そう思っているのは、たぶん、自分だけだ。
十七の頃だった。
病に伏せていた弟が回復し、宮に姿を見せるようになったときは素直に嬉しかった。
けれども、喜んでいるのは自分一人だけだと知って、秀明は少しだけ残念に思った。
暁貴のことを、父が妾との間に作った子だと、周囲は噂していた。
生まれた頃に入れ替えられていただとか、病弱な皇子の代わりに用意された替え玉だとか、人々は好き勝手に言っていた。帝の暁貴に対する待遇も冷たく、意図的に遠ざけている気さえした。
暁貴も自分の立場を弁えているのか、宮中で目立とうとはせず、後宮に引き籠って女遊びに惚けていた。
「はじめまして、秀明です!」
裏の事情がわからないほど子供ではないが、嬉しいものは嬉しい。緊張しながらも、秀明は二つ下の弟に話しかけた。
しかし、返ってきた視線は予想以上に冷たかった。
他人を突き放して、拒絶するような瞳。何の目的もなくて、生きているのか、死んでいるのかわからない眼が突き刺さる。
近づくなと言われた気がした。
しかし、同時に秀明が彼への興味を強めた瞬間でもあった。
理由は定かではないが、秀明が単なる「弟」ではなく、「暁貴」という存在に興味を持ったのは、そのときだ。
たぶん、秀明が持っていないものに惹かれたのだと思う。
兄弟だというのに、知れば知るほど共通点が全く見つからなかった。
趣味も、性格も、好みも、なにもかもが違う。それでも、秀明は暁貴を赤の他人として見ることが出来なかった。
もっと、近い存在。まるで、鏡のようだ。
同じものが映っているはずなのに、触れられない。同じようで、真逆の動きをしている。
そう思っているのは、たぶん、自分だけだ。
暁貴の方は、自分と近いとは露ほども思っていないだろう。それが一人だけの隠し事をしているみたいで、少し楽しい。
「暁は武官にはならないのですか?」
いつものように他愛もない質問をすると、暁貴は少し考えを巡らせた後に、煙管の煙をスゥッと吐き出した。
その姿が妙に板についていて、羨ましい。秀明も真似して吸ってみたことがあったが、あまり好みではなかったので、憧れたりもする。
「別に。俺は『病弱』だからな」
「でも、とても強いですよね。この間、胡蝶とも良い勝負をしていましたよ」
「結局負けた。現役の武官にはかなわんよ。俺は基本、引き籠りの遊び人だからな」
「羨ましい。私なんて、全然ダメなのですよ。今度、稽古をつけてください!」
「嫌だ。男に触って教えるくらいなら、俺は女を鍛えたい」
やっぱり、正反対。
暁貴の出来ることは、たいてい秀明には出来ない。
逆に秀明に出来ることは、暁貴は苦手だった。料理や、裁縫や、字の上手さ……しかし、思い浮かんだものは、どれも女みたいだと思って落ち込んでしまう。
「なんだか、私は姉だった方が良かった気がしてきました」
「急に落ち込んで、どうした」
「今回の発明も失敗だったので、少し感傷に浸ってみました」
「それは残念だったな」
「暁って、憧れます」
「今度は褒めて、どうした」
「ごめんなさい」
「結局は落ち込むのか」
「いえ、私は兄として、どうなのだろうと思いまして」
「今更だな」
自分でもそう思って、愚問だと自覚した。
暁貴は嫌味に唇を釣り上げて、まるで飼い犬にするように秀明の頭を撫でる。というより、扱いそのものが犬のような気がした。
嫌ではないので、愛想よく微笑しておくと、声を上げて笑われてしまった。
暁貴は秀明のために、裏で政を動かしている。
主に秀明に政治の助言し、公務の一部を代わりに執り行うことが多い。
だが、秀明の気づかないところで、薄暗い手を使っていることも知っている。近頃、遊びが激しくなったのは、表面的な注意を逸らすためだということも。
秀明には、何も相談してくれない。暁貴は自分一人の役割だと思っているのだろう。
自分のせいだと思った。
けれども、暁貴の様子を見ていると、やめてくれとは言えなかった。
出会ったときは目的もなく、死んだような眼をしていた。なにもかもを拒絶して、世の中を退屈そうに見ていて……だが、今は違う。
恐らく、暁貴は生き方を決めたのだと思う。それがわかっていて、止めることなど秀明には出来なかった。
出来れば、同じ道を歩いていたい。
だが、暁貴は自分と対極にある影の道を選んでしまった。
そのことが、少しだけ寂しい気がする。
「たぶん、暁は貴女のこと気に入っていますよ」
最近、暁貴が贔屓にしはじめた女官と庭で会った。
九条蓮華と名乗った女官と話して、なんとなく、暁貴が好みそうな娘だと思った。
本人は否定しているが、彼が相手にする女性は割と似通っている。しなやかな髪に、大きめの二重。どちらかと言うと、気丈で元気の良い女性。
各人を見ると似ていないが、総合すると、まとう空気はだいたい一緒だ。たぶん、誰かに重ねているのだと、すぐにわかった。
けれども、蓮華はそれ以上に暁貴が気に入りそうな人だと思う。
暁貴に近い人間だ。
「あ、美味しい……」
作り置きのぬか漬けを口にして、蓮華は唇を綻ばせた。
弟に付いている女官に手作りの漬物を振舞うなんて、やっぱり、自分は君主の器ではないのだろうなと思う。
それでも、目の前で喜んでくれる人がいるのは嬉しい。蓮華の硬かった表情が和らぐのを見て、秀明も自然に笑顔を作った。
「お上手ですね。とても驚きました」
「あまり手の込んだものは厨房を借りないと作れませんけれど」
「だから、漬物だらけなのですね」
部屋の隅に置かれた漬物の壷を見て、蓮華が笑みをこぼす。
秀明は何だか照れくさくなりながら、先日漬けた南瓜の味噌漬けも勧めてみた。
「どうしたのですか?」
急に、声を殺して笑いはじめてしまった蓮華を見て、秀明は困り果ててしまった。
「も、申し訳ありません」
蓮華は肩を震わせながら弁明し、目尻に涙を浮かべた。
「あまりにも、ご兄弟で似ていらっしゃらないので」
「そう、でしょうか……はあ、そうですね。ははは」
秀明は笑って受け流した。他人の目から見ても、やはり、秀明と暁貴は似ていない。
「蓮華さんは、似ていると思いましたよ」
「どなたにですか?」
「昔の暁に」
蓮華の目つきは、宮に上がった頃の暁貴に似ている。目的を見失って、人を突き放す寂しそうな眼。
秀明は、彼女が何を抱えているのか知らない。だが、雰囲気は以前の暁貴に近い気がした。
「でも、今日は少し違うかも」
「どういう意味ですか?」
秀明の言っている意味がわからず、蓮華は怪訝そうに眉を寄せていた。だが、秀明は特に何も言わずに、言葉を濁す。
昨日は、少し似ていると思った。
しかし、今日会ってみると、どこか違う気がしたのだ。上手く説明出来ないが、変わった気がする。
「暁をお願いします」
「でも、わたくしは……」
「たぶん、私だけでは支えてあげられない」
戸惑う蓮華の言葉を遮って、秀明は言い切った。蓮華は何か言いたそうに唇を開いたが、すぐに堅く閉ざしてしまう。
彼女の抱えるものは、秀明にはわからない。
それでも、蓮華なら暁貴の近くにいても良い人だと思った。