第六話 熊襲兄弟(くまそきょうだい) ※挿絵
壹与は、男に抱えられたまま、宮殿を抜け、葦が茂る川辺まで連れて来られた。
そこでは、茂みに小舟が隠されており、船上には男の仲間と思われる、小太りの若い男が待ち構えていた。
「建、遅かったではないか。やられたかと思ったぞ」
男は、建と呼ばれた男から、壹与の体を受け取り、担ぎ上げた。
「これが邪馬台国の女王か?まだ少女のようではないか」
壹与の顔を見ながら、男は目を丸くした。
後ろ手に縛られ、口に猿ぐつわを噛まされた壹与は、声も出せず、男を睨みつけた。
男は船上に彼女の体を下ろし、舌舐めずりした。
「だが、いい女だ」
突然、男が壹与の衣の襟元に手を掛けた。
壹与の胸元がはだけ、白い肌が月光に輝いた。
男は彼女に覆い被さり、分厚い唇を首筋にはわせた。
壹与は必死に抵抗しようと、身をよじった。
「よせ!勇!その女に手を出すな!」
船に乗り込んだ建が、背後から男の襟を掴み、壹与の体から引き離した。
壹与は涙を流しながら船の隅に後ずさりした。
彼女の体はがたがたと恐怖で震えていた。
「いいではないか。減るものでもなし」
勇と呼ばれた男は、口を尖らせながら、建の顔を睨んだ。
「減るんだよ。倭国の巫女と呼ばれる女は、神に身を捧げるため男を知らぬ。その女も純潔だ。王に献上した時、お前がそれを犯したとなれば、死罪は免れぬぞ」
建に強い口調で言われ、勇は一瞬身を震わせた。
だが、なおもなめるように少女の体を見つめる男の視線に、壹与は顔を背けてうつむいた。
そんな彼女のそばに、建が近付いてきた。
再び身を固めた壹与の襟元に手を伸ばし、彼は彼女の乱れた襟を整えた。
「もっとも、心はすでに神以外の者に捧げているようだがな」
建は壹与の目を見つめ、せつな気に小さく笑った。
壹与は涙をこらえながら、彼から目を逸らした。
「だが、あの体では、とてもお前を助けには来れぬな」
壹与の瞳から、再び涙が溢れ出した。
船の縁に寄りかかり、声も出せずに泣く少女に背を向け、建は勇を見上げて川下を指差した。
「これから海へ出て、夜明けとともに狗奴国を目指す。すぐ出発だ」
「狗奴国からの兵は、二手に別れていたようだな」
討議の間へ戻った月読は、悔し気にそう言って、唇を噛み締めた。
「申し訳ありませぬ。私が牛利と看病を代わらなければ……。このようなことには」
頭を深く下げて、橘が絞り出すように言った。
彼女は壹与を守るため戦った際、左腕を負傷していた。
女の左腕に巻かれた晒に滲む血を見て、月読は首を大きく振った。
「いや、敵は大王の周りが手薄になる機会を狙っていたのであろう。壹与に護衛を付けなかった私の落ち度だ」
「……私が、傷を負った時に死んでいれば……」
橘の傍らに座った男鹿がつぶやくように言った。
それを聞いた月読は立ち上がり、男鹿に近付くと、彼の胸ぐらを強く掴んだ。
胸の傷に痛みが走り、男鹿は顔をしかめながら皇子の顔を見た。
そこには今まで彼が見たことが無い、怒りに満ちた月読の瞳があった。
「壹与は自分の身と引き換えに、お前の命を守ったのであろう。お前達はふたりともそうだ。相手にとって命を掛けるほど大切なものである自分の命を、なぜそれほど粗末にする!」
「月読様」
牛利が背後から月読の肩に手を置いてなだめた。
我に返った月読はため息をつき、少年から手を離すと、再び腰を降ろした。
胸元を手で押さえ、うなだれた少年を見つめ、牛利は厳しい表情で語りかけた。
「お前は壹与様を守って死ねれば、それで満足であろう。いずれ誰かの妻になるあの方の姿を見る苦しみも知らずに済むからな。しかし残された者の想いはどうなる。私も、たとえ別々の人生を歩んでいたとしても、弥鈴には生きていて欲しかったと思う。二度とそのようなことは口にするな」
牛利の言葉に、男鹿は堪えきれず、嗚咽を漏らして泣いた。
橘は震える少年の肩を、優しく抱いた。
そんな様子を見ていた月読は、空気を変えるように咳払いした。
「すでに付近の川の下流と、船が近づけそうな海岸沿いには兵を送った。敵も夜が明けるまでは、危険を犯してまで海原には出ぬはずだ。なんとしてでも、狗奴国へ着くことは阻止しなくては」
皇子の言葉に、一同は頷いた。
月読は、傍らに置いていた木製の巻物を手にとり、男鹿に近付き腰を降ろすと、少年の目を凝視した。
「男鹿、今のお前に、剣を手にして戦うことは無理だ。壹与のことは我々に任せろ」
涙に濡れた瞳で皇子を見上げ、男鹿は悔しそうに唇を噛み締めた。
「だが、体を使うだけが戦いではない。お前には知恵がある」
月読は、手にした巻物を男鹿に差し出し、真剣なまなざしを少年に向けた。
「これは張政が送ってきた手紙だ。お前に渡すよう言付けがあった。ここには、張政が狗奴国へ内偵を送り、調査した内容が書かれているらしい。これをもとに、お前には戦略を練って欲しい。お前の武器はその知恵だ」
男鹿は巻物を受け取り、再び皇子の顔を見上げた。
その瞳にはすでに、新たに溢れ出る涙も、迷いも残ってはいなかった。
壹与を乗せた船を捜索するため、牛利は野猪と兵を分散して、夜が明ける前に海へ出ることになった。
「男鹿の傷の手当を頼む。傷に効く薬草は多めに用意してある。お前も、しっかり治療しておけ」
港まで見送りにきた橘の、傷を負った腕に目をやり、牛利は言った。
晒を巻いた左腕を右手で摩りながら、橘はしばらく黙り込み、おもむろに腰に挿した剣を鞘ごと抜くと、彼にそれを差し出した。
「こいつを持っていってくれ」
「だが、これはお前の……」
その剣が、彼女の夫の形見であることを知っている牛利は、戸惑いの表情を見せた。
「私はこいつを、戦いのたびに刃こぼれを直し、鍛え直している。おぬしの剣の刃は、手入れする間もなく使い込み、いたんでいるであろう。この傷では、私は戦場に赴くこともできぬ。私にかわって、こいつで戦ってきてくれ」
真剣な表情でそう言う橘の手から、牛利は剣を受け取り、彼女の目を見つめた。
頬を赤らめて目を逸らした橘は、落ち着かない様子で、再び腕を摩った。
「弥鈴殿にはかないそうにないな。」
「?」
「別の人生を歩んでいたとしても、生きていて欲しかったなどと、とても私には言わせることができそうにない」
牛利は剣を握ったまま、なおも彼女を見つめていた。
「おぬしと書を読んで過ごす静かな生活も、悪くないかなどと勝手に思っていた。文字も読めぬのに、馬鹿だな」
赤い顔で苦笑しながら、橘は頭を掻いた。
「弥鈴には、新たに妻を娶ることを許すなら、戦から生きて還らせてくれと言っている。」
牛利は、自分の腰に挿していた剣を抜き取り、橘から渡された剣を挿し直した。
そして自分の剣を橘の前に差し出した。
橘は不思議そうにそれを見つめて受け取り、大男を見上げた。
「この戦から、生きて還れたら、文字の読み方を教えてやる。それまでにそいつを鍛え直しておいてくれ」
微笑みながらそう言って、牛利は彼女に背を向け、船着き場へと足早に歩いていった。
呆然とその背中を見送った橘は、牛利から受け取った剣を鞘から少し引き抜き、刃を見た。
彼の剣の刃は、想像以上にこぼれ、拭いきれない血の色で染まっていた。
橘はその剣を鞘に納めると、愛し気に胸に抱きしめた。
「ほら、食え」
気を失うように眠っていた壹与の口から猿ぐつわを外し、建が木の実をのせた手のひらを、彼女の口元に差し出した。
「女王様の口に、こんなものは合わんだろうがな」
後ろ手に縛られたままで、じっと木の実を見つめていた壹与は、やがて犬のようにその手に口を寄せ、固い実を口に含んで噛み砕いた。
「ほう。この状況で、まだ生きることへ執着があるのか」
建は、そんな壹与の様子を見て、少し驚いた表情を見せた。
誇り高い王族出身の女王が、敵の施しを素直に受けるとは思っていなかったのだ。
「私が生きている限り、彼は私を助け出すため、必死に生きようとするだろう。そのためなら、いかなる屈辱にも耐えて生き抜いてやる」
むせながら木の実を喉に通し、壹与は低い声で言った。
彼女が眠っている間に船は下流に進み、夜明けが近い白々とした空の下に、群青の海が広がっているのが見えた。
船首では、朝霧の中、勇が水面に網を放ち、魚を捕っていた。
服装から見ても、彼らは漁夫を装って監視の目をくぐり抜けるつもりなのだと壹与は思った。
「奴と将来を誓い合っているのか?」
建にも、彼女が言う「彼」が、重傷の体を圧して、剣を手に挑んできた男のことであることは、すぐにわかった。
揺るぎない少女の強い思いに、彼は少し身震いを覚えた。
「いや、あの者との将来はない。ただ、生きていて欲しいだけだ」
意外な答えに、建は言葉を失った。
未来の無い相手に、ここまで強くなれるなど、彼には信じられなかった。
「お前達は呉の人間なのか?」
しばらく無言の時間が過ぎ、不意に壹与が建に問うた。
見た目で倭と呉の人間を区別するのは難しいが、彼女は彼に同じ倭人の持つ空気のようなものを感じていた。
「いや。我々は倭人だ。こう見えても筑紫島の西南にある、熊襲という国の王族の者だ。今は呉の下僕に成り下がっているがな。あれは私の弟だ」
建はそう言って、顎で勇を指した。
がたいの大きな勇に対し、建は一見きゃしゃな体をしており、彼らは兄弟とはいえ、異なった印象をしていた。
三人を乗せた船は既に海原に出て、勇は帆を操りながら、先を急いでいる様子だった。
「十年前、突然、呉の兵が侵攻してきて、父王を殺し、絶対の服従を求めてきた。従わなければ、王宮ごと町を焼きつくすと言われ、まだ幼かった私たちに選択肢はなかったのだ」
遠い目をして、少し寂し気に建は言った。
父王を殺され、民と自分たち兄弟の命を守るため、彼らは窮余の策で呉に屈したのだろう。
壹与はいつしか同情に似た感情を、彼らに対して抱いていた。
「……我々とともに戦わぬか。呉が治める狗奴国と」
少女の提案に、建は一瞬目を見開いたが、鼻から息を吐いて苦笑した。
「お前達に治められても同じことであろう。服従する相手が代わるだけだ。とにかく今はお前を狗奴国王のもとへ連れていかねば、また我々の町を焼くと脅されているのだ。悪いがお前の運命は変えられぬ」
そう言った建の目が何かをとらえ、再び壹与の口に布が噛まされた。
驚く壹与に、彼はそばにあった麻布を被せ、手に握った小刀を、布の上から突きつけた。
「動くと殺すぞ。じっとしていろ」
麻布の上から、建は押し殺した声で凄んだ。
「そこの船、止まれ」
聞き覚えのある声がして、壹与は布の下で耳をすました。
「何をそんなに急いでいる」
少し離れた場所から聞こえるその声は野猪だった。
壹与は布の下で、希望に目を輝かせた。
「漁場を目指してるんでさあ。早く行かねえと、みんな穫られちまう」
漁夫を偽り、答える勇の声がした。
「今から漁に行く割には、既に魚籠がいっぱいのようだが?」
野猪は、勇の足元に置かれた魚籠を見て、不信感を抱いていた。
彼は、魚の群れを探すでもなく、海上を急いで航行するこの船に目を付け、兵を引き連れて近付いてきたのだ。
しかも、よく見ると、魚籠の中に入っているのは、川魚のようだった。
これから海へ漁に出る漁夫が、行きがけに川魚を穫れば、帰る頃には傷んでしまい、ものにはならないはずなのだ。
「ちっ」
小さく建の舌を鳴らす音が聞こえた。
漁夫を偽るのに、空の魚籠では不審に思われると、細工したのがやぶ蛇だったと気付き、彼は冷や汗をかいた。
彼らの船はいつしか、野猪の率いる監視船に囲まれていた。
「その布の下には何がある」
船の後方に座る男の背後にある、盛り上がった麻布を見て、野猪は再び尋ねた。
「食料や雨具です」
建は後ろ手に、壹与の体に一層強く、小刀を突きつけながら答えた。
「中を確認させてもらう」
「くそっ!」
確認のため、兵士が船に乗り込もうとしたとき、彼らに向かって勇が魚籠を投げつけた。
木の床の上に、魚が散らばり、足を取られる兵もいた。
しかし、数人の兵に飛びかかられ、勇は床の上に倒れ、手足を押さえられた。
建は船の縁に隠していた剣を取り出し、兵士らの前にかまえた。
それを見て、野猪は建の後方に控える船の兵士に、目で合図を送った。
「近付くと女王の命はないぞ!」
建は立ち上がりざま、壹与を抱えて立たせると、その首に剣を当てた。
だが、次の瞬間、背後から近付いてきた兵士が、剣の柄で彼の後頭部を殴りつけ、建はその場に倒れた。
男が気絶したのを確認し、兵士が壹与の口から布を外し、手を縛っていた縄をほどいた。
「野猪!」
「壹与様、よくぞご無事で!」
先ほどまで、冷静に建達を追いつめていた姿が別人に思えるほど、顔をくしゃくしゃにして喜ぶ野猪がそこにはいた。
壹与は脇目も振らず、回廊を駆け抜けていた。
野猪達に助けられ、宮殿に戻った彼女は、謁見の間で月読に無事を報告すると、落ち着く間もなく、男鹿の寝所を目指し、部屋を飛び出した。
そんな彼女の後ろ姿を、月読は微笑みながら見つめ、目で牛利に合図を送った。
女王の護衛せよとの皇子の意思を受け、大男は頷くと、少女のあとを追った。
寝所の戸口で立ち止まった壹与は、肩で息をしながら、中の様子をうかがった。
男鹿は上半身裸で戸口に背を向けて座り、橘が胸の傷を覆う晒の布を巻き直していた。
少年の肩越しに、戸口に立つ少女の姿に気付き、橘の布を持つ手がとまった。
「大王……」
女の言葉に、男鹿はゆっくり振り向いた。
「壹与様……」
壹与は、少年の怪我を思い、その胸に飛び込みたい衝動を抑え、戸口に立ったまま涙を流した。
壹与の背後からは、牛利が橘に向かって、手振りで「出て来い」と伝えた。
橘は慌てて晒を巻き終えると、見つめ合うふたりの横を通り過ぎ、回廊へ出た。
牛利と橘は、戸口の外の壁に背を付けて並び、安心したようにほっと息をついて微笑み合った。
衣を握りしめたまま、立ち尽くす壹与に向き直ると、男鹿は何かを決意したように、深いため息をついた。
そして次の瞬間、彼は少女に向かって、微笑みながら両手を広げた。
それを見て、壹与は手を伸ばして彼に近付き、遠慮勝ちにその胸元に身を寄せた。
そんな少女の体を、男鹿は両手で抱きしめた。
強く抱くほどに、胸の傷が激しく傷んだが、その痛みさえ、互いの無事を実感させているようで、愛しく思えた。
もう、ふたりの間に言葉は必要なかった。
しばらく泣きながら、しがみつくように彼の背にまわしていた壹与の手が、突然だらりと下がった。
「壹与様……?」
意識を失い、ぐったりと寄りかかる壹与に気付き、男鹿は小さく叫んだ。
その声を聞いて、牛利が室内に入ってきた。
少女の様子を見て、大男はため息をついた。
「安心して気を失われたのだ。ずっと気を張り、怖い思いをされてきたのだろうからな」
牛利はそう言って、少女の体を抱き上げた。
「今はゆっくりとお休みいただこう」
牛利に抱えられ、部屋を出て行く壹与を、男鹿は言葉にならない思いを抱きながら見送った。
壹与が目を開くと、見慣れた自分の寝所の天井が目に映った。
「気が付いたか」
声のする方を見ると、微笑む月読がいた。
「私……?」
「男鹿の顔を見て安心して、気を失ったんだ」
それを聞いて壹与は、しばし記憶をたぐり寄せるように、天井に瞳を向けた。
そしてゆっくりと、皇子の顔に視線を戻した。
「月読。この戦いが終わったら、私を王家から追放して欲しい」
思い詰めたようにそう切り出した少女の顔を、月読は真剣なまなざしで見つめた。
「私、今回のことでよくわかったの。彼以外の人のものになるなんて、耐えられない」
「わかっている」
月読は壹与の頬を優しく撫でて、微笑んだ。
「だが、お前を追放するとなると、それなりの理由がいる。そうなると、お前達は身を隠すように生きていかなければならなくなるかもしれぬ。私は、新しい国づくりのために、男鹿は必要な人材だと思っている。彼の可能性を摘んでしまうのは、この国にとって、また、あの者の人生にとって最良なのか、今はまだ判断できない」
「じゃあ、私は一生誰のものにもならずに巫女でいる。それなら…!」
身を起こしながら、興奮気味にそう言う壹与の肩に、月読は両手を置き、彼女の目を覗き込んだ。
「答えを急ぐな。私も色々考えているから」
まっすぐに見つめる青年の瞳に、壹与は涙を浮かべ、小さく頷いた。
「私を連れ出した男達はどうなるの?」
少し落ち着きを取り戻した壹与は、思い出したように月読に尋ねた。
「今は牢に入れている。明日尋問するが、近いうちに処刑することになるだろう」
壹与は、一瞬言葉を失い、唇を噛みしめた。
「彼らも狗奴国の被害者よ。自国の民を守るためにしたことよ。救ってやることはできないのかしら」
月読は目を丸くして、少女の顔を見つめた。
自分を狗奴国へ連れ去ろうとした男達を、救いたいという壹与の気持ちが理解できなかった。
「私だって、民の命を守るために、他に手段がないのであれば、同じことをしたと思う。一国の王として」
壹与の言葉を聞いて、月読にも彼らに何か事情があるということは予想できた。
ため息をついた彼は、壹与の肩を押して、床につかせた。
「わかった。明日詳しく事情を聞いてみよう。今は安心して、体と心を休めるんだ」
優しく微笑む月読の顔を見て、壹与はほっと息をつき、静かに目を閉じた。
討議の間の中央には、後ろ手に縄で縛り上げられ、跪く建と勇の姿があった。
勇は諦めの表情を浮かべ、うなだれていたが、建は鋭い眼光を、正面に座る月読に向けていた。
「大王の話では、お前達は熊襲国の王子だそうだな」
問いかける月読に、建は苦笑した。
「我々が王子であろうがなかろうが、もう無意味なことだ。じき熊襲国は滅びる」
建の言葉に、月読は眉を寄せた。
「我々が期日までに女王を連れて帰らなければ、熊襲は狗奴国によって焼き払われ、征圧されることになっている。狗奴国はそうやって、筑紫島を占領してきたのだ」
あまりに残虐な話に、室内の誰もが息を呑んだ。
「父も母も十年前に殺され、我々も、ここで処刑されることは免れぬであろう。いずれにせよ、熊襲とその王家は、この世から消え去る運命だ」
無念そうに唇を噛み締めながら、建はまっすぐに皇子を睨み続けていた。
「民はどうなる」
再度問いかける月読に、建は唇を震わせ、すぐには言葉が出ない様子だった。
「殆どの者は殺され、若い女は慰めものとして連れ去られるであろう」
やがて建は、絞り出すようにそう語った。
月読の隣で話を聞いていた壹与は、思わず顔を背けた。
自分一人の犠牲によって、彼らの国が守られたのだと思うと、罪悪感を感じ、心が痛んだ。
下座でそんな壹与の様子を見ていた男鹿は、彼女の心の動揺を痛いほど感じていた。
ふと、建の視線が、男鹿の存在をとらえた。
建の顔を見て、壹与を連れ去られた時の思いがよみがえり、男鹿の中で憎しみの感情が渦巻いた。
建はじっと男鹿の顔を睨みつけ、小さく舌打ちした。
「熊襲国を救う術はないのであろうか」
「月読様?」
顎を手で摩りながら、深刻そうに考え込み、そう言う月読に、牛利が小さく叫び声をあげた。
「こやつらは狗奴国の手先ですよ。今の話もどこまでが真実なのかもわかりませぬ」
牛利は建達を指差しながら、諭すように皇子に熱く語りかけた。
「さすが神の子。随分慈悲深い皇子様だ」
建は鼻で笑い、再び月読の顔に視線を戻した。
「だが、そんな甘い考えでは、狗奴国を負かすことなど、到底できぬぞ」
「……いえ」
高笑いしながら言う建の言葉を、男鹿が遮った。
「張政様からの手紙によると、筑紫島内の諸国は、長年狗奴国に虐げられ、不満が鬱積しているようです。我々が熊襲を救ったとなれば、反乱を誘発し、狗奴国を足元から崩せるやもしれませぬ」
「は! 倭国の奴らは、とんでもないお人好しばかりだな。私はお前を殺そうとしたのだぞ」
あきれ顔で男鹿に向かって悪態をつく建を、月読は感情のない表情で睨みつけた。
「勘違いするな。お前達のために救うのではない。戦いを有利にするためだ」
反論する気力を奪う吸い込まれそうな皇子の瞳に、建は言葉を失い、例えようの無い恐怖さえ覚えた。
「このまま時間が過ぎれば、お前の国は狗奴国に征圧されるのを待つだけであろう。我々に協力するなら、国を救える可能性もある。もしもお前が我々を裏切れば、その可能性もなくなる。いわば、お前の国の民は人質なのだ。どうだ、協力するか」
「……」
建は月読の気迫に飲み込まれ、声を出すこともできず、ただ唇を震わせていた。
反論がないのを了承と判断し、月読は兵に建の縄をほどくよう指示した。
「弟の方は、お前ほど心が丈夫ではなさそうだ。こいつは、お前が変な気を起こさぬように、軟禁しておく。戦略については男鹿に任せてある。まずは、お前の知る狗奴国の内情を、すべてその者に伝えよ。お前達の処分は、戦が終わってから改めて検討する」
月読はそう言い残し、心配そうに男鹿を見る壹与に声を掛け、討議の間を出て行った。
月読に命じられ、牛利も勇の縄を握り、兵を引き連れて部屋を後にした。
結果的に室内には、男鹿と建のふたりが残された。
「何を考えているのだ。あの皇子は。敵を懐に入れるとは」
手首に残った縄の跡を摩りながら、建は吐き捨てるように言った。
彼は、張政からの手紙に目を配る男鹿に向き直り、面白くなさそうな顔をした。
「お前、身分は?」
「大夫だ」
視線を移すことなく答える男鹿に、建は鼻で笑った。
「大夫?なるほど。それでは女王相手に、とても将来は誓えんわな」
男鹿の目が、手紙の上で一瞬とまった。
「私を生かしておいたことを、あとで後悔するなよ。我々が狗奴国から独立できれば、私は熊襲の王だ。小国の王とはいえ、お前よりよっぽど、あの女を妻にできる可能性が高い」
男鹿は木製の巻物を閉じると、建の顔を、憎悪に満ちた目で睨みつけた。
「無駄口はやめぬか。私は今にもお前を殺したい気持ちを、抑えて向き合っているのだ」
少年の殺気立った視線に、建は一瞬、言葉を失った。
「彼らだけを、あの部屋に残すなんて……。あなた意地悪だわ」
月読に連れられ、祈祷の間に移動した壹与は、責めるように言った。
「そうか?」
ゆっくりと腰を降ろしながら、飄々(ひょうひょう)とした表情で、月読は答えた。
「あのふたりは、つい昨日、殺すか殺されるかの戦いをしたのよ。男鹿はまだ傷口も塞がっていないし、建が変な気でも起こしたら……」
壹与は青い顔をして、不安そうに両手を頬に当てた。
そんな少女の様子を見て、月読はくすくすと笑った。
「お前は男鹿のこととなると、本当に何も見えなくなるな。あのふたりなら大丈夫だ」
月読の言葉に、壹与は口を尖らせて軽く皇子を睨んだ。
「建は、出会った頃の覇夜斗に似ている。あの者は、自分の運命を恨みながらも、与えられた使命をなんとか果たそうとしている。突っ張った物言いも、こちらの本気度をはかろうとしているんだ。年も近そうだし、男鹿とはいい友になれるだろう」
月読にそう言われても、壹与はにわかには信じられず、心配そうに唇を噛んだ。
「冗談ではなく、私はあの女を気に入っている。この戦いが無事終わり、王になったら求婚するつもりだ」
しばらく大人しくしていた建は、不意に真剣な表情で男鹿を見た。
男鹿は一瞬、目を見開いて彼を見たが、ため息をついて、再び書に視線を戻した。
「あの方は、お前を選ばぬよ」
「随分な自信だな。お互いを失いかけて、気持ちを確かめ合ったというわけか」
腕を組みながら、そう言う建に、男鹿は赤くなった顔を隠すようにうつむいた。
「……失う前で良かったな……」
ふと、寂し気に建がつぶやいた。
男鹿はその言葉に、何か事情を感じて、彼の顔を見上げた。
「先ほど皇子に話した内容には、ひとつ誤りがある。父は殺されたが、母は生きているんだ。……狗奴国王のもとで」
「……」
「美しいと評判の母だったからな。母を奪うために、我が国は侵攻されたんだ」
男鹿は思わず息を呑んだ。
民を守るためだけでなく、囚われの身の母のため、彼らはこれまで狗奴国に従ってきたのであろう。
そう思うと、彼に対して、憎しみとは別に、あわれみのような感情を持った。
「邪馬台国の女王と引き換えに、母の返還を要望するつもりだったのだ」
次の瞬間、建はすがるような目を、男鹿に向け、彼ににじり寄った。
「お前達に協力すれば、母を取り戻すことができるか?」
男鹿は一時、建の顔を見つめ、黙り込んだ。
母を思う建の気持ちに応えてやりたかったが、まだ何の策もない状態で、気休めは言いたくなかった。
「今はまだ約束はできぬが、努力することはできる」
建は、真顔でそう答える男鹿を見て苦笑した。
男鹿が狗奴国との戦いに向けて、単に自分を利用するつもりであれば、できぬことでもできると断言すると予想していたのだ。
「馬鹿正直な奴……」
建は、男鹿に聞こえぬほどの小さな声でつぶやいた。
そんなことを言われていることも知らず、男鹿は相変わらず書に目を通していた。
少しでも早く作戦を立てるため、彼は時間を惜しんで、狗奴国の内情が記された巻物を読破しようとしていたのだ。
それが終盤に差し掛かかった時、彼の目が大きく見開き、そこに書かれた文字に釘付けになった。
「女王を連れて行くことになっている期日はいつだ?」
突然、男鹿は建の顔を見上げて尋ねた。
彼の表情にただならぬものを感じ、建は戸惑いながら答えた。
「次の新月までだが?」
「……新月……」
口元を手で抑え、男鹿は、もう一度文字を見返した。
彼は、自分の全身に鳥肌が立つのを感じていた。
「……やはり、あの方は月の神だ……」
呆然とした表情でつぶやかれた男鹿の言葉に、建は訳が分からず、息を呑んで少年の様子を見つめていた。
「おい、お前は、狗奴国王の宮殿内の造りには詳しいか?」
いきなり、男鹿は建の腕を強く掴み、再び尋ねた。
「あ……ああ、何度も行っているからな」
「頼む、教えてくれ。なるべく詳しく!」
血相を変えて訴えかける男鹿に、建は圧倒されて小さく頷いた。




