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1.橋の上の洗濯娘

 洗濯屋の店の奥はいつでもさわがしい。

 火にかけられた洗濯鍋のひとつがさっそくふきこぼれて、釜に落ちた湯がしゅうしゅうとさわいだ。火かき棒によりかかり、ずらりとならんだ釜の番を務める年かさの女が、すかさず注意した。

「気をつけとくれ! 火が強すぎるよ!」

「はい!」

 くるぶしまでのスカートに真っ白なエプロン、おなじく真っ白なリンネルで赤毛を覆った娘が、別の火かき棒をつかんで女の横から飛び出した。釜をのぞきこみながら火をかきまわし、火力を落とす。鍋からふきあがる白い煙の勢いが弱まった。

 年かさの女は、その間にも次の仕事を見つけ出す。

「それから、そっちの鍋はもういいね。キャム、洗い場へ運んでおいき!」

「はい!」

 今度は分厚い大きな手袋をはめて、娘は隣の釜の洗濯鍋にとりついた。まだ熱が残る鍋の取っ手を両手でつかみ、ざあっ、と釜の並びの端の流しに汚れた湯をあける。ほかほかの洗濯物だけが残った鍋を、となりの部屋の洗い場へと運ぶ。

「次、お願いします!」

 洗い場では、ブラシとへらとで武装した洗濯女たちが待ちかまえている。

「あいよ! さあよこしな!」

 彼女たちのたくましい手によって、洗濯物は次々と板にのばされ、石けんをすりつけられ、ブラシでこすられ、絞られてへらでたたかれ、また力いっぱいこすられて、容赦なくしつこい汚れを追い出される。

 ふう、とキャムは息をつく。

 湯の音、ブラシの音、へらの音、そして女たちのかしましい声。

 陽気でたくましい女たちの仕事場〈マリヤーナ夫人の洗濯店〉は、町でちょっとした評判をとっている。仕事は次から次へとやってきて、一番の新入りのキャムがゆっくり休むひまなどない。

「キャム、すすぎ水が足りないよ! 早いところ汲んどくれ!」

「はい!」

 キャムは手袋をとり、すぐさま部屋の隅のつるべに駆けよった。下から吹きあげる風が、汗ばんだ額にはりつきかけた前髪をさあっとなぶった。

 大胆に切られた床板からは、店の真下を流れるシュレル川が見えている。

 店は、通称を〈洗濯橋〉と呼ばれる橋の上にある。

 ちょうど、荷を運ぶ小舟が下っていった。船頭は頭上のキャムに気づくと、帽子をとってふりまわした。

「おおい、そいつをおれのあたまに落とさんでくれよ!」

 くすりと笑って手をふりかえして、キャムは桶を投げ落とした。しぶきをあげて川にもぐった桶には、すぐに水がいっぱいに入った。つかいこまれた縄はくたくたと柔らかい。キャムはそれをしっかりつかみ、ぐっと体重をかけてひっぱりあげた。

 その背に洗濯女が声をかけた。

「あんた、なかなかすじがいいじゃないか! ここに来る前もこの仕事だったのかい?」

 キャムはくんだ水を水桶にあけながら答える。

「ええ、まあ、そんなような」

「その調子できちんと働くんだよ。最近の若い子は、すぐにふらっと仕事を替えちまうけどね、ひとつの仕事をがんばるってことが大事なんだよ。自分で一度決めたことはやりとおさなけりゃね」

 キャムはふりかえる。

 年のころは十七、八歳。はしこそうなはしばみ色の目をした洗濯女は、無造作に束ねたあざやかすぎるくらいの赤毛が目につくくらいの、ごくありふれた娘だ。

「ええ、ほんとうにそうですね」

 だが、愛想よく笑ってみせた卵形の顔に、ほんの一瞬、ちらりと陰にも似た皮肉な表情が走ったことに、仕事とおしゃべりとで忙しい洗濯女は気づかなかった。

「さあ、こいつがすすぎ終わったら干してもらおうか。洗濯ばさみはちゃんとしてるだろうね? 風で飛ばされちまったらえらいことだからね」

「はい、調べます!」

 窓辺に置かれた小さな籠の中の洗濯ばさみを、キャムはかたっぱしから確かめはじめた。


「……ここか」

 襟に細長いタイのついた、暗色の長マント。

 王立錬成院(おうりつれんせいいん)――クロー国王直属機関の一員のあかしをまとった二十歳がらみの男は、橋の手前で立ち止まった。

 豊かな流れのすぐ上にかかる堅牢な石造りのアーチには、町とおなじ赤い屋根の建物がごちゃごちゃとすきまなくたちならんでいる。通りがひとつ、宙に浮かんでいるといっていい。シュレル川にはそんな橋がいくつもかかっている。

「に、しても」

 男は眉をひそめてこの空中通りを見やる。

 規制などおかまいなしに、橋の上の建物は二階三階とつみかさなり、つぎたされて、どこからどこまでが一軒の建物なのかもはっきりしない。どことなく傾いて見える壁からは、そこがなんの宿だか店だか教える気もないような、うさんくさい看板が思い思いにつきでている。

 彼らを見やって男はかぶりをふる。

「百年の失策だな……」

 橋を渡る者に通行税だけをかける、という大昔の法律がこの混沌を生み出している。

 倉庫と信用で商売をする大商人は、きちんとした家を町の中の地面の上に持つ。

 その日の小銭を稼げばいい行商人も、家は郊外の地面の上に持つ。

 その中間、店を必要としながらも定住税と商売税を払いつづけるだけの資金はない者が、そんな法律に目をつけた。ひとりが橋の上に掘っ立て小屋をたてて商売を始めるとあとは一瞬、あっというまにあらゆる橋の上には建物がたちならび、人があふれ、当局が橋の上の定住を禁止しようとしたときにはすでに遅かった。新法が規制できたのは、木造の橋の上での定住と商売を禁止することだけだった。

 かつかつの資金で商売をする橋の上の商人たちは、破産する者もすくなくない。商売に失敗すると彼らは夜逃げし、後にはするりとまた別の者が入りこむ。

 出入りが激しいこの橋の上の通りの住民たちを把握することは難しく、また税もとれないとあって、当局も統治に熱心とはいいがたい。

「だから、こういうことになるんだ」

 男は憤慨した口調でつぶやいた。

 その横を、洗濯物をつめこんだ袋を背負った年増女が、足早に通り抜けかけた。

「おい」

 男は女を呼び止めた。

 しぶしぶふりむいた女がぱちくりとまばたいたのは、男の身分に気づいたからではない。

 王立錬成院の人間は「えらい人」ということにはなっているが、王宮だろうと下水管だろうと役目に応じてどこにでも現れ、居合わせた者を容赦なく協力させる。その神出鬼没ぶりとマントの色から「くろねずみ」とうとまれているくらいで、出くわした不運を嘆きこそすれ、驚くような相手ではない。

 女が驚いたのは、男の目にだった。

 それは十年にひとり生まれるかどうかという天明瞳(ヴァイスバルヴァ)――濃淡の蒼に茜がさしてゆく天空の壮大な色調が、瞳の中にあざやかに再現されている。

 神秘的なそんな瞳だけではない。眉は涼やかにととのい、鼻すじはかたちよく、口もとには品があり、濃色の髪はさらさらと額にかかって、長身は高すぎず痩せすぎず。

 要は、王立錬成院のマントを着せておくのはもったいないほどのいい男だった。

「……なにか用かい?」

 女は顔をかたむけ、意味ありげな視線を男に送った。

 が、男はなんの反応も見せずに言った。

「〈洗濯橋〉はしばらく立入禁止だ。こちらの仕事がすむまで、ここで待て」

 女はしげしげと男を見やり、ふうっと息をつく。

「……〈洗濯橋〉ならとなりだよ」

「いっ! じゃ、じゃあおまえはマリヤーナのところの洗濯女じゃなくて……」

「あたしの雇い主はヴェド親父だよ。マリヤーナのところは、だから隣。だいたいこの町に洗濯屋がどれだけいると思ってるんだい?」

 男はあわてて、隣の橋へと走り出した。

「……あーあ、見た目はあれだけいいのにねえ」

 女は哀れむような目つきで見送った。


 洗濯店の店先は、得意先から洗濯物を運ぶ外回りの洗濯女や、自分で洗濯物を持ちこんでくる客でいつもにぎわっていて、少々の物音は珍しくもなんともない。まして店の奥はほとんど戦場のようなさわぎだ。店先のちょっとした言い争いに気づいた者など誰もいなかった。

 ただひとり、最奥の窓辺で洗濯ばさみを並べていたキャムだけが顔をむけた。

 先輩の洗濯女がふと顔をあげ、手を止めたキャムに気づいて眉間に不機嫌なしわをよせる。

 その口がひらいたと同時、マントをひるがえした男が仕事場に入ってきて高らかに声を張りあげた。

「王立錬成院所属、ルヴェル・サイフェルトだ! キャム・ヴラスタ、話を聞かせてもらうぞ!」

 しん、と仕事場が静まりかえる。

 洗濯女たちの目が、ゆっくりキャムに集まっていく。

「――」

 キャムは無言で床を蹴った。

 ここでは滅多にない沈黙に遠慮したかのように、床板はことりとも鳴らなかった。

 それでもキャムの体はふわりと、まるで魔法のように宙に浮く。

 すぐ後ろには腰の高さに切られた窓がある。

 その横木が見えていたかのような自然さで、キャムはそこに降り立った。

「くろねずみのお誘いなんて、おことわり」

 とっておきの笑顔で、しかし容赦なく言いはなつ。

 ルヴェルの天明瞳がけわしくなる。

神聖剣戦(コルナ・フラーナ)での勝利以上の国益はない! 聖剣士(フラーン)となること、およびそれに協力することは、クロー王国民の名誉にして、義務だ! キャム・ヴラスタ、おまえにもその義務はある!」

 ふたりのあいだで、洗濯女たちがきょろきょろ視線を交わし合う。

 さほど遠くない昔、世界を分かつ五人の王たちが気まぐれに尋ねあった。

『この世で最も強い者は、どこにいる?』

 以来、五年に一度、五つの国から聖剣士の称号を得た五人の代表が選ばれ、最強の剣士を決める神聖剣戦をおこなうようになった。勝者には惜しみない賞賛が与えられ、その栄誉は勝者の故国とともに国境を越えて讃えられる。

 初期の神聖剣戦はただの競技だった。

 しかし、その意味は次第に増して、いまや神聖剣戦での勝利は王と国とに不可欠な名誉となり、勝者を出せなかった国はそれを恥とすら感じるようになった。

 自分の国から勝者を出すために、王は国内の剣士を保護し、他国の有力な剣士をひきぬく工作も惜しまない。もちろん、首尾良く神聖剣戦で勝者となった聖剣士には、個人的な名声のほかに莫大な報奨金が与えられる。

 よって聖剣士をめざす者はすくなくない――とはいえ、そんな夢を追いかけるのは、もちろん決まって男だ。

 女、それも特に大柄なわけでもないごくふつうの娘に「聖剣士」という単語はまったく似つかわしくない。

「ちょっ……」

 かるくひきつりながら誰かが笑い、それはあっというまに伝染した。一度笑いはじめた女たちは、すぐにほんとうに笑い出した。

「いやだ、このキャムが聖剣士だって?」

「いったいどういう冗談だろ!」

「聖剣士なんて言ったら、牛みたいな大男がなるもんじゃないか」

「人違いにもほどがあるよ」

「あんた、いい男だけど中身はかなり抜けてるねえ」

 いつもの調子で口々に言い立てる洗濯女たちに、ルヴェルは怒鳴った。

「今度はまちがえてない! だいたい、おまえたちはこの娘のなにを知っているというんだ!」

 女たちの笑い声がとぎれる。働き者で愛想はいいが、考えてみれば自分についてはほとんど語らなかった仕事仲間に、そろそろと目をむける。

 たったいま見せた身の軽さ、そしてこのおちつきぶり。

 もはやありふれた洗濯娘などではなくなった、かつての同僚を。

「キャム・ヴラスタは、あのカリハ・シャールカ唯一の弟子だ!」

 洗濯女たちはその名にふたたび声を失う。

 二年前、ふっつりと消息を絶った最強の女剣士、剣速から〈疾風〉ともあだ名されたカリハ・シャールカ。一度も聖剣士を決める予選に出場したことはなかったものの、手合わせを求めたすべての男剣士を一蹴し、不敗を誇ったその名声はいまだに衰えていない。

 いまの国王ティシェク五世も彼女を求め、情報をもたらした者には高額の賞金が支払われることになっている。

 ふっ、とキャムは年に似合わない皮肉な微笑をひらめかせる。

「よく調べているじゃない。師匠はよくよく気をつけてくれてたから、わたしのことを知っている人はかなり少ないはずなのに」

「ああ、苦労したとも。カリハ・シャールカは少女を連れていたという証言をつかむためだけで、どれだけこんな猥雑な通りを歩きまわって、予算を使って、上司にののしられたことか――」

 ルヴェルはぐっとこぶしをにぎりしめた。

「〈大損(ベルキスコダ)〉ルヴェルだなんてあだ名までつけられて、会計官からは横目でにらまれて、同僚からは王立錬成院の恥さらしだとか見かけ倒しだとか女好きだとかタラシだとかスケコマシだとか間男野郎だとかまったく関係ない八つ当たりまでされて――ああ、苦労したとも!」

「そう」

 キャムはのびをするように両腕をあげて、さりげなく頭の後ろに置いた。

「でも、自分が好きでした苦労でしょ。褒めてもらえるとでも思った?」

「褒めてもらう必要はない! 仕事をやりとげたというこの結果こそ、なによりの褒美だ」

「あら、もったいない。せっかくそんないい男に生まれついたのに、くろねずみの仕事なんかに熱心なんて。もっと自分を活かした人生送ったら?」

「そういった話はうんざりだ! おれの目だの顔だのがそんなに重要か!?」

「重要な人だっているんじゃない? ――もっともあなたみたいなおせっかい、目や顔がどうだってわたしは大嫌いだけどね。人のことはほっといて」

 キャムの手がすばやく動き、髪からとられたリンネルがたなびいた。キャムはぽかんと立ちならぶ洗濯女たちにむかって、困り顔をかしげてみせた。

「ごめんなさい、今日でこの店をやめさせていただきます。ここにわたしがいるって知られたら、またこんな人が来てうるさくすると思うので。わたし、二度と剣にはかかわらないって決めたんです」

 くるり、とまた音もなくキャムの体がまわってエプロンの裾がひるがえる。

「あっ! 待て!」

 窓の外には、長いながい洗濯縄がこちらの滑車からむかいの橋の滑車までひきわたされて、細長い輪となっている。普段はこの縄をまわしながら、次々と旗のように洗濯物をつけていくのだが、今日はまだ一枚も干されていない。

 それが脱出路になってくれる。

 キャムはおもいきり跳んだ。

「さよなら」

 同時、洗濯縄にリンネルをひっかけて両手でつかむと、キャムの体は勢いよく空中へとすべりだした。

 髪が後ろに流れ、耳もとで風がびゅうびゅうと陽気に歌う。キャムは肩越しにふりかえる。窓から上半身を乗り出したルヴェルが見えた。

「もう、二度と会わないから!」

 キャムは大声で別れを怒鳴った。

 つかいこまれた縄と真新しいリンネルは相性よく、さらには頑丈な滑車の動きもなめらかに、キャムはつうっと飛ぶように川の上をすべっていく。が、さすがに縄もなかばにさしかかるとたるんで、勢いが弱くなる。

 下の川面に、また小舟がとおりかかった。

「おじさん、乗せて!」

 キャムはリンネルをつかんだ片手を放し、スカートをおさえて小舟の上に飛び降りた。

 衝撃でゆらゆら揺れる小舟を両手で押さえながら、初老の船頭が目を丸くする。

「おいおい、何事かね? この年まで毎日この川ではたらいてるが、洗濯物じゃなくて洗濯娘が降ってきたのは初めてだな!」

 キャムはいたずらっぽくほほえんだ。

「人生、一瞬先はわからないものってことよ」

「ちげえねえ」

 どぼん、と背後で水音がたった。

 キャムはふりむいた。

 窓辺から洗濯女たちが鈴なりに顔をつきだし、その下の流れにルヴェルの頭が見え隠れしている。

 船頭は親指で背後を示した。

「あれも嬢ちゃんの友達かい? 助けてやったほうがいいかね?」

 キャムはそっけなくちいさくかぶりをふる。

「くろねずみよ、あれ」

「なんだ。じゃ見なかったことにするかね」

「それがいいと思うわ。あんなものにかかわると、ろくなことにならないんだから」

「これまたちげえねえ」

 小舟はなめらかに川をくだり、〈洗濯橋〉とルヴェルはあっという間に見えなくなった。

 次の町の船着き場で、キャムは船賃としてリンネルをわたし、船頭と友好的に別れた。

「さて……と」

 キャムは腰に手を置いてひとつ息をつき、新しい町を見わたした。

 ここの川にもまたいくつもの石造りの橋がかかり、建物がひしめきあっている。きっとここのどこかの橋にも、素性や過去をとやかく聞かず、よろこんで働き者の娘を雇ってくれる店があるだろう。

 しかし、あのむだに顔のいいくろねずみは、キャムが川をくだったところを見ている。川から引きあげられるか、自力であがることができれば、まず真っ先にこの町までさがしにくるにちがいない。

 王立錬成院に目をつけられただけでも災難だというのに、しかも。

「……まだ賃金をもらってないっていうのに。今日は完全に働き損じゃない、まったく大損だわ。あのくろねずみの頭に百と一匹のねずみが落ちますように!」

 キャムは口をとがらせ、いまいましげに上流をにらみつける。

といって、ののしってどうにかなるわけでもない。今日の食事と今晩の寝床、そして明日からの働き口は、自分で手に入れるしかない。

 ぐずぐずしている時間はなかった。むこうには舟でも馬車でも馬でも自由に調達できる、王立錬成院という身分がある。

 キャムは船着き場を離れ、人気のない裏通りをさがした。

 五王国中もっとも古い歴史と発展を誇るクロー王国は、ちょっとした町であればどこでも水道がひかれ、町中いたるところに石造りの人工の泉がもうけられている。

 ほどなく、魔除けの妖獣の口から水を受ける古そうな泉が見つかった。

「ごめんなさい、ちょっと汚しちゃうけど」

 ほおづえをついてなかなか愛嬌のある妖獣にひと声かけ、キャムは髪をほどいて頭をさしだし、水の流れですすいだ。

 髪を染めていた真紅の染料は次第に落ちて、やがて胡桃にも似た本来の淡褐色の髪が戻った。水をよくしぼって、キャムは今度は髪を編みこんだ。

 無造作に赤毛をくくって垂らした娘が、淡褐色の髪をていねいに編んでまとめた娘にと変身する。

「こんなものかな……」

 いまは鏡で確認することはできないが、見かけを変えることは慣れている。いちおう満足して体を起こす。髪型と仕草をちょっと変えるだけでも結構他人の目はごまかせることを、キャムはこれまでの経験から知っていた。

「あんな目に生まれなくて、ほんっと、よかった」

 スカートをほとんど覆っていた大きなエプロンをはずして、器用にくるくるとまとめながら、キャムはつぶやく。

 おせっかいにもキャムを見つけ出したあの王立錬成院の男には、こんな変身はできはしない。マントを着ていようがなにを着ていようが、あの目だけでもすぐに彼だとわかってしまう。

 キャムは船着き場へと戻った。

 平らかな石畳の岸には大小いくつもの舟がつながれ、乗船、降船、荷揚げ、荷積み、それぞれ忙しく作業している。

 休んでいるのか、また別の仕事にとりかかったのか、幸いにもここまで乗せてくれた船頭の姿はなかった。

 キャムは荷を積んでいる舟におずおずと近づき、行き先を尋ねた。

 二艘目の舟の船頭がそこまで行くと言った。

「あの……お礼もさしあげられなくて大変申し訳ないのですが、どうか乗せてはいただけませんか? ひとり暮らしの祖母が風邪をひいて寝こんでしまっているそうなんです。わたしが行って、看病してあげないと……」

 手提げかばん風にまとめて結んだエプロンを肘にさげ、両手を顔の前で組んで頼みこむと、人の良さそうな船頭は大きくうなずいて承知してくれた。

 キャムは本物の笑顔で喜び、心の底からのことばで感謝した。

「すぐに出発するが、いいかね?」

「はい、そのほうがありがたいです」

 乗りこむキャムに船頭は手を貸してくれた。

 身ごなしには自信がある。こんなつながれた舟に乗りこむ程度で人の手を借りる必要はまったく感じないが、貧しくも清くしとやかな娘を演じるいまは、ありがたく世話になることにする。洗濯縄から小舟に飛び降りてみせた娘とは、まったくの別人になりきらねばならない。すこしばかり怖そうに、平らな船底へつま先からそっと踏み出してみせる演技も忘れずに。

「出るぞ。その辺につかまっときな」

「はい」

 舟はゆっくり船着き場を離れ、流れを進み出した。

 上流へ。

 来た町へ。

「……またもとの町に舞いもどっているとは、まさか思わないでしょ」

 船尾にいる船頭には、キャムの顔は見えない。

 キャムはぺろりとちいさく舌を出した。


     †


 とある町の修道院がキャムの全世界と決められたのは、一〇歳をすぎたころだった。

 ここで育てられる娘たちは、家族を代表して神に祈るために実家からあずけられたということになっていたが、実際はなにがしかの金をつけて捨てられたも同然の境遇だった。さまざまな事情から家には置きにくい娘たちばかりで、母は未婚で父がわからなかったとか、家の主か息子が召使いに手をつけて生ませたとか、そんな醜聞があふれかえっていた。

 いわば上等な孤児院というべき修道院は、表向きはひたすらひっそりと静まりかえり、その裏では自分たちを捨てた実家と俗世間への恨みがうずまいていた。

 それまで農村でのびのび育っていたキャムがなじめる場所ではなかった。修道院に押しこまれて二日目には、キャムはもう脱走を心に決めていた。

 ひと月後、ついにキャムは塀を越えて町へと抜け出すことに成功した。

 浮きたつような春のにおいに包まれる、萌月のことだった。

 キャムはふらふらとあてもなく、ただ村とも修道院ともまるでちがうにぎわいの中をゆくのがおもしろくて、町をほっつき歩いていた。

 そこで、カリハ・シャールカに出会った。

「……おまえは?」

 よそみをしていたキャムは、前から肩にそっと手を置かれて止められた。

 ふりむいたとき、まず腰にさげられた長剣が見えた。キャムは顔をあげた。男装した胸もとしか見えなかった。だからもっと顔をあげた。慣れない角度にのばした喉がほんのすこし突っ張って、やっと、短い金砂色の髪にふちどられた女剣士の顔が見えた。

 キャムの目には、その姿はほとんど樫の木のようにうつった。うつむいてゆっくりと揺れながら歩く村の者や、ちまちまとせわしく歩く修道女とはまるでちがった。高く、堂々と、天を目指してそびえ立っていた。

「迷子か?」

 キャムはすっかり彼女に見惚れ、ぽかんと口をあけたまま答えられずにいた。

 彼女は困ったように小首をかしげ、キャムの前に片膝をついた。

「お母さんはどうした?」

 おなじ高さになってキャムをうつす瞳は、透きとおるような緑色だった。

 キャムはますます吸いこまれるような気持ちになって、自分がなにも答えていないことすら気づかなかった。萌月のやわらかな風が、彼女自身から吹いているかのようだった。

「――見つけたぞ、カリハ・シャールカ!」

 太く低い声が割って入った。

 驚くより先に、キャムは怖くなった。その声は、なにも知らないキャムにもはっきりわかるほど敵意に満ちていた。

 女剣士はゆっくりと立ちあがった。

 肩に置かれたままの彼女の手のあたたかさに、キャムはすこしだけ落ち着いた。

 声の主は、やはり長剣をさげた男だった。長身の女剣士よりもさらに頭ひとつ高く、肩はこぶのようにもりあがって、ほとんど壁が歩いているような迫力だった。ごつごつした顔立ちも岩のようだった。

 ふしくれだった指が女剣士につきつけられ、男はさらに声を張り上げた。

「おれは――」

 そこでいろいろと並べたてられたことばは、むなしくキャムの耳をすりぬけた。ただ「剣士団」というごつごつした響きと、「立ち会え!」と怒鳴ったその声の大きさに、キャムはふるえあがった。

 ぽん、と女剣士の手がやさしく肩を押しやった。

「さがっていろ」

 キャムは、だがその手に逆にしがみついた。

「だめだよ! いっしょに行こう!」

 女剣士は眉をあげてキャムを見つめ、それからくすりと笑った。

「心配してくれるのか?」

 ある意味ではうんざりするほど聞き飽きて、ある意味ではまったく聞き慣れないことばだった。

 心配。

 この人に悪いことは起きてほしくない――そんな気持ちになったのは初めてだった。わたしはこの人のことを心配している――そう自覚するのも初めてだった。

 一方で、人からは何度も言われたことがある。

 このままではおまえが心配だから、と両親はキャムを修道院にやった。

 あなたのことが心配です、と修道女は日に七回の祈りから逃げだすキャムのことを叱った。

 キャムはそう言われるのがほんとうにいやだった。

 だからこの人も心配だと言われていやになっていないか、怖くなった。彼女の笑顔の奥に不快感がひそんでいないか、キャムは必死にさぐった。

 手のなかから、彼女の手が一瞬で消えた。

「――」

 キャムははっと表情をこわばらせた。

 だが。

「長いこと忘れていたが、悪い気分ではないな。誰かに気づかってもらえるというのは」

 彼女はそう言って、キャムの頭をなでてくれた。

「ただ、いまは心配してくれなくてもいい。もうすこしさがってもらえれば、すぐに終わる」

「で、でも」

 彼女の笑みは樫の葉のむこうからふりそそぐ陽光を思わせる。

「わたしを信じられないか?」

 あわててキャムはぶんぶんと首をふった。

「だったら、すこし離れているんだ。あとで、家まで送っていってやろう」

 大男がいかつい顔を真っ赤にしてがなった。

「ば、ばかにするな、カリハ・シャールカ! そんなことが言えるのもいまのうちだ!」

「ちょっと待っていてくれ」

 彼女の笑顔にうながされて、キャムはそろそろと後ずさった。

 いつのまにか、周囲には人の輪ができていた。がやがやと無責任な会話が聞こえてくる。

「剣士同士の立ち会いだって?」

「こんな街角で立ち会いって、剣士団の公開戦じゃないのかい」

「それがどうも、あっちの女、そもそも剣士団の剣士でもないらしいぞ」

「知ってる、カリハなんとかって女だな。ほら、近ごろ評判の」

「へええ、一匹狼の女剣士ねえ。どこまで行けるかねえ」

「タダでいい見物だな、おい」

 女剣士と男が剣を抜く。

 おおっ、と野次馬たちが固唾を呑む。

 男が大きく腕をあげてふりかぶった。天を指した剣が陽光を反射した。

「行くぞ!」

 男の岩のような体が迫る。剣先が弧を描く。

 同時、女剣士も跳ぶ。低くするどく地を這う一陣の風と化す。

 ふりおろす剣と突き出す剣――ふたつの剣に導かれるよう、ふたつの体が交差した。

「!」

 キャムはおもわず両手を組み合わせた。

「……ぐっ……」

 腿をおさえてうずくまったのは、男のほうだった。

 男と場所を入れ替わった女剣士は、しずかにふりむいた。

「これで、納得したな? では放っておいてもらおう」

剣をおさめ、彼女は先ほどとまるで変わらない様子でやってきた。

 キャムは夢中で彼女に飛びついた。

「おっと」

 抱きとめてくれた彼女の首に、腕をまわす。その体のあたたかさがうれしくて、ほっとする。

「ひとまず、ここを離れるぞ」

 女剣士はキャムを抱きあげて歩き出した。

 しばらく歩いて、とん、と石畳の道におろされたとき、キャムはもう心を決めていた。

 家はどこだと聞いた女剣士に頼みこむ。

「わたしも一緒に行きたい。つれていってください」

 目を丸くした彼女に、キャムは自分の境遇を説明した。

 話を聞いても、彼女は渋った。修道院にとどまるよう、言葉を尽くしてキャムを諭した。旅の生活のつらさを語っておどしもした。

 それでもキャムは納得しなかった。旅の暮らしで、ときに食事にも寝床にもありつけない日があろうと、まったくかまわなかった。

 それよりも、彼女と別れてしまうことのほうがよほど怖かった。やさしくて、強くて、あたたかくて。彼女はキャムが初めて出会った、そばにいたいと願う相手だった。

「……もしかして」

 キャムはこわごわ聞いた。

「わたしが、さっき心配なんてしたから、それでわたしのこと、嫌いになっちゃったの?」

 女剣士は眉をあげた。

「そうじゃないが――なぜ、そんなことを言う?」

「だってわたし、心配されるの、嫌いだから……わたしを心配する、お父さんやお母さんや先生たちのことも、嫌いだから……」

「どうして心配されるのが嫌いなんだ?」

「わからないけど……でも、いや。わたしは悪い子で、ろくな大人になれないけど、でも、だけどそう言われるのは――いや」

 キャムはうつむいて唇を噛んだ。

「――わたしは、わかるぞ」

 やさしくて強い手が頭に置かれた。

「どうやらみんな、おまえのことは心配していないな。おまえがなにか問題を起こすことで、自分に不都合なことが起きるんじゃないかということを心配しているようだ」

 キャムは顔をあげた。

 女剣士の緑色の目が微笑んでいる。

「ひとつ、ことばを教えてやろう。そういうのを、おためごかしと言うんだ。そいつは心配なんかじゃない。心配のニセモノさ。おまえはホンモノとニセモノがきちんとわかる、いい子だ。自分を信じてやれ」

「――」

 そんなことを言われたのも、言った相手も、これもキャムにとっては初めてだった。

 彼女に関わることはみんな、キャムには初めてのことだった。

 これまでまったく知らなかった世界が、彼女のむこうにはひらけていた。

 キャムはそこへ行きたかった。

「だったら!」

 彼女の手をしっかとつかまえ、キャムは叫んだ。

「つれていってくれなきゃだめ! わたし、あなたと一緒に行きたい! ここでお別れしちゃだめだって、そう思うの! わたし、自分を信じる!」

「……しかしな。わたしには、おまえのような女の子の世話は荷が重すぎる」

「どうして? だって、あんなに強いのに」

「わたしは剣が多少使えるというだけのことだ。強いということは、まだよくわからない。だからこうして修行しているんだ」

「じゃあ、じゃあ、わたしも一緒に考えてあげるから! わたし、強いんだから! ほんとうなんだから!」

 女剣士はしばらくじっとキャムを見つめ――そして、あの木漏れ日のような微笑をひらめかせた。

「らしいな。負けたよ。カリハ・シャールカ、初の完敗だ」

 やわらかな萌月の風の中、キャムは顔をくしゃくしゃにして笑った。


     †


 舟が町に着いた。

「ありがとうございます。ほんとうに、なんとお礼を言ったらいいか。どうぞあなたに幸運がおとずれますように」

 キャムはことばをつくして船頭に感謝すると、雑踏へとまぎれこんだ。

 神聖剣戦を来年にひかえた今年は、国内代表の聖剣士を決める年だ。一年をかけて選考戦がおこなわれ、国中の剣士の頂点に立った勝者ただひとりだけが聖剣士の称号を得る。

 路傍の高札場には地方予選の開催を告げる立札がたてられ、目をひく格好をした公示人が鉦と太鼓で触れまわって、広く参加者を募っている。

 いたるところに張られた剣士団の張り紙もまた、人目をひきつける。

 〈栄冠は銀狼剣士団に〉

 〈環十字剣士団に死角なし〉

 〈勝利ふたたび、讃えよフーゴ剣士団〉

 張り紙はそれぞれに意匠を凝らし、予選当日の声援とその後の入団者を得ようと懸命だ。会場の空気は選考戦の行方を左右し、入団者が増えることは剣士団の発展に欠かせない。

 必死さのあまり、あざやかと言うよりどぎついと言ったほうが正しいそれらの張り紙に、キャムは一瞬演技を忘れておもいきり顔をしかめる。

「……今年だって、参加者はこんなにいるじゃない。師匠とわたしのことなんて、ほっといてくれればいいのに」

 聖剣士をめざす者が増えると、自然な流れで、各地に剣士団が結成されてそれぞれ鍛錬に励むようになった。ことに聖剣士を出すような有力な剣士団は王の保護も受けており、町でも名士あつかいされる。いまや、剣士団に属さない剣士のほうがすくない。

「なにが義務よ。こんなの、やりたい人間だけでやるものよ」

 キャムはぶつくさつぶやきながら、先を急いだ。

「――」

 行く手の小広場に、なにやら人だかりができている。

 悪い予感がした。こちらに行かねばならない理由もない。キャムはくるりと方向転換しかけた。

 そのとき、声が耳にとどいた。

「罪のない娘を困らせ、おれを侮辱し、それが剣士のすることか!」

 キャムの足が止まった。

 その声には聞き覚えがあった。

「ほへええ、ブジョク? ブジョクってなんだよ、かわいいねえちゃんにかわいいって言って、顔だけ男を顔だけ男って言うことか?」

「でもって許さねえって、なにをどう許さねえんだよ?」

 一方、にやついた顔が浮かぶような返答は、声からしていかつい男たちのものだった。

「おれたちを連行でもして、王さまにでも泣きつくんか? ボクちゃんにオイタしたヤツらにメッしてくだちゃい、とかよ」

 男たちがげらげら笑い出す。

「このような些事で陛下をわずらわせるつもりなどない! おまえたちも剣士ならば、剣で決着をつけろ!」

 いっそう大きな笑い声がその声にかぶさった。

「け、剣で決着だと?」

「ゆ、油断するなよ、こいつ笑い死にさせる気だぞ」

 野次馬たちがひそひそささやきあっている。

「……そうなんだよ、この時期の剣士は気が荒くなってるだろ」

「……酒ひっかけて、通りがかりの娘をからかってたところを、あのくろねずみに止められたみたいでさ」

「……だいじょうぶかねえ、くろねずみってのは腕っぷしのほうは全然なんだろ?」

「……だったらおまえ、止めてやれよ」

「……冗談じゃねえよ、あいつら白牙剣士団じゃねえか。ごろつきと変わらねえよ」

 キャムは人ごみのすきまから顔をのぞかせた。

 自分より頭ひとつ大きく、肩幅もはるかに広い男たちを見上げてにらみつけているのは、やはりあのくろねずみ――ルヴェルだった。

「ただし、選考戦に使う長剣は穢すな。短剣でやれ」

 男たちは無遠慮に天を仰いで大笑いする。

「き、聞いたか、長剣は穢すな、だとよ!」

「こいつ本気だぜ?」

「なあ、次はなにを言い出すか賭けようぜ? おれは『剣の錆にしてくれる』だ」

「じゃあおれは『天に代わって成敗する』にでもするかな?」

「よし決まりだな。麦酒(ピヴォ)一杯。逃げるなよ」

「てめえこそ」

 キャムは唇を噛んだ。

「……バカ」

 この事態にキャムはまったく関係ない。むしろルヴェルは、キャムにとってはただ迷惑なだけだ。ここで少々もめて時間をとられてくれれば、かえって好都合ですらある。

 だけど――キャムは迷う。

 ルヴェルは細い。相手の剣士たちとはちがって、戦うための体をしていない。

 それでも一歩もひかないさまは、ほんのすこしだけ、初めて会った日の師匠カリハ・シャールカをキャムに思い出させる。

 しかし、ルヴェルはカリハ・シャールカではない。体格の不利を補う技などまるで身につけてないことは、キャムの目にははっきりわかる。腰の短剣などただの飾りで、あってもなくてもたいして変わらないことだろう。

 男たちにいいようになぶられ、のされて役所にかつぎこまれる、哀れなルヴェルの姿が見える。

 こわばった横顔から察するに、おそらくはルヴェル自身にも見えているはずの、近い未来が。

「――もう、大損男!」

 キャムは人ごみを飛び出した。

「待ってください!」

 男たちの前に割って入る。

「なんだ?」

 男たちの眉があがった。

「すみません、この人が、あなたたちに失礼をしたみたいで。代わりにわたしがあやまります。だから、許してあげてください」

「許せだと!」

 背後からルヴェルが声をあげる。

「黙ってて!」

 キャムはすばやく肩越しに顔をふりむけ、すぐさま男たちに戻す。ルヴェルがどんな顔をしていたかは、見てもいないし、見たくもない。

「この人は、あなたたちとまともに立ち会えるような強い男じゃありません。誰がどう見たって、そんなこと、すぐにわかるじゃないですか。ねずみがしっぽをたてて挑戦してきたからって、それを受けては、かえって獅子の不名誉です」

 どうする、といったふうに片眉をあげて、男たちは視線を交わしあう。

 キャムはそのとまどいをさらに突く。

「さっきの賭け、聞いてました。あなたたちふたりに麦酒を一杯ずつ、わたしにごちそうさせてください」

 彼らの眉がぴくりと動く。

「そしてもう一杯ずつ、こちらはおわびとして」

 にこり、とキャムは精いっぱい愛想よく微笑んでみせる。

 ほんとうは、愛想笑いもしたくない。こんな男たちは大嫌いだ。力を誇り、弱い者など踏みにじって当然という傲慢な顔つきを眺めているだけで、胸がむかむかする。

 こいつら以上の力で、たたきのめしてやれたなら――キャムは、ついけわしくなる目もとを必死にゆるめる。自然とにぎりこみそうになるこぶしを我慢する。

 にいっ、と男たちの顔がぶきみに微笑んだ。

「……そいつは悪い話じゃねえが、なあ?」

「なあ?」

「なんせおれたち、女の前でカッコつけたり、またすぐ別の女にかばわれちまったりするような色男ってやつがよ」

「麦酒一杯、つか一樽より、ずっとずうっと好きなんだよなあ」

「だから、こいつのご自慢のこの顔をよ」

「もうちっと、男受けするように変えてやりてえんだよなあ」

 キャムはなんとか彼らをなだめようと、口をひらいた。

 その瞬間。

「どくんだ! これはおれとこいつらの話だ、おまえには関係ない!」

 いきなり、背後から肩に手がかかる。

「――」

 緊張がはじけ、おさえていた衝動が一気に噴き出した。くるりと体ごとふりかえったキャムは、勢いそのままに、おもいきりしならせた平手でルヴェルの横面を張り倒した。

 容赦ない音が響きわたった。

「…………」

 どさりと一瞬遅れて尻もちをついたルヴェルも、男たちも、野次馬も、全員があっけにとられて無言だった。

「ごめんなさい、ほんっとうにごめんなさい!」

 キャムはぽかんと座りこんだままのルヴェルを無視して、男たちにむかって両手を組んだ。

「もう二、三発張っときますから!」

 言うなり、すばやくルヴェルの胸もとのタイをつかんでひきよせる。

「いっ!」

 左の頬を赤くしたルヴェルの、今度は右の頬をひっぱたいて、キャムは怒鳴った。

「あんた、またよその女に色目つかったのね!」

「っ!? な、なんのはな――」

「ちょっと顔がいいと思って、この浮気者!!」

「だ、だからなんの――」

「今日という今日は許さないんだから!」

 もう一発張り倒す。

「ほら、さっさとよこしなさいよ!」

 言うなり、キャムはルヴェルの服の隠しに手をつっこんだ。なかで何枚かの硬貨が指先にふれた。大きさと厚み、そして浮き彫りにされた川の流れ――キャムはすばやく銀貨をさぐりあて、ひきぬきざまにふりかえる。

「ほんとうにすみませんでした。これで、どうぞ」

 居酒屋(ピヴニッツェ)での麦酒二杯分には十分なそれを、一枚ずつ、男たちの手に押しつける。

 男たちの視線が地面に下がる。

 そこには、両の頬にキャムの手形を赤くつけ、タイを乱して、尻もちをついたままのルヴェルがいる。いい具合にあんぐりと口をあけて、目を丸くして、せっかくの天明瞳も王立錬成院のマントも、いまの彼の様子ではかえって間抜けに見えるだけだ。

「――なんだこいつ!」

 男たちは笑い出した。

「見ろよ、このマヌケ面をよ!」

「自分の女に張り倒されて、尻もちついたまんまかよ!」

 すみませんすみません、とくりかえし、キャムはまたタイをつかんでルヴェルを無理やり引き起こした。

「ほら、話はあっちでゆっくり聞かせてもらうからね!」

 まだ呆然としているルヴェルをひきずって歩き出す。

「おう、ついでにもう何発か張ってもらえよ!」

「いい張り手だったぞ、ねえちゃん!」

 男たちの無遠慮な笑い声を背中にうけて、キャムはひたすら先を急いだ。

 裏道に入った。

 キャムは足を止めてふりむいた。

「――なにやってるのよ、おっちょこちょいのくろねずみ!」

 小声ながらもするどいキャムの叱責に、ようやくルヴェルはわれにかえったらしい。

「な、なんだと!」

 ふりはらわれるより先に、キャムはさっさと彼のタイを離した。

 空振りした腕にすこし体をよろめかせて、それでもルヴェルは言い返してきた。

「おまえこそ、いきなりなにをするんだ! 浮気者だとかなんだとか、あんな大うそを衆目監視のなかでわめいてくれたうえに、乱暴まで――」

「そうね、張り倒したのはごめんなさい。だけど、助かったのはそのおかげだってことも忘れないで。まともにあんなのとケンカしてたら、ほっぺたと銀貨二枚じゃすまなかったわよ」

「そういう問題じゃない! これは矜持というもので――」

「そんなお安い見栄、本物のねずみにでも食べさせとけばいいでしょ! なんだってあんなやつらにケンカ売りつけるような真似したのよ?」

「一般市民に迷惑をかかっていたんだ、誰かが助ける必要があった! ああいったやつらを放っておけば、もっと悪いやつらがのさばるようになる。悪の芽は、ちいさなうちからつみとるべきなんだ」

「そう、王立錬成院は正義の味方ってわけね。だけどだからって、誰もあなたにお礼なんか言ってくれないわよ? 助けてやった娘とかいうのも、わたし、見たおぼえないんだけど? どうせ本人はとっくに逃げちゃってたんでしょ?」

「人から礼を言われるためにやったことじゃない。王立錬成院の一員たるもの、国のために働くことは使命であり義務であり、そして名誉だ」

 むすっとした顔でどこかはるか彼方を見つめながら、ルヴェルは乱れたタイを直した。

「だいたい、それを言うならおまえにしても――」

 天明瞳がキャムの上に戻ってくる。その表情がとまどい、キャムの色を変えた髪へと流れ、またふたたび顔にと戻る。考えこんだその目の奥で、記憶がだしぬけにつながった。

「――キャ、キャム・ヴラスタ!」

 ルヴェルはなぜか、のけぞるように後じさった。

 ふうっと息をついて、キャムは腰に手を置いてルヴェルを見上げる。

「いまごろ気づいたの?」

「だ、だっておまえ、その髪は――ふ、服もぜんぜん違ってるじゃないか!」

「追いかけようって相手の顔もおぼえてないの? あと、女の化粧と衣装のお勉強もしたほうがいいわよ?」

「な、なんでここに――いやそれよりなんで――」

 あたふたしているルヴェルがおちつくより先に、キャムは口をひらく。

「人はいまでも師匠を捜してるわ。評判だったり賞金だったり、カリハ・シャールカという名前は、いろんなものをもたらすものだから。あなただって、カリハ・シャールカを見つけ出すことは、大事な仕事なんでしょ」

 ルヴェルはこくんと、やけにすなおにうなずいた。

 キャムは腰から手をはずした。

「師匠は――カリハ・シャールカは、死んだの」

 淡々と告げる。

「だから、選考戦に出ることも、聖剣士になることも、もうできない」

「――」

「あきらめて。そして、わたしのこともほっといて。あなたに協力できることなんて、なんにもないから」

 キャムは目を伏せた。

「……」

 わずかに唇を噛みしめる。

 自分の中でとっくにけりをつけたことのはずだったが、それでもあらためて死んだと口にするのはつらかった。そんなときに、誰かと視線を交わすことなどできなかった。しくしくとうずく心に無遠慮な視線を受けたくない。まだ癒えていない気持ちにさわらせたくない。

「――カリハ・シャールカが死んだ――?」

 ましてこんな、師匠を聖剣士候補のひとりとしか見なしていないくろねずみに。

「……つつしんで、おくやみ申しあげる」

 意外な言葉が聞こえた。

 キャムはまばたき、視線をあげた。

 びっくりするほど神妙な面持ちで、哀悼の意を表すために胸もとに片手を置いたルヴェルがいた。

「カリハ・シャールカは、おまえ以外に弟子はなかったと聞いている。彼女の死がいつのことかは知らないが、悲しみをともにする相手すらいなかったのは、つらかっただろう」

 キャムは、先ほどとはちがう理由でぷいと顔をそむけた。

「べつに」

 ぶっきらぼうにつぶやくのがやっとだった。

 ルヴェルに気づかれないよう、ひとつ息を入れる。強くあるため、生きていくためには、誰にも自分の弱点に気づかせてはならない。気持ちをおちつかせて、また顔をむける。

「それより、いくら恩人だからって、そんなあっさりとわたしを信じちゃっていいの? ずいぶんなお人好しね、あなたって」

「あ」

 ルヴェルはぱちくりとまばたいた。

「そ、そうか、なんらかの理由で選考戦と関わりたくないがために、うそをついているということもあるか……」

 キャムは吐息をついた。

「またすぐそうやってあっさり考えこんで。すこし考えればわかることじゃない、師匠が生きてたら、わたしがひとりでいることなんてないわよ」

「あ、なるほど」

「……ほんっとにお人好しのおっちょこちょいよね。よくそれで王立錬成院に入れたわね」

 ルヴェルはむすっと眉間をくもらせた。

「ああそうだ、おれは天才でもなんでもない凡人だ。一見そうは見えないらしいけどな。でもな、この目も顔も、生まれたらもうこうだったんだ! だっていうのに勝手にいろいろ期待されて、あげく期待はずれだって文句を言われるんだぞ。変えられるものなら変えたいくらいだ――くそ!」

 ルヴェルはどさりとその場に座ると、両手を後ろについて天を仰いだ。

「まさか、カリハ・シャールカが死んでいただなんてな。戻ったらまた嫌味の嵐か!」

 そのまま腕を広げて寝ころがってしまう。

 キャムは上体をかがめてその顔をのぞきこむ。

「〈大損〉だなんてあだ名までついちゃってるんなら、もう怖いものなんてないじゃない」

「……言うな」

「ほんとうのことなんだからしかたないでしょ。あんなふうに後先考えずに行動するんじゃ、そりゃあ大損ばっかりでしょうね」

「……性分を、そうかんたんに変えられるか」

「その目を変えるよりはかんたんだと思うけど?」

「ふん」

 キャムはまじめくさって言った。

「じゃ、せめて考え方でも変えてみたら?」

「は?」

「顔はいいのにおっちょこちょい、じゃなくて、おっちょこちょいだけど顔はいい、ってふうに。そっちのほうが、すこしはマシに思えるんじゃない?」

「……どのみちおまえはバカだと言いたいだけか」

「なんだ、皮肉はわかるんだ」

「ああ、皮肉と嫌味にはうるさいぞ!」

「けっこう苦労しているのね。だけど言われてもしょうがないわよ。天明瞳も珍しいけど、自分が痛い目見ることわかっててケンカを売りつけるおっちょこちょいだって、滅多にいないもの」

「ふん!」

「でも――あなたがそんなお人好しのおっちょこちょいじゃなかったら、助けもしなかったし、師匠の話もしなかった」

 まさかおくやみまで言ってくるとは思わなかったけど、と声には出さずにつけくわえる。

 キャムは体を起こし、空を見上げた。

「師匠が死んだなんて話、もっとおりこうさんな人は誰も信じないから。師匠が生きてなきゃ倒せないし、賞金ももらえないしね。自分が生きていてもらわなきゃ困るからって、師匠は生きているって決めつけて。なんとしてでも見つけ出そうと、あちこち捜しまくって、ほじくりかえして」

 地上に顔を戻すと、寝ころんだままのルヴェルの天明瞳がじっとこちらを見上げていた。

「そんな無神経なわからず屋たちに、師匠の安息の地を教えるわけにはいかないわ。師匠は、いまは安らかに眠っているんだもの。あのままずっとしずかに眠らせてあげたいの」

 ルヴェルの返事は待たず、キャムは視線をそらす。

「さて、と――」

 体の前で組んだ腕を伸ばして、気持ちをきりかえる。

 姿を変えて戻ったこの町で、またルヴェルと会ってしまった。やはり別の町へ移らなければならない。彼自身はもうキャムを追いかけることもないだろうが、しかし自分の正体と所在を知っている人間がいれば、いつかどこかにその情報が漏れるかもしれない。

 カリハ・シャールカの名はいまだに高く、それにつながる者がいると知ったら目の色を変えて追ってくる人間には事欠かない。そうした追手からはどこまでも逃げなくてはならない。師匠を安らかな眠りに置きつづけておくために、そして師匠の願いをかなえるために。

 突然、がばっとルヴェルが起きあがった。

「ちょっと待て!」

「なに?」

 ルヴェルは立ちあがり、真顔でまず言った。

「助けてもらったことにはかわりはなかった。礼を言い忘れた。ありがとう」

「はあ」

 残念なことにルヴェルの両頬にはまだ手形が赤く残っていて、いつものような美形とはいいがたい。とっさとはいえ強く張りすぎたかと、キャムはほんのすこし後悔した。

「ありがたく思ってもらえるなら、わたしのことはきれいに忘れてほしいんだけど」

「いや、それはできない。上に報告しなければならない」

 キャムは顔をしかめた。

「これだからお役所は! だったらせめて、師匠はもう死んで関係者もいない、賞金もとりさげるって、王さまから発表してもらえない? わたしは平凡に生きていきたいのよ」

「いや、待て待て待て!」

 がしっと肩をつかまれる。

 天明瞳がすぐ目の前に近づいた。

「おまえがいる、おまえは、カリハ・シャールカの弟子だ!」

「ちょっ、しずかにしてよ!」

 天明瞳は意気込むばかりで、聞く耳は持っていない。

「洗濯屋で逃げたあの身ごなし、おれを張り倒したあの力! おまえが正統な後継者として選考戦に出ればいい!」

「はあっ!?」

「心配するな、なにも本気でやれとは言ってない。陛下の前での模擬戦だ。おまえならそれくらいはやれるはずだ。そこでカリハ・シャールカ唯一の弟子として名乗りをあげ、かつての聖剣士と一剣を交える。そのあとは名誉剣士として選考戦の審判でも務めればいい。これなら陛下も納得する! 王立錬成院も予算を使った意味がある! おれも面目が立つ! おまえも陛下の庇護を受けられて、あんなところで働かなくてもよくなる! 四方が丸くおさまるじゃないか!」

 キャムはすぐそばの天明瞳を見た。

 濃淡の蒼から茜までの無限の色調に染まった神秘の瞳は、どこまでも本気だった。

「……強さが剣だと考えたわたしはまちがっていた。わたしのあやまちをくりかえすな。おまえは、ほんとうに強くなれ。――」

 キャムはつぶやいた。

「は?」

「師匠の最後のことばよ。わたしはそれを守るの。二度と剣にはかかわらないの。いつまでも、どこまでも、なにをしても。だから」

 キャムは肩にかけられたルヴェルの手に自分の手を重ねた。

 とほぼ同時、膝を曲げてしゃがみこんだ動きは、ルヴェルの目にはキャムが消えたかのようにうつっただろう。

「わっ!」

 だしぬけに手を下に持って行かれて、がくん、とルヴェルの膝がくずれる。

 しゃがんだキャムはすかさずその足をはじく。

 胸を軸に、ルヴェルがくるりと空中できれいに回転し、どさりと背中から落ちる。

 そのときキャムはもう立ちあがっている。

「今度こそ、さよなら!」

 道路と激突寸前で彼の腕をひっぱってある。腰が半日痛むかもしれないが、たいしたことはない。キャムは風のように走り出す。

「いて……ま、待て、キャム・ヴラスタ!」

 そんな声もすぐに聞こえなくなった。

「あの恩知らずのくろねずみ! 助けるんじゃなかった! 一千と一匹のねずみがあいつの頭に落っこちますように!」

 あまりにちがう実力差も顧みない彼の無謀さに、ついキャムはほだされた。

 が。

「もうおんなじまちがいはくりかえさないんだから! くろねずみなんかにかかわると、絶っ対ろくなことにはならない!」

 ほんのいっとき前の自分をおもいきり呪いながら、スカートの裾をひるがえして、キャムはさらに加速した。


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