第一話 狗奴国上陸 ※挿絵
伊予国を出発して五日目の夕刻、男鹿が率いる船団は、狗奴国の拠点である日向国に近い海上にいた。
それまで順調に筑紫島の東側をなぞるように南下していた船団の進行を、突然、男鹿が腕を高く上げて止めた。
日向国の玄関口である港は、湾になっており、今居る場所は、入江の口に突き出す岬の手前だった。
「しばらくここで休みをとる」
男鹿はそう言って、ゆっくりと船を進めながら、右舷側に続く陸を見渡した。
このあたりの海岸線は岩場が多く、大軍の船を止められるような場所は限られていた。
やがて岬を視界に捕える小さな砂浜を見つけた男鹿は、船底を傷めぬよう、大きな船を海岸から少し離れた場所に停め、小型船に乗り換えて上陸するよう兵達に指示した。
そうして浜にあがった一行は、馴れた手つきで火をおこし始めた。
夕餉の支度が整うと、彼らは砂浜や岩の上に腰を降ろし、談笑しながら粥をすすり始めた。
流木に腰掛けた男鹿は、無言で粥を一気に喉に流し込むと、まだ口にさじを運んでいる野猪に声を掛けた。
「野猪、お前に頼みがある。私についてきてくれ」
「は、はい!」
野猪は慌てて粥を口に掻き込み、浜に置かれた偵察用の小舟に向かう男鹿の後を追った。
用意された二艘の小舟には、それぞれ船の操縦に馴れた海人族の兵士が一人ずつ乗っていた。
男鹿がその内の一艘に乗り込み、その後に野猪も続いた。
彼らを乗せた小舟は、帆を夕暮れの風で孕ませ、岬を目指して海上を滑るように走り出した。
野猪は経験したことが無い小型船の速度と、全身に叩き付けられる強い風に、思わず身を小さく屈め、小舟の縁を握りしめた。
しばらくして、早さにも馴れ、前方に目を向けると、舳先で背筋を伸ばし、風を受けて岬を見つめる男鹿の背中があった。
(まだ傷が傷むはずなのに……)
重傷を負っているとは思えない、ぴんと張られた男鹿の背に、野猪は首を傾げながら見入っていた。
「見えるか、野猪」
岬を超え、日向国の港のある湾の入り口まできた時、男鹿が前方を指差し、声を掛けた。
慌てて彼の指差す方向に、野猪は目をむけた。
すると、薄暗くなり始めた空のもと、湾の中央に比較的大きな島陰が見えた。
「あれだけの大きな船団を、明るい時間に移動させるのは目につきすぎる。今夜、お前に兵達をあの島の陰まで率いてきて欲しいんだ」
「私が?」
野猪が思わず、自分を指差して尋ねると、男鹿は大きく頷いて見せた。
「私が先にあの島に行って、狗奴国の様子を探る。警備が手薄になれば、松明に火を灯すから、それを合図に皆を連れて航行してきてくれ」
「は……はい!」
大きな任務を与えられ、顔を紅潮させた野猪が答えると、男鹿は彼の顔を見て軽く微笑んだ。
いつも難しい顔をしている印象だった男鹿の笑顔を見て、野猪は少し驚き、目を丸くした。
(男鹿様、なんだか変わられたな……)
野猪はこれまでも、男鹿には年齢に不相応な落ち着きと、威圧感を感じていたが、この時の彼には、大人の男としての余裕が感じられたのだった。
その後、男鹿はもう一艘の小舟に飛び移ると、湾に浮かぶ島へと船を滑らせて行き、野猪は船団を指揮するため、兵士らが休む浜へと引き返して行った。
深夜、岬から島の様子を監視させていた兵から、松明が灯ったとの知らせを受け、野猪は巨大な船団を率いて、男鹿の待つ島を目指した。
明晩に新月を迎えるこの夜、空に月は見えず、周囲には暗黒の闇が広がっていた。
だからこそ、松明の火をはっきりと見てとることができ、彼らはそれを頼りに島へ辿り着くことができたのだった。
月明かりも無い夜に船を出すなど、当時の常識では危険すぎて考えられなかったため、狗奴国の警備艇も日暮れとともに海上から消えていた。
狗奴国からすれば、こんな夜に、港から死角となる島の陰に、三百隻にものぼる大船団が来るなど、想像もできないことに違いなかったのだ。
島には、男鹿だけでなく、一足先に出発していた月読の一行もいた。
再会を果たした彼らは、最後に今後の計画を確認し合うため、深夜の砂浜に腰を降ろし、語り合っていた。
月の無い浜辺は、深い闇に包まれ、あたりには波音だけが静かに響き渡っていた。
唯一、暖をとるため熾された焚き火の炎が、緊張した面持ちで向かい合う、男達の顔を照らし出していた。
「この島に、なぜ狗奴国は兵を置かぬのだ」
ふと、月読が建に尋ねた。
彼は敵が寄港するのを阻止する砦として、うってつけの場所に横たわるこの島が、手つかずのまま放置されているのを、不自然に感じていたのだ。
「私も詳しくは知らぬが、この地を倭国の海人族が治めていた頃から、この島には月の神が祀られているそうだ。そのため、ここに足を踏み入れようとすると、筑紫島内の海人族達が一斉に反乱を起こすゆえ、狗奴国も結局手が出せなかったと聞いている」
「つくづく、月読様は月の神に愛されているようですね」
牛利の言葉に、周りの者達も同調して頷いた。
「我々は夜明けとともに、建の船で狗奴国王の宮殿へ向かえばよいのだな」
月読は表情を変えることなく、そう言って男鹿の顔を見た。
「はい。我々は時が来るまで待機しております。それまでどうかご無事で」
「うむ」
真剣な表情で見つめる男鹿に、巫女の姿の月読は深く頷いた。
壹与は夜が明ける前から祈祷の間に入り、神に祈りを捧げていた。
「戸を閉めないで」
ふと、組んでいた指をほどき、祭壇に向かったまま、背後の戸口に向かって壹与は声を掛けた。
戸口との間には天幕が下げられ、外の様子は見てとれなかったが、彼女は戸を閉めようとする侍女の気配を感じたのだ。
「まだ冷えますゆえ、お風邪を召されそうで……」
木戸に掛けた手を止めて、侍女は天幕越しに、心配そうな声色でそう言った。
「お願い。そのままにしておいて」
体を戸口の方へ向け、座り直した壹与は、白い天幕を見上げた。
夜が明け始め、まだ青白い太陽の光が、弱々しく宮殿の外に植えられた木々の隙間を抜け、ゆらゆらと枝葉の影を天幕に映しだしていた。
「その時がくれば、月の姿がこの天幕に映し出されるらしいの。それを見届けたいから」
そう言って壹与は、立ち上がり、天幕の隙間から抜け出すと、戸口へと向かった。
それから彼女は、祈祷の間から出て、回廊の柵に手を掛け、今まさに昇ろうとする太陽を仰ぎ見た。
壹与には、これから何が起こるのかはよくわからなかった。
ただ、天幕に映る月の姿と、闇に包まれる世界を、女王としての最後の仕事として、しっかりと見届けておくようにと、出発前の月読に言われたのだ。
「神よ。我々に力をお与えください」
壹与は朝日に向かって指を組み、目を閉じると、静かに、強く、祈りを捧げた。
朝霧の立ちこめる海上を、月読達を乗せた建の船は、兵を乗せた数隻の小舟と共に、日向国の港に向かって、ゆっくりと進んでいた。
頭からすっぽりと麻布を被った月読のそばには、牛利が腰掛け、周囲に鋭い視線を巡らせていた。
夜明け前の海は静寂に包まれており、舳先が波を押しのける穏やかな水音だけが、あたりに響いていた。
ふと、霧の向こうに近付いてくる小舟と人の影が見えた。
「建様、ご無事でしたか」
狗奴国の港を守る警備兵と思われる入れ墨をした男は、建の顔を見て、笑顔を見せた。
「お帰りが遅いゆえ、心配しておりましたが、よくぞご無事で」
「馬鹿にするな。ちゃんと戦利品も持ち帰った」
建は顎で麻布を被った月読を指し、強気な表情を男に向けた。
「おお、では噂通り、邪馬台の女王を?」
男は興奮した表情で、驚きの声をあげた。
そんな兵士に、建は気を引き締めさせるように、険しい表情を向けた。
「早く父王のもとへ案内しろ」
「は……はい!」
警備兵は慌てて、船を転回させ、港へ向かって、建の船の少し前を進み始めた。
「父王とは、狗奴国王のことか?」
声を殺し、牛利が建を睨みつけながら尋ねた。
彼は、このことが引っかかり、建に不信感を抱いていたのだ。
「ああ」
建は無表情に前方の海原を見つめながら、小さく答えた。
「母が妃になっているからな。狗奴国王は私の義理の父ということになる」
そう言うと、建はきつく唇を噛み締め、固めた拳を震わせた。
「殺したいほど憎い男を父と呼び、その庇護のもとにいる。このような屈辱、お前らにはわかるまい」
月読は、麻布の隙間から、そんな建の様子を静かに見つめていた。
野猪は、不思議そうに男鹿の様子を伺っていた。
夜明けとともに月読達が出発すると、男鹿は船に乗り込み、甲板の縁にもたれかかるように胡座を組むと、目を閉じて、そのまま動かなくなったのだ。
(やはり、体がおつらいのかな)
そう思った野猪は、しばらく彼をそっとしておくことにした。
男鹿は日よけのつもりなのか、大型の盾を陽のさす方向に立てかけていた。
盾に開けられた二つののぞき穴を突き抜ける光が、白い衣を身につけた彼の膝に、二つの小さな円を描いていた。
建を先頭にして、月読達の一行は、狗奴国王の謁見の間を目指し、宮殿の回廊を歩いていた。
朱に塗られた柱や、五色で鮮やかに描かれた天井の絵が続く回廊のきらびやかさに、月読は思わず息を呑んだ。
渡来人の影響の強い河内や出雲の建物も、邪馬台国に比べれば華やかであったが、これほどの装飾の繊細さや色の鮮やかさは、見たことがなかった。
回廊に等間隔に立つ侍女らしき女達は、みな美しく化粧し、色とりどりの刺繍を施した美しい衣装を身に着けていた。
また、護衛の兵らは鉄と革で作られた、頑丈そうな鎧で身を固め、その腰には大きな三日月型の刀が挿されていた。
彼はこのような様子から、倭国と大陸の文明の差を、嫌でも認めざるを得なかった。
回廊を歩く月読の姿に、狗奴国の宮殿内の者達は、みな思わず振り返った。
彼らにとっては、髪を垂らし、純白の衣装を身にまとった女の存在が異様に見えたのだ。
だが同時に彼らは、その吸い込まれそうな黒い大きな瞳と、潔いほどに自然のままの美しさに圧倒され、ため息をついた。
謁見の間では、狗奴国王が上座で彼らを待ち構えていた。
「建、よくやった。さすが私の息子だ。褒めてやろう」
頭頂部でまとめた髪に冠帽を被せ、あご髭を胸まで伸ばした王は、跪く建をねぎらった。
それに応えるように、建は、無言のまま頭を下げた。
「勇が見当たらぬようだが、どうした」
「倭国の者達が変な気を起こさぬよう、監視させるため置いて参りました」
建の答えに、王は大声をあげて笑った。
「図体が大きいだけの役立たずかと思っていたが、あいつも少しは使えるようになったか」
王の言葉に、建は頭を下げたまま、歯ぎしりをした。
月読にも、このやり取りを聞いているだけでも、彼ら兄弟がこれまで、言葉にできないほどの侮辱を受けてきたことが想像できた。
「それが邪馬台国の女王か」
ふと、王が月読の顔に視線を向けてそう言った。
月読の全身をなめるように見つめ、王は不敵な笑みを浮かべた。
月読は表情を変えずに、じっと王を見据えた。
「噂以上に美しい。大陸にはない美しさだ」
王は立ち上がり、月読のそばへ近づくと、彼の顎を持ち上げ、まじまじとその顔を見つめた。
「巫女など、所詮、その姿と怪しい奇術で民を惑わす存在なのであろう。そのようなものに頼っておるから、倭国はいつまでも発展せぬのだよ」
そう言って王は、月読の耳元をなめた。
無表情のまま、王から顔を逸らした月読は、逸らした先に居る建に目で合図を送った。
それを受けて、建は頷き、王に声を掛けた。
「王、この女を新しく妃に迎えるなら、母を私たちのもとにお返しいただけませぬか」
なおも月読の顔を愛でながら、狗奴国王は建の問いに答えた。
「ふむ。よかろう。返してやる」
あっさりとそう言う王に、拍子抜けしたように建は口を開けて呆けた。
「あの者を連れてまいれ」
王に命じられ、一人の兵士が胸の前で手を合わせ、部屋を出て行った。
「ところで、そこの大男は何者だ」
王は、月読の肩を抱きながら、鎧姿で戸口のそばで控える牛利に目をむけ、建に尋ねた。
「伊予国で拾ったならず者です。金に困っていると言うので、腕が立ちそうですし、用心棒として買ってやりました」
「ふん。正体のわからぬ者を、無闇にここへ連れてくるでないぞ」
体格がよく、目つきの鋭い牛利の風貌に、王は警戒をしているようだった。
「その者、どこかで見覚えが……」
王のそばにかしずく鎧兜を纏った男が、牛利の顔を見ながら顎を手で摩った。
その様子から、王の身を護るため、雇われている手練の男だと思われた。
だが、次の瞬間、先ほど部屋を出て行った兵士が、戸口から王に声を掛け、男の視線もそちらに移った。
「お妃様をお連れしました」
兵士は、小柄な女の肩を抱えるようにして、室内に入ってきた。
「母……上……?」
建の目は、女を見たまま硬直していた。
その姿は、彼の幼い頃の記憶の中の母とは、あまりにかけ離れていたのである。
支えられ、よろめきながら現れたその女は、白髪の老婆だった。
うつろな瞳は黄色く濁り、骨と皮だけにやせ細った手は、皺だらけで、異様なほど血管が浮き出ていた。
昔美しいと内外に知られていた母の面影は、そこには微塵も残されていなかった。
「ここへ連れてきた直後、気が狂れ、一晩で白髪になりおった。情けで何度かは抱いてやったが、もう長く女としては役に立たぬ」
忌むものを見るように顔をしかめ、そう語る王に、建の膝の上に置かれた拳は、わなわなと震えていた。
「勇猛と恐れられていた熊襲国の妃を妻にすることで、筑紫島を制圧するのに都合がよかったため生かしておいたが、邪馬台国の女王を手にした今、その女の存在価値はない。お前達兄弟も、息子として無能ながらよく働いてくれたが、もはや必要ない。母を連れてどこでも行けばよい」
建の目には涙が滲み、震えるその手は、腰の剣を握りしめていた。
「もっとも、お前達にはもう帰る国もないがな。今頃は我が兵が熊襲国に侵攻しているはずだ」
「なに……!」
怒りが頂点に達し、思わず立ち上がりかけた建の腕を、牛利が掴んで引き止めた。
『何を見ても、何を言われても、じっと耐えろ』
ふと、伊予国を発つ前に聞いた、男鹿の言葉が建の脳裏をよぎった。
(あいつ、このことを知っていたな…)
我に返った建は、血が出るほど唇を噛み締めた。
それから彼は一息つくと、ゆっくりと立ち上がり、兵士に支えられて立つ母に近付き、その手をとった。
「母上、共に帰りましょう。私たちの国へ」
涙に濡れた瞳を向けると、母の目も濡れていた。
そして母と子は、支え合うように抱き合いながら、その場に腰を降ろした。
「倭国の巫女は、神に舞を捧げるそうではないか。私のために、舞って見せてみろ」
月読の肩を抱き、耳元でささやくように王が言うと、月読はこくりと頷いた。
そして彼は立ち上がり、広く間をとられた部屋の中央まで移動すると、腰に下げていた剣を抜いて構えた。
それを見て、王は一瞬目を見開き、建の顔を見た。
「邪馬台国の巫女が得意とする剣の舞です。あれは儀式用の剣ですのでご安心を」
母の肩を抱き、そう言う建に、王は焦りを隠すように、傲然とした態度で胡座を組み、月読を指さした。
「よし、踊ってみせろ」
再びこくりと頷き、腰を落として顔の前で剣を構えた月読の表情が変わった。
剣の刃のように鋭い視線が、まっすぐ王に向けられ、王はぞくりとしたものを背中に感じた。
やがて月読は、目線の高さに剣を掲げ、舞い始めた。
体が回転するたびに、柄に結ばれた長く赤い組紐が、彼の顔の前を駆け抜け、美しい目元を彩った。
次第に舞の範囲は広がり、壁際に貼り付くように座る王の家臣や兵達のすぐそばまで、剣の軌跡が走った。
一瞬刃が近付く恐怖と、その直後に見せる月読の微笑みに、誰もが翻弄され、夢中になっていった。
王にしても例外ではなく、剣とともに差し向けられる鋭い視線と、交互に現れるこの世のものとは思えない美しい笑顔に、目と心を奪われていった。
日が高い位置に達し始めた頃、ずっと伏せられていた男鹿の目がゆっくりと開いた。
「いよいよ始まったな」
自分の膝に目をむけてつぶやく男鹿を、野猪は眉を寄せて見つめていた。
「いったい、何が始まるのです?」
そんな野猪に男鹿は笑って、盾の覗き穴が膝に描く、光の円を指差した。
「よく見てみろ」
野猪は男鹿の傍らに腰をおろし、顔を近づけてその光の円を見た。
「これは……?」
真円に見えた光は、よく見ると、月のように少し欠けているようだった。
「月が太陽を覆い始めたんだ」
そう言って男鹿は、立ち上がり、空を見上げた。
「準備しろ。そろそろ出発だ」




