愛していました
愛していました
夫だった人は最期まで“私”に振り返ってはくれなかった。“私”の初恋の相手は夫だ。“私”は一目見た時から夫に心を奪われたというのに夫はつれない。どうやら夫には好きな方がいるらしい。そんな噂を耳にした“私”は、胸の痛みに顔を歪める。ズキリ。それは初恋の味を知ったばかりの“私”にとって初めて伴う痛みだった。夫とは政略結婚だから仕方ないのかも知れない。“私”は痛みに耐えながらそんな風に“私”を慰めた。けれど、と思う。けれど、“私”はーー……
「王よ、愛しています」
純真無垢だった“私”は恋愛の駆け引きなど知らない。ただ真っ直ぐに熱い胸のうちを言葉にしたためるしかなかった。そんな“私”の想いを夫は冷たい視線で受け流す。ズキリ。また“私”の小さな胸は痛んだ。“私”は悲しかったが、“私”達は夫婦なのだ、と折れそうになる心を奮い立たせながら何度も何度も愛していると伝い続けた。想いを諦めずに伝え続ければ、いつかきっと心が通じ合うだろうから。いつも“私”の事を第一に考えてくれるあたたかい両親や優しい幼なじみに囲まれながら、自国の城中でぬくぬくと育ってきた“私”はそう信じていた。
ある日いつもの様に王への愛を言葉にした“私”を前に王が立ち止まった。王がじっと“私”を見る。“私”はドキドキした。ようやく気持ちが通じたのかも知れない。甘い考えの“私”は思わずそんな風に期待する。しかしその期待は直ぐ粉々に打ち砕かれた。
「愛しているなどとそう簡単に口にするな」
「何故ですか? 私は私の想いを素直なままに言葉にしているだけです」
「幸せ者だな、お前は」
夫は“私”を蔑む様な瞳で見下ろした。“私”は愕然とする。“私”は王に愛されるどころか、憎まれてさえいる? そう肌で感じ、“私”の瞳はみるみるうちに濡れぼそって、全身はゾクゾクと粟立っていく。ズキリ。胸の痛みなんて、上手く呼吸が出来ない程に悲鳴を上げている。“私”は今まで一度も他人から悪意を向けられた事などなかった。初めて“私”に憎悪をぶつけるのがよりにもよって愛する王なんて。どうして。どうしてなの。絶望感に苛まれながらおずおずと王を見れば王は薄く笑った。
「アイツがスパイ容疑などという言われなき罪で捕まった。そなたの差し金だろう? そなたをただの世間知らずの姫かと思って甘く見ていたがやってくれたな」
「違います! そんな、知りません!」
「……そなたの好きにはさせない。アイツは私が必ず助け出す」
「王の大切な御方なら助け出せば良い。私は罪なき人を投獄する様な真似はしておりませぬ!」
アイツとは王の愛する人だろう。その方が捕まった? 初耳だった。“私”は無実だが王にどう言えば良いのか分からない。王は“私”をハナから疑っている。けれど“私”は本当に知らないのだ。身の潔白を訴える“私”に王は背中を向けて去っていった。
王に言われた通り“私”は世間知らずの深窓なお姫様だった。正しい事は必ず受け入れられると思ってたし、誤った事は正さなければいけないと思っていた。だから“私”は、結婚後は姫付きの近衛兵として付いて来てくれた幼なじみに無理を言って王の愛する人を助け出そうと思った。そうすれば王の愛する人も“私”も濡れ衣を晴らせるはずだ。“私”は幼なじみの助けを借りて地下にある牢屋へと潜り込む。幼なじみには入り口で見張り役を買って貰った。兵は主に食事を運ぶ時にしか、牢屋に出入りしないらしいので、“私”は一人で静寂に包まれた先へと進む事が出来た。ひんやりとした底冷えする空気、凝らしても凝らしても視界を遮る暗い闇、鼻をつく独特の嫌な臭い。戸惑うばかりの“私”は今まで煌びやかな世界しか知らなかった。冷たい石壁を頼りに手で伝いながら何とか進んでいくと、声が聞こえてきた。女性と男性の声に“私”は固まってしまう。この地下牢は今、王の愛する人しかいないと幼なじみが言っていた。“私”の安全の為に事前に調査してくれたのだ。それなのに何故? 少し考えてみたものの“私”には答えを出せる訳がなく、その場で身を縮ませた。
「ーー様、王が必ず何とかしてくれます」
「当然よ。王はあたしを寵愛して下さってるもの。でもしくじったわ。まさか神官長が私を裏切るなんて。ちょっとした浮気じゃないの。馬鹿みたいよ」
「ーー様! もう少し慎重に行動して下さい! 浮気などもし王の耳にでも入れば……!」
「大丈夫。王は単純だもの。あたししか信じないわ」
自然と耳に入ってきた会話に“私”はみるみる顔色を青くさせた。これが王の愛する人? その人は今何と言った? 王はーー。
「王を侮辱する事は許しません! 王は貴方を心から愛してらっしゃるのよ?」
「まさか……王妃様!? 何故この様な場所に!?」
「王妃様? ああ、王に相手にされない可哀想なお姫様ね」
我慢出来なくて飛び出て行った“私”に男が目を見開いて驚いた。対して傍にいた女はふんと鼻を慣らしながら“私”を不躾な目でジロジロと観察する。”私”も朧気なろうそくの灯りを頼りに女を見た。この人が王が愛した女性? なる程、確かに“私”が見てきたどの女よりも美しかった。“私”は美しい女に柵越しににじり寄る。カチャリ。その場の雰囲気にそぐわない軽快な音が“私”の鼓膜を揺らす。牢屋の鍵が開いていた。
「鍵が?」
「王に貰ったの。いつでも出入り出来るのよ。こんな場所、本当は今直ぐにでも出て行きたいのだけれど、それでは脱獄となってしまう。神官長の思う壺だわ。さあお姫様、あたしともう少しお話しませんこと?」
美しい女は妖しい笑みで“私”を手招いた。“私”は躊躇する事なく美しい女の元へと歩み寄る。
「幸せなお姫様。貴方は世間というものを本当に何にも知らないのね」
冷えた声色でそう言われ、“私”は美しい女を見た。美しい女の瞳は“私”を軽蔑しきっていた。“私”はこの時、初めて女の手に小刀が握られている事に気付く。それがギラギラと“私”の目に焼き付き、そしてーー。何が起こったのか分からない。バチバチッと火花の様なものが脳裏で弾けたかと思ったら“私”はこの世のものとは思えない痛みを感じてその場に倒れ込んだ。
「ヒッ! ーー様、なんてこと……!?」
「ふん。こんな小娘の後始末など王の力でどうにでもなるわよ。罪を全部コイツに被せれば良いわ。幸い、私達の結婚を反対した忌々しい前国王は不在だしね」
美しい女は何を言ってるのだろう。ズキリ。“私”の耳は上手く機能してくれなかった。ズキリ。“私”が何か発し様としてもそれは言葉にならなかった。ズキリ。全身が炎に包まれたように熱い。ズキリ。この痛みは果たして、身体の痛みなのか、心の痛みなのか。“私”にはもう分からない。
(王よ、私は貴方を……)
『愛しているなどとそう簡単に口にするな』
ーーズキリ。
王の幻聴が私の全てを引き裂いた。前世の“私”はそこで事切れた。
「夏樹か。よく来たな」
「ご無沙汰しております、伯父様。この度はこの様な素晴らしい学園にお招き頂けた事光栄に思います」
「ははは。誘ったのは事実だが編入出来たのはお前の実力だろう。ところで祭はどうした?」
「祭は近日中来る事になってます」
「珍しいな。何が何でも夏樹にくっついて来ると思ったが」
「伯父様、祭は犬ではありません!」
「はははは。悪い悪い。夏樹の大切な幼なじみだったな」
現世の“俺”は日本でも有数の資産家の息子として生を受けた。伯父から熱烈な誘いを受け、伯父が経営する全寮制の学園へと編入する事になった。幼なじみの祭も一緒だ。
「そうそう。学園を案内しないとな。自慢ではないがなかなか広い学園だ。本当なら私が案内したい所だがどうしても外せない用事があってね。変わりの者に……この学園の生徒会長に案内させる事にした」
「お気遣い有り難うございます」
“俺”が頭を下げると伯父は人好きする様な柔らかな笑みを浮かべメタリック塗装のスマホを耳に宛てがった。今から生徒会長を呼び出してくれるらしい。通話が終わってから五分も経たないうちに控え目なノック音が聞こえた。伯父の「入りなさい」という言葉を合図に制服に身を包んだ端正な顔立ちの男が入室する。“俺”ははっと息を飲んだ。ーー王だった。“俺”は少しだけ驚いたものの極めて冷静だったのは、現世でも必ず王と会う事になる、といつも心のどこかで身構えいたからだろう。前世の縁は現世に繋がっている。現に伯父や祭も前世ゆかりの者達だ。最も記憶まであるとは限らない。“俺”や祭の様に引き継いでいる場合もあるし、伯父の様に忘れてしまっている場合もある。
「お前……!?」
あからさまに動揺している王は前世の記憶があるのだろう。“俺”は冷静に王を観察した。
「知り合いか?」
「いえ、初めてお会いします」
伯父の問い掛けに“俺”はそう答えた。王はびくりと肩を震わせ、こちらをじっと見つめてくる。視線がかち合う。胸の痛みはなかった。“俺”は胸の痛みを感じない事に安堵する。
『愛しているなどとそう簡単に口にするな』
前世で浴びせられた王の言葉が脳裏に響く。分かっています。“俺”は心中でそう応えたながら、かつて夫だった男の目を見据えた。
「初めまして」
言いながら、“俺”はにっこりと微笑んだ。王よ、分かっています。安心して下さい。もう二度と愛していますなどとは言いませんから。