相手は誰だっていい。
自分の生い立ちを知ったのは、十五のときだった。
それまで、傾きかけた武家の長男として生きてきた暁にとって、新しく知らされた世界は戸惑いと拒絶しか感じなかった。
領地で天才剣士などと謳われ、帝のために自らの剣を振るえる日を心待ちにしていた。十五になれば帝都へ赴き、武勲をあげて家を豊かにするのだ。そんな希望に満ちていた。
だが、打ち砕かれた。
自分が帝との子だったことを知らされた。母が宮仕えしていた頃に身籠った非公式の子であったのだ。
公式に認められていた第二皇子は病弱で、ほとんど後宮の奥で引き籠っていたようだ。そして、そのまま夭折してしまった。
せっかく産んだ皇子が死んだことで、側室の妃が選んだのは身代わりを立てることだった。
帝の血を引く暁を探し出し、死んだ皇子の代わりとして元服させたのだ。幸い、髪色や肌色は多少薄いが、顔立ちは帝に似ている。『本物の暁貴』は公の場では全く顔も知られていなかったので、入れ替わりは容易かった。
それまでの人生が否定されて、新しい世界を強要された。
その瞬間に、自分のやるべきことを見失ってしまった気がした。
「今日より、貴方様のお名前は暁貴」
そんな名前、いらない。
言いたくても、言えない圧力という名の束縛。
今まで、大して傲慢だった記憶はないのに、抑圧された感情が胸の内で爆発する気がした。
それでも、実の母だけは味方でいてくれると思った。思いたかった。
多額の金品と交換するように宮へ入ることになっても。
宮に入ってから一度も会いに来てくれなくても。
年に一度か二度、短い文を寄越すだけであっても。
居処を遠方に移したと聞いても、実の母だけは自分の味方だと思いたかった。
徐々に薄れる母の記憶を繋いでいたくて、面影が似ている女官を抱いた。
でも、だんだんと彼女が似ているのかどうかも判らなくなって、気がつけば、よく知らない顔の女でも変わらない気がしていた。
「貴方は、もう少し人の気持ちを考えてみたらどうなのですか。あまりにも不誠実ですよ。恥ずかしくないのですか」
まっすぐすぎる視線を突き立てる秀明を、暁貴は冷ややかに睨み返してやった。
この二つ年上の兄が直接話しかけてくるのは、そのときが初めてのことだった。
それでも、彼が自分よりも『無能』だということは知っている。彼の地位を利用する宮の者は隠して演技させているが、見てわからぬ者はいないだろう。そのうち、他の皇子や皇女に食われて終わる存在だ。
「関係ない」
「でも、昨日貴方の部屋から出てきた子は泣いていましたよ!」
「だったら、お前が慰めてやればいいだろう。いくら能無しでも、種無しではあるまい」
「なッ……」
少し罵っただけで秀明は顔を真っ赤にして、立ち上がってしまう。
殴られるか。それなら、それで構わない。そう思いながら、相手の感情を煽るように暁貴は微笑してやった。
だが、秀明の反応は予想外だった。
「はしたないですッ!」
お前はどこの姫だと聞きたくなるような捨て台詞を吐いて、秀明は逃げるように立ち去ってしまった。あまりの張り合いのなさに、暁貴は呆気にとられて固まってしまう。
「……あいつは阿呆か」
不覚にも、噴き出してしまった。
その後、秀明は生活態度が悪いとか、また女官を泣かせたとか、そんな理由をつけて暁貴に喧嘩を売りに来ては、負けて逃げ帰っていった。
最初はうんざりしたが、だんだんと飼い犬の世話をしている気分になって、相手をするようになる。向こうも徐々に暁貴に打ち解けたのか、自分の趣味や雑談を持ちかけるようになった。
後で聞くと、実は最初から話しかけたくて堪らなかったが、機会がなくて喧嘩を仕掛けたらしい。
秀明にしてみれば、ずっと病に伏せていた弟が元気になり、ようやく話せるようになったのだ。会話をしたくてウズウズしていたのだろう。
もっとも、本人は喧嘩ではなく、兄として注意してやったと思っているようだが。
兄と言うより、うるさい弟か飼い犬。そんな感じだった。
秀明は徹底的に政には向いていない。しかし、知らないうちに相手を惹き込んでしまう節がある。
「足して二で割ったら、丁度いいのにな」
そんなことを言うと、秀明は嬉しそうに笑って振り返った。あまりに嬉しそうな姿は、まるで尻尾を振って喜んでいる犬さながらだ。
「本当にそう思います?」
「まぁ、少なくとも、お前は政に向いていないからな」
「暁貴がやればいいんですよ」
あっさりと言われて、暁貴は面食らった。そんなことをサラリと言ってしまう辺りが既に君主の器ではない。
「そんなことを軽々しく言うと、周りにまた嫌味を言われるぞ」
「暁貴が帝になればいいのですよ。生まれた順序など、ここでは関係ないのですから」
「だから、そんなこと……」
「どうせ、私が帝になったところでお飾りでしょうから」
ただの飾り。
秀明は自分の存在を弁えて、はっきりと言った。そして、まっすぐな視線を暁貴に注ぐ。
その視線が綺麗だと感じた。
この国を覆う桜のように清らかで、穢れを知らない。純粋に、この瞳が醜い政で穢れてしまうのは嫌だと思ってしまう。
秀明は政には向かない。だが、人を惹き込む才はある。
「俺は帝にはならん」
「でも、私では」
「お前の方がいい。聖人君主とやらを望むものだろう?」
閉じた扇子の先で秀明の顔を指し示す。
不思議そうに首を傾げる秀明に、暁貴は、こう続けた。
「俺がお前を帝にする。どうせ飾りになるのなら、俺の飾りになれ」
「私が、貴方の……?」
暁貴は短く息を吐いて、立ち上がる。
庭ではあいかわらず美しい桜が舞い、麗らかな陽射しの下で蝶たちが戯れていた。
「暁貴?」
「その呼び方は好かん。暁でいい」
美しい桜が国や宮の醜さを覆い隠すように咲き誇っている。
太陽の光を受けて輝く薄紅の雪が掌に落ちた。その色を隠すように拳を握り締めると、暁貴は俯いた。
「では、暁。私のことも秀で良いですよ。なんだか、やっと兄弟らしくなりましたね」
明るく笑う秀明を振り返って、暁貴は扇子を広げた。
「ああ、そうだな」
広げた扇子の裏で、微笑みながら決意する。
秀明は、闇を隠す桜であれば良い。この国を飾る花には相応しい。
「俺は秀の影になる」
醜い闇は、全て自分が引き受けよう。
† † † † † † †
秀明と蓮華が接触したことを聞いても、暁貴は大して顔色を変えなかった。
「宜しいのですか?」
「別段、変わったことはしていないんだろう。放っておけ」
どうせ、あの素人娘ではなにも出来ない。
お庭番を務める忍に下がるよう言うと、暁貴は脇に置いてあった煙管を手に取る。
ゆっくりと、煙が気道を満たす。
開け放した障子から見える夜の庭園は、いつ見ても麗しい。それを飾る夜桜の白が美しければ美しいほど、池が映し取った空の闇が深くなる気がした。
「あら、珍しい。今日は『お一人』なのね」
嫌味をたっぷり含んだ声がする。暁貴は煙を細く吐き出しながら、横目で蓮華を見た。
ささやかな抵抗のつもりなのだろう。蓮華は暁貴の寝着を雑に投げつけてきた。それを顔面で受け取って、暁貴は悪戯っぽく笑ってみせる。
「流石に腰が痛いからな」
「歳なんじゃないの?」
「ああ、だから、着替えを手伝ってもらえると嬉しぶほっ」
続いて枕が顔に直撃した。
幸い、当たったのは硬い木の面ではなく、綿が詰められた布地側だったので、自慢の顔には傷一つついていない。鼻血など出たら大変だ。
「急に扱いが雑になったな」
「嫌なら殺せば?」
剥き出しの敵意が突き刺さった。艶を含んだしなやかな髪が揺れ、黒々とした眼に光が宿る。
じっくり見ると、美しい娘だ。
大人しくしているよりも、こちらの方がずっと魅力がある。なかなか喰わせてもらえない辺りが焦らされているようで、思いのほか楽しくも感じた。
「あいにく、女子供を殺して悦べるほど性格が歪んでいるわけではない。優しいだろう?」
「誰の話よ」
「俺の話だ」
おもむろに手首を掴んで、引き寄せてやる。あまりに自然で流れるような動作だったので、蓮華の肩が小刻みに震えた。
無防備な娘だ。それが逆に、男の油断を誘うのかもしれないが、こんなことで、よく暗殺を遂行しようとしたものだ。
こんな小娘を間諜と間違えたのだから、自分も落ちぶれたものだと、暁貴は自嘲した。
「放して!」
「どうして」
耳元で囁くと、面白い具合に蓮華の身体が硬直した。
しなやかな身体が熱を帯び、鼓動が伝わってくる。その温かさが堪らなくて、締め付けるように腕に力を込めた。
女らしくて柔らかく、弾力のある肌が心地良い。指に絡まる髪や、仄かな椿油の香りが、曖昧な記憶の底に眠る母を思い起こさせる。
頭の中で無意識のうちに、「母はこんな人だった気がする」という記憶がでっち上げられていく。いつも通りだ。
相手は誰だっていい。
ただ、寂しさを埋めたいだけ。
「は、放しなさいよッ!」
無意味に派手な音と共に、頬がジンと熱のような痛みを持つ。涙眼で睨む蓮華の視線が胸に鈍い衝撃を走らせる気がした。
不意に力を緩めてしまい、そのまま突き飛ばされる。温かかったはずの身体が急に寒くなった。
冷たい畳に膝をつき、暁貴は逃げる蓮華の手首を掴む。
寒い。
「行かないでくれ」
夜は、寒いから。
手を握り締める力が強くなり、蓮華が痛そうに表情を歪めた。
「どうしたのよ、急に」
唐突に追い縋るような声を上げてしまった暁貴に戸惑って、蓮華が眉を寄せた。
暁貴は我に返って、素早く蓮華の手を解放する。
「なんか、変よ」
なにをしているんだか。誰でもいいくせに。
「……少し趣向を変えてみれば、素直になると思ったんだが。惚れ惚れする演技力だろう?」
暁貴は、わざとらしく肩を竦めて鼻で笑ってみせた。
すると、案の定、蓮華は気分を害して顔を真っ赤にしながら肩を震わせる。反応がわかりやすくて、実に面白い。
「誰が騙されるかッ!」
予想の範囲を越えない言葉を吐いて、蓮華は部屋を後にした。
冷たい畳の上に独り残されて、暁貴は打たれた頬に手を当てる。
肌寒い夜の空気の中で、そこだけが熱を持っている気がした。
ひらり、ひらりと舞う庭の桜が、本当に綺麗だった。