全く逆の人間。
さっさと他の女官と昼寝をはじめてしまった暁貴に愛想を尽かせて、蓮華は洗濯物を持って廊下を突き進んだ。
仮にも、暗殺未遂者を放置して情事に及ぶなんて、いい度胸をしている。そのままサクッと串刺しにしてやろうかと思ったが、どうせ、見張りは付けられているので、やめておいた。
暁貴の思惑が判っているのに、反抗出来ない自分が一番悔しい。
そして、改めて実感する。
蓮華には、なにも出来ない。
復讐の衝動に駆られて、ただ独り歩きしているだけの愚かさが甚だ身にしみる。
蓮華の父は、政の闇に消された。
それは、もういいのだ。官僚となり、要職についていた父が運命に呑まれただけの話なのだから。十年も前の話など、今更掘り返す気もない。
だが、蓮華や母が過去に囚われずとも、政の闇から逃げることは出来なかった。
十年経った今でも政治は動き、情勢を日々変化させている。
「九条殿の死について、お聞かせ願いたく存じます」
蓮華たちの元へ、父の死を調査する男が訪れたのは、二年前の話だ。
秘密裏に属州エウルとの戦を調べていると言った男がいたのだ。確か、名は影連秋栄。第三皇女に仕える側近の一人だ。
影連は父の遺品を隅から調べていた。
蓮華は珍しい客人が来たことに興味を惹かれていたが、母の言いつけ通りに、あまり関わらないよう努めた。
影連は二日ほど通ったが、特になにも語らず、音沙汰がなくなった。
それから半年が経った頃か。
突然、家に火が放たれたのだ。
蓮華は偶然外出していたが、母は巻き込まれてしまった。火消しから放火であったと聞き、蓮華は理由を探ることで必死になった。
思い当たるのは、父の遺品を見に来た男。
蓮華はすぐに影連家へ赴いたが、宮の高官が庶民の相手などすぐにするわけがない。
何度も何度も通い、影連が宮中へ向かう機を見計らった。
「どうして……どうして、母は死ななければならなかったのでしょう!」
屋敷の警護に取り押さえられながら、蓮華は影連に叫んだ。
彼は最初、なにも語ろうとはしなかったが、蓮華が何日も同じようなことを繰り返すので、折れたのだろう。
「秀明殿下はあの件を完全に揉み消すおつもりです。私も自分の主にも内密のうちに動いただけで、これ以上出来ることはありません」
「では、母は皇族の手の者に? どうして!」
「……これ以上は関わらない方がいい。私も知っているだけで、なにも出来ないのです」
後に、彼の主である皇女胡蝶が属州エウルの総督に任命されたことを知った。恐らく、皇女のために、影連は消されたエウルの事情を知っておく必要があったのだろう。
わかったことは何らかの証拠隠滅のために、蓮華たちの家は焼かれたということだ。
母もなにかを知ったから、殺されたのかもしれない。
第一皇子秀明の命によって。
† † † † † † †
「あ……」
「あ……」
小さく上がった声を聞いて庭を振り返ると、見覚えのある顔があった。
庭の隅にある八重桜の下に秀明の姿を捉え、蓮華は思わず視線を逸らした。あまり見たい顔ではない。
庭の陰では、わざとらしい殺気のような視線が向けられる。暁貴がつけた忍が蓮華を牽制しているのだ。
間が悪いと思ったが、今いるのは皇子たちに与えられている西側の宮だ。普段は側仕えの女官や兵くらいしか出入りしない個人的な空間でもある。いつ、秀明が歩いていても不思議ではない。
「先ほどは、邪魔をして申し訳ありませんでした」
無視して進もうとする蓮華を秀明が呼び止める。
女官相手に丁寧な謝罪をする秀明に、蓮華は一瞬顔を曇らせた。だが、すぐにこちらも頭を下げる。
「いいえ、お気遣い痛み入ります」
すると、秀明は作業を中断して、人懐っこい様子で近寄ってくる。
その様子がなんだか、尻尾を振る犬のように見えて、思わず微笑みそうになってしまう。
だが、騙されてはいけない。蓮華は秀明と距離を取ろうと後すさる。
「あの!」
秀明は廊下に腰掛けながら、蓮華を見上げている。
皇族を見下ろすのは、あまりよくない。蓮華は失礼に当たらないよう、秀明から少し離れた位置に正座した。
「たぶん、暁は貴女のこと気に入っていますよ」
「え?」
予想外の言葉を聞いて、蓮華は首を傾げてしまう。
すると、秀明は必死に説明しようと、顔を仄かに赤くしながら言葉を紡いだ。
「えぇっと、その。目つきが違います……いつもは、疲れた感じと言いますか、もっと、失礼な態度を取っているのですよ。あまりに不誠実なので兄として何度か注意したのですけれど、なかなか直らなくて。でも、なんだか今日は違ったみたいで」
蓮華には秀明の言う態度の違いなど、何の意味もないということはわかっている。
蓮華は暁貴の恋人などではなく、監視されているにすぎない。蓮華が自棄を起こして秀明を殺さないか見張る役目もあったのだ。
他の女官との態度の違いなど、当たり前だった。
「あ、ああっ、ごめんなさい。余計なこと、言いましたか?」
蓮華が困っていると思ったのか、秀明は何度も頭を下げはじめた。その姿は、本当に皇子なのか疑いたくなってしまうほどだった。
「暁をお願いします。ああ見えて、悩みが多いので……私がしっかりしていないから」
「わかりましたから、頭を上げてください。殿下」
これ以上、面倒な会話をするのは憚れる。蓮華は秀明の気を逸らそうと、視線を巡らせた。
「そういえば、殿下。お庭でなにをされていたのですか?」
秀明が抱える籠を見て、蓮華は愛想笑いをした。すると、秀明は柔らかい笑みを零しながら、漆黒の髪を掻く。
「桜を摘んでいました。塩漬けにしたくて」
「花を? それなら、わたくしどもに申し付けてくだされば宜しいのに」
宮には何人も女官や料理人がいる。わざわざ、皇子が自分で桜を摘む必要など、何処にもない。
「はぁ、趣味なのですよ。自分で作ってみた方が美味しい気がして。何でも、やってみたくなってしまうのですよね……やはり、おかしいですかね。暁にも、散々笑われるのですよ」
秀明は摘んだ八重桜の花を見下ろすと、少しだけ自嘲めいた笑みを浮かべる。
確かに、彼は変わっている。
自分で花を摘んだり、意味不明な道具を作ったり、およそ皇子とは思えない言動だった。態度も尊大なところもなく、謙虚すぎるほどだ。宮での態度の方が演技なのだと、すぐにわかった。
蓮華が思っていた人物と全く一致しない。
本当に、彼が母を殺したのだろうか。
家に火を放てと命じたのだろうか。
強い違和感しか覚えなかった。
「変わっていることは悪いことではありませんよ。殿下の個性ではありませんか?」
ありていなことを言いながら、蓮華は微笑んでみせる。秀明は少し俯いていたが、顔を上げて蓮華を見据えた。
「そうでしょうか?」
秀明の視線があまりにまっすぐすぎて、蓮華は何処かで後ろめたさを感じる。
純粋で無垢な子供のような眼。その視線から逃れることが出来ない。なんとなく、嘘を吐けない気がした。
「わたくしは、殿下の魅力だと思いますよ。とても、人を惹きつける力をお持ちだと思います」
言いながら、その言葉に嘘偽りはないと自分で感じた。
自らの言葉がすとん、と胸の奥に落ちて溶け入る感触に、自然と微笑がこぼれる。
「厨房から、塩と壷を頂いてきましょう。後で、殿下の部屋にお持ちします」
素直な気持ちで笑いながら、蓮華は断りを入れて立ち上がる。
「ありがとうございます! 宜しかったら、食べて頂けますか?」
「えぇ、勿論ですわ。楽しみです」
「頑張りますね! あ、えっと……失礼でなければ、お名前をうかがってもよろしいですか?」
「臣下に名を聞くのは失礼ではありませんよ。九条蓮華と申します」
「蓮華さん。綺麗なお名前ですね。とても、よく似合っています」
秀明は尻尾を振る犬のように嬉しそうに笑って、再び桜を集めようと庭へ駆けた。
子供のように張り切る秀明を横目で見ていると、蓮華は笑みを隠せなかった。
彼は魅力的な人物だと思う。
とても純粋で、まっすぐな人。
しかし、決定的に政には向いていない。
暁貴とは、全く逆の人間。
秀明は宮で有能を装い、暁貴は逆に無能を装っている。
対称的な兄弟は、まるで光と影だった。
だからこそ、蓮華の中の違和感が強まっていく。
そして、確信のようなものへと変じていった。
あの二人は、もしかすると――。