きおぼえのある羊番の声がする。
「ほう! キャムじゃないかい!」
よくもまあのこのこと――そんな驚きを声に聞き取って、キャムはますます顔を下にむける。
カリハ・シャールカは、キャムに家の場所を尋ねようとはしなかった。出会った村人に尋ね、そして探しあてた。
「――キャム!」
父親の、そして母親の驚きは、うつむいて地面しか見ないようにしていてもわかった。キャムは歯を食いしばった。
カリハ・シャールカが事情を説明している。ていねいに、冷静に、言葉を尽くして。
だが、キャムの父親は荒い声で答える。
「冗談じゃない! うちはもう費用もおさめてきれいに話をつけたんだ! まったくこのばか娘が、またよけいなことをしでかすつもりか!」
びくり、とキャムは体をちぢめてなおうつむく。
「おちついてください。いったい、キャムがなにをしたと言うんです?」
「あんた、剣士なんだろう。だったらちょうどいい、このばか娘をひきとってくれ! こいつはな、よりにもよって村長さんのところの息子をのしちまったんだよ!」
きっかけは、キャムの猫だった。
ある日、親からはぐれた森猫の子どもが、キャムの家の生け垣のところでみゃあみゃあと細い声で鳴いていた。長い毛は汚れてぺたりと体にはりつき、声はいまにもとぎれそうだった。キャムはすぐに抱きあげて家畜小屋のわらの中に押しこみ、山羊の乳を飲ませた。両親は喜びもしなかったが捨てろとも言わなかった。やがて子猫は元気になり、キャムの後をいつもついて歩くようになった。
キャムが念入りにブラシをかけた毛はふさふさで、子猫はとてもきれいだった。
だから村長の息子がすぐに目をつけてきた。
よこせ、と村長の息子は言ってきた。うちは村で一番えらいんだぞ。だからそいつはうちにいるべきなんだぞ。おまえなんかが持ってちゃいけないんだ。
キャムはすぐさま子猫を抱きあげ、後じさった。
村長の息子は枝を拾った。キャムの手をねらって容赦なくたたいてきた。子猫は怖がってみゃあみゃあと鳴き、キャムは子猫をかばって体を丸めた。枝がぴしぴしと、頭に、肩に、背中に、腕にあたって、そこら中がずきずきと痛んだ。
それでも子猫をはなさないキャムに、村長の息子はしびれをきらしてつかみかかってきた。はなせよ、はなせったら。父さんに言いつけるぞ。
子猫は尻尾もふさふさで、だからキャムの腕からはみだしていた。
村長の息子はその尻尾をつかんだ。
ぎゃっ。
子猫はひどい声をあげた。
尻尾がちぎられると思った。キャムは手をはなした。
村長の息子は、あばれる子猫を尻尾でつかんでぶらさげて、にんまりと笑った。人の物をとりあげたときのいつもの顔で、子猫の必死な叫び声などまったく気にしていなかった。
それがキャムにはゆるせなかった。キャムは村長の息子にとびかかった。
おどろいた村長の息子の手がゆるんだ。子猫が落ちた。解放された子猫は、一目散に逃げ出した。空飛ぶ鳥のように早かった。
キャムは、子猫が自分を捨てて森へ帰ってしまったことを悟った。
悲しかった。くやしかった。子猫にあんな怖くて痛い思いをさせてしまったこと、人を嫌いにさせてしまったことが申し訳なかった。
だが、キャムが泣き出すよりも先に、村長の息子が枝でうちかかってきた。なんてことするんだ、すぐにつかまえてこいったら、つかまえてこなきゃゆるさないぞ。
ゆるさないのはキャムのほうだった。
かっと頭に血をのぼらせながら、同時にキャムはひどく冷めていた。自分も枝を拾い、頭めがけて振りおろされた一撃をぴしりとはらいのけた。
村長の息子の目が丸くなった。
あとで親からこっぴどく叱られてぶたれることはわかっていたから、村の子どもは誰も彼に手を出さなかった。だから村長の息子は自分のことを強いのだと思っていたのかもしれない。だが、キャムから見ればすきだらけだった。キャムは返すひとふりで村長の息子の胴を横殴りにはらった。
村長の息子は低くうめいた。それでもまだ打ちかかろうとしてきた。
キャムはじっと村長の息子を見据えた。子猫のかたきをとってやる、そんな気持ちだった。子猫の痛みのいくらかでも、このうぬぼれきった少年に思い知らせてやりたかった。
キャムは容赦しなかった。伸びきった村長の息子の腕をかるくかわし、無防備な額におもいきり枝をたたきつけた。
どすんと尻もちをついて、村長の息子はわんわんと泣き出した。額が見る間にぷくりとふくれあがっていった。
その晩、髪が見えなくなるくらい包帯をぐるぐる巻きにした息子を連れて、村長が家にやってきた。村長の怒声をすこしでもやりすごそうとしてか、両親は頭が床につきそうなくらい、へこへことあやまっていた。キャムがなにがあったかを説明しようとすると、そのたびにぶたれて、両親とおなじくらい頭を下げさせられた。
村長が帰ったあとも両親は話し合っていて、翌朝、キャムは修道院に行くように告げられた。――
「戻られたってうちには置けないぞ! こんな乱暴な娘を村に置いといちゃ困る、と村長さんにはっきり言われたんだ!」
父親が声を張りあげる。聞き耳をたてているにちがいない近所に主張するためかもしれない。
「うちには結婚した息子がもういるんだ! こんなやつ、ただの厄介者だ!」
キャムはおおきくふるえた。
ふと、肩に手が乗った。
キャムは顔をあげた。
「――行こう」
カリハ・シャールカがゆっくりキャムを押しやった。キャムは押されるままに歩き出した。
しばらくどちらも無言だった。
キャムはひたすら道だけを見ていた。なにも考えないようにしないと、わんわんと声をあげて泣いてしまいそうな気がした。道ばたの草に落ちる麦月の日ざしがやたらとまぶしかった。
ぽつりと、カリハ・シャールカの声が降ってきた。
「……すまなかったな。おまえの気持ちを無視して、またつらい思いをさせてしまった」
キャムは無言でぶんぶんと頭をふる。
だしぬけに、カリハ・シャールカはまったく別の話を口にした。
「わたしの父は、ちいさな剣士団を持っていたんだ」
彼女が自分の過去について話すのは、これがはじめてだった。キャムは顔をあげた。
カリハ・シャールカはまっすぐ前をむいていた。
「弟子はたったひとりだけ。剣技場だなんてたいそうなものはなくて、庭先で剣をふるうだけの、剣士団と名乗るのもはずかしいような剣士団さ。ふたりきりの父と弟子は、他の剣士団と比べるとみすぼらしすぎて、かわいそうで、だけど本人たちは楽しそうで。わたしはそれで剣の修行をはじめたんだ」
その声は淡々と、過去の話をつむいでいく。
「母は女のすることじゃないと心配して何度も止めたけれど、さいわい、わたしは父に似て、そこらの男並の背はあった。体も丈夫だった。なにより、わたしも剣の修行が楽しかったんだ。わたしには、兄弟子が世界で一番強い人に見えた。きっとこの人が聖剣士になる、そう信じていたよ」
「……その人、なったの?」
キャムは聞いた。
さあ、とカリハ・シャールカは声だけで答えた。
「そのころのわたしは、自分と自分のまわりしか見ないでそれが世界のすべてだと思っている、図体ばかりおおきな子どもだったんだ。だから――兄弟子が突然、ほかの剣士団に移ってしまったときには、ほんとうに驚いた。魂というものはたしかにあると思ったよ。あのときは、自分がすっかりからっぽになってしまった気がしたからね」
彼女の口もとを淡い微笑がかすめた。
「父もたぶん、からっぽになってしまったんだろう。父は兄弟子にすべてを賭けていたんだ。たとえ聖剣士にまではなれなくても、兄弟子が予選でいいところまでいけば入団を希望する人間が来る。剣士団を大きくできる。そんなことを夢見ていたんだ。それがすべて泡と消えてしまった」
淡い微笑は、そういう顔をするしかないとでもいうような、はかない微笑だった。
「わたしは一生懸命父をなぐさめたけれど、父は空の酒瓶を投げつけるだけだった。おまえがもっと女らしくしなかったからだ、かわいい女でいなかったからだ、おまえがあいつをつなぎとめておけなかったせいだ、おまえなんか女じゃない、男でもない、中途半端な役立たずだ、とそんなふうに言われてね。出ていけ、と追い出されたよ」
わたしとおなじだ――キャムはぎゅっと師匠の手を握る。握りかえしてくれたその手のあたたかさに、かえって胸が痛くなる。
「……師匠はきれいだよ。髪が短くたって、口紅なんか塗らなくたって、すっごく、ほんとにきれいだよ」
気持ちの半分も伝えられない言葉をもどかしく思いながら、それでもキャムは懸命に言った。
ありがとう、とカリハ・シャールカは答えた。
「キャム、三つの願いをかなえてくれる精霊を知っているか?」
「うん。むかし話のでしょ。正直な人は願いがかなって幸せになれて、欲張りな人は願いがかなっても不幸せになっちゃうの」
「わたしは、その精霊に会ったことはない。けれども、どこかで精霊が聞いていてくれるかもしれないと思って願ったことがある。欲張りにならないようにひとつだけ、幸せになりたい、とね」
わたしもなりたい、とキャムはちいさくつぶやく。
「だけど、ただ願うだけじゃかなわないんだと、兄弟子がいなくなったときにやっとわかったんだ。だからひとつめの願いがかなえられるように、ふたつめはこう願った。強くなりたい」
「……強く?」
「そう。たしかにわたしは、兄弟子をつなぎとめておけなかった。こちらがいくら好きだと思っていても、むこうがそう思えなくなったのならしかたがない。だからわたしは、自分だけでなんとかなることをがんばろうと思ったんだ」
カリハ・シャールカは透きとおるような笑顔をキャムにむけた。
「自分で自分を幸せにできるくらい強くなれれば、それで願いはかなったことになるだろう? わたしの旅は、そういう旅だ」
キャムはカリハ・シャールカの言葉をゆっくり噛みしめ、口の中でくりかえす。
自分で自分を幸せにする。
誰かに気持ちをわかってもらえなくても、出ていけと追い出されても、そんなことには負けないくらい強くなって、幸せになる。
「いっしょに行くか?」
カリハ・シャールカは聞いた。キャムが迷う必要もない質問だった。
「うん!」
即答して、キャムはさらにしっかりとカリハ・シャールカの手を握る。
ここにたしかに自分の幸せのかけらがあると感じながら。
†
マーシェ剣士団本部は、壁面につる薔薇を這わせた瀟洒な屋敷だった。鉄の門の前には、新入りの剣士らしいふたりの若者が立っている。そろいの剣闘着をまとい、これ見よがしに長剣を握ってものものしい。
「マーシェ剣士団に用か?」
門の前で足を止めたキャムに、気取った態度で尋ねてくる。
あーあ、とキャムは気持ちだけ肩をすくめる。
葬式女の目まで意識している剣士など、ろくなものではない。
新入りがそうやって勘違いしているということは、彼らより上の立場の剣士はさらに派手に勘違いしているということでもある。そもそも貴族や王族の屋敷よろしく、こんな門番などを置いていること自体、剣士団としては異例の見栄張りだった。
「ネルダの店の者です。エルヴィーンさまへの手紙をあずかってまいりました」
せいぜいかしこまり、彼らの長剣に尊敬とあこがれの視線をおくってやると、門番は胸をそらせて背後を示した。
「入れ」
小間使いが、キャムの用件を聞いて、団長室まで案内した。
しばらく待つようにとのことだったが、椅子はない。
キャムは部屋の中央で立って、また気持ちだけ肩をすくめた。
団長室の空気には人がいたぬくみがほのかに残り、扉でつながった隣室には気配がある。つい先ほどまでいた誰かが、隣の部屋にうつったらしい。
ここは団長室である。掃除の最中だったという様子でもない。つまり、つい先ほどまでここにいた者となれば、マーシェ剣士団長エルヴィーンその人くらいしか考えられない。おそらくはもったいをつけるため、キャムをしばらく待たせる腹づもりなのだろう。
隣室からうかがっていると想定して、キャムは物珍しげに壁にかかった紋章付きの楯を眺め、交差させて壁にかけてある装飾用の長剣にうっとりと見惚れ、そわそわと待ちわびるようなそぶりをしてやった。
そんな演技をしばらく強いられたあと、やっと隣室への扉があいて、長身の男が流れるように入ってきた。
「ネルダの使いだそうだな」
二〇代半ば、いくらかあごが出てはいるものの、なかなか風采のいい男だった。門番とおなじ剣闘着をこちらは光沢のある繻子織りの布地で作り、髪にはていねいに櫛を入れ、髭を剃り、眉もきれいにととのえてと、本人の努力も大きい。これで剣士団の団長ともなれば、女たちがさわぐのもむりはない。
「はい。エルヴィーンさまでございますか? こちらにお返事をお願いいたします」
エルヴィーンの眉間がわずかに曇る。
いけない、とキャムはすぐにあやまちに気づいた。いまのやりとりは、あまりに事務的すぎた。キャムは頬を赤く染め――る演技まではできなかったので、せめて恐れ入って見えることを期待して、おどおどと伏し目がちにエルヴィーンの様子をうかがう。
エルヴィーンはやっと机の前の椅子に座ると、ゆっくりと目をとおした。読みすすむにつれて今度ははっきり眉間が曇り、そして視線があがった。
「……ネルダは、どうしても変えられないと言っていたか?」
「はい?」
キャムはまばたいた。なにも聞いていない。
「えっと――あの、わたしはただ、エルヴィーンさまからお返事をいただいてくるようにと言いつかっているだけで、内容についてまでは」
「馬車の上に棺を立てろという希望が、そんなに難しいとも思えんのだがな」
「はあっ?」
通常、棺は人の手で運ばれるが、金持ちは専用の黒仕立ての馬車を使う。その上に豪華な棺を横たえて、キャムら葬式女が挽歌を歌いながらそのうしろを歩き、葬列の者がつづくのだが――この洒落者剣士はその棺を立てろと言う。
キャムはおもわず顔をしかめた。
馬車の上に縄で固定されて直立する棺の図は、考えただけでも滑稽で、重々しさのかけらもなく、悪趣味としか言いようがなかった。
「ええと……棺が馬車に立っていたら、運ぶ間じゅうぐらぐら揺れると思いますけど……ましてエルヴィーンさまは、その中に入られるのでしょう? 大変ですよ?」
「だが、寝ていては道の者から私の姿が見えないぞ」
問題はそこか、とキャムは気づかれないようため息をつく。この団長は、とにかく人の目に立ちたくてしょうがないらしい。そうしたほとんど本能めいた願望が、一般常識や感性といったすべてを凌駕してしまうのだろう。
物事の本質がわからない者に、対峙する敵の本質など見抜けるとも思えない。マーシェ剣士団のこの団長がこの町でどれほど人気があるのかキャムは知らないが、この先の予選を勝ち抜くには、なにかいろいろと不足しているという気がした。
「皆は、私の姿を見に集まるのだ。そこに私の姿がなければ、きっとがっかりするだろう」
そして、よけいなものはたっぷりとついている。
「はあ……」
「しかし、ネルダもおまえとおなじことを言っている……ふむ、これは困った」
そこへ小間使いがやってきて、来客を告げた。
「王立錬成院から、弔問の方です」
「――」
その名は不愉快な記憶をよびさます。
キャムは即刻ここを立ち去りたくなったが、まだ返事をもらっていない。エルヴィーンに催促する。
「エルヴィーンさま、それではお手数ですが、一筆書いてはいただけませんか?」
「しかし、私はまだ決心していないのだ。――そうだ」
エルヴィーンは小間使いに顔をむけた。
「客人を通せ。王立錬成院の人間なら、相談役として不足はない」
「かしこまりました」
小間使いはうやうやしく答えて姿を消した。
「エルヴィーンさま。あの、おえらい方のお話のじゃまをしてしまっては申し訳ないですし。わたしは、お返事をいただいたらすぐに帰りますから」
「その返事を書くのに王立錬成院の意見を聞こうというのだ。彼も葬儀には出るのだ、すこし待て。それとも私の命令が聞けないとでも言うのか?」
「いえ、とんでもございません。ですが」
「だったら待て。――ああ、ようこそ、マーシェ剣士団へ!」
エルヴィーンの言葉の後半は、部屋へ入ってきたマント姿の男にむけた者だった。
キャムはつつましくふりかえり、目を伏せたまま一礼し――視界の隅をかすめた来客の姿に、なんとなく不吉な印象を持つ。
エルヴィーンの声が響いた。
「ほう、これは! 天明瞳とはお珍しい!」
げ、とキャムはますますあごをひいた。
天明瞳を持った王立錬成院の人間など、そうごろごろしているとも思えない。
つまり、これは――
「……はじめまして、王立錬成院第十一課、ルヴェル・サイフェルトと申します」
決定だった。キャムは目をつぶり、できるかぎり体をちぢめて、あの天明瞳がこちらに気づかないよう祈った。
さいわい、いまは黒い胴着に黒いスカート、顔の部分をあげた黒いヴェールに、黒珠をつないだ長い首飾り、おまけに黒く染めた髪と、黒ずくめの葬式女の姿でいる。葬式のある家にいてもおかしくない職業の者であれば、それが誰かということまでは気にしない公算が大きい。
キャムはふかぶかとうつむいてヴェールの陰に隠れながら、ルヴェルの気配をうかがった。
「国王陛下に代わって、こたびのご葬儀の弔問にまいりました。で、あの……」
ルヴェルはあからさまにとまどっている。
「……あの、団長のエルヴィーンどののご葬儀と聞いてきたのですが、でも、その……」
「ははは! そう、私はかくのごとく生きておりますからな! ご心配なく、幽霊ではありません」
「あ、ははは、いやそうでしょうが。……えー、では、いったいどういうことでしょうか」
「今年は、私にとって初の予選出場です。マーシェ剣士団団長として、この予選にかける決意をこの町の皆に見せておきたいのですよ。生きているうちにわが葬儀をとりおこない、すでに死んだ者として後顧の憂いなく戦いにのぞむつもりです」
「はあ」
「しかし、いま、葬儀屋ともめておりましてね。私は皆にそうした私の姿を見せたいのですが、葬儀屋は、馬車の上に棺を立てることなどできないというのですよ」
「ま、まあ、たしかにあまり安定はよくなさそうですが……」
「しかし、横たえてしまっては、私の姿が見られないでしょう?」
すこしでもルヴェルがこちらに気づく気配を見せたら逃げだそうと集中していたキャムだが、エルヴィーンの声の変化を聞き逃すほど周囲をおろそかにしていたわけではなかった。
いつのまにやら、彼の声には不快感が、さらにはわずかな敵意までのぞいている。
ちらり、とキャムはふたりの男を見比べる。
彼らはどちらも男で、年ごろも近い。だが、それ以外はむしろ彼らの違いばかりが目につく。
そのことにルヴェルはまったく気づいていない、というより最初から気にもとめていないらしい。が、エルヴィーンのほうはぴくぴくと眉がひきつるほどいらついている。
そりゃそうよね、とキャムはひとり胸の中でつぶやく。
エルヴィーンのように自意識過剰な男には、ルヴェルのような相手は目ざわり以外の何者でもないだろう。
神秘的な天明瞳と生来の端整な容姿を兼ね備えたルヴェルと並ぶと、エルヴィーンはかわいそうになってしまうほど田舎くさい。剣士としてきたえあげた体躯すら、力強さよりもいかつさのほうが際だってしまう。細部にまで気を配った身仕舞いも、ルヴェルのまったく飾らない自然な優雅さの前では、かえってごてごてとやりすぎた野暮に見えてくるから不思議だった。
「そうですねえ、一般的な葬儀では、亡くなった方のお顔を拝見できるのは、棺におさめるときだけですからね」
ルヴェルはすなおに、というよりのんきに会話相手の言葉にしか反応していない。
「とはいえこれは、棺におさめるべき方がまだ生きているという特別な葬儀ですし。エルヴィーンどのが参列者に顔を見せたいということでしたら、むりに棺に入らなくてもよろしいのでは?」
するとエルヴィーンは思いがけず、本気でぞっとした表情になった。
「冗談じゃない! からの棺に近づいたら、引きこまれるじゃないですか!」
「は?」
「ご存じない? このあたりでは一般的な話ですよ。棺は決してからにしてはいけないのです。――おい、ネルダもそう言っていただろう?」
エルヴィーンがいきなりこちらに話を振ってきて、あやうくキャムは身じろぎそうになった。自分をおちつかせて記憶をさぐる。たしかに、おかみからねちねちと教えられた葬式の禁忌のひとつに、葬式がはじまったら棺を決してからにしないことという話もあった気がする。
「……そ、そうですね」
ぼそぼそと口先だけの声で、キャムは同意した。
「これこのとおり、葬儀屋からも注意されているのです。葬式の最中に棺をからにすると、からにされた棺に引きこまれてよけいな死人が出るから気をつけるように、と。入ったり出たり、そう自由にできるわけが――」
エルヴィーンの声が不意にとぎれた。
キャムはそのわずかな沈黙にエルヴィーンの歓喜を感じ取った。こっそりヴェールの陰で視線をあげて様子をうかがう。
そうする必要もなかった。歓喜の正体は、すぐにエルヴィーンその人が明らかにした。
「そうだ。あなたが代理を務めてはくれませんか」
彼は不気味なほど愛想よく、ルヴェルにむかって微笑んだ。
「はあっ!?」
ルヴェルは反射的に身を引いたが、すでに遅い。その手はエルヴィーンの両手につかまえられてしまっている。
「頼みます、サイフェルトどの。残念ながら、わが剣士団の者は皆、葬式のあいだは手がふさがっておりまして。といってまったく無関係な者を仮にもわが棺に入れるのは、私の誇りにかかわります。その点、王立錬成院所属という立派な身分にあるサイフェルトどのでしたら、私も心おきなく自分の棺をまかせることができるというものです」
どうだか、とキャムは気持ちだけ肩をすくめる。
エルヴィーンの言い分は、三分の一程度はほんとうかもしれない。しかし、真の目的は参列者の目からルヴェルを隠すことだろう。自分が主役になるために用意したはずの場で、人々、特に女たちの目を奪われるような事態となっては、エルヴィーンも決意表明どころではない。
当たり前だが、ルヴェルは必死に反論を試みる。
「いや、ですけど、自分の棺なんてものは人に任せるようなものでは」
「ええそうですとも。大切な魂が眠る寝台を滅多な者に任せられるはずもありません。あなただからこそ! お願いしたいのです」
「いやでも、あの、その」
「王立錬成院の方に代理を務めていただけるとは、私の生涯の誇りというもの! どうぞわが門出を祝ってください、サイフェルトどの! わが勝利のため、わが誇りのため、そしてあなたの名誉のため!」
エルヴィーンのせりふはどんどん訳がわからなくなっていく。
それにひきずられて、ルヴェルの天明瞳がしろくろしている。
その間にもエルヴィーンの手には拳骨が浮き上がり、腕には筋肉がもりあがり、とらえたルヴェルの手をぎりぎりと握りしめる。
勝負あった。キャムはそっとため息をついた。
「わ、わかりました!」
ルヴェルが答え、エルヴィーンは手はそのままにぶんぶんと振った。
「ありがとう、ありがとう!」
思いのままにルヴェルをふりまわすと、エルヴィーンはさっさと手を離し、さらさらと返事を書いてキャムに渡した。
「棺の位置については、ネルダにまかせよう! 中身が変わることだけ忘れないよう、伝えるのだ!」
痛そうに顔をしかめて手を握ったりひらいたりしているルヴェルがこちらをむかないうちに、キャムはそそくさとその場を立ち去った。
「……どうしよ」
会いたくない相手にまた会ってしまった。
すぐにでもこの町を発ちたいところだが、前の洗濯店をあんなかたちでやめることになってしまったせいで、手持ちの金はまだこころもとない。
「まあだいじょうぶ……よね」
葬式のあいだ、キャムはヴェールをおろして顔を隠す。ルヴェルにいたっては、棺の中に入っている。気づかれる可能性は低いだろう。
だが、ほかにもすこし気になることはあった。
――わが剣士団の者は皆、葬式のあいだは手がふさがっておりまして。
エルヴィーンはそう言っていた。
前代未聞の生前葬。
主催者側の剣士団の人間が忙しいのは確かだろうが、しかしだからといって、ただのひとりも出せないということがあるだろうか。マーシェ剣士団はちいさな剣士団ではない。むしろ門番を置くほど剣士はいる。
キャムはその理由を考えかけたが、すぐに肩をすくめて途中でやめた。
「関係ないわ」
店は依頼主の意向にそった葬式をあげればいいのだし、雇われている葬式女はおかみに言われたことを忠実に実行すればそれでいい。
となれば、使いの役目をさっさと果たさなくては。キャムはさっさと剣士団本部を後にした。
突然、小柄な人影が通りの影から立ちはだかるように飛び出した。
反射的に身がまえはしたものの、相手に敵意は感じない。キャムは緊張をとく。
「ねえ!」
ふんわりと頭からかぶったショールを胸の前でしっかりつかんで、顔はよく見えない。だが、その声は、まだ一人前にはほど遠い少女のものだった。
「あんた、ネルダの店の人だろ? 手伝いはいらない?」
声はそう聞いてきた。
「手伝い?」
「そう!」
「さあ。わたしが雇ってもらったばかりだし、おかみさんはもっと人を雇うつもりはないみたいだけど」
「ただでいいんだ」
おかしなことを言う。キャムはじっと、顔を隠した少女を見つめる。
少女はすこしあわてた声で言い添える。
「ほ、ほら、だって今度のお葬式って、生きてる人のじゃん。珍しいから、近くで見たいなって」
キャムは大またに歩き出す。
少女が子犬のようにまとわりついてくる。
「あんたの仕事を代わりにやってあげるからさあ。だから、棺のところまで行けないかな」
派手好きな剣士、エルヴィーン。
だが、そうした性格は、ときとして人気以外の反応ももたらしているらしい。
「なにを考えているか知らないけど、やめといたほうがいいわよ」
キャムは言った。
「な、なにをさ?」
キャムは答えず、ちらりと横目に少女を見る。
かろやかな足取り、それでいておちついた腰さばき。
カリハ・シャールカをずっと見てきたキャムにはわかる。体も育ちきっていないような少女だが、彼女には剣の心得がある。ほんのすこし体の左側が持ちあがった感じになっているのも、日ごろはそちらに鋼のかたまりである剣を下げているからだろう。
剣をつかう少女が、そのことを隠して密かにエルヴィーンに近づこうとしている――これがただあこがれの剣士に会いたいだけというのなら、かわいいものなのだが。
「あなたもエルヴィーンが好きなの?」
キャムは試しに聞いてみた。
すぐさま露骨すぎる返事がもどってきた。
「誰があんなやつ!」
さすがにキャムは顔をしかめる。
「……あのねえ。なにかたくらんでいるんなら、もっと慎重にね。そんなことじゃ絶対にむりだから」
「なんでさ! あんたがちょっと手引きしてくれたら、それですむことじゃん!」
「はあ。どうしてわたしが、見ず知らずのあなたに、あとのことも考えずに協力しなきゃいけないのか、そのわけを教えてくれる?」
「冷たい! 人には親切にしろって、あんた教わってないの?」
「教わったわよ。人を見て親切にしろって」
「じゃあだいじょうぶだよ、あたしに親切にしてよ。あたしってばいたいけなんだよ」
「いたいけって、自分で言った途端にだいなしだけどね……」
キャムはちらりと少女を見やる。
「だいたい、今度の葬式にまぎれてなにかしようと思ってるなら、たぶん失敗するわ」
「なんで!」
「むこうも、なにか察しているみたいだったから」
「なにを?」
「さあ。わたしには関係ないことだから」
キャムは足を速める。
「ねえ、待って!」
少女が小走りに追いすがってくる。
「あんた、占い女? それともまじない女?」
「どっちもやったことないわ。見てのとおり、ただの葬式女」
「うそだ、ただの葬式女だったらこんな忠告なんてしないよ。ね、葬式に入れてくれないんなら、あいつを呪い殺してよ。毒でもいいよ」
「なに物騒なこと言ってるのよ……」
「信じてよ、事情があるんだよ。あとでちゃんとお礼はするから。いまはお金なんてないけど、ほんとだよ、絶対お礼するから」
「わがまま言わないの!」
キャムは立ち止まり、少女にむきなおる。
「いい、わたしはただの葬式女で、あなたとはなんの関係もないし、あなたの事情とやらにも興味はないの! ただ、年端もいかない子が無茶をするのはどうかと思ったから、ちょっと教えてあげただけ」
キャムの語勢に、少女はつかんだショールの端をぐっと握りしめる。
「じゃあどうすればいいのさ! もううちにはあたししかいないのに。――」
その姿はちいさくて。
剣をつかうといっても、この体ではまだまだ長剣はあつかえない。それでもあこがれて、どうにかして振りまわせないものか、こっそりさわってはため息をつくのだ。いつか自分もこの長剣を自在にあやつれるようになりたいと、あこがれのあの人のように強くなりたいと。――
「……子どもだからって、甘えないの」
キャムは言い捨て、さっと歩きだした。
胸が痛む。
「――」
キャムはふりかえる。
追う気力すらなくしたように、少女が立ちつくしている。
キャムは歯を食いしばり、ことばを投げる。
「くやしかったら、まずはひとりで何もかもできるくらい強くなるのね!」
顔をそむけ、小走りにその場を立ち去る。
少女から逃げる。
「……わたしだって、そんなに強くなんかないんだから。師匠の願いをかなえるだけで精いっぱいなんだから。関係ないことに首なんかつっこんでる余裕なんてないんだから」
口の中でくりかえす。
「言うべきことは言ったし。わたしはまちがってない。だからきっと、あの子だって納得してあきらめる。そう、そうに決まってる。これでもう終わり、このことはもうわたしとは関係ない! 関係ないったら関係ない!」
そんな呪文を、何度でも。
葬式当日の朝が来た。
いまにも雨がふりだしそうな、重苦しい曇り空だった。
これがほんとうの葬式であれば、こうした天気もかえって死者を悼む雰囲気に一役買ったかもしれない。しかし予選前の人気取りと話題作りをねらっているであろう今度の葬式には、いまひとついい条件ではなかった。
「遅かったな、ネルダ」
マーシェ剣士団本部の前、光沢をおびた白銀の長衣をまとったエルヴィーンがいらいらと待っていた。花につつまれる本物の死者よろしく、とげをていねいにとりのぞいた白薔薇を編んだ飾りを自前で用意し、肩から垂らしている。空を見上げて機嫌が悪い。
「雨が降りそうだからといって、家から出ないやつがいそうだな」
その横につかまえられているのは、世にも情けない顔をしたルヴェルだった。
「さ、こっちだ」
葬儀店の男たちが、指定された大広間に黒塗りの棺を運びこんだ。
次は女たちの出番だ。棺をさらに立派に飾りつけながら、キャムはちらりとルヴェルに目を走らせた。
「……」
天気同様のすっきりしない気分を破って、じわじわと笑いがこみあげる。
これが悲痛な表情でいれば同情も寄せられるだろうが、なまじ外見がいいだけに、すなおすぎる顔が妙におかしい。天明瞳や端整な外見、そしてすなおさという美点とひきかえにルヴェルが運命に支払ったのは、不幸という大きすぎる代償なのかもしれない。
「だから大損ばっかなのかもね……」
ルヴェルはこの不幸から逃げ出さないようにするだけで精いっぱいで、あたりを見まわす余裕など、まして葬式女の顔を確かめるようなゆとりなど、どこにもないらしい。
「ねえ、あれ、誰?」
それでも、いっしょに飾りつけている仲間の葬式女たちは、声をひそめてささやきあっている。
「エルヴィーンさまの隣の人でしょ? 知らない顔よね」
「あんな美形、マーシェ剣士団にいたっけ?」
「ばかね、あの格好はくろねずみよ。だけどあそこにいるってことは、あの人が代わりに棺に入るのかしら」
「やだ、うそっ、やーんっ! エルヴィーンさまよりうれしいかもーっ」
年長の女がたしなめる。
「ほらほら、急ぎなよ! おかみさんがにらんでるよ!」
やがて準備は整った。
ルヴェルがやってきた。
「さ、どうぞこちらに」
おかみにうながされ、ルヴェルはおびえた小動物のような顔になる。
「だいじょうぶですよ、なにもほんとうに埋めようっていうんじゃないんですから」
にいっ、とおかみは微笑んでルヴェルをなだめたが、骨のように白くこけたその顔では、笑顔が逆におそろしい。
「は、はは、はははははは、ですよね、埋めませんよね……お願いします」
ひきつりながら、ルヴェルは棺に体を横たえた。
それっとばかりに葬式女たちが白い花を持って集まった。
「はーい、お花で飾りますねー」
作り声をかけつつ、ルヴェルのまわりを花で埋めていく。胸の上で両手を組んだルヴェルが、ときどきびくりとひきつるのは、誰かがついでにひとなでしたものらしい。
「はーい、お顔拭きますねー」
キャムはまだこの仕事に就いたばかりで、このあたりの風習やネルダの葬儀店のやり方については、たいしてくわしくない。
が。
「……それにしたって」
五人がかりで主役の顔を拭くようなことはないだろう、とは思った。胸の上で組んだルヴェルの手はときどきほどけかけ、足は棺を蹴って逃げ出したがるかのようにかるくもがいた。
ようやく葬式女たちが離れたとき、きつく目をつぶったルヴェルの頬は、ぬぐわれてきれいになるどころか、誰かが激しくキスしたかのようにところどころ赤くなっていた。
「ご愁傷さま……」
キャムはつぶやき、仲間にならってヴェールをおろし、棺の横に並んだ。
招待された客が大広間に集まり、葬式がはじまった。
まずはエルヴィーンが予選出場に際してのみずからの決意を述べる。名士らしい服装が多い参列者が拍手する。一部の熱心な支援者は感動の声をあげ、大広間に暑苦しい熱気が満ちる。
「ありがとう、ありがとう!」
熱気のただなか、エルヴィーンは感極まった様子で両手をあげて拍手にこたえる。
おかみの手が動いた。
合図だ。葬式女たちはすうっと息をすいこんだ。
おかみの美声が先導する。
夕日は沈む
張り裂けるこの胸
命とはかりそめ
ああ、と挽歌を歌いながら、キャムは横目に棺をうかがった。
店の男たちが、棺を持ち上げて肩にかつぎ、ゆっくり大広間から出て行った。
キャムも仲間の葬式女たちのあとから、棺につづいて外へ出た。
手が滑りでもしたものか、飾り立てられた幌のない馬車に乗せようとしたとき、店の男たちががたりと棺を取り落としそうになった。
棺の中から、うわっというちいさな声があがり、ほどけた手が花をはじいて外へ飛ばした。
「なにをしている!」
反射的に口にしてしまったらしいエルヴィーンの叱責が飛んだ。
葬式の主役の不機嫌は、微妙に参列者の雰囲気を悪くする。
それをとりつくろうように、おかみがますます美声を冴えわたらせる。
「……」
懸命な高音でそれについていきながら、キャムはいやな予感をおぼえた。
エルヴィーンのいらだちは、もしかしたらこの天気のせいばかりではないのかもしれない。
やはりなにかがおかしい。
率先してこの儀式をもりあげるべきマーシェ剣士団の者も、いまだ姿を見せない。
なにかがある。
ヴェールの下、キャムはあたりに注意をはらう。
エルヴィーンが、さすがに剣士団団長らしい身の軽さで、馬車に飛び乗った。
御者が、特別料金が払われたときだけ使うとっておきの青毛馬の尻に、ぴしりと鞭を入れた。
ゆっくりと馬車が進み出した。
おかみと葬式女がそれにつづき、さらにその後ろから参列者がついていく。
通りは、マーシェ剣士団団長の世にも珍しい生前葬を見物しようとする者で、まずまずにぎわっていた。天気がよければ、人はもっと多かったにちがいない。
「エルヴィーンさまーっ!」
黄色い歓声に、馬車の上、棺の横に立ったエルヴィーンが手をふってこたえる。
「マーシェ剣士団の代表として、私は戦う!」
つきあげたエルヴィーンのこぶしに、おお、とどよめきもあがる。
マーシェ剣士団の旗をたかだかとかかげる男、色とりどりの花びらをふりまく女は、参列した支援者の使用人だろうか。ねらっただけの効果はあがって、野次馬らしい者たちからも拍手があがる。
「ありがとう!」
っぇくしっ、とくしゃみが響き、エルヴィーンは露骨に嫌な顔をして棺の中をにらみつけた。
歌の合間、キャムはかすかにかぶりをふって、神経をいっそう集中させた。
馬車が、大通りを郊外の墓地へと曲がったときだった。
道横の建物の二階の窓から、小柄な影が馬車めがけて飛び降りた。
「エルヴィーン、今日はおまえのほんとうの葬式だ!」
曇天そっくりの色味の剣が、雷光さながらの光をはじく。
見物人と参列客が悲鳴をあげる。
「逆恨みもいいかげんにしろ、イーゼラ!」
たかだかとエルヴィーンが呼ばわった。
と、その声を受けて、あちこちにひそんでいたらしいマーシェ剣士団の剣士たちが現れた。しかも、その数はさらに増えそうだった。
キャムは馬車を見あげた。
馬車に降り立った襲撃者は、髪を黒い布でつつんだ小柄な少女だった。その顔は怒りに満ちてエルヴィーンをにらみつけていた。
あの子だ、と直感的にキャムは悟る。マーシェ剣士団からの帰り、話しかけてきたショールの少女。
気にはかかっていた。あきらめてくれるようにと願っていた。だが、やはり少女には少女の考えがあって、それはキャムとは別の答えをみちびきだしたらしかった。
せめて大けがのないように、とキャムはエルヴィーンを見る。
エルヴィーンは丸腰だった――と思いきや、彼は馬車の床から剣をつかみあげた。その顔には不敵な笑みが浮かんでいる。
「私は堂々と大鷹剣士団を倒したのだ! このように卑劣な襲撃を受けるいわれはない! 剣士ならば恥を知れ!」
ぶん、と振られたエルヴィーンの剣がおこした風を、キャムは全身で感じた。
少女は機敏に反転して、その一撃をかわした。
「だめ」
キャムは誰にともなくつぶやく。
いまの一撃は、少女の力でよけたものではない。
エルヴィーンは手加減している。おそらくはこれは、彼にとっては生前葬をもりあげる剣劇にすぎない。
こうした微妙な剣さばきを馬車の上という不安定な足場でやってのけたことを考えると、エルヴィーンはたしかに団長となるだけの腕を持っている。
加えて、少女をわかりやすい敵役にしたてあげ、公衆の面前で倒すという意志も。
少女の剣が宙を斬り、エルヴィーンが自分の剣に手を添えてそれを受け止めた。
鋼がぶつかる硬質の音と、女たちの悲鳴があがった。
エルヴィーンは叫んだ。
「ジァトペック市民たちよ! この無法を見たまえ! 去年の剣士団公開戦での立ち会いの結果、大鷹剣士団はわがマーシェ剣士団に全敗したのだ! おのれの弱さを嘆くならともかく、勝者を恨んでこのように不意討ちしようとは、もはや剣士などと名乗らせてはおけぬ!」
立ちあがった少女が叫んだ。
「うそつけ! 卑怯なのはそっちじゃないか! 去年の公開戦の前、おまえは父さんや兄さんをだまして毒をもったんだ! 体調をくずした父さんたちが延期を頼んだら、逆に逃げる気かって脅して、へろへろのところをいいようになぶったんだ!」
「言い訳は見苦しいぞ、イーゼラ! 父上や兄上の名誉をかえって損なう行為だと、なぜわからん?」
「言い訳なもんか! おまえは兄さんを恐れていた! だから公開戦の前に毒をもって、公開戦のあとも兄さんと大鷹剣士団の悪口を言いふらして、金でつってうちの剣士をひきぬいたんだ!」
「剣士たるもの、おのれの腕を磨かずにどうする。より強い剣士団に入りたいという者を断わるすべを、私は持たん」
「うるさああい! おまえのせいで、おまえのせいで、兄さんはーぁっ!!」
少女の声は興奮のあまり裏返って、なにを言っているのかもはっきりしない。
なにがあったのか、どちらの言い分が正しいのか、キャムにはわからない。
ただ、このままでは少女が圧倒的に不利で、よくて市外追放、悪ければ墓地直行という哀れな運命だけははっきりわかる。
どうしよう、でもどうやって――キャムは激しく迷った。かかわってはいけないという自分と見すごせないという自分が、それぞれ手をひっぱって、キャムをその場に凍りつかせる。
そこへ。
「……あ、あの」
ひょこっと、馬車の上の棺から頭が飛び出した。
ルヴェルだった。
「あ、あの、双方言い分のあることなら、時と場所を改めて裁判にかけましょう」
唇が青ざめているのは緊張だろうか。ともかく毅然とした仲裁者と呼ぶにはほど遠い。髪には娘の髪飾りのように白い花びらまでくっついている。
そんなルヴェルを、少女がかん高い声で怒鳴りつける。
「バカあ! そんなことできないよ! この町の裁判官なんか、こいつにとっくに買収されてるんだ!」
「な、なんだって! それは重大な告発になる!」
花びらを落としてルヴェルはふりむいた。
「これは、やはりくわしく話を――」
だが、そんなルヴェルの声をかき消して、エルヴィーンの大声が響きわたった。
「イーゼラ! これこそ聞き捨てならない中傷だ! おろかな小娘の妄言とは言え、許せん!」
剣がたかだかと天を突いた。
キャムは目をみはった。いけない。そう思った瞬間、迷いが消えた。キャムは地面を蹴って馬車に跳び乗った。
エルヴィーンは本気だった。これまでのような見せ物を市民に提供する気はすでにない。あきらかに少女の細い首すじをねらっている。
「立って!」
背後からルヴェルのマントの襟首をひっつかみ、ひきあげる。
「え、え?」
わけがわからないまま立ちあがった彼の右足をすかさず蹴りあげ、間髪入れずにぐいと左の肩をひく。
マントをなびかせ、棺にしきつめられた白い花びらを巻き上げて、くるっ、とルヴェルの体が華麗に回転する。
「っ!」
少女めがけてふりおろされたエルヴィーンの長剣が、横手からのルヴェルの回し蹴りに方向を変えられ、馬車の床に突き立った。
「なにをする!」
剣先をひきぬいたエルヴィーンが意外な邪魔者にむきなおったときにはすでに、キャムは風をはらんでひるがえったルヴェルのマントの陰にかがんでいる。
真っ向から剣士ににらまれて、ルヴェルがぎくりとのけぞった。
「いい、いや、おれはなにも――」
「王立錬成院からの弔問客が、突然襲撃された喪主にこの仕打ちですか!」
「いえあのこれは体が勝手に――」
「いかに王立錬成院の方とはいえ、侮辱罪で訴えてもよいのですよ? 正式な弔問客としての役目も果たすどころか、法令違反を犯すおつもりですか。マーシェ剣士団をあずかる私とこのように卑劣な不意討ちをしかけるような小娘と、どちらを信用するのか、その馘を賭けるつもりですかな?」
ルヴェルがぶんぶんと首を振った振動が、彼の背後にかがむキャムにも馬車の床板からつたわってくる。
エルヴィーンとは実力がまったくちがったとはいえ、いつかのルヴェルはごろつき二人組に真っ向から立ち向かっていたはずだった。
それがいまは、こんなにもひるんでいる。
事情がつかみきれないことに加え、やはり相手の身分と自分の立場を考えてしまうのだろう。有力剣士団の団長相手のいさかいとなれば、事と次第によっては王立錬成院はしたっぱをあっけなく放り出すかもしれない。
「……ああもう……どうしよう」
キャムはぎゅっと眉根を寄せる。
ルヴェルの仲裁をあてにはできない。
自分から動こうとしない人間を動かすこともできない。
「どうする……?」
次の手を懸命に考えるキャムの耳に、だが、意外なせりふが飛びこんだ。
「でっ、ででっですが、こっこの少女がこっこうしてぞっ贈賄を告発するのなら、中央裁判所でしっ審議を受ける必要があります。せっ正義はわれにありとお思いならば、なっなにも恐れる必要はありません。こっここはひとまず、そっその剣をおさめてですね」
激しくどもりながらも、ルヴェルは言った。
「――」
キャムは顔をあげた。
斜め後ろのこの位置からは、ルヴェルの横顔がわずかに見える。この角度でもととのった輪郭と、ひきつった口もとと、それでもまっすぐ前をむいた天明瞳。先ほどまで横たわっていたせいでいくらか乱れた髪が、かすかな風になびいている。
「……ほほう」
エルヴィーンが不吉に両眼を細めた。
「要するに。この物騒な小娘に、ご自分の馘を賭けるお覚悟だと?」
「かっ彼女の言い分が正しいか正しくないかは、審議で判明します。そのための審議です。望むのでしたら弁護人もつけられます。審議を受けることは等しくクロー王国民の義務であり、権利です!」
「しかし、私は剣士なのですよ。やさ男のくろねずみどの」
面とむかってのくろねずみ呼ばわりに、キャムは唇を噛む。
エルヴィーンのやけににこやかな笑顔は、彼の決断をはっきり宣言していた。
「審議などという長ったらしい手段に訴える必要を認めませんな!」
正確にルヴェルの首をねらった本気の振りは、真横からだった。はなたれた矢のようにするどい一撃が飛んできた。
少女がひっと頭をかかえて丸くなる。
天明瞳をいっぱいに見ひらいて、ルヴェルはびくんと肩をふるえあがらせる。
「――」
キャムは、そんなルヴェルの肩を力いっぱいつきとばした。
「うゃっ!」
おかしな声をあげてつんのめったルヴェルの頭上を、うなりをあげてエルヴィーンの剣が通り過ぎる。
「!」
渾身の力をこめた必殺の剣を剣士でもない相手にかわされるなど、まったく予期していなかったのだろう。エルヴィーンは次の攻撃を考えていない。動きが止まる。
つんのめった勢いのまま、ルヴェルが倒れこむ。
「――」
そんな彼によりそうように、キャムもすばやく前に踏みこむ。
目の前に、ルヴェルが反射的につきだした腕がある。キャムはそれを、平手で思いきりすくいあげるようにたたく。
力そのものの強さではなく、力を加えた場所と角度が、ルヴェルの腕を大きくはねあげた。
そこにエルヴィーンのあごがあった。
「――っ!」
ルヴェルの掌がエルヴィーンのあごの先をとらえ、勢いよく天へとはじいた。
急所への的確な一撃だった。
はねあげられた腕はそのままに、ルヴェルが馬車の上にべしゃりとつぶれた。
つづいて。
エルヴィーンがその場にゆっくり膝をついた。いかつい上体がぐらりと揺れた。
まるで、最後の一打ちを入れられた樹のように――エルヴィーンの体が、どさりと前のめりに倒れた。
振動が馬車を揺らし、棺から花びらがこぼれた。
ひとり、キャムだけは体勢をくずしていない。それでも目立たないようにうずくまったまま、長々とのびているルヴェルの襟首をつかんでひきおこす。
「ほら、しゃんとして!」
「いてて……あ、え?」
エルヴィーンの出ばったあごの骨は、鍛えていないルヴェルの手にはかたすぎたらしい。痛そうにいそがしく手をふりながら、ルヴェルはうながされるままに立ちあがる。
その足もとから、さらにキャムはちいさくもするどい声をかける。
「さっさと審議を宣言して! 王立錬成院の人間が認めたんなら、それで決まりってことになるでしょ!」
「あ、ああ――」
ルヴェルはすうっと息をすい、右手をたかだかとあげて声をはりあげた。
「たったいま、王立錬成院の名のもとに告発を受けた! マーシェ剣士団団長エルヴィーンについて、中央裁判所での審議をおこなう!」
それまで成り行きを見守って騒然としていた通りが静まり、マーシェ剣士団の剣士たちはうつむきながら剣をおさめた。
町の名士である剣士団団長も、こうなってしまえば、国王直属の王立錬成院の人間に従うより他にない。
ルヴェルが宣言した審議は、ほどなく実行されるだろう。
「……はああ」
だというのに、直後、ルヴェルはがっくりうなだれた。右手をおろすことすら忘れているらしかった。
真顔でいれば正義の味方として申し分ないのに、とキャムは吐息をつく。それでも人目もはばからないあまりの落胆ぶりに、さすがになぐさめてやりたくなった。
「だいじょうぶよ。たぶん、そっちの子の言い分が正しいから。審議の結果無罪、かえってあなたが侮辱罪で王立錬成院免職処分、なんてことにはならないわよ」
「……なぜわかる?」
「状況からの推測だけどね。マーシェ剣士団は門番を置いていた。そこでのびている団長の趣味だろうけれど、恨みを持つ誰かに襲われるかもしれないっていう自覚もあったんじゃない?」
「……ああ」
ルヴェルの頭がほんのすこし持ち上がる。
「今日の葬儀にも、マーシェ剣士団の人間は出てなかった。ああやって通りにひそんで、襲撃者を警戒していたからでしょ」
「……そうだな」
またすこし角度が上向く。
「それに、国王派遣の弔問客をたたっ斬ろうだなんて、よくよくのことがあるからでしょうよ。そんな事件を起こしたら、剣士団の名に傷がつくことは避けられないんだから。ましてこの洒落男、それなりに名のとおった剣士団の団長なのよ? たいした騒ぎになるわ。それでも審議を受けるよりはマシってことは――」
「そうか!」
頭がしゃんと、すっかりあがる。
「――ところで、おまえは」
ルヴェルがふりむきかけた。
まずい、とキャムが馬車をすべりおりようとしたそのとき、横手から少女がルヴェルに飛びついた。
「ありがとう、ありがとう! ほんとに王立錬成院の人? ほんとだよね、ほんとに審議してくれるんだよね!」
その顔が輝いている。
「あ、ああ、ほんとうだ」
うろたえながらもなんとか受け止めて転ばなかったルヴェルに、少女はさらに顔を押しつけた。
「ありがとう、天明瞳の正義の味方さん!」
彼女の噛みつくような感謝のキスが、見ていた女たちを刺激した。
「きゃあああああ!」
歓声なのか悲鳴なのかわからない高い声をあげて、どっと馬車に殺到する。
「わ、ちょ、ちょっと、わたしおりますから」
我先に馬車によじのぼろうとする女たちに、キャムも彼女たちに突き飛ばされないようにするのが精いっぱいだった。
やっと意識がはっきりしてきたらしいエルヴィーンも、道に迷い出たカエルのように踏みつけられて、そのたびにぐえっと奇妙な声をあげている。
「すてき、ほんとに天明瞳なのね!」
「あの花を散らしての蹴りったらなかったわ!」
「予選には出ませんの? 出たら断然応援しますわ!」
つい先ほどまで彼女たちの黄色い歓声を一身に集めていたしゃれた剣士の存在は、新たに出現した「天明瞳の正義の味方」の前に、はかなく彼女たちの記憶から消されてしまったものらしい。
まして、その背後でうずくまっていた黒ずくめの葬式女をおぼえている者など誰もいなかったようで、キャムはそれには安心した。
が、この騒ぎでは馬車からおりるにおりられない。
「あの、ね、場所なら代わってあげるから、おろして……」
女たちはすこしでもルヴェルに近づこうと必死で、キャムの申し出など聞こえてもいないらしい。
「いつまで彼にひっついてんのよ、どきなさいよ!」
「そっちこそ、なに手を握ってんのよ、迷惑なのよ、気づきなさいよ!」
女同士のつかみあいまで始まった。
「だいたいあなた、化粧が濃すぎるのよ! 塗りたくればいいってものじゃないわ!」
「そっちこそ、香水の使いすぎで鼻がまがりそうだわ!」
関係ない罵声までもが飛び交いはじめる。
キャムはなんとか身をよじって馬車をおりた。
「――ん?」
ヴェールがなにかにひっかかっている。ひっぱろうと後ろにまわした手を、誰かの手につかまえられた。
「――キャム・ヴラスタ!」
名前が呼ばれた。
どきんとしてふりかえる。
キャムの手を握っていたのは、女たちにもみくちゃにされながらも必死に逃れようとしているルヴェルだった。彼は叫んだ。
「助けてくれ!」
いまにも涙が浮かんできそうな天明瞳に、キャムはおもわずふきだした。
「しょうがないわね……」
自然とこみあげる笑いを抑えつけ、あいた片手を口の横にあてておもいきり叫ぶ。
「たいへん、警吏が来たわよ! ここにいる関係者はつかまえられるわよ!」
「きゃあっ!」
今度の高い声はたぶん悲鳴だった。
キャムの声に気を取られて女たちが止まったすきに、キャムはルヴェルの手をにぎりかえしてひっぱった。
ルヴェルが、なかば転がり落ちるようにしておりてきた。
「あ、天明瞳さまが!」
めざとい誰かが気づいて声をあげる。
キャムはルヴェルの手をにぎったまま、一目散に逃げ出した。
外に出た者は、たいがい今日の葬列の見物に出向いていたようで、町にはほとんど人通りがなかった。
「……ま、待ってくれ……」
息もたえだえの声を聞いて、キャムは足を止めた。ふりかえると、ルヴェルは膝に片手をついてぜいぜいと肩で息をついていた。
「き、気持ち悪い……耳が痛い……吐く……」
キャムは手をはなし、大きくかぶりを振って息をつく。
「情けないわね! これくらいでもう走れなくなるなんて」
言ってから、ルヴェルの体の負担は走る前からかかっていたことを思い出す。
キャムはかがみ、彼の顔をのぞきこんだ。
「……えーっと。とりあえず、顔、洗う?」
ジァトペック市の通りにも人工の泉がある。
流れる水を、ルヴェルはばしゃばしゃと顔にかけ、ごくごくと飲んだ。それから石壁にもたれて座りこみ、目をつぶって天を仰いだ。
「……怖かった……」
心の底からのすなおすぎるつぶやきに、キャムはまたぷっとふきだした。
「お気の毒さま。同情するわ」
「いや……同情を受けるいわれはない。これも任務のうちだ」
「葬儀に出ることが? それともわたしを追っかけてくることが?」
「今日は葬儀だけのはずだった。おまえがいたのは僥倖だ」
ルヴェルはまぶたをあげて横目にこちらを見た。
「逃げないのか?」
キャムは肩をかるくすくめる。
「そっちこそ、つかまえないの?」
ルヴェルは胸がからっぽになりそうな息をつく。
「おまえが、おれなんかにつかまるわけがないだろう。今日のことでよくよくわかった」
「ま、たしかに体は資本よね。すこしは鍛えたら?」
「人には向き不向きってものがあるんだ」
「それって、あきらめたってこと?」
「いや」
また目をつぶり、ルヴェルは髪をかきあげる。
「まだむいているほうでがんばるさ。言われたとおり、女の化粧や衣装も、人の顔の見分け方も勉強した。だからさっきも気づけただろ?」
天明瞳がふたたびこちらをむく。
「おまえのことは、もうどんな姿でいてもわかる」
声といい顔といい、完璧だった。
先ほどの女たちがいれば、またここで耳をつんざく黄色い悲鳴があがっていたかもしれない。
「……それはどうも」
ほんっとに見た目はいいのよね、と心の中で感心しながら、キャムはなんとなくヴェールを頭からとって、代わりに首に巻きつけた。
「でも、いくらわたしだって見抜けても、つかまえられないんじゃね。いつまでたっても任務成功とはならないわよ?」
「それはまた別の話だ。できなかろうが、やりたくなかろうが、ともかく投げ出すことだけはしないさ。任務不成功じゃ一課への異動が認められる可能性は低いが、任務拒否よりはまだいくらかは望みもあるからな。おまえの気が変わるってことだってあるかもしれない」
「変わるつもりはないけどね。そんなに出世したいんだ?」
「出世というか、異動だな。おれはもともと、この国をすこしでもよくする仕事がしたくて、王立錬成院に入ったんだ。大変だったんだぞ、勉強に試験に勉強に試験に、勉強に試験に――」
「はいはい。だけど理想とはちがっちゃったわけね」
「そういうことだ。十一課は王のお守り、いやおもちゃだ。おれみたいに変わった人間が集められて、おまえやおまえの師匠みたいに変わった人間を連れてくるよう、命じられるんだ」
ふーん、とキャムは小首をかしげた。
「要するに、王さまが女剣士と会って満足しないかぎり、あなたが追っかけてくるってこと?」
「そうなるな」
キャムは言った。
「じゃ、王さまに会ってくれそうな女剣士に会わせてあげたら、もう追っかけてこない?」
「!」
ルヴェルは、驚くほどの速さで壁から離れてキャムの前に来た。
「ほんとうか!?」
その喜びようは、骨を見せられている犬といい勝負だった。王立錬成院のマントの後ろで尻尾がふられていないのが不思議なほどだった。
つめよられたキャムはおもわずのけぞった。
「ちょ、ちょっとおちついてよ――おちつけ!」
おすわり、と言わなかった自分をキャムは褒めてやりたかったが、それでも指は地面をさしてしまっていた。
キャムの言葉と仕草、どちらにもすなおにしたがって、ルヴェルがちょこんと座る。
「それで? それは誰で、どこに?」
「ここからそう遠くないわ。〈マルチヌーの醜女〉って、聞いたことない?」
「な、なんだ、そいつは?」
怪談じみた響きにひるむルヴェルはほったらかしに、キャムは東へと顔をむける。赤い屋根の家々がひしめきあった市中からは見えないが、郊外へ出てしまえば、平原のむこうにそびえる青白まだらのマルチヌー山が見えるはずだった。
「だから、女剣士よ……」
全身踏みつけられて人事不省のエルヴィーン。
彼をなんとか馬車からひきずりおろそうとするマーシェ剣士団の剣士たち。
馬車の上からエルヴィーンを改めてたかだかと断罪する、大鷹剣士団の娘イーゼラ。
自分の馬車ととっておきの青毛馬を傷つけられまいと、飛ぶ鳥も落ちてきそうな高音をはりあげる葬儀屋ネルダ。
そして、消えてしまった「天明瞳の正義の味方」を嘆き悲しむ女たち。
通りの騒ぎはいつおさまるとも知れなかった。
「……カリハ・シャールカ……」
ぼさぼさの髪と長上着、得体の知れない男のつぶやきを聞いた者など、もちろん誰もいない。
「見つけたぞ……」
男――カフュカは通りの騒ぎからそっと離れた。