「守ることへの岐路」
張力を失い、だらりと垂れ下がった数珠が玄海の手を滑り落ちていく。
右手、左手の両方に、風穴が空いていた。
玄海は放たれた小石のひとつを数珠で、ふたつを両手で受け止めた、そのはずだ。
だがひとつは数珠を弾いて右腕を切り裂いた。
ふたつは手の甲を難無く射抜いて、胸に突き刺さった。
足は止まり、憎々しげに鋼を睨むことしかできない。
鋼はすでに新たな石を投石具にこめている。
「……油断した」
功を焦って出過ぎたのは己の不足に他ならない。
「その力は人器だな……? 貴様も模倣人器を持っていたのか」
「そうだ。俺の人器は〝我者丸〟。名の通り、ものを弾丸にして撃ち出す力だ。お前のと違って本物の人器だよ」
「──つまり、旦那を倒しぁ武功と人器と天子様のみっつを手に入れてたわけですかい! いや参った、伝説の盗賊となれば人器のひとつも持ってると読みそこなったあたしの負けですなぁ、完全に計算違いでしたなぁ」
鋼もフンと鼻を鳴らした。
「いきなり口調変えんじゃねえよ、気持ちワリぃ」
「こればっかりはご勘弁を。堅いのばかりでは息が詰まるもんで」
肩をすくめる。
これから鋼を倒すことも考えてみたが、玄海は諦めた。逃げるも詰めるも鋼が速い。あれで逃げながら攻撃されたら、防ぎきれる術は無いのだ。
けれど、鋼も逃すつもりは無いだろう。
「今から謝るんで、許してくれませんかね? モチロン天子様の事はあたしの胸に留めておきますから」
「駄目に決まってんだろ。お前はここで死ね」
「ですよね」
逃げた。
石弾が殺到した。
玄海は逃げる、一心に。燃え上がるほどの殺意の投射を右に左に避けながら。鋼の人器のは投射の人器だ。まっすぐにしか飛ばせないなら、動き回る標的を撃ち抜くのは難しいはず。玄海はそう考えた。
蛇行して逃げながらも、目指す先は鋼の家に。天子のもとへ。
「──てめえっ!」
鋼が舌打ちし、突撃の体勢を取る。
玄海はこれを待っていた。
「──吊天ッ!」
瞬間、鋼の足に地を這う数珠が絡み付いていた。
「──ぬがっ!」
出鼻をくじかれ、勢いだけの乗った突撃はてんでデタラメの方向に鋼を飛ばした。顔面から地面に落ちてなおも勢いを失わず、七転八倒して跳ね飛んでいく。玄海は手を離しても吊天弦を自在に動かせる事ができた。取り落としたのは当然計算尽くだ。
「…………」
玄海は踵を返し、森の方へ向かった。
武功はもう諦めた。ならば天子の奪還を、と思ったがそうなれば今度こそ鋼は死力を賭して追跡にかかって来るだろう。手負いのまま人ひとりを背負って逃げきる自信は、今の玄海には無い。
報だ。知らせるのだ。天子発見の報を、然るべき手に。
戦いで勝利するだけが功ではない。ここから生きて帰れたなら玄海の勝ちなのだ。
鋼は追って来ていない。
家の前で立ち尽くしている。
森はすぐ目の前。相手は指の先ほど小さく、遠くに見えた。
「ははははははっ! 勝ったぞ旦那ァ!! 逃げるのはあんたの番だ! せいぜい恐れおののきながら遠くまで逃げるんだな──」
──?
おかしい。
家の前にいると思ったが、どうしてそう思ったのか。
なぜならその場所に、家など無かったのだから。
庭木と柵と井戸に囲われたその中心は、からっぽだったのだから。
玄海は空を仰ぎ見た。
火をあげる家が飛んできた。
+
バラバラになった家屋の下からうめき声が聞こえる。
家の下敷きにされた坊主は、しぶとくもまだ生きていた。
縄を解かれた雅がすぐ隣にいる。
燃え上がる家を見つめながら、鋼のかたわらで、胸のあたりで手を彷徨わせ、何をすれば良いか、答えを探し求めるようにしている。
「パパ──」
「だめだ」
雅が何を言いたいか、鋼には分かっていた。慈悲をかければまた自分たちが危険にさらされる。それが分からない雅じゃないし、分かっていて助けようとしても鋼は断固として断るつもりだ。
だが──
「あいつは戦士として向かって来たんだ。お前をどうにかしようってのは二の次だった。あいつは負けた。ならここで終わらしてやるのが礼義ってもんなんだよ」
言い訳がましく語ってしまう。事の正否に関係無く、戦士の理屈など雅には分からないだろうに。ただ鋼は、血生臭い自分を直視されるのが怖かった。坊主一匹殺すことに何の躊躇いもない。ただ雅に見られていることが、蝕まれるような罪悪感を引き出した。優しく育った雅が、墨色に穢れていくような、得体の知れない恐怖に駆られた。
「──パパっ!」
「見るな」
雅の叫びは懇願のそれだ。
鋼はただ冷徹に火をあげる瓦礫を見守る。子供の駄々を跳ね除ける父親の仮面を被って、本当にこれでいいのかと問う内心にかき乱されながら、一歩も動けずにいる。
異変が起こったのはその時だ。
最初に感じたのは地揺れだった。
次に真下から跳ねるような衝撃が来た。
「な、なんだこりゃ!?」
小石が跳ね、土が持ち上がり、燃える瓦礫が浮かび上がった。森の木がめきめきと音を立て、ゆっくりと根をあらわにしていく。足から外した虎ばさみが、数珠が、宙に浮かび上がっていく。草原に地割れが走り、鋼のいる一帯だけが一段高く盛り上がっていく。
「パパ……」
雅は変わらずそこにいる。
鋼の手にすがりつき、訴えるような目で。
まるで異変のことなど気にも留めていないかのように。
「────」
それだけではなかった。
月明かりが陰り、唸るような音が聞こえた。
反射的に鋼は空を見る。
夜空が、切り取られている。
扇状の穴が、空に浮かんでいた。
それが、どんどんこちらに近付いてきているのだ。
鋼は雅を抱えて跳んだ。
星を遮り、迫り来るそれは、落下する巨大な船だった。
+
その夜、巨大な船が村はずれの森に落ちてきた。
真夜中にもかかわらず村は蜂の巣を突ついたような騒ぎになり、村長の指示で男衆が船を囲い、騒ぎは朝まで収まらなかった。
あの船は何なのか。
一体何が目的でこの地に降りてきたのか。
誰一人答えを出せないまま、村は眠れぬ夜を過ごした。
そんな中、雅一人が、深い眠りについていた。