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どこへも行くな。

 

 

 

 障子を開け放しながら、蓮華は暁貴の部屋を睥睨(へいげい)する。

 そして、暁貴の身体を抱いた沙耶の姿を見て、蓮華は硬直した。

「沙耶!」

 沙耶は暁貴の肩越しに薄く微笑している。

 暁貴は肩で息をしていたが、やがて、身体の重みに任せるように膝をついてしまった。

 額に滲んだ大粒の汗が畳に落ちる。

「沙耶、なんてこと……」

 厨房で沙耶から香っていたのは、アセビの花だった。

 蓮華も暗殺に使う毒を選ぶ際に、手にしたことがあった花だ。腹痛や呼吸困難を伴い、酩酊した状態にも陥る。多量摂取すれば、死に至る毒物だ。


 沙耶は素早く自らの唇を袖で拭い、いつもの可愛らしさとは似ても似つかぬ妖艶な笑みを描いた。

「蓮華ちゃんのお陰よ」

 沙耶は懐から長い針のようなものを取り出し、暁貴の頸に宛がった。

 部屋の隅に彼の忍が降り立つが、主を人質に取られて身動き出来ないようだ。

「坂部様は秀明殿下がお邪魔なの。でも、蓮華ちゃんのお陰で、暁貴殿下を殺しちゃえばいいってわかったのよ。ありがとうね?」

 秀明は明らかに政に向いていない。

 人好きのする性格は誰でも虜にする魅力がある。だが、裏の政治など動かすことが出来る人間ではない。

 影で秀明を操る人間の存在に気づく者もいるだろう。

 それが暁貴であったと、沙耶に悟らせたのは蓮華だ。

 沙耶が政敵から内情を探り、打破するために放たれた間諜だとも知らず、蓮華は情報を漏らしてしまった。


「でも、ヌルいのね。蓮華ちゃんが浮気してますーって言ったら、すぐに信じちゃって。あんたたち、馬ッ鹿じゃないの?」

 無邪気な少女のように笑う沙耶の声が、頭の中を搔き乱す。

 沙耶は笑みを湛えたまま、膝をついて苦悶する暁貴の襟元を掴む。そして、一気に針を肌に突き立てようと力を込めた。


「暁!」

 声が聞こえると同時に、続き間の襖が音を立てて倒れる。

 こっそりと回り込んだ秀明が襖ごと二人を突き飛ばすように体当たりしていたのだ。

 相手は武器を持っているのに、当たったらどうするというのだろう。普通なら、絶対に取らない行動だ。


 しかし、結果的に沙耶の注意は秀明には向いておらず、完全に不意を突いていた。

 沙耶は暁貴から引き剥がされると同時に針を手から落とし、小さく舌打ちをする。

 その身体を取り押さえようと、暁貴の忍が素早く畳を蹴った。

「沙耶、もうやめて」

 忍にねじ伏せられるも、沙耶は抵抗を辞めない。

 蓮華や周囲への呪いの言葉を吐きながら、自由を得ようと暴れていた。舌を噛まないよう猿ぐつわをはめられ、手足が拘束されていく。

 蓮華を見上げを憎々しい表情は見たこともないくらい感情がむき出しになっており、鮮烈な焔を感じさせた。

「連れていけ」

 畳に蹲っていた暁貴が弱々しい声で忍に命じる。

 意識が朦朧としているのか、玉のような汗が肌を滴り、黒曜石の瞳は視点が定まっていない。


「暁、しっかりしてください」

 秀明が暁貴の肩に触れて揺する。だが、暁貴は煩わしそうにその手を払った。

「どうせ、少量だ。死なん」

「本当ですか? 本当に? 苦しそうですよ!」

「男に近寄られる方が、息苦しくて死ぬ」

 素っ気なく返されて、秀明はあからさまに寂しそうな表情をした。

 ぞんざいに扱われて、頭を垂れる犬のように大人しくなってしまう。その様子は、いつもの兄弟のやり取りと変わっておらず、蓮華は少しだけ安堵した。


 蓮華は二人から距離を置いた位置に座り込み、息をつく。だが、不意に暁貴と視線が交わり、動けなくなってしまう。

「蓮華」

 明らかにいつもと違う、寂しそうで、何処か子供のような眼。

 行かないでくれと、蓮華の手を掴んだときと同じ表情だった。

「何て顔してるのよ」

 呆れて目の前まで移動すると、暁貴は珍しく戸惑った様子で眼を伏せる。しかし、やがて、彼はゆっくりと蓮華の前に手を伸ばした。


 不安そうで、哀しそうで、捨て犬のような瞳だ。

 暁貴がこんな顔をするなんて、想像もつかなかった。蓮華は伸ばされた手に自分の手を重ね合わせる。

「無意味に演技しないでよ。調子狂うじゃない」

 まさか、殺されそうになって不安になったのだろうか。いつもの暁貴なら、こんな場面で動揺などしないはずだ。

 調子が狂って仕方がない。

 けれども、程なくして重ねた手を掴まれて、暁貴のしなやかな腕の中に引き寄せられてしまった。


「どこへも行くな」


 命令、ではない。

 懇願のようにも聞こえる声で、暁貴は蓮華の顔に触れる。

 毒のせいか、指が震えており、力が全く入っていない。逃げようと思えば、いつでも逃げられた。

 だが、蓮華は逃げようとはせず、暁貴の手を握るように、自分の手を重ねる。

 汗をかいた肌の熱が伝わり、同時に、暁貴へと伝わる感覚。

 暁貴は蓮華を抱いたまま、力尽きるように穏やかな眠りに落ちていった。

 

 

 

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