この国は、決して美しくなどない。
蓮華の父は十年も前に亡くなった。
宮の官職に就いていた父九条悠馬は、外交官として当時のエウル王国へと派遣された。だが、その派遣先で不審な死を遂げている。
瑞穂側は直ちに悠馬の死をエウル側の陰謀だと抗議し、それを皮切りに戦争がはじまった。
結果、エウル王国は破れ、現在は瑞穂帝国の属州となっている。
残された母は、蓮華を女手一つで育て上げた。
貧しくて慎ましいが、以前を知らない蓮華には充分な暮らしだと思っていた。
政治の世界など遠い存在であったし、母も蓮華に父のことは多く語らなかった。きっと、蓮華には父のような生涯を送って欲しくなかったのだと思う。
二人はひっそりと暮らしていた。
なにも望まず、なにも知ろうとせず、ささやかな幸せだけを支えに生きていた。それだけだ。
父の死の真相も、なにも知らない。知らなくていい。
「蓮華、この国は美しいのですよ」
母は口を開けばそう言って、蓮華を抱きしめてくれた。
きっと、母は父が政のために命を落とし、闇に葬られたことを悔やんでいたのだ。けれども、それを蓮華に悟らせたくなかった。
だから、父が命を捧げた瑞穂のことを「美しい」と形容したのだと思う。
そうすることで、父が捧げた命が小さなものではなかったと、自分に言い聞かせていたのだろう。
「美しいのです、本当に。この国は、美しい国ですよ」
「はい、母様」
隠れて涙する母に気がつかない振りをして、蓮華はいつでも笑顔を返した。
だから、許せなかった。
そんな風に自分を偽って、小さな幸せを糧に生きてきた母を裏切ったこの国を。
政の世界など知らなかった蓮華に闇を突きつけ、母を殺してしまった闇を、許せない。
この国は、決して美しくなどない。
† † † † † † †
空を仰ぐと、朧の月が銀の輝きを放っていた。
何処からか飛んできた薄紅の花弁が軽やかに舞いながら、庭の池に着水する。
そんな美しい情景に目もくれず、蓮華は胸の高鳴りを抑えながら、手に持った水差しを見下ろした。
第一皇子秀明は茶を飲むと眠れなくなるのを嫌って、夜は水を好んでいる。
いつも運んでいる皇子付きの女官が寝込んでいるため、代わりに持って行くように命じられたのだ。
異国から取り寄せたという銀の水差しには冷水が満たされて、輝く水滴をまとっている。
上質な装飾が施されたそれに目を落として、蓮華は息を呑んだ。そして、懐に忍ばせた包みに手を触れる。
即効性の猛毒だった。
蓮華は皇族の住まう後宮で、彼らの世話をする女官だ。勿論、入念な身辺調査や持ち物調査などがあった。
しかし、蓮華の父悠馬は裏の政にも関与していたようで、宮中の抜け道のようなものも使用していた。その一つを使って、外から持ち込んだのだ。
これを使って、皇子秀明を殺す。
「…………?」
不意に、静けさを保っていた夜の空気が別の音を伝える。
弦楽器の音色のようだった。
蓮華は気にせず、冷たい廊下の上を歩くが、音色はどんどん近づいてくるように思えた。
どうやら、蓮華の進む先から聞こえているらしい。
やがて、廊下を抜けると、広い庭に突き当たった。
大きな箱のような庭の大半を占める池には公家が舟を浮かべて遊ぶこともあるようだ。飛び石や橋の位置まで計算されつくしており、鯉が水面を叩いて跳ねる様が絵のように美しい。
その庭を眺めるように、影が廊下に腰を下ろしていた。
月明かりが見事な絹織りの着物を照らし出す。
瑞々しい艶を放った褐色の髪が肩から流れ落ち、広い背中でしなやかに跳ねた。流暢に弦を奏でる指遣いは繊細で美しいが、楽器を抱える腕や身体つきは鍛えられた若い男のものだった。
庭の隅に植えられた立派な桜の木から舞う花弁や、何処からか飛んできた夜蝶が青年の周囲を彩る。
美しい庭に響く旋律がいっそう幻想的に感じられ、蓮華は知らないうちに立ち止まってしまっていた。
こちらの気配に気づいたのか、青年が振り返った。
黒曜石の視線とぶつかり、心臓が跳ねる。
第二皇子――暁貴が演奏を辞め、蓮華の姿を捉えた。
蓮華は思わず硬直して、大きな瞳を何度も開閉させる。
「申し訳ありません。殿下のお邪魔をするつもりは、ありませんでした。どうぞ、続けてください」
そう言いながら、蓮華は逃げるように廊下を行く。秀明の部屋は目と鼻の先だ。
だが、急いで水差しを運ぼうとする蓮華の背に、低い声が投げられる。
「秀なら、もう休んだはずだ。今日は公家の連中に絡まれて、たいそう疲れていたからな。それは障子の外にでも置いておくと良い」
起こさずに帰れということだろう。
暁貴は整った顔に微笑を浮かべると、抱えていた楽器を膝の上に立てた。
どうせ、ここに暁貴がいては、自分の出入りする姿が見られてしまう。
好機だったが、今夜は諦めるほかない。蓮華は控えめに頭を下げて、言われた通り、水差しを部屋の外に置いた。
「あの、なにか?」
水差しを置いて戻ってくる蓮華を、暁貴が未だに見据えていることに気づいた。
舐めるように無遠慮な視線に辟易して、蓮華は思わず顔を伏せる。
「ああ……やはり、昼間に秀を見ていた娘か」
顔を覚えられていた。
心臓が嫌な脈を打って跳ね上がる。だが、まだ目的を気づかれているとは限らないので、蓮華は表面的な笑みを繕った。
「申し訳ありません。あまり殿下のお顔を間近で拝見出来ませんので、つい気になってしまいました」
「ほう。で、感想は?」
「感想、ですか?」
「秀はお前から見て、どのように見える?」
予想していなかった質問に、蓮華は困り果ててしまう。しかし、昼間に見た秀明の顔を思い返して無理に言葉を紡ぐ。
「とても聡明で、お優しそうな方でした。優れた文官だと伺っておりますので、帝になられた暁には、民衆から慕われる良き君主になるのではないでしょうか」
月並みな回答だった。恐らく、誰に聞いても似たような答えが返ってくるだろう。
本当は気弱で頼りない印象もあったのだが、それは皇族に対する美辞で装飾する。
それに、彼がしてきたことを考えると、蓮華には全て演技のように感じられたのだ。
「お前は秀が帝になると考えるのか?」
「わたくしの周りでは、そう噂されております。胡蝶殿下は女性であらせますから、属州での功績によるのではないでしょうか」
「俺は論外だしな」
暁貴がニヤリと笑い、肩を竦めた。
確かに、暁貴は政の舞台から見れば、「論外」なのだろう。本人の言う通りだ。
暁貴は武芸には秀でている。帝国指折りの武人だとも言われているが、それを活かすこともしない。
見目ばかり美しく、女遊びに惚ける彼のことを陰で出来損ないだと称する者もいる。
酒や贅沢には走らないせいか、帝も大目に見ているらしいが、皇族の汚点と言っても差し支えない。
実質、帝位継承は武官として名を馳せている第三皇女胡蝶か、文官としての手腕が買われる第一皇子秀明の二人であると目されていた。
「殿下も武官として、お力を発揮されてはいかがですか? 聞いておりますよ。宮の剣術大会では、毎年、胡蝶殿下と随分な大立ち回りをされているとか」
「俺が武官? あんな野蛮な虎姫と一緒にしてくれるな。七割負けている俺への嫌味か」
「帝国最強の一角を担う現役の武官を相手に三割の勝率は、とても素晴らしいと思いますが」
「冗談ではない。誰が好き好んで、男ばかりの集団の中に飛び込まねばならんのだ。呼吸困難で死ぬかもしれん。せっかくの腕が泣く」
帝国指折りとも称される武を発揮しない方が、余程腕が泣きそうだ。
才はあるはずなのに、やる気がないという周囲の評価は、当たっているようだ。
蓮華はため息を吐きたかったが、グッと堪えた。
「出来れば、刀よりも女人の手を握っていたいとは思わんか?」
「わたくしは女ですので、その質問はよくわかりません……」
この会話に意味はあるのだろうか。蓮華は視線を伏せて煩わしさを誤魔化した。
だが、すぐに疑問は解けた。
意味のない会話の答えに詰まっている間に、暁貴がすぐ近くまで歩み寄っていたのだ。
自然すぎる流れで、あまりに手際が良い。
面倒なことだ。
沙耶の言うように、女官遊びの標的にされたのかもしれない。噂通りの無節操さが癇に障ったが、顔に出すことは出来ない。
「気が強そうな華だと思ったが、棘までありそうだな」
真っ直ぐに視線が注がれ、長い指が頬に触れる。
相手が標的の秀明であれば楽なのに、面倒だ。蓮華は上手くかわそうと、一歩後すさる。
だが、伸びた手が強引に蓮華の細い肩を掴んだ。
「や……ッ」
腰が強く引き寄せられ、逃げられない。
気がついたら、間近で端正な顔が薄く笑っていた。
黒曜石の瞳が、全てを見透かしたような鋭い光を宿す。不思議と視線を逸らすことが出来ず、蓮華は抗う術すらなかった。
逃げないと。
本能が警告を発するのに、身体が言うことを聞かない。
暁貴は蓮華の耳に唇を寄せると、甘美な声で囁いた。生暖かい吐息が耳たぶをかすめる。
「驚いた。本当に棘があったようだな」
戦慄する間もなく、長い指が胸元を這う。
隠し持っていた毒の包みが抜き取られ、蓮華は血相を欠いた。
「それはっ」
「危ないな。どうしたものか」
取り返そうとする蓮華の手を避けて、暁貴は毒を池の中へ投げ入れた。程なくして、池の鯉が水面に力なく浮き上がる。
こんなはずではなかった。
蓮華は顔を蒼くしながら、その場から逃げ出そうと試みる。だが、呆気なく腕を掴まれて、床に捻じ伏せられた。
「坂部の手の者だろう? 間諜にしては、驚くほど素人のようだがな」
「さか、べ?」
何の話だ。蓮華は身に覚えのない名に眉を寄せたが、それどころではない。
油断していた。
この男は、最初から蓮華が秀明を殺そうとしていたことがわかっていたのだ。
周囲に単なる無能と見せかけておいて、とんでもない策略家だ。
蓮華は瞼を強く閉じて、とっさに舌を噛む。
「…………ッ」
口の中に鉄臭い血の香りが広がる。
だが、蓮華に自害は許されなかった。
無理に唇を割って押し入った二本の指が、蓮華の自由を奪っている。噛んだのは、暁貴の指のようだ。
「使える駒を無意味に捨てるのは惜しいと思わないか?」
血の滲んだ指で口の中を広げられ、声を上げることすら出来ない。
横目で睨むと、視界の端で暁貴が愉しげに唇を釣り上げていた。
九条悠馬の事件については、『虎蝶姫 ~帝国の皇女は獣を統べる~』第9話とのリンクです。
こちらの作品の方が後々の説明が細かいので、向こうを読まなくても大丈夫です。