日陰は良いぞ、気楽だ。
結論から言うと、暁貴は勘違いをしていたようだ。
暁貴は後宮に間諜が紛れているという情報を掴んでいた。恐らく、秀明の命を狙っているのだろう。
その間諜を捕えることが出来れば、首謀者と予測される坂部清彦を引きずり落とす材料になる。
蓮華は見事に間違えられたというわけだ。
計画性の乏しさや、手際の悪さ、更に体術の一つも全く使えない素人らしさのお陰で、個人的な理由で暗殺しようとしたことは認められた。
だが、暁貴がなにを考えているのか、蓮華にはわからなかった。
蓮華を捕らえたあと、彼はなにもしない。
罪人として牢へ入れることも、口を割らせるための拷問もしなかった。
坂部の一派とは関係なかったとは言え、蓮華は秀明を殺そうとした。それにもかかわらず、罪人のような扱いを一切受けていない。
ただ、自分付の女官に指名したという名目で、彼の隣部屋に事実上閉じ込められた。
一応は、外部との連絡手段を絶たれているが、それでも、普通に世話や用事を申し付けられるので、全く身動きが取れないわけではない。
「どういうおつもりですか」
三日目の朝に痺れを切らせて聞くと、暁貴は開き直ったように肩を竦めた。そして、夜蝶柄の扇子を広げる。
「一応、未遂とは言え秀を暗殺しようとしたからな。坂部と関係がないとは言っても、自由は奪っておかねばなるまい」
暁貴の言葉に蓮華は眉を寄せる。
だが、すぐに庭から物音がして、振り返った。姿は見えないが、確かに誰かいた。忍かなにかが庭に潜んでいるのだ。
暁貴は涼しい顔のまま扇子で風を起こし、鼻で笑う。
「監視ですか。逃げられそうで、逃げられない」
「監禁するよりはマシだろう? 実際、お前は三日も逃げなかった」
この男、侮れない。
蓮華は奥歯を噛んで敵意を剥き出しにした。
どうせ、逃げたところで素性は割れている。こちらが逃げられないのを知っていて言っているのだ。蓮華を周囲から見ても何ら不自然ではないように生かしたまま、軟禁している。
「殺す方が楽ではありませんか。わたくしは間諜ではございません。殺したところで、殿下の警戒する一派に動きがあるとも思えません」
「勘違いするなよ。俺がお前を生かしているのは、別の目的があるからだ」
別の目的?
蓮華が首を傾げると、暁貴は扇子で口元を隠しながら笑声をあげる。
「美しい華は愛でなければ、男が廃る」
「……イヤらしい目で見ないで頂けますか」
女遊びは無能と見せかけるための演技ではなかったのか。蓮華は逃げるように身を引きながら、表情を引き攣らせた。
だが、暁貴はすぐに興味を失くしたように煙管に火をつける。
スゥッと細い煙を吐いて蓮華を見る瞳に感情はない。ただ、そこに在るモノを見ているような目つきだった。
恐らく、誤魔化されたのだ。そう気づいて、蓮華は腑に落ちず口を曲げた。
「……そろそろか」
おもむろに呟くと、暁貴は庭に視線を移した。
つられて振り向くが、何もない。
清らかな陽射しが庭の池を美しく照らしているだけだった。先日、毒で殺してしまったので、池には鯉もいない。
だが、程なくして、床板をドンドコ踏み鳴らす音が聞こえた。
「暁、出来ましたよ! これは、素晴らしい発明かもしれません!」
子供のように陽気で弾んだ男声が聞こえる。
声の主は肩で息をしながら、半開きだった障子を勢いよく開け放ち、手に持っているものを前に突き出した。
その様を見て、暁貴は楽しそうに笑って膝を立てる。
「今度は何を作ったんだ?」
「左耳用の耳かきですよ!」
歪に曲がった長い竹棒をズイッと前に出して笑う青年の顔を、蓮華は口を半開きにしながら見上げた。
そんな蓮華のことなど気にせず、青年――秀明は嬉しそうに弟の前に座った。
「左耳を掻くとき、不便じゃありませんか。右手で使えるように、私なりに改良をしてみたんですよ」
「ほう。使い物になれば、便利かもしれないな」
どちらが兄で、どちらが弟なのか、よく判らない会話を交わしながら暁貴は歪な形の耳かきを受け取った。
彼が発明品を使ってみせる様子を見守って、秀明は黒い双眸をキラキラと輝かせる。その姿があまりに無邪気で、大きな犬のように見えてしまった。
だが、室内に響いたのは、無情にもボキリと折れてしまった耳かきの音だった。
柄が複雑に歪んでいる上に、長すぎるため、耐久性が皆無だったのだ。
手の中で折れた耳かきを見て、暁貴は最高に意地の悪い笑みを零した。
「今日も没だな」
「うう。今日こそは、良いものが作れたと思ったのですが……残念です。修行が足りませんでした」
秀明は子犬のようにクゥンと頭を垂れて落ち込んだ。そして、耳かきの残骸を拾い集めて暗い息を吐く。
蓮華は横目で暁貴を睨む。
どういうつもりだ。
蓮華が秀明を標的にしていたことは知っているはずだ。それなのに、彼から蓮華を遠ざけようともしない。
いや、必要がないと思われているのかもしれない。蓮華は素人だし、今は道具がなにもない。暁貴ほどの武人なら、一人で押さえることなど造作もないだろう。
蓮華がそのことを理解しており、絶対に動けないということをわかった上で、野放しにしている。
悔しくて唇を噛むと、ようやく秀明が蓮華の存在に気づいて慌てて姿勢を正す。
「うあっ、すみません。もしかして、またお邪魔しちゃいましたか?」
「気にするな。まだこれからだ」
そう言って、暁貴が蓮華の肩を抱いて引き寄せる。蓮華はとっさに逃げようとしたが、暁貴が横目で視線を送ってきた。
そういう関係を装った方が、不自然ではない。
実際、彼の側仕えの女官に指名された時点で、周囲からはそういう目でしか見られなくなっている。
言いたいことはわかるが、不本意だった。
「良い乳だろ?」
「見るところは胸なんですか」
「中身は少しも可愛げがないからな」
「悪かったですね」
ささやかに反論して抵抗しようとするものの、無遠慮に肩から胸元に回されようとする手の動きに、身体が硬直してしまう。
髪の間から耳に触れた唇が熱くて、思わず声にならない悲鳴を上げた。
「あ、あ、あああのっ。ごめんなさい」
その様子を見せ付けられた秀明は慌てて立ち上がり、部屋の外まで後すさった。
頼りない顔を耳まで真っ赤にして、まるで、子供みたいだ。宮中で見せている聡明で爽やかな雰囲気は、どこに行ってしまったのだろう。
逃げ出した秀明の背中を確認して、蓮華は無意味に密着した暁貴の身体を思い切り引き剥がした。
「冷たいじゃないか。せっかく、優しく接しているのに」
「どこが」
飄々と笑う暁貴を睨みつけて、蓮華は敵意を露にした。
「あなたの良いようにされて、堪るもんですか」
「ほう。いきなり随分と強気に出るな。これでも、皇子なんだがなぁ、俺は。寵愛を受けぬとは、勿体ないとは思わんのか?」
「どうせ、扱いは決まっているんでしょ。今更、機嫌をうかがう必要もないわ」
蓮華はあからさまに唇を曲げると、近寄ってくる暁貴の手を払い落とす。
すっかり開き直った蓮華を見据えて、暁貴は広げた扇子の向こうで微笑を描いた。
「そっちの方が、志雄らしくされるよりも好みだ。やはり、立派な乳があるなら張った方が良い」
「あんたの基準は胸なの!?」
「博愛主義と言ってくれ。別に貧乳だったとしても一向に構わん。育て甲斐があるというもの」
「……変態」
胸限定の博愛主義を大真面目に語られても困る。女好きではなく胸好きだと知ったところで、何の得にもならなかった。
暁貴はさして気にしない表情のまま扇子で風を起こしながら庭を見遣っていた。
黙っていれば美丈夫と呼べるのに、中身が残念すぎる。主に性格と性癖の悪さが。
あらゆる意味で、兄とは間逆のような気がした。
秀明は無邪気な子供のようで、およそ政という舞台から遠い存在である感じる。政治の表舞台で活躍する文官とは思えなかった。
兄弟が入れ替わった方が丁度良いくらいだ。
むしろ、不思議だ。ここまで怜悧で策略的な暁貴が、どうして自ら表に出ないのだろう。
何故、無能を装って日陰の位置に甘んじているのだろう。
蓮華は秀明を恨み、復讐のために殺そうと誓った。だが、今になって、あの男は本当に自分が思っていたような人物なのか不安になる。
この二人には、違和感しかないのだ。
「気になるか?」
まるで、心が読んでいるかのように、暁貴が蓮華に視線を移す。訝しげに睨むと、暁貴は得意げに扇子を閉じて笑った。
「女が美しい分、男の魅力も増す」
「変態のついでに自己陶酔者だってことが判ったわ。なに考えてると思ったのよ」
流石に、心を読む特技はなさそうだ。「照れるなよ」とか言いながら近寄ってくる暁貴の腕をかわし、蓮華は息を吐いた。
「あなた、日陰なんかで満足するように思えないんだけど」
率直に聞くと、暁貴は悪びれた様子もなく、黒曜石の眼を細めた。彼は脇に置いてあった煙管に口をつけると、ゆっくり煙を吐き出す。
「陽射しは肌に悪いからな」
「そういう意味じゃないわよ」
明らかにとぼけているのがわかって、蓮華は苛立ちを隠せなかった。
暁貴は、それさえも嘲笑うように、そのまま隣の自室へ繋がる襖を開ける。
「日陰は良いぞ、気楽だ」
彼は決して本心を見せようとしない。
花から花へと舞う蝶のように、すぐに何処かへ向かってしまう。