プロローグ
「や、やめてくれ……頼む」
ああ、何度聞いた言葉だろうか。『みみにたこができる』っていうのは正にこれだ。場所が上等なオフィスだろうとこの囁きは変わらず鬱陶しい。
「金ならやる! いくらでも」
小太りで厳つい髭を生やしたスーツのおっさんが、玩具を取り上げた子どもみたいに泣き喚いている。
無理もない。黒いフードで身を覆った男に目の前で拳銃を突き立てられては動じないほうがおかしい。
「だから……だから助けてくれ! 家族が、娘がいるんだ!」
俺がこの業界に入ってから三年くらいになる。世間から見れば俺はただの殺人鬼だろうが、俺は自分のしている事を『悪』だとは思っていない。なぜなら、死体を重ねていく度に人間の業を垣間見てしまうからだ。
「なら娘のほうも殺しとくか。お前のしてきた事を考えりゃ、安いもんだろ」
「そんな……!」
人間は生きるためなら手段を選ばない。いつだって己を満たす『欲』を孕んでいる。
生きるとは、衣食住の概念ではなく略奪の比喩だ。人間は金も、力も、愛も、過剰なまでに欲しがる。とどのつまり俺が言いたいのは、人間は人間が思うほど高尚な生き物ではないということだ――この俺を含めて。
「な、なにを……?」
俺は拳銃を床に置き、標的のほうへ蹴った。
自分でも甘いのは自覚している。こんな茶番が出来るのも仕事に慣れてきたからなのだろう。
「そいつで自分の頭を撃ち抜け。娘を助けたいなら、な」
標的は拳銃をまじまじと見ていた。そして、俺に目を合わせながら拳銃を手に取った。
俺は文字通り丸腰だ。コートの中に武器は隠し持っていないし、今回は防弾チョッキも着ていない。
「……」
標的は、俺に銃口を向けてきた。
ということは、自分が生き残る選択をしたわけだ。娘を見捨てたわけではないようだが、いやそもそも娘がいるという情報はないが、生き恥を拭う素振りすらこの男にはなかった。今回も一層人間の業の深さを見せつけられた。
では、終わりにしよう。
「!?」
俺は手の平から一挺、ベレッタM76を出現させた。
標的は目を丸めて口を開く。奇怪な現象でも目の当たりにしているかのような惚けっぷりだ。
標的が引き金を引く前に、俺の放った銃弾が阿呆面の眉間を撃ち抜く。銃声と共に倒れた死体は、机の上にある物を巻き込んでいった。
すると、死体に一枚の写真が乗る。標的の男と、年端もいかない女の子が映っていた。麻木孤児院という施設を背景に、二人は笑ってこっちを見ている。
「……」
俺はもう一発、写真ごと標的の身体に銃弾を食らわせた。明らかに無駄弾だが、俺自身どうして撃ったのか上手く説明できない。逆に考えればそれだけどうでもいい事なのだろうか。
兎にも角にも任務は成功した。お次は戦利品の回収だ。
「金目の物が揃ってるな。さすがは政府の役人」
まずは手を翳し、掌に渦を巻くようなイメージをする。そうすれば手の内から次元の扉が現れ、次々に物を吸い込んでくれる。また吸い込んだ物を出したければ逆回転をイメージすればいい。
想像した空間を認識できていれば好きなときに物を出し入れできる――俺はこの能力を『次元倉庫』と呼んでいる。これを使えるようになったのは三年前、すなわち俺が殺し屋として活動する直前だ。元々は工場で働くただのクソガキだったが、こいつのお陰で今はやりたい放題できる。
証拠は全て次元の彼方。能力は明るみに出していないが、政府のお偉いさんまでもが俺の仕事に敬意を表す。今回の依頼も組織内の汚点を取り除くという名目で、政府の提案したシナリオで動いている。
言われなくても盗める物は盗む。それが俺の、人間として生き方だ。
「さて、こんなもんか」
あらかた次元倉庫に格納した俺は、最後に辺りを見回し、その場を去ろうとした。
だが、ふと窓から奇妙な影が見える。俺は窓際に背中を預け、外の様子を窺った。
「あれは……」
ごついヘルメットを被った集団があちこちで待ち伏せしている。しかも耳を澄ませればヘリの飛ぶ音も聞こえてくる。おそらく日本の特殊部隊だ。
どうやら俺は、今日でクビになったらしい。利用するだけ利用して用がなくなれば即処分とは、実に人間らしい行動だ。
「やっぱ軍の倉庫荒らしたのまずかったか」
正直、政府の陰謀を除いても狙われる理由は多々ある。いずれ来る脅威が少々早まっただけに過ぎない。だからこそプライベートでは武器のあるところへ忍び込み、色々と頂戴している。次元倉庫がある限り大規模な戦闘でも物資が尽きることはまずない。
「――ッ!?」
俺が呼吸を整えようとした最悪のタイミングで、窓ガラスをぶち抜いて手榴弾が投げられた。が、俺は慌てずにその手榴弾を次元倉庫に格納した。
それにしても、日本にしては随分と過激な真似をしてくる。俺はもう一度窓から敵を確認する。
「おいおい冗談だろ……」
日本の特殊部隊は俺の思い込みだった。よく見てみると部隊の誰もが西洋の顔立ちをしているし、武装と紋章からして仕事上何度かお目にかかったことのある方々だ。
「アメリカ陸軍じゃねえか。どうして外の奴らが」
まずい。
非常にまずい。
日本ならともかく、他国の兵士を相手にして物量で押しきる自信はない。大型兵器を扱えればまだどうにか対応できたかもしれないが、生憎と次元倉庫は俺の質量より大きいものが取り込めない。
洗練された部隊を前に真っ向勝負を挑む気など愚の骨頂。かといって、包囲された以上戦わずして脱出をするのはほぼ不可能だ。一点突破の際は背後と側面がガラ空きになる。
「因果応報ってやつか。まぁとりあえず――」
少し前の手榴弾が不発となり、若干兵士共が狼狽えている。不意を突かれた礼にこっちも『おもてなし』をしてやろうではないか。
「こいつは返してやるよ」
次元倉庫では時間の干渉を受けない。つまりさっきの手榴弾は取り込んだ直前まで時間が止められている。
俺は倉庫を開き、すぐに手榴弾を返却した。時間差により敵の元へ落ちたときには即座に爆発してくれる。
コンクリートの砕ける音と敵の悲鳴が聞こえる。俺は窓の外へ飛び降り、どうにか受け身を取ることに成功したが、敵は俺を発見するなり射撃を開始してきた。
「ぐっ!」
左肩に一発食らった。走るのを止めれば蜂の巣にされる。
さすがは第二次世界大戦を生き抜いた国――容赦のない猛攻に正確な射撃、殺し屋としては見習いたい技術だ。
遮蔽物に身を隠し、俺は頭の中で敵の人数と配置を整理する。
「うじゃうじゃいやがる。こりゃ逃げらねえな」
日本政府の差し金かは不明だが、現状、俺はアメリカ軍を敵にしている。地球の反対側に行こうと追い回され、穴の毛までむしり取られることだろう。
手持ちの武器を乱射したところで、統率された軍隊では大した威嚇にならない。絶対に向こうも打ち返してくる。次元倉庫を持ってしても、一人では勝ち目がない。なお残念なことに、俺は生まれてこの方仲間などという気の利いた物に縁が無い。まさに八方塞がりだ。
「……あれしかないか」
腹を括るときが来た。
前々から試してみようとしていた『自己隔離』――簡単に言えば、次元倉庫に自身を取り込み隠れる手段だ。俺は一時的にこの世から消え歪みの空間へと行く。いくら米軍といえど、存在しない物を捉えることはできまい。
しかし、俺はこれまで何度も自己隔離を実践に移そうとしたが、出来なかった。
怖かったのだ。人を殺すことを厭わない俺ですら、怖かった。
次元倉庫に入れたとして、内側から開けられるのか。
逃げた後は何事もなく戻ってこれるのか。
時間の干渉は?
出現位置は?
不確定要素が多すぎるがために、俺は自己隔離を躊躇っていた。
また次元倉庫は俺の精神力が大きく影響する。過去に銃を取り込もうとしたとき、敵に発見され冷静さを失ったことがある。その場は凌いだが、銃は原型を留めていなかった。中心部から蜷局を巻き、両端はねじ切れそうな細さになっていたのだ。
あのときの銃を想像すると、誰かに心臓を握られている気分になる。以来俺は次元倉庫を使うときは一毫の気も緩めない。
だから、俺はこんな危機的状況でも、穏やかに未知の領域と向き合える。
次元の歪みは徐々に広がり、俺の身を包んでいく。
怖れがなくなったわけではない。ただ、やつらに捕まる方が怖いというだけの話だ。皮肉なことに、いつだって勇気を与えてくれるのは絶望だ。逃げる道がないというなら立ち向かうしかない。
「こんな俺でよければ助けてくれ、神様よう」
信じてもいない架空の存在に願い事をし終えると、俺は夜空を見上げる。
これほどゆったりと月を見たのは久しぶりだった。
周りは異国の罵声と硝煙の臭い。それでも俺には贅沢な一時だろう。
限界寸前まで次元倉庫が広がると、底無し沼のように俺は飲み込まれていく。成功だ。
「あ、あぁ……」
月が視界から消えたとき、俺の意識は遠退いていった。平衡感覚を失い、重力の概念を忘れさせる。
それはまるで、夢のような――