誰でも良かったくせに。
気がついたら、殺されようとしていた。
でも、殺してはくれなかった。
拳を握り締めて、蓮華は庭の隅に蹲った。暁貴がいると思うと、部屋には戻れない。
声を押し殺して、頬を伝う涙を拭う。
首筋には、まだ暁貴に押さえられたときの感覚が残っていた。
「馬鹿だ、あたし……何でなのよ」
束縛され、締め付けられた胸が悲鳴を上げるように軋む。血の代わりに涙が溢れていると錯覚した。
最初から、殺されたかったのだと思う。
皇族を暗殺して、逃げ遂せられるわけがない。最初から目的の人物を殺して、そのまま自分も死ぬつもりだった。
蓮華には失うものなど、なにもない。
けれども、――。
「蓮華さん?」
背後で声がする。跳ねるように振り返ると、秀明が不安そうな顔で、こちらを見ていた。
ここは秀明の部屋から目と鼻の先ではないか。失敗した。蓮華は急いで逃げようと腰を浮かせる。
「暁がなにかしましたか?」
「秀明殿下がご心配することではありません」
隠すように顔を伏せながら、蓮華はそのまま行ってしまおうとする。
だが、秀明は裸足のまま砂利の敷き詰められた庭に降り、蓮華の肩を掴んだ。
「本当に、なにもございません」
「なにもないのに、泣くような人ではないでしょう?」
秀明のまっすぐすぎる視線が注がれる。
今は、この顔を見たくない。
彼の視線を感じると、嘘が吐けない気がするのだ。胸の内を曝け出してしまいそうになる。全て吐き出してしまいそうになるのだ。
蓮華は震える唇を噛み締めて、必死に耐えた。
「あなたは、わたくしのことを知らないだけです」
「知りません。でも、わかります」
なにも知らないくせに、何がわかると言うのだ。蓮華は反発するように秀明の手を振り払おうとする。
「わかりますよ」
しかし、秀明は動かなかった。
彼はまっすぐすぎる視線で蓮華を縛ると、完全に身動きを封じてしまう。
先ほど、暁貴に取り押さえられたときと同じように、蓮華は指一本動かすことが出来なかった。
「なにをそんなに恐れているのですか?」
恐れている。
蓮華はなにも言えないまま、後すさりしようとする。だが、足が竦んで少しも動いてくれなかった。
怖い。認めてしまうのが、怖かった。
母が蓮華に対して、父の死に関心を抱かせなかったのは、自分の感情を抑えるため。復讐から目を背けることで、母は自らを繋ぎとめていたのだ。
だが、真実を知ったとき、母は抑え切れなくなったのかもしれない。
真実を知った母が蓮華を捨てて、父のために命を散らせてしまった事実を、認めたくなかった。
母も蓮華と同じだった。
同じように復讐しようとして、同じように殺されようとした。
浅野家は武家から公家に昇格した瑞穂の名門であり、代々皇族の守護を任されている。そんな家の人間を相手に、非力な母が生きて帰れるとは思わなかったはずだ。
蓮華と同じだ。だが、蓮華とは違う。
捨てるものが何一つない蓮華とは違った。
母は蓮華を置いて、独りで逝ってしまった。
「蓮華さん……なにがあったのか、私にはわかりません。ただ、暁とよく話してみてください。暁は、素直じゃありませんから。根気よく話したら、案外優しかったりもするのですよ」
秀明が恐る恐る蓮華の肩に触れ、顔を覗き込もうとする。蓮華は溢れてきた大粒の涙を隠そうと、両手で顔を覆う。
「……わかっております……暁貴殿下は、お優しい人です。わかっております。だからこそ……」
暁貴は、蓮華が母に置き去りにされた事実を語らなかった。
蓮華を捕えた時点で告げる方が簡単だっただろう。なにも告げず、殺すことも出来た。
けれども、彼が選んだのは、蓮華に生きる道を与えることだった。
もしかすると、母親に捨てられた自分の生い立ちと、蓮華を重ねたのかもしれない。
その優しさに気づいたことが逆に辛くて、蓮華には涙を止めることが出来なくなった。
暁貴に掴まれた首が、疼くように痛む。
彼は蓮華に憎まれようとしていた。怜悧な笑みを貼り付けて、蓮華を挑発していたのだと思う。
自分の母親を殺した相手――憎むべき相手であると示していた。まるで、自分が蓮華に向けた優しさや感情を隠すように。
暁貴はいつも蓮華の心を見透かしていて、逆に蓮華は暁貴の心は少しも読めなかった。
けれども、あのときは、蓮華にも暁貴の心が流れ込むように伝わってしまった。
「暁は、とても優しくて意地っ張りです。自分独りで、何でも出来ると思っているのですよ。だから、気づいて支えてあげないと」
溢れる涙が止まらない。
空気に耐え兼ねた秀明が、蓮華の細い肩をそっと引き寄せた。
「あ、暁じゃないですけど……ご、ごめんなさい。放っておけなくてッ」
緩く回された手が頼りなく震えている。
上目遣いに見上げると、秀明の顔は耳まで真っ赤に染まっていた。本当に暁貴とは正反対だ。
「ありがとうございます」
蓮華は、違う匂いのする男の胸に顔を埋めて、何度も何度も呟いた。秀明は黙ったまま、蓮華の涙が枯れるまで肩を抱いてくれていた。
庭を埋め尽くすように咲き誇った桜の花弁が、雪のように舞っている。蓮華がやっと顔をあげると、薄紅の雪が撫でるように頬に留まった。
辺りに漂う芳しい花の香りが、この国の美しさを象徴している。
そして、その下に潜む暗がりの存在をいっそう引き立てるのだ。
「花……」
蓮華は頬についた花弁を指ですくい、ぼんやりと見つめた。
ほのかだが、甘ったるい香り。
どこかで嗅いだ香りと、記憶の奥底に眠る花の香りが繋がってしまう。そして、ある答えに行きついた。
「どうかしましたか?」
蓮華の異変に秀明が首を傾げる。
蓮華は縋るように秀明を見上げ、早口で告げた。
「暁貴殿下が危のうございます!」
† † † † † † †
いつもは気がつくはずの影に、気がつけなかった。
部屋の前に忍び寄った気配を感じて、暁貴は煙管の煙を吐き出す。まだヤニを取り除いていないためか、あまり美味いとは感じなかった。
「蓮華か」
「いいえ、違います」
許可なく、暁貴の居処まで入れる者は限られていた。
前に招き入れた女官の誰かだろうか。こちらの都合も考えずに来られては困る。暁貴は露骨に眉を寄せ、障子に映った影を睨んだ。
「無礼を承知で参上いたしました。蓮華ちゃん……蓮華について、お話がございます」
「名は?」
「沙耶と申します」
そういえば、先ほど蓮華が女官仲間と話していたと報告があった。
以前にも、捨てた女官を気にかけていた者が暁貴に直訴しに来たことがあった。恐らく、似たようなものだろう。
面倒に思いながら、暁貴は煙管に溜まった灰を捨てて、入れ替えた。
「顔を出せ。ただし、用件はそこで話すこと」
障子がゆっくりと開き、小柄な女官が姿を現す。
年の頃は蓮華と同じくらいか。少し垢抜けない愛らしい顔つきだった。
あいにく、今は気分が全く乗らない。胸の中にわだかまる苛立ちや怒りを抑えながら、暁貴は沙耶に向き直った。
風と共に、白い桜の花弁が舞い込む。
「蓮華ちゃんを……蓮華を傷つけないで頂けますか」
予想の域を出ない月並みな言葉を聞いて、暁貴は煩わしく思いながら扇子を広げる。
「蓮華はとても悩んでいました。口には出しませんが、わたくしにはわかります。これ以上、あんな姿は見ていられません……蓮華を、自由にしてあげられませんか?」
「随分と一方的な要求だ」
なにも知らない部外者が出すぎた真似を。
暁貴はますます、苛立ちが抑えられなくなるのを感じた。こんな感情になることなど、稀だ。
沙耶は思い悩むように言葉に詰まり、眼を伏せる。だが、彼女は意を決したように、許可なく部屋の敷居を跨いで頭を垂れた。
「お許しください。わたくしで良ければ、代わりになります。だから、蓮華を……あの子、泣きながら言っていたんです。本当は、秀明殿下をお慕いしていると」
「なに?」
思わず、手から扇子が滑りそうになる。嫌に心臓が高く鳴った気がした。気を紛らわそうと、暁貴は煙管に伸ばした。
こちらの動揺を悟ったのか、沙耶は一気に暁貴の前に詰め寄る。彼女は煙管を持つ暁貴の手を握り、優美な笑みを描いた。
垢抜けていないと思っていたが、沙耶の笑みは成熟した女性のそれで、並みの男なら一瞬で魅了されてしまいそうだった。
「今も秀明様と会っておられますよ。確かめますか?」
沙耶の言っていることが、頭に入らなかった。とっさに、隣部屋に続く襖を開け放つが、予想通り、そこに蓮華はいない。
庭に視線を移すと、池に桜の雪が落ちるばかりで、忍が姿を現さない。沙耶の言葉を肯定しているのだ。
蓮華は秀明のところにいる。
以前から、少しずつ接触していたのは知っていたし、それを黙認して野放しにしたのは暁貴自身だった。
別に、彼女が誰を好いていようと構わない。
暁貴の傍にいるのは、誰だって良いのだから。
――……いつまで、あたしを弄ぶ気よ。
最初はなにも知らない九条の娘に少しばかり情をかけてやったつもりだった。しばらく飼ったあとで真実を告げれば、自分から後宮を去るだろうと思っていたのだ。
しかし、暁貴は自分から真実を告げなかった。いや、告げられなかったのかもしれない。
蓮華を手元に置いておきたかったから。
自分に彼女が必要だと、どこかで知ってしまった。有り得ない。こんな情になど、絶対に流されないはずなのに。どうかしている。理解出来ない。
でも、蓮華は?
彼女が必要としたのは、暁貴ではなかった。そのことが頭に突き刺さって、思考が止まる。
寂しさのような、寒さのような、怒りのような、嫉妬のような。よくわからない感情に遮られて、判断が出来なかった。
「蓮華が選んだのは、秀明殿下です」
追い討ちをかけるように囁かれた蜜のような言葉が思考を完全に停止させる。
自分でも、頭の中がよくわからなかった。
「わたくしで良ければ、代わりになります」
甘い声が頭に響き、感覚を麻痺させる。
暁貴は擦り寄る沙耶の肩を柱に押しつけて、腕に抱く。徐々に相手の温もりが伝わってきた。
温かい。しかし、寒い。満たされない熱が心の空虚を通り抜けていく。
誰でも良かったくせに。
満たされない寒さを誤魔化そうと、沙耶の顎を掴み、強引に視線を持ち上げてやる。
魅惑的な笑みと甘ったるい花のような香りが目の前に迫った。
暁貴は熟れた果実を貪るように、沙耶の唇に噛みつく。荒々しく、獣のように目の前の快を貪ることを選んだ。
「――――ッ!」
しかし、甘い香りとは裏腹に、口内に苦みのような味が広がる。
唇に、なにか塗られていた?
瞼を開けると、沙耶が先ほどとは違う種類の、不敵な微笑を描いていた。