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一章
草木の香りが鼻腔を突き抜ける。
水の流れる音は耳に心地よく、小鳥のさえずりが程よく混じり合う。
「……っ」
二日酔いなんてものではない。前に頭蓋をバットでかち割ったことがあるが、やられる側はこんな感じなのだろうか。立ち上がるのに手をつけず、よろめいてしまう。
俺は硬い岩場の上で仰向けになるのが精一杯だった。自然の豊かさにしばらく身を委ねたいところだったが、今になって左肩の銃創が疼いてくる。
俺は仰向けになり、近くの川辺を一瞥する。
「ここはどこだ?」
富士の樹海に風景は似ているが、木々の形や色合いはまったく別物だ。自殺に見せかけた殺しを数回青木ヶ原でしたことがあるので目は肥えている。
何であれ米軍を振り切れたのだから場所に関して文句をいう気はない。命あっての物種という言葉が示す通り、生きてさえすれば生活の持続は可能だ。俺に次元倉庫がある限り、武器、食糧、医療品、その他ありとあらゆる必需品は約一年持つ。
しかし、次元倉庫を扱えてもこの状況はいささか厳しいものがある。
当たり所が悪かった。左肩の銃弾は抜けているが背面の処置が出来ない。いつもなら闇医者辺りに頼むが、鬱蒼と生い茂る森林に銃傷に詳しい人間などいるはずもなく、仕方なく重い身体を起こすしかなかった。
「朝、ってことは、俺ずっと寝てたのか」
俺は自己隔離で意識を失っている間に、止血もせず傷を放置してしまっていた。すぐに次元倉庫から消毒液と包帯、そして薬品と水を取り出し、処置を施す。
「ぐ……っ」
痛みは上々。加えて木漏れ日は俺の目を瞑らせ、太陽そのものが立ち退きを要求しているようだった。頭痛も和らいできたところで、俺は重い身体を起こす。
周囲を逐一警戒しながら、歩く。敵がいなくなったとはいえ油断はできない。
俺を目撃した奴は問答無用で殺す。でなければ、いつまたこのような状態になるか分からない。枕を高くして寝たければ誰とも接せずに過ごすのが暗殺者の基本だ。依頼人であろうと密な関係は築かない。
「……」
少しずつだが、普通の足取りで歩けるようになった。
足を動かしているのは肉体ではなく精神面によるところが大きい。見たことのない風景が妙な気持ちを駆り立て、本能的に去ろうとしている。例えるなら狙撃銃のスコープで覗かれているような感覚だ。
俺の歩幅は、次第に広がっていく。傷口を案ずることなく、ひたすら前進する。
――何かが、変だ。
一人になれるのが暗殺者にとってどれほど幸福なことか。にも関わらず、俺は一抹の不安を覚える。
いつの間にか、俺は走っていた。胸騒ぎが絶頂に達し、木々を退けながら道なき道を行く。
「……」
そして気づく。吸った事ない乾いた空気が、自分の季節感を壊していることに。
「なんでだ……」
フードの中は熱が籠もり、上半身は既に汗が滲み出している。今まで川辺の木陰にいたため、この異様な温度差に気づけなかった。
「今は冬だろ!? なんでこんなに熱い!?」
まさか、俺が半年近くも眠りについていたというのか。しかし傷の具合からしても長くて数時間しか経っていない。第一それほど時間が経過していれば、これほどまで自由に歩き回ることなどできないはずだ。
となると、やはり最悪の事態に陥ったのかもしれない。
考えたくはなかったが、現状に最も関与している要因は――自己隔離だ。
「失敗したのか……」
次元倉庫内は時間が止められている。単純な考察であれば、俺は未来へ飛んでいることになるが、自己隔離する前と比較しても周りの自然環境は特に大差ない。多少未来に転移したくらいであれば、俺としてはむしろ好都合だ。俺の消息を追う輩がその間手を拱く羽目になる。すでに諦めてくれていれば願ったり叶ったりだ。
本当に危惧すべき問題は、場所だ。ここは確実に元いた座標から遠く離れている。危険は承知していたが、今回に限っては自分の意志で次元倉庫を開閉したわけではない。
「日本なのか? いったいここは……」
俺は携帯で位置情報を確認した。だが、電波は届かない。
無限の資源置き場を持っておきながら、戦闘に特化させすぎていた所為で肝心なところで役に立たない。自己隔離の損害を考慮していたのなら、それに応じた準備を整えておくべきだった。軍用コンパスでも拝借しておけばまだマシな状況になっていただろう。
「――ん?」
聴覚が不自然な音を捉え、俺は足を止める。
聞こえる――ぶつかり合い、擦り合うような、鋭い音が。
「刃物、か」
誰かが剣術の鍛錬でもしているのだろうか。理由はどうでも良いが、近くに人がいるのは確かだ。現状を把握するためにも接触する必要がある。命の保証はしないが。
音の響く方角を突き進むと、俺は唖然とした。
人は、いる事にはいた。しかしその人物たちは俺の常識では到底理解できない格好をしていた。
「なんだ、あいつらは?」
まさかこのご時世に鎖帷子を拝めるとは思っても見なかった。槍や剣を持った五人の男たちが一人の女を囲っている。その女だけは重ねてまっとうな鎧を身につけていたが、ナンセンスなことに変わりはない。
辺りには死体がいくつか転がっている。どうやらコスプレの集まりではないようだ。
「ハァ、本当かよ……」
俺はしばらく、彼らのやり取りを木の陰からそっと静観することにした。
「フン、オスファルトの雌犬が出しゃばりやがって。剣なんかよりベッドにいるほうがお似合いだ。どうだ、俺と寝れば命は助けてやってもいい」
男の一人が女に言い寄ると、周りの奴らはげらげらと野蛮な笑い声を上げる。三流の映画監督が描く物語もこんな感じだった。
しかしながら、今の男の発言は俺にとってかなり興味深い。日本人と比べて毛色の違う彼らが、流暢な日本語で会話しているのだ。
「巫山戯るな、この下郎。何の目的でこの聖地に入ったか知らないけど、仲間を殺した報いは受けてもらう」
そう言いながらも、茶髪の女は剣を捨てて丸腰になる。男たちは勿論、女の意図は俺にも分からない。先ほどの発言がはったりでなければ、何か策があるのだろう。
「――ッ!?」
そこへ、俺の頭上から一匹の蛇が垂れ下がる。俺は慌てて懐のサバイバルナイフを抜き、蛇の頭を切り落とした。
「おい、何だあいつは!?」
物音を立ててしまった事で彼らが俺の存在に気づいてしまった。
「くそっ増援か! お前たちは奴を始末しろ」
尚悪いことに、俺はあの女の仲間だと思われたらしい。紀元前の産物共が俺に矛先を向けてきた。
とりあえず『ここがどこか』なんてのは後回しだ。まずは殺気立っている原始人に鉛玉の味を教えてやる。
俺はコートの中で次元倉庫を出し、お気に入りのベレッタを取る。
「ハッ、なんだそりゃ? パパに作ってもらったのか?」
差し向けられた敵は三人。銃口を向けても笑っていられるとは大した度胸だ。
俺を小馬鹿にした真正面の奴には、最初の一発をくれてやった。眉間に穴を開け、にやついた顔のまま地に伏す。
残りの二人は一瞬だけ凍りついた。
「ひぃ!」「な……」
銃を見るのが初めてなら当然の反応だ。二人はじりじりと後退していく。
無知とは罪なことではない。が、俺に喧嘩を売ったのが運の月だ。
もう一人のびびりにも脳の風通しをしてやると、最後の生き残りは俺に背中を向けて、一目散に逃げ出した。
「うわぁッ! た、助け――」
だがそいつは俺が手を下すまでもなかった。振り返った瞬間、男は喉元に短刀を刺され即死した。
殺したのは、さっきまで劣勢だったはずの茶髪の女である。彼女のところにいた男たちもすでに同じ形で始末されていた。
女は両手に仕込んだ短刀を引っ込め、俺に微笑む。
「助力に感謝する。私は、――オスファルトの騎士、スリアン・グリデミス。君は?」
もろ外人の名前で俺は混乱した。加えてこのスリアンとかいう女は、真顔で自分の事を『騎士』だと言う。
これで確信した。ここは日本でもなく、俺の知る地球もとい世界ではない。
「やっちまったな……」
「人を殺すのは初めてだったか? その、……私を助けるために無茶をさせてすまなかった」
「そっちじゃない。むしろ慣れてる。そもそもあんたを助けたわけでもない」
偵察のつもりがとんだとばっちりを被ってしまった。俺は颯爽と人目に付かない森の中へと戻る。
次元倉庫が使えるのならまた自己隔離が試せるはずだ。時間がずれているだけならまだしも、世界そのものが変わっていては話にならない。映画でよく主人公たちがタイムスリップするが、今ならそいつらの気持ちがよく分かる。焦燥感が半端ではない。海の上で一人助けを待つ漂流者みたいに心身が揺らされている。
「ちょっと待ってくれ! おい待て、待てって!」
女は付いてくる。異世界とはいえ能力を使っている所は誰にも見せたくはない。俺はSFに関してずぶの素人だが、仮にここが過去の地球であるなら、俺は本来存在してはならない。何らかの因果で能力の正体が公になってしまう可能性がある。いつも通り、冷静になって、速攻で片をつける。
「俺は急いでるんだ。お前にかまってる暇なんかねぇんだよ」
「あなた怪我してる! すぐ医者に診てもらわないと」
女は俺の前に立ち、行く手を阻む。
「邪魔だ、どけ。命の恩人に対する仕打ちじゃないだろ」
「助けた覚えはないんでしょ。だったらいいじゃない」
ああ言えばこう言う。俺はこの手の女が大嫌いだ。
「お前も殺してやろうか?」
「ええ、どうぞ。あなたに救われた命ですもの、どうぞご勝手に。ただしあなたの傷を治すまでは絶対死んでやりませんから。ほら、こっち」
「は、おい!」
女は俺の右腕を無理やり引っ張って先導する。俺の目から見てもなかなかの腕力だ。振り解くのは容易ではない。
「ハァ……」
だから俺は強硬手段に出る。愛銃のベレッタにまた吠えてもらうとしよう。次元倉庫を使っても今の体勢なら見られない。
俺は次元倉庫を出し、手を伸ばす――
「ありがとう」
「あ?」
「私があそこで殺されたら、仲間の死が無駄になってた。あなたが助けてくれたおかげ。正直一人で五人相手はきつかったから」
俺は取り出したベレッタを背に隠し、怪しまれないよう女の会話に付き合った。
「お前一人で充分な気がしたけどな」
「あれは賭け。人生最大の大博打。私が生きてるのは女神様があなたを送ってくださったからかもね」
「いや、もしかしたら死神かもしれないぞ」
俺は、女の後頭部に銃口を合わせた。
「そうかもね。だとしても、私はあなたを助ける」
「!?」
俺は引き金に指をかけたが、銃弾が撃たれる事はなかった。それは彼女の情に絆されたからではない。
「あなたは人を助ける力を持ってる。きっと、私だけじゃなくいろんな人を救ってくれると思うから」
ベレッタの銃身が捻れ、損壊している。俺の指先までほんの数ミリだった。女との会話中、ベレッタは次元に食い潰されていたのだ。
――何故だ?
戦闘のときは問題なく使えていたし、この世界に来たときも俺の身体に異常はなかった。次元倉庫の中身も俺の念じた空間に繋がっている。つまり時間と場所に影響されているわけはない。となると――俺の精神が乱れたのだ。
あの時、女は『ありがとう』と俺に言った。
「まさか、な」
きっと傷の痛みが原因だ。そうに違いない。
不本意だが、俺は女――スリアンと共に医者の元まで行くことにした。一刻も早く傷を治療し、次元倉庫を安定して使い熟さなければならない。そして、必ず元の世界へ帰還する。
「おい、本当にこんなところに医者なんているのか?」
「すぐ近くに村があるの。私もよく知ってる先生だから大丈夫。それよりさぁ、私はまだあたなの名前聞いてないんだけど。それと私の名前、覚えてるんでしょうね?」
「スリアン、だろ。俺は――」
本名は捨てた。その代わり、殺し屋としての通り名がある。どこの誰かは知らないが、俺の仕事を礼賛して名付けたらしい。『ゆめまぼろしの如く、獲物を狩り、全てを奪う。まるで悪夢そのものだ』と、業界ではそれなりに知られていた名だ。
「俺の名は――夢幻」