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セカンドベース

作者: 千樹伊織

 

 

 日本プロ野球球団の一つ、スパイラル・ワイバーンズの本拠地球場である、サンシャインドーム。

 その一塁側ロッカールームで、ワイバーンズのユニフォームを着た中年男性が一人、一枚の写真を見つめて佇んでいる。

 時刻は午後四時丁度。ロッカールームには、彼以外の人間はいない。

「……あの時は、まさか今頃まで野球をやってるとは思わなかった……」

 男はそう言って少しだけ微笑むと、静かかに目を閉じ、過ぎ去りし日々に思いを馳せた――。

 

 

(……もう、別にいいんじゃないか?)

 その年の二月、丁度プロ野球の春季キャンプインを迎えた頃、男の脳裏にはそんな考えが日々浮かんでは消えていた。

 男の名前は西山(にしやま)隆志(たかし)。今年で二十五年目のプロ生活を迎える、ワイバーンズのベテラン選手だ。

 西山は若い頃、俊足強打のスイッチヒッターとして、チームのレギュラー二塁手を務めていた。

 しかし、近年は腰を痛めて故障がちになり、レギュラーはおろか、一軍にいることすら難しい立場になっている。

 高校卒業と同時にプロの世界に飛び込んだので、年齢は今度の誕生日で四十三歳になる。最早、今更レギュラーに返り咲くことなど不可能だ。

 そんな思いが、近頃は西山に『引退』の二文字を意識させるようになった。

 彼には守るべき家族があったが、今までの稼ぎだけでも十分養っていけるだろう。

 さらに彼ほどの実績の持ち主なら、引退しても路頭に迷うことなく、コーチあるいは評論家として、何らかの形でプロ野球界に残ることが出来る。そうなればむしろ、今より給料が上がる可能性すらある。

(……でもなあ……)

 このような思いを抱えつつも、西山は心のどこかで現役であることへの拘りを持ち続けていた。引退という言葉は、まだ自分の辞書には無いように思える。

 そう思うからこそ、キャンプでの守備練習では誰よりも先にセカンドの守備位置に着き、積極的にコーチのノックを浴びた。

「セカンド、行くぞ!」

「おう!」

 そして今日もまた、慣れ親しんだグラウンドで、いつものようにノックを受ける。

 西山は守備が好きだ。いや、正確には好きになったと言うべきか。

 元々守備を苦手にはしていない西山だったが、経験の蓄積により、近年は身体能力の低下を補ってあまりあるパフォーマンスを発揮できるようになっていたのだ。年齢を感じさせない守備だと周囲に評される度、西山は自分を誇らしく思う。

 対照的に、打撃は全くの苦手になってしまった。今や、試合前に打撃ゲージに入るのさえ嫌気が差してくる。

 打席において、西山のようなベテラン選手にとっての弊害は、ボールに対する恐怖心だ。その原因は主に視力や反射神経の低下によるものだが、とりわけ時速一五〇キロ超のボールともなると、言葉では言い表せない程の迫力があり、特に意識せずとも身体が逃げていってしまう時がある。

 西山も、頭ではその弊害を理解していたつもりだったが、実際に体感した時のショックは大きかった。

 ボールの迫力だけでも十分なのに、今まで数々の実績を積み上げてきた自分の身体が、それほどまでに衰えているのだという現実に、彼の心は粉々に砕かれた。なまじ守備においては衰えを感じていなかっただけに、何かの間違いではないかと疑う日々もあった。

 そんなわけで、出来ることなら打撃練習はしたくない。しかし、西山ほどのベテラン選手が練習をサボっていては、若手選手達に示しがつかない。

 そこで彼は、打撃は練習量に留め、その分積極的に守備練習に参加することにした。お陰で若手からは、ほとんど守備コーチ同然の扱いを受けているのだ。

「西山さん、ナイスプレー!」

 若手の良いお手本となるよう、堅実なプレーを見せた西山は、一緒にノックを受けていた他の選手たちから賞賛を受けた。どうやら、上手くいったようだ。

(若手か……)

 『最近の若いヤツらは……』とは、年配の人間の口癖のようなものだ。大抵その後には、何かしらの不平不満が続き、若者をあれこれ批難する時に用いられる。

 しかし西山は、そんな言葉を口にしたことはなかった。むしろ、今の若手選手たちは、非常によくやってくれるとすら思う。

 練習開始前には、いつも爽やかな挨拶をしてくれるし、練習が始まれば何事にも一心不乱に取り組む。練習後、気の合う仲間同士で何を集まっているのかと思えば、なんと野球の技術談義に花を咲かせていた。果たして自分は若手時代、彼らほど真剣に野球をやっていたかと振り返ると、身につまされる思いにすらなる。

 そんな彼らを批難することなど、西山にはとても出来ない。

 特に今、西山と入れ替わりでノックを受けている選手など、実に素晴らしい構えで打球を待っている。

 両脚を肩幅まで広げ、深く腰を落とし、若干踵を浮かせつつも、ノッカーを凝視するその姿は、写真を撮って部屋に飾っておきたいほどに美しく、基本に忠実だ。

 守っているのは、今年大学から入団したばかりの選手で、名前は(ひがし)紀早(かずさ)という。ドラフト三巡目で指名された選手で、あわよくば即戦力の期待もかかっている。

 西山がそんな彼の姿に感心していると、ノッカーの声が響き、痛烈な打球が唸りを上げて飛んできた。

 ボールは東から遠く離れた、セカンドベース付近へと向かっている。

(……ありゃちょっと無理だな。どこ打ってんだよ)

 西山がノッカーの打球にケチをつけたその刹那、東が機敏に反応して打球に飛びつくと、息も吐かせぬまま反転し、一塁手へと送球した。

 送球は矢のように一、二塁間を横切ると、一塁手のミットに正確に収まった。

「おお、ナイスプレー!」

 東のプレーに感嘆し、西山は思わず称賛の声をあげた。彼ほどのキャリアでも、あのような打球を捕り、あのような送球を見せる選手は、滅多にお目にかかることは無い。

(すっげぇヤツだな、東ってのは……)

 身震いするような感動を受けた西山は、近頃覚えたことのないやる気に駆られ、東に代わってノッカーの前に進み出た。

「ヨッシャ、バッチ来い!」

「西山さん、凄い気迫だ……」

 グラウンドに響き渡る自分の声と、それを聞いた周囲の反応が、西山には少し誇らしかった。

 そんな気持ちになったのは、本当に久しぶりのことだった。

 

 

(今日は良い練習が出来たな……)

 練習終了後、近年味わったことのない充実感と共に、西山は今日の練習を反芻した。

 東と同じようなプレーがしたくて、西山は彼の構えを真似てみた。すると、それまでは飛びついて捕っていたような打球を安定した姿勢で捕れるようになり、どうしても届きそうもない打球を何とか止められるようにもなった。お陰でノック終了後には、助言を求める若手に囲まれてしまう羽目になった。それもこれも、全て東のお陰だ。

 ただ、東本人はその自覚が無いらしく、西山の取ってつけたようなアドバイスを、他の若手と一緒になって真剣に聞いていた。

(あいつ……どこにいるかな?)

 何はともあれ、一言お礼が言いたくて、西山は東を探して辺りを見回した。すると、こちらに走ってくる人影が見えた。

「あれは……」

 驚いたことに、その人影は東だった。

「西山さん、……さ、さっきは、ど、どうも……」

「落ち着け、東。焦らなくても、俺は逃げないぞ」

 息も絶え絶えに話しかけてくるルーキーに、西山は笑いながら語りかけた。

「あ、ありがとうございます」

 東はそう言うと、足を止めて大きく深呼吸する。

「……ふう、よし。西山さん、さっきはどうも、ありがとうございました!」

 高らかにお礼を言って頭を下げた東に、西山は少し動揺した。

「な、何の話だ? 俺、お前にお礼を言われるような事、したか?」

「何を言ってるんですか。さっき守備の構えを教えてくれたじゃないですか」

 東はそう言うと、抜群の笑顔を見せてくる。

「ああ、あれは何と言うか……」

 あれは何と言うか出任せに近いアドバイスで、本当のところは東の真似をしただけなのだが、西山にはそのことが上手く説明できそうになかった。

「それに、僕のプレーを褒めてもくれました。もう、最高でしたよ!」

「ちょっと待てよ。そりゃ、お前はチームメイトなんだから、良いプレーをしたら褒めるのは当たり前だろう?」

 そうは言ったものの、西山は少し嬉しさを感じていた。自分の言葉を素直に受け止めてくれた東に、ますます感謝の意が募っていく。

「俺の方こそ、お前のあのプレーを見たから、ファイトが生まれてきたんだ。逆に俺がお前に何かお礼をしたいぐらいだよ」

「そんな……僕はただ、必死にやっただけで……」

「その必死さが良かったんだ。さあ、何でも言ってくれ。そうじゃないと俺の気がすまない」

「そうですか……」

 あのプレーにはそれだけの価値がある、という西山の思いが通じたのか、東は何かないかと腕組みをして考え込んだ。

 しばらくして、ふと何かを思いついたように腕を下ろす。

「……それなら、写真を撮らせてください」

「写真? ……ああ、構わんが」

「ありがとうごさいます!」

 西山が快諾すると、東は嬉しそうにベンチの中へと飛んでいき、自分のバッグを探し始めた。『32』の背番号があっちこっちへと移動しては、見えたり消えたりしている。

 西山はそんな彼の姿を見て、あることに気がついた。東は、きちんとしたユニフォーム姿で練習をしていたのだ。

 振り返って我が身を見れば、下こそうにフォームのズボンだが、上に着ているのはアンダーシャツで、当然背番号もついていない。襟元に自分の名前のイニシャルと『25』の番号が小さく刺繍されているだけだ。

 ユニフォームは、プロ野球選手の正装であり、戦闘服でもある。野球をする時は、常にそれを身に付けていなければならない。西山自身が入団当時に叩き込まれた鉄則を、東の姿勢が思い出させてくれた。

(明日からはユニフォームだな……)

 西山が心に固く誓ったのと同時に、東がカメラを探し当て、西山の元に戻ってきた。

「お待たせしました! なかなか見つからなくて……」

「いいカメラだ」

 西山は思わず口走った。見たところ、最新機種のデジタルカメラのようだ。

「ありがとうございます。このカメラ、父が入団祝いにって買ってくれたんです」

「そうか。カメラ、好きなんだな」

「いえ、そういうわけではないんです」

 東はそう言うと少し吹き出した。

「実は……僕の父はなんて言うか少しミーハーで『プロの選手の写真を沢山撮って送ってくれ』って言われたんです」

「それはなかなか良い考えだな。年上の選手と話す、いいきっかけになる」

「ああ! そうですね!」

 西山がふと漏らした感想に、東は激しく頷いた。

 どうやら東は、父親の配慮に気付いていなかったらしい。もっとも、東の父親にそんな意図があったかどうかは、当然西山にも分からない。・

「……ところでこれ、どうやって動かすんでしょうか?」

 手元でカメラをいじりながら、東が西山に問いかけてきた。どうやら、まだ電源すらついていないらしい。

「え? お前、分かんないの?」

「デジカメなんて持ったこともないですよ。父は、僕の試合の写真をよく撮っていたんですが……」

 今時の若者にしては珍しい――という感想を持った西山だったが、振り返って我が身を見れば、学生時代は野球ばかりしていた。カメラを持ったのも、家庭を持つようになってからのことで、それでも最新機種には手が出ない。時代が違うとはいえ、東が同じような境遇だとしても、別段不思議はない。

「どうしましょうか……」

「だ、誰か分かるやつに……」

 そう言って辺りを見回した西山の目に、うってつけの選手が見えた。

「お~い、(ひめ)()!」

 西山が声をかけると、プロ八年目の中堅選手、姫矢がこちらにやってくる。

「なんですか、西山さん」

「このカメラって、どうやって動かすんだ?」

 西山は東からカメラを預かり、姫矢へと手渡した。

「姫矢さん……本物だ」

 一年目から輝かしい実績を上げ、尚も進化を続ける日本球界最高のリリーバーと称される姫矢を前にして、東は少し驚いたような声を漏らした。

「ここをこうやって、電源を入れるんです。あとは、普通に撮影すればいいんですよ」

 姫矢は少し呆れながらも、丁寧に説明を始めた。押しも押されぬスター選手の姫矢だが、彼は西山の高校の後輩であるため、西山の頼みは断れないのだ。

「はい、西山さん。いきますよ~」

 姫矢に説明してもらい、やっとのことでカメラを構えた東が、西山に声をかけた。

「あ、いや、ちょっと待った。姫矢!」

 西山は急にあることを思いつき、帰りかけた姫矢を呼び止めた。

「何ですか。まだ何か御用が?」

「写真、撮ってくれ。俺と、東の」

 西山はそれだけ言うと、カメラを再び東から姫矢に渡し、自分は東の隣に並び、彼と肩を組んだ。

「西山さん、どうして……」

「写真、親父さんに贈るんだろ? 仲良く写ってる方が、親父さんも安心するだろ」

「西山さん……」

 感激した様子の東を半ば強引にカメラに向かわせ、西山はポーズを取った。何だか、最高に楽しい気分だ。

「……東、もうちょっと笑え。それじゃあ、脅されてるみたいだぞ」

 すでにカメラを構えている姫矢が、東に忠告する。

「そんな……姫矢さんに撮ってもらうと思うと、恐れ多くて……」

「おいおい、取って食われる訳じゃないんだから……」

 西山は緊張する東をなだめようと、冗談を言った。

「ま、写真は撮るんですけどね」

 目的は定かではないが、姫矢も冗談を言い、そうしてやっと東に笑顔が戻った。

 その時を逃さず、姫矢がシャッターを切り、ベテラン選手とルーキーは、仲良く一枚の写真に収まった。

 

 

 キャンプも終わり、いよいよオープン戦が始まるころになると、西山が東を見る機会は、めっきりと減っていってしまった。

 しかし西山は、それを寂しいとは思わっていない。元々、ベテランの彼と、ルーキーの東とでは置かれている立場が異なるのだ。

 通常、東のような入団したばかりの選手は、一軍の主力選手たちと共にオープン戦を戦っていき、西山のような古株のベテラン選手は、主力と別れて調整を行っていく。

 西山と東が一緒に居られたのは、キャンプ序盤故のいわば特例で、今の状態が普通なのだ。

 西山にはむしろ、東が一軍で活躍することの方が嬉しかった。なかなか時間が合わず、未だ二人で撮った写真は西山の手元には届いていないが、そのことが逆に、東の明るい未来を暗示しているようだった。

 そんな中、オープン戦も折り返しを迎えるその日、状況が変わった。

 西山は、チームの本拠地であるサンシャインドームで、一部の選手達と練習を行っていた。現在西山と行動を共にする選手達は、いわば二軍選手達であり、オープン戦には出場しない。

(まあ、今の俺の実力じゃこんなところか……)

 西山ほどのベテラン選手になると、余程のことがない限り、オープン戦にはそれほど出場しない。オープン戦は、若手のアピールや、主力選手の調整のための場だ。西山のような控えのベテラン選手は、居るだけ邪魔というものだ。

「……西山さん」

 後ろから声を掛けられ、西山が振り向くと、そこには意外な人物の姿があった。

「東! どうしてここに? 今頃は松山で試合じゃないのか?」

「今日の試合は雨天中止ですよ。もっとも、今の僕には関係のないことですが……」

 西山の驚きを他所に、東は淡々と、少し打ちひしがれながら語りだした。

「降格したんです。結果が残せなくて……これ、いつかの写真です」

 東が手渡してきた写真には、笑顔で写る西山と東の姿があった。

 しかし、今の東の表情は、この時のものとは似ても似つかないほど沈んでいる。

「……そうか、残念だったな」

「一軍はレベルの違う所でした。結局、写真もそれ以来撮ってないんです……。何て言うか、いっぱいいっぱいで……」

 東はそう言って自嘲気味に笑った。

 その姿を見て、西山の心も少し沈んできてしまった。やはり、これ程の逸材でも無理なのだろうか。

「まあ、僕の実力じゃ、所詮こんなところなんですよ」

「そんなことを言うな!」

 気が付けば、西山は怒鳴っていた。

 先程まで自分が思っていたこととそっくり同じことを言われたのだが、ルーキーがそんな弱気なことではいけない。ましてや、東は西山が期待する存在なのだから。

「お前は必ず出来る男だ! 若いうちから、そんな口を利くんじゃない!」

「西山さん……」

「一度失敗したぐらいがなんだ! またここから頑張って、取り戻していきゃいいじゃないか!」

 西山はすっかり熱くなって、いつの間にか叫びづけていた。

 声に驚いた周囲の選手たちがこちらを見てきたが、東の瞳に闘志が戻るのを見て、そんなことはどうでも良くなった。

「……そうですよね。まだ、これからですよね!」

「その意気だ! 期待してるぜ、ルーキー!」

 西山はそう口にすると、固い握手を交わした。

「さあ、練習だ! 今日はビシバシ行くぞ!」

「はい!」

 西山は気合いを入れて叫ぶと、東もそれに呼応する。

「よ~し、今日はここまでだ! お疲れさん!」

 しかしその時、タイミング悪く二軍監督のメガホンから終了の合図が発せられ、練習器具は瞬く間に撤収されてしまった。

「……明日から頑張ろうな」

「そ、そうですね……」

 バツの悪い気持ちで西山が呟くと、東もそれに同調した。

 

 

 翌日、西山と東は二軍監督に許可をもらって、ドームに併設されている屋内打撃練習場へと向かった。

 もちろん、ドームで実戦に即した打撃練習をしても良いのだが、他のチームメートの手を煩わせてしまう上、東ばかりが打ち続けることも出来ない。ここでなら思う存分練習できるし、何より、出来るだけ人の少ない所でやるほうが、特訓らしいというものだ。

「お前もそう思うだろう?」

 準備運動をしながら、西山は東に同意を求めた。

「う~ん、良く分かりません」

「……ま、まあそうだよな。変なこと聞いちまったな」

 若い選手とのコミュニケーションは、なかなか難しいものだ。というより、西山が東のことをよく知らないから、会話が弾まないのだろう。

(これは改善すべきところだな……)

 出来るだけ早いうちに、東の良き理解者となろうと、西山は固く心に誓った。

「よし、そろそろ始めるか」

「はい!」

 二人は協力して、打撃ゲージを用意し、マウンドにマシンをセットした。

「いいか、とにかく思い切りやれよ」

「もちろんです!」

 威勢良く答えると、東がマシン打撃を始めた。

 西山はその様子を、何も言わずに見守った。まずは、自由に打たせた方がいい。

 東の打球は練習場中に快音を響かせ、様々な方向へと飛んでいく。打球の種類も、フライ、ゴロ、ライナーと豊富だ。

「……よし、そこまでだ」

 しばらくした後、西山は東の打撃に多くの改善点があることに気付き、一旦東に練習を止めさせた。

「……何か、分かりましたか?」

 東が、心配そうな顔をして聞いてくる。

「ああ。まず、バットを引いた時のグリップの位置、いわゆるトップの位置が安定してないな。トップの位置は常に、右の脇を締めて、左の脇を開けた所。出来るだけ上の方が良いな」

「はい!」

 西山のアドバイス通り、東がバットを構えてみせたが、トップの位置は西山の教えた場所ではなかった。

「違うな。トップの位置はそこじゃないんだ」

「えっ? じゃあ、どこなんですか?」

 東がバットを引いたまま上下させ、トップの位置を模索する。

「……バスターやってみろ」

「バスターですか?」

 東は、一度バントの構えを取り、そこからすかさずバットを後方に引いて構え直した。典型的なバスターの構えだ。

「そこだ!」

 スイングに向かう直前、西山は叫んだ。

「そ、そこ?」

 東はスイングしようとする体をなんとか静止させ、バットを引いた状態を維持させる。

「そこがトップの位置だ。覚えておけよ、バスターのトップが理想のトップだ」

「分かりました!」

 納得した様子の東に、何度か素振りをさせると、トップの位置が安定した。

「いいぞ。今度は足の開き、いわゆるスタンスだな。これは、狭ければ狭いほど良い。ただし、理性的な範囲内でな」

 こちらは東も即座に理解し、アドバイスに従うと、先程までとは見違えるようなスイングを見せた。

「……どうですか?」

「なかなかやるじゃないか。最後は、打球を飛ばす意識だ。お前は普段、どこを狙って打球を飛ばしてる?」

「センター返しです」

 東の口からは、模範的な回答が返ってきた。だが、それだけではプロとして不十分だ。

「惜しいな。狙いは常に、バックスクリーンに置け。そこに向かってライナーを打つんだ」

「でも、僕の力じゃスタンドまで運ぶのは……」

「自分で勝手に決め付けるんじゃない。お前だってスタンドまで運べる。それに、バックスクリーンを狙えば、多少タイミングが狂ってもフェアゾーンに打球を飛ばせる。それがライナーなら、ヒットの確率は高い」

 西山の話を、東は黙って聞いていた。少々専門的な話になってしまったが、果たして東はついてこられただろうか。

「……そうか。意識の上でも色々気を配ることが大事なんですね」

「そういうことだ」

 東は西山の言いたいことをしっかりと理解し、飲み込んだようだ。なかなか勉強も出来るらしい。

「よし。じゃあ、打席に戻って打ってみよう。今度は俺が投げる」

「いいんですか? わざわざ西山さんに投げていただけるなんて……」

 東の大袈裟な反応に、西山は思わず苦笑いした。

「いいんだよ。お前のフォーム、ここからも見てみたいしな」

 西山はそう言ってマウンドへと登った。この位置からだと、また違った改善点が見つかるはずだ。

「ありがとうございます!」

 東は深々と頭を下げ、打席に入り、堂々と構えてみせた。

 しかし、謙虚な言葉とは裏腹に、いざ練習を始めると、東は情け容赦ない打球を西山に向かって次々と打ち返して来た。

 防護ネットを用意してはあるのだが、自分の投げた球がそのまま打ち返されるのは、それだけでも充分に恐ろしい。

 おまけにさっきまでバラバラに飛んでいた東の打球は、今や速さを増し、バックスクリーン方向、つまり自分の頭上を正確に貫いてくる。西山は、マウンドに上がったことを後悔した。

 だが同時に、東の新たな改善点を見つけることが出来た。

 まず、スイングの数が多くなると、トップの位置がだんだん安定しなくなり、スタンスもばらついてくる。

 しかしこれは若い選手にありがちな欠点で、毎日しっかり素振りをすることで改善できる。まだフォームを整えたばかりだし、取り立てて指摘せずとも、東ならそのうち自然に克服できるだろう。

 しかし他に一つだけ、すぐにでも改善すべき致命的な弱点が見つかった。

「身体の回転が良くないな。頭からまっすぐ下に引いた線が、スイング中にぶれちゃいけない」

「……よく分かりません」

「つまりだなあ……」

 言葉では上手く伝わりそうにないと、西山は東からバットを借り、自ら構えてみせることにした。

 そしてふと、あることに気がついた。上手く手本を見せられる自信がないのだ。

 出来れば、左打ちの東に分かりやすいように、西山も左打ちの構えでバットを振りたい。

 しかし、実はそういうわけにはいかない。右でも左でも打っていた若い頃とは違い、今の西山は完全な右打ちなのだ。しかも、近頃の彼は、自分の打撃に自信が無い状態だ。まともにバットを振れるはずがない。(さて、困ったな……)

「……どうしましたか?」

 いつまでもこうして、東共々困っているわけにはいかない。西山は決意を固め、古の記憶を呼び覚ますつもりで、思い切ってバットを振ってみた。

 ブン、と鋭い音がして、バットが虚空を切った。

「おお~……」

 何とか上手く振れたようで、東も感心している。人間、やれば出来るものらしい。

「凄い……でも、やっぱりよく分かりません」

 東は感心しながらも戸惑うという複雑な態度を見せたが、それも仕方の無いことだ。なにせ、西山自身もよく分からないまま、がむしゃらにバットを振ったのだから。

「だよなあ……見て分かれば苦労はないよな。さて、どうやるんだったかな……」

 人間、やっても出来ないことがある。自分が説明できないことを、誰かにやらせるなど至難の業だ。

 そこで西山は、自分のルーツを探ることにした。果たして、自分はどうやってこのスイングを身に付けたのか。記憶を辿っていく。

「……思い出した! 東、左手でボールを投げてみろ」

「えっ? 僕は右投げですよ? それにセカンドですし、わざわざ左で投げる必要はないんじゃ……」

「いいから、やってみろ」

 西山は、東の手に近くに転がっていたボールを握らせた。

 東は首を傾げながらも、言われるがままに周囲の防球ネットに向かってボールを投げた。利き腕ではないため、ボールはあちこちばらついたが、東の投球フォームは徐々に形が整ってくる。

(全く、大したセンスだよな……)

 何もかも即座に身に付けてしまう東に、西山は舌を巻いた。ひょっとしたら、自分はとんでもない選手を相手にしているのかもしれない。西山が偉そうな口が利けるのも、せいぜい今のうちではないだろうか。

「……よし、そこまでで良かろう」

 思わず偉そうな口を利きながら、西山は東の練習を止めた。

「西山さん、これは一体、何の意味があったんですか?」

「ボールを投げる動作と、バットを振る動作は、関連する所が多い。左投げの選手は例えピッチャーでも、苦もなく左で打つだろう? 実は利き腕だけじゃなく、体の回転もその理由の一つなんだ」

「そうか! つまり、ボールを投げるイメージで、バットを振ればいいんですね。ありがとうございます!」

 西山の説明をあっさりと理解した東は、すぐさまバットを手に取り、渾身の力でスイングした。

「……すげえ」

 西山の感想は、たったそれだけだったが、それだけで十分だった。

 

 

 その飲み込みの早さとは裏腹に、東の打撃はなかなか状態が上がらないまま、シーズンが開幕した。言うまでもなく、西山も東も二軍スタートだ。

 しかし、西山はそれも当然だと考えていた。新しい打法がすぐに身に付くわけもないし、例え身に付いたとしても、相手投手との兼ね合いもある。結局、打者は七割近く凡退する運命なのだから。

「だがな、諦めちゃいけない。次の打席には必ずヒットを打ってやる。そんな気持ちで打席に立てばいい」

 ある日の練習時、西山はそう言って東を励ました。直前の試合でも、東はノーヒットで、打率をかなり下げてしまったのだ。

「分かりました。西山さんに教えてもらったこの打法で、絶対に活躍してみせます」

 東は励ましを意気に感じたのか、堂々とした返事を返してきた。二人は多くの時間を共有するうちに、段々とお互いを理解できるようになっていたのだ。

「でも、やっぱり結果が出ないと、少し寂しいです。他のルーキー達は、ガンガン一軍で活躍しているのに……」

 東には、少し結果を求めすぎる傾向がある。そのせいで時折打席で焦ることがあり、難しいボールに手を出して凡退することが多い。

「焦ることはないさ。今は一軍も皆が元気な状態で、居場所は限られてくる」

 そんな時の東には、少し気楽にさせる言葉を投げかけるのが一番だ。

「それよりも、夏場あたりのチームが苦しい時、パッと出ていって活躍する方が何倍もかっこいいじゃないか。そうだろ?」

「……そうですね。そうすればきっと、チームの優勝にも貢献できますよね!」

 そうすることで、東は途端に調子を取り戻す。非常に素直な性格なのだ。

「そうだろう? そのためには、今からしっかり準備しておかないとな」

 西山はそう言うと、東にセカンドの守備位置を指で示した。

「……はい!」

 東が元気よくその場所へ走っていくのを確認すると、西山は持っていたボールのバッグを脇に置いてノックバットを構えた。

「よし、来い!」

 そうすると、東が守備位置で大きな声を出す。このぐらいは、お互いに慣れたものだ。

 しかし西山は、今回は少し趣向を変えることにした。

「東、後ろを向いてくれ」

「え? 後ろですか?」

 戸惑いながらも、東が首だけ後ろに向けた。

「違う、体ごとだよ」

「体ごとって、まさか……」

 東が恐る恐る背中を受けると、西山はすかさずボールを一つ手に取り、ノックをするべくトスを上げた。

「音が聞こえたら振り向けよ!」

「やっぱり!」

 西山が早口で指示しながら打球を放つと、東が反応良く振り向く。

「うぇい!」

 そして言葉にならない声を出しながら、目前に迫った打球を難なく捌いた。

「ようし、いいぞ!」

「『ようし、いいぞ!』 じゃないですよ! 危ないじゃないですか!」

 西山にボールを返しながら、東が文句を言ってくる。

「何を言うか。これも反射神経を養う練習だ。内野手は一瞬の判断を求められるからな。これぐらいの練習で丁度良いんだ」

「成程……」

 東は感心したように呟くと、もう一度後ろを向いた。

「よしよし……」

 その姿に目を細めながら、西山はもう一度ボールをトスし、打球を放とうとした。

「……あ」

「空振りですね」

 西山の漏らした声を、東が耳ざとく聞きつける。彼の言うとおり、西山は豪快にトスを空振りしてしまったのだ。

「反射神経は大事ですよ、西山さん」

「はい……」

 東に指摘され、西山はただ頷くことしか出来なかった。

 どうやら既に、東は西山を越えつつあるらしい。このまま成長してくれれば、いずれは充分に一軍の戦力となれるだろう。

(やはり勝負は夏だな……)

 西山はそんな思いを抱きながら、背中を向けている東に向かって、今度こそしっかりと打球を放った。

 

 

 西山の読み通り、いよいよ正念場の夏を迎えた時、東は着実に二軍の試合で実力を発揮し始め、充実の日々を送っていた。

 もっとも現状では、一軍からお呼びがかかることはまず無いだろう。

 それというのも、チームのレギュラー二塁手である、(たま)()(しゅん)(いち)内野手が目下絶好調で、チームの快進撃を一手に担っているからだ。守備、走塁、打撃の何をやっても超一流の玉木は、印象に残る活躍をすることも多い。

 そんなわけで、地元のスポーツ新聞は、連日玉木の活躍が一面を飾っている。

「『玉木爆発! 猛打フィーバー、4打点!!』か……タマちゃん、結構大人しい良い子なんだけどなあ……」

「へ~、そうなんですか」

 西山がロッカールームで新聞の一面を読みながらくつろいでいると、東が近づいてきた。

「おお、東か。どうやら、一軍はまだ先みたいだな」

 西山は、東の前で新聞を振ってみせた。玉木の美しい打撃フォームを撮った写真が左右に揺れる。

「仕方ありませんよ。来季、また頑張ればいいんです」

 しかし、東には今や余裕があった。結果に執着することもすっかり無くなり、日々の試合を楽しむようになっている。

「ところで西山さん、打球をグラブに当てる感覚って、どういうことですか?」

 変わらないのは、野球への飽くなき探究心だ。東は何か分からないことがあると、すぐに西山に相談するようになっていた。

「お前はどう思う?」

 西山はそういう時、まず東に自分で考えさせることにしている。もちろんすぐに教えてやっても良いのだが、これから先厳しい勝負の世界でやっていくには、自分で考える力が必要なのだ。

「え~っと……無闇に打球を掴もうとしないってことですか?」

「そう。それでいい」

 西山はそう言っておもむろに立ち上がると、ゴロの捕球の構えをとってみせた。

「内野のゴロは、しっかりとグラブを立てて、打球に当てる感じで対処するんだ。そうすれば、グラブが壁になって自然に打球が止まる」

「でも、跳ね返ってどこかにいったりしないんですか?」

「グラブに当たったら、右手で蓋をするようにボールを抑えるんだ。もう勢いは無いから、苦もなくボールに触れるはずだよ」

 西山に言われて、東自身も捕球の体勢を取る。

「成程……あ、そうすると送球に早く移れますよね? もうボールを握っているわけですから」

「そうだ、それがこの捕球法の良いところなんだ。もう完璧だな、東」

 西山はそう言って東の肩を叩いた。

「あはは。まあ、実践できなきゃダメですけどね」

 東はそう言って笑った時、ロッカールームのドアが開き、二軍の打撃コーチ、釜石(かまいし)(とおる)の姿が現れた。

「……西山、ちょっといいか?」

 釜石は神妙な面持ちで、西山に声をかけてきた。

「は、はあ……分かりました」

 西山は気の抜けた返事をすると、心配そうにする東を尻目に、釜石と共にロッカールームを出た。

 


「……釜石、何の用だ?」

 球場の通路を歩きながら、西山は釜石に問いかけた。

 立場上は選手とコーチの間柄だが、西山と釜石は、かつて共に選手としてワイバーンズで活躍した同級生だ。そのため、二人きりの時は呼び捨てで呼び合う仲なのだ。

「二軍監督がお呼びだ。お前も、もう分かってるだろ?」

「……そういうことかい」

 正直なところ、西山には大体の察しは付いていた。

 夏場を迎えたこの時期に、西山が首脳陣に呼ばれる理由は一つしかない。

(……まあ、頃合いってやつだな)

 自分の気持ちに整理をつけたところで、西山たちは監督室の前に到着し、釜石がドアをノックする。

「どうぞ」

 声に招かれるまま、西山と釜石はドアを開けて監督室に入った。

 そこには、二軍監督である、高畑(たかはた)(しん)一郎(いちろう)が、デスクを前にして座っていた。

「西山、突然だが、君を二週間後に一軍登録することになった」

 高畑は、西山の顔を見るや、単刀直入に切り出した。

(……やっぱりか)

 予想通りとはいえ、やはり良い気分はしない。

 一軍が首位を快走しているため、二週間後となると、ペナントレースの目鼻は付いてしまうだろう。大して時間がかからないうちに、シーズンは消化試合へと突入する。もう戦力は必要なくなるのだ。

 そんな時期に、西山のようなベテランが登録される。その答えは一つしかない。

「……俺も引退……ですね」

 西山はぽつりと呟いた。

「……そうだ。一応は上のカンフル剤という体になるが、優勝が決まったら抹消して、九月末の本拠地最終戦で引退試合になるだろう」

 淡々とした高畑の声が、監督室に静かに響いた。

 そしてしばらく沈黙が続き、釜石は何も言葉を発さずに西山を見つめ、高畑は深く息を吐く。

 西山はそんな二人の姿を交互に見据えると、覚悟を決めて口を開いた。

「……分かりました。少し、時間を下さい」

「……時間?」

 釜石の疑問に答えぬまま、西山は踵を返して監督室を後にした。

「おい、西山!」

「……釜石、行かせてやれ」

 釜石を静止する高畑の声が、西山の背中に響く。どちらにしても、西山に戻る気はさらさらなかった。

 もう、するべきことは決まっているのだから。

 

 

 ロッカールームに戻ると、そこに東の姿は無かった。

(……それなら、あそこだな)

西山の読み通り、東はグラウンドにいた。先程の教えを実践するように、コーチのノックを受けている。

 西山は、その様子を遠くからしばらく見守ることにした。打球を無理に掴もうとせず、グラブに当てて捕る技術を、東は既に習得しかけている。

(やっぱり大したヤツだ。あいつは、これからのチームに必要な存在だ……)

 その様子に、自分の考えが正しいことを確認すると、西山は東の練習終了を待った。

「……よし、ここまででいいだろう」

「ありがとうごさいました!」

 やがて練習を終え、コーチに元気よくお礼を言った東が、こちらに気付く。

「あっ、西山さん!」

 東がこちらに向かってきたので、西山も東の方へと歩み寄った。

「……それで、何の話だったんですか?」

 心配そうな顔でこちらを見る東に、西山は優しく微笑んだ。

「実はさっき、高畑二軍監督に、二週間後に上へ行くように言われたんだ」

「凄いじゃないですか! 二週間後なら、胴上げに参加できるかもしれませんね!」

 西山の言葉が終わるか終わらないかの内に、東が歓喜の声を上げた。

「ああ。だが……俺は上には行かないつもりだ」

 西山はゆっくりと東に告げた。少しだけ、言葉が震えたような気がした。

「何故ですか? 折角……折角のチャンスなのに……」

 訳が分からないといった表情で、東が西山に詰め寄ってきた。

「ま、まさか怪我ですか?」

「そんなんじゃないさ」

 あたふたと動揺する東の肩に、西山は優しく手を置いた。

「首脳陣は俺に、引退前の思い出作りをさせるつもりなんだ。胴上げだけ参加する感じだな」

「そんな……そんな寂しいこと言わないで下さい! まだ分からないじゃないですか! 西山さんは、まだまだやれます! きっと、そのことを確かめるテストなんですよ!」

 東の言葉に、西山は目頭が熱くなった。

(いや……ダメだ)

 しかし、ここで涙を見せる訳にはいかない。まだ、本当に伝えたいことを言っていない。

「……いいんだ。どっちにしても、俺は上には行かない」

 西山はこみ上げてくるものを振り払い、東をしっかりと見据えた。東の目にはうっすらと涙が浮かんでいるのが見える。

「上に行くのは……東、お前だ」

「えっ……」

 東は驚きのあまり、息を呑んだまましばらく押し黙った。

「……俺が監督にそう伝えてやる。上に行って、思いっきり暴れてこい!」

 無言のままの東にそう伝えると、西山は彼の肩を叩いた。

「……嫌です」

 突然、東がぽつりと、予想外の言葉を漏らした。

「い、今何て言った?」

 そのあまりの衝撃に、西山は思わず聞き返した。

「嫌だって言ったんです」

「何故だ? 首脳陣には俺が話をつけてやると言っただろう? いいか、これはチャンスなんだぞ!」

 西山は必死になって東を説得した。これ以上ないチャンスを、この前途有望な若者に逃させるわけにはいかない。

「余計なお世話だって言ってるんですよ!」

 だが東は西山を睨み、声を荒らげてきた。

「……いいですか、僕だってプロなんです! 若いからって……いや、貴方が老いぼれたからって……同じ選手から、情けを掛けられる覚えはありません!」

 激高する東の姿に、西山はショックを受けた。東からの初めて反抗だったが、それ自体は大した問題ではない。

 ただ、東に芽生え始めていたプロとしての自覚を、自分がすっかり見誤っていたという事実が、西山の心を激しく揺さぶったのだ。

「……そうだな。すまなかった……」

 西山はそれだけ言うと、東に向かって頭を下げ、ロッカールームへと引き上げた。

 その道中、西山は最早、東に偉そうな口を利ける立場では無くなったことを実感した。

 今や彼は、一人の老いぼれたベテラン選手にすぎず、ただ引退の時を待つばかりなのだ。

 

 

 その日、西山は球場のロッカールームで一軍の試合を見ていた。同じ時間に二軍の試合も予定されていたのだが、こちらは大雨で中止になっている。

 そこで、たまにはチーム全員で試合を見ようということになり、ロッカールームで仲良く肩を寄せ合うことになったのだ。

 大の男が寄ってたかって一つのテレビ画面を見る姿は、正直ちょっとむさ苦しいが、チーム方針なら仕方ない。

「……こんな天気でも試合が出来るのは、ドーム球場の良い所ですね」

「……そうだな」

 隣の席に座った東が、丁度テレビに映った球場外部の様子を確認しながら、西山に声をかけてきた。けれど、それ以上会話は続かない。

 二週間前の一件以来、西山は東を避けるようになっていた。今日はたまたま隣同士に座っているが、別に仲良くするつもりも無い。

 今日の試合が滞りなく終われば、西山は一軍に合流する予定だ。もちろん、引退への花道以外の何物でもなく、チームにとってもさほど重要なことではない。

「いや~、立花(たちばな)さん。ワイバーンズは相変わらず好調ですね」

「う~ん、抑えの仲村(なかむら)が故障したところで、大分落ちてきたかなとも思うんですが、他の選手が頑張ってますよね。まあ、もう一人主力に怪我人が出たりしない限りは、大丈夫じゃないかなと思いますけどね……」

 西山は、目の前の試合にどこか集中できないでいた。若い選手なら、実戦を観て感じる物もあろうが、西山はそんな経験など腐るほど持ち合わせている。もともと、試合観戦する理由が無いのだ。

 明るい実況アナウンサーの声も、なんとなく耳につく解説者の言葉も、別段気を引くことは無く、視線も自然とよそを向く。

「……いかん、抜かれたぞ!」

 突然聞こえてきた釜石の声に驚き、西山はテレビ画面に視線を戻した。

 丁度、玉木選手が球足の早い一、二塁間のゴロを、ダイビングキャッチからの見事な送球でアウトにしたところだった。

「……セカンド玉木、またも好プレーです! あれを捕られてはたまりませんね!」

 テレビの実況アナウンサーが、玉木のプレーに賞賛を送る。

「まあ、ゴロの時点でヒットの確率っていうのはある程度下がりますからね。でもピッチャーとしては、助かったと思うかもしれませんね」

 淡白な解説者の口調とは裏腹に、ロッカールームも歓声に包まれた。二軍では滅多にお目にかかれないプレーに、度肝を抜かれたようだ。

 しかし、西山の隣にいる東は一人、テレビ画面を険しい表情で見つめていた。玉木のプレーがスローで再生され始めると、その視線がさらに鋭くなる。

 西山はそんな東の横顔をしばらく眺めていたが、東が視線をこちらに向けると、急いで顔を逸らし、テレビ画面に向けた。

 画面では試合が再開しており、相手打者が浅いフライを打ち上げた。打球は内野スタンドへ向かって飛んでいき、そのままファールになるかに思われた。

「……しかし玉木が飛び込む! フェンスに当たったが、どうだ、捕ったか?」

 実況アナウンサーに答えるようにして、玉木が高々とグラブを掲げた。

「アウトです! 捕っていました、ファインプレー!」

「いや、ちょっと様子がおかしいですね……」

 解説者の言う通り、玉木はグラブを掲げたまま一向に動こうとしなかった。

「……まさか……」

「……怪我だな」

 玉木の周りにワイバーンズの選手が集まるのを見て呟いた東に、西山は静かに答えた。

 玉木が飛び込んだフェンスには、十分なラバー加工が施されておらず、衝撃が吸収されづらいことを、西山は知っていた。ましてや、玉木はトップスピードで頭から突っ込んでいったので、勢いはかなりのものだろう。怪我をしない方が不思議だ。

「……あ~、左肩が当たったんですね。グラブの方の手ですから、グラブを掲げていることも辛いでしょう」

「ただ、まあ、とっさに頭や右肩を庇っていますからね。そこが不幸中の幸いと言うか、とにかくよく捕ったのは確かですね……」

 リプレイを見ていた解説者たちの言う通り、玉木は自分の身を守る最大限の努力をしながら、フライを捕球していた。玉木の実力を雄弁に語る、驚くべきプレーだ。

 しかし、左肩を抑えてベンチに帰る映像がテレビに映された時、ロッカールームの空気が一変した。

 和やかな空気が一転し、緊張が走る。

「……抹消ですかね」

 東の呟きが、急変した場の雰囲気を説明していた。

 この怪我がもし重症ならば、一軍選手登録の抹消は確実だ。最短でも十日間、玉木は二軍に降格されることになる。逆に言えば、この場に居る選手全員に、昇格のチャンスが巡ってくるのだ。

「……もしかしたら……」

 口走ったのは東だけだったが、おそらく西山以外の選手は同じ気持ちだろう。

 もしかしたら、一軍の試合に出るチャンスが回ってくるかもしれない。そしてそれは、西山の登録が見送られることを意味する。

「あ~、交代ですね。ベンチから(きく)()が出てきます」

「菊地選手ですか。もうちょっと後のイニングに使いたかったところなんですが、仕方ありませんね」

 交代要員で出てきた菊地の姿を見ると、ロッカールームを一層の緊張が支配した。

 菊地選手は、守備や走塁のスペシャリストで、チームの切り札的な存在だ。ただ、打撃はそれ程でもなく、完全なレギュラーとは言えない。その上、内野ならどこでもこなせるが、どちらかと言えばショートを得意とする選手でもある。

 チームの利便性を考えれば、二軍からの選手をスターティングメンバーに使い、菊地にバックアップを任せるのが理想だろう。つまり、経験の少ない若手選手にも、レギュラーを取る絶好のチャンスが与えられるというわけだ。

 ロッカールームの殺伐とした空気を察したかのように、選手と一緒に試合を観戦していた高畑の携帯電話が鳴り響いた。つられて、何人かの選手が高畑の方を見る。

「はい、高畑です……」

 やや緊張した声色で、高畑が電話に応対する。

「……了解しました」

 そして神妙な面持ちで短い会話を終えると、東の方を見据えた。

「……東!」

「はい!」

 東がテレビから視線を逸らし、立ち上がって高畑の方に向き直った。

「明日から一軍だ」

「えっ……?」

 高畑の宣告と、東の戸惑いの声を合図にして、彼ら以外の全員が、無関心を装うようにテレビ画面に目を向けた。

「詳しい話をしよう。監督室まで来てくれ」

 立ち尽くす東の腕を取り、高畑はロッカールームを後にした。

「……やっぱり東か」

 その直後に呟かれただれかの声が、西山を含むロッカールーム内の総意だった。東は今や、二軍の誰もが敵わない選手になっているのだ。一軍に呼ばれるとしたら、まず真っ先に彼だろう。

 

 

 それからしばらく、ロッカールームは無言に包まれた。

 試合の方は、ワイバーンズがリードのまま、最終回を迎えていた。

「これも三振、ゲームセット! 柴崎(しばさき)、完璧なリリーフです!」

「良い活躍ですね。素晴らしいピッチャーだと思います」

「しかし立花さん、ワイバーンズは、本来のクローザーを欠いていて、その上セカンドまで居なくなったわけですよね?」

「う~ん、内野手で柴崎みたいな救世主が現れるといいんですけどね……」

 さすがに試合後の解説まで聞く選手は少なく、ロッカールームは徐々に人数が少なくなっていく。

「……さあ、明日からワイバーンズは東京での三連戦。先発投手は()(がわ)が予告されています」

「明日の瀬川の投球に、チームの浮沈がかかっていますね」

「はい。……果たして、救世主は現れるのでしょうか? それでは、今日はこの辺りでお別れです。さようなら……」

 西山はなんとなく、中継を最後まで観ていた。最後にもう一度玉木の激突シーンが流れ、画面はCMに切り替わる。

「……玉木さん、全治一ヶ月だそうですよ」

 その時、東がロッカールームに帰ってきた。振り向いて確認すると、顔中に不安と戸惑いが現れている。

「……そうか」

 西山は気の無い返事を返した。玉木のことは確かに気に掛かるが、今の西山には他人の心配をする余裕は無い。

 東は自分のロッカーへと向かい、ごそごそと荷物の整理を始めた。

 その様子を、西山は何となく見つめていた。

「……それでは、一軍に行ってきます」

 東は荷物を全て持つと、西山の方へ向き直り、別れの挨拶をしてきた。

「……もう行くのか」

「はい。今日中に東京入りだって。新幹線の切符も、自分で買わなきゃいけないんですよ」

 東は笑ってみせたが、西山は笑う気にはなれなかった。即戦力の輝きは、今の西山には眩しすぎる。

「……西山さんの登録は見送られるそうです。最後に思い出、作りたかったですか?」

「……さあ?」

 最早、西山は全てがどうでもよかった。東はもう一人前のプロ選手に成長しているし、西山自身は既に闘志を失っている。思い出作りの一軍など、今更どうでもいい話だ。

「……もう、別にいいんじゃないか?」

 東と出会う前に抱いていた思いが、つい口をついた。今や、西山の頭の大半を、その考えが占めている。

「……悔いは無い、ですか。立派です」

 東は、そう言って微笑むと、姿勢を正して大きく息を吸った。

「西山さん、今までありがとうございました!」

 そして叫ぶようにお礼の言葉を流すと、深々と頭を下げてくる。

「僕は……まだまだ未熟者で……西山さんにとっては生意気な若造かも知れませんけど……西山さんと過ごしたこの半年間が……」

 頭を下げたままの東が、涙に咽びながら話し続ける。

「……今まで野球をやってきて、一番楽しかったです!」

「バカ野郎!」

 西山は叫びながら東の顔を掴むと、強引に自分の方を向けさせた。

「初めて一軍に昇格するって時に、泣く奴がいるか! そんな甘ったれで生意気な若造は……お前みたいな若造は……」

 西山もいつの間にか、涙で上手く言葉を話せないようになっていた。

 東の最後の言葉が、西山の闘志に火を点け、彼の頑なになっていた心を、再び東の方へと向けさせたのだ。

「俺が一軍でもビシバシ鍛えてやる! だから……せいぜい今から……覚悟しておけ!」

「……はい!」

 東の瞳に輝きが戻り、顔中に笑顔が広がった。

 西山は東の肩を掴むと、自分の方へと引き寄せて熱い抱擁を交わした。

「……西山さん、上に来れるんですか?」

「今からファームで打ちまくってやる。そうすりゃ、上の気も変わるさ」

 自分の腕の中で生意気な口を利く東に、西山は先輩らしく言い返してやった。

 

 

「……何やってんですか? セレモニーが始まりますよ」

 長らく思いを馳せていた西山は、背後からの声で我に返った。

「……ああ、姫矢か。ちょっと、今年を振り返ってみたのさ」

 西山はそう言って、持っていた写真を姫矢に見せた。

「気が早いですねえ……まだ戦いは終わっちゃいないんですよ?」

 姫矢は西山から写真を受け取ると、呆れたように呟いた。

「分かってるさ。これからが最終決戦だろう」

 西山は姫矢から写真を返してもらうと、それをロッカーにしまい、帽子を被った。

 そしてセレモニーに間に合うべく、姫矢と共にくさとロッカールームを出る。

「……いよいよですね」

「ああ」

 グラウンドに向かう通路を一歩ずつ歩いて行く度、西山は一大決戦へ向けて気持ちを高揚させていった。

 そして、グラウンドまであと半分程の地点で、さらに気持ちを高ぶらせてくれる人物に出会った。

「西山さん、いよいよ日本シリーズですよ! 気合入れて行きましょう!」

「ああ!」

 自分を迎えに来たルーキーに答えると、西山はグラウンドへと走り出した。

「……まったく、どっちがルーキーだか」

 後ろから姫矢が何事か呟いたが、西山の耳にはかろうじて聞こえた程度だった。

 

 


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