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戦う犬の冒険  作者: 地藤零一
1章
6/38

「守るべきもの」



 匂い。

 それは土の匂いだった。


 草葉も寝静まったころ、眠りの底にあった鋼の意識は、ほんのわずかな感覚を拾い、不審に思った。丸太を重ねて出来た家は少なからず隙間があって、風の強い日は隙間風が吹き込んでくることがある。土の匂いがするくらい珍しくも何ともない。


 けれど、その匂いには嗅ぎ憶えがあったのだ。なんだろう。思い出せない。感覚が意識をたぐり寄せていく。これが、ただの土の匂いなら、気にせず眠りについていたはず。特別な匂いだった。懐かしい匂いだった。総毛立ち、血の沸き立つような、忌まわしい匂いだった。


 思い出す。

 これは、土の上で寝ている生き物の匂いだ。

 合戦に赴く戦士が、野営所で漂わせるような、獣の匂いだ。


 土の匂いはすぐ、鼻を刺す焦げた匂いに変わった。


 鋼は寝床を飛び起きる。

 何事かと思い目に飛び込んできたのは、煙を上げる壁で、煌々と寝床を照らす火。火事に見舞われている自分の家だった。


 言葉が、喉に詰まった。なんで火が。


「──雅!」


 ハンモックを飛び降りて、扉も蹴破る勢いで雅の部屋に飛び込む。


「雅! 起きろ火事が──」


 いない。

 雅が、いない。


 寝床に雅の姿は無く、風に攫われたようにその部屋からは、生きものの気配すら無くなっていた。


「──────」


 声にならない叫びが喉の奥から飛び出した。火事よりもそのことが混乱に拍車をかけた。目の奥が熱くなった。耳の奥でごうごうと血が唸っていた。先に逃げたかもしれないことは、頭の隅にも浮かばない。


「──パっ! パパ!」


「!? ──雅!」


 外。一目散に向かう。


 そのとき、鋼はいくつもの「何故」を見逃していた。火元に心当たりが無いのに家が燃えたこと。雅が一人で外にいること。先に気付いて外に逃げたなら、なぜ起こしてくれなかったのかということ。すべては想像の外で今考えるべきことではなく、雅を助けることがすべてにおいて優先した。


 だから玄関先に無造作に置かれた虎ばさみにも気付かなかったし、足を噛む激痛と同時に、首へ巻きついてきた布にも、自分に何が起こったのかすらも何も解らなかった。

 雅は玄関先にいて、柵に縛られていた。


「──不敬をお許しください。仕方の無い事なのです。すべてを上手く運ぶには仕方が無いことなのです。御使いよお許しください」


 上。読経のような呟き。水を染み込ませた布が鋼の首に食い込み、体が浮く。見上げれば灰色に濁った瞳が屋根から鋼を見下ろしていた。


 陶酔に満ちた笑み。土の匂いの源。

 坊主だ。

 こいつの仕業だ。


「なんだ…なんでテメェが」


「口を開くなよ下衆。貴様が我々から神を奪った張本人、天下の大罪人だ。貴様の罪は、すべての犬の拠り所たる神を穢した事、天元の路を閉ざした事、衆生よろずの犬たちを、畜生道に追い落とした事と知れ」


 ──こいつ。


 雅のことを言っているのがすぐ分かった。

 坊主は知ってしまったのだ。十年前に鋼がしたこと、鋼が今していること。雅を、人間を、神として崇められているモノをどう扱っているということ。


 絶対に知られてはならないことだった。

 知られることは、鋼のすべてを奪われることに等しかった。


 この村で過ごした日々。

 戦乱の無い、やわらかな時間。いけすかない友との思い出。からかいまじりの視線。度胸試しに悪戯してくるチビガキどもの嬌声。

 十年より前にはなかった、ありとあらゆるもの。


 雅の笑顔。


「貴様が見ていたものは幻だ。泡沫の夢だ。貴様は既に死んでいた。これまでの時は、神代のものであった。その温情をもって逝け」


 ──夢?


 坊主の言うそれは、この世に思うある種の理不尽さを固めて詰めた、鋼のもっとも嫌う言葉だった。


「…………なにが、ゆめだ」


 雅が目の前にいる。泣き腫らした目で何事かを叫んでいる。強烈な耳鳴りで気が遠くなり、音の一切が分厚い壁を挟んだようになる。反面、はっきり手足に血が宿るのを感じた。その熱は怒りの熱だ。


 こいつらは何も知らない。


 本当の神が何なのか、闇雲に有難がって教義を押し付けてくるだけで、この世の真実を知らない。許せない。理不尽に何もかも奪われるのは。


 その怒りは鋼が最初に戦うことを決めたときと、同じ怒りだった。


 鋼は(はら)に力を込めた。長年使うことのなかった力を、覚悟と共に解放した。


                 +


 坊主は一瞬、鋼を絞め上げる手の感触がとんでもなく重くなるのを感じた。


 かと思うと肩透かしを食らったように重さそのものが無くなり、不安定な屋根の上でたたらを踏んだ。困惑の表情。何が起きたか把握する間もなく今度は上に引っ張られたのだ。


「な、なんだ─────っ!!」


 坊主は宙に放り出された。


 地面に激突するまで家ふたつ分飛ばされた。体勢を操ることもできず全身をしたたかに打ち付ける。が、幸運にも傷は無い。揺れる視界のなか坊主は起き上がった。草原の柔らかな土に助けられたようだ。


 そしてまだ布を掴んでいる自分に気付いた。

 その先で、首に絡み付いた布を剥ぎ取っている鋼にも、気付いた。


「味な真似をする…」


 坊主は駆けた。低空を這うように、布を巻き取りながら。もはや自明だが鋼がそこにいるということは、鋼に引っ張られたのだ。首を吊られた状態で奴はどこかに足を着け、坊主ごと大跳躍を果たしたのである。なんという怪力。なんという剛脚。坊主は大魚を釣って海に引きずりこまれたような心地だった。


 肉迫する。回収した布が蛇のようにしなり、霞むほどの速度で走った。水を含ませれば棍棒と同じ打撃力を持ち、鞭と同等の速さで動く「操布術」である。坊主はこれで岩をも砕く。鋼は後ろに跳んで避けたが、一撃目で地面が削れ、二撃目で肩をえぐり、三撃目は狙いあやまたず鋼の頭蓋を捉えた。それがほぼ一呼吸の連打であった。


 勝利を確信した坊主は、驚きに目を見開く。

 鋼は、布を咥えて、止めていた。


 まずいと感じた。たかが袈裟懸けの飾り布であろうと心得ある者が扱えば凶器と化すように、鋼も何かそれと分からぬ技のようなものを繰り出してくる。そんな予感があったのだ。


 坊主が布から手を離すのと、布が爆発するように弾けるのがほぼ同時であった。


「────ッ!」


 距離をとって睨み合う。

 ぺっ、と鋼はボロ切れになった布を吐き捨てた。


「一体何をした……」


「おめーをぶち殺そうとしたに決まってんだろ」


 坊主は身構える。今のは明らかに条理を逸した攻撃だ。力ずくで破ったならともかく鋼は首ひとつ動かしていない。布を手放していなければ、どこまで八つ裂きにされていたのか分からない。


 犬一匹引きずって悠々屋根を跳び越えるような奴である。ただの力自慢では片付けられない奥の手があったとして、何ら不思議ではなかった。


 鋼は首をさすりながら、


「ひとつ訊きてーんだが、お前が捜してたのは人器のはずで、罪人の討伐なんてもともと仕事に無いはずだろ。なんで俺を狙う? 義務とか正義感ってやつか? 純粋な疑問なんだよ、坊さんに命を狙われるってのが」


 おかしなことを訊いてきた。


「道を志し、道を示すのが法師の務め。犬の道を外れた者に誅伐を下すのもまた天道僧院の徒である法師の務めだ。天子様を拐引せしめ、天元へ至る路を閉ざした貴様を誅する事に、一滴の酌量もあるはずがない」


「いい子ぶんじゃねーよ」鋼は切って捨てた「何が天子様だ、何が天元の路だ。俺はな、そういうお堅いこと言う輩には一生分釣りが出るほど付き合ってきたおかげで、本気で話してるかどうか判るんだよ。お前のはうわべだけだ。通り一遍のしたり面。取り繕ってやがる。酒場でヘラヘラしてた方がよっぽど本物だ。本物のお前の顔には、でっかく『我欲』って書いてあんだよ」


 坊主は目を細める。


 鋼を粗暴の輩と侮っていたのだが、なかなかどうしてわきまえているじゃないか。言われたとおり、この坊主は法や義務に殉じることを美徳とは考えなかった。


 つい笑みが漏れ、鋼は不愉快そうに毛を逆立たせた。


「いやはや失敬。じゃ、まぁこれまでのことは必要な前口上とでも思ってくださいよ。世の中渡っていくには良い子ぶんなきゃいけない時もあるんです。一種の儀礼ってやつです。まぁ、旦那をぶち殺す事に変わりはありませんが」


 すでに鋼は引き絞った弓のように緊張状態だった。足下を見る。右足には虎ばさみが食い込んだまま血がしたたっている。つまりは先刻、片足だけで奴は跳躍したのである。無闇に近付けば、何をされるか分からない。


 ──隠し手は、まだお互いに生きているのだから。


 坊主は体に幾重にも巻き付けていた数珠をほどいた。その刹那、地が爆ぜる。鋼の踏み込み。常軌を逸した速度で総身が凶器となって迫る。


                 +


 坊主の手なら解っていた。


 あれだけ布を自在に操れるなら、あの数珠もまた武器になりうるのだろう。させるか。

 鋼は坊主が数珠を外しきる前に、間合いを一気に詰める。その疾走はただの一歩で五間|(約9メートル)ほどを零にした。


 突進。空気が粘りつくほどの。打拳でも蹴法でもない、抜き身の当身。戦の最中、鋼がもっとも敵を屠った技は尋常ならざる速度からの体当たりなのだ。


 衝突の瞬間、坊主は後ろにも左右にも避けられず、真上に弾け飛んだ。それは「ぶっ飛んだ」という表現があまりにも的確で、駒のように錐揉みしながら上空高く舞いあがり、確かな手応えを返した。


 鋼は硬直した。


 坊主の体が空中で止まる。何かに引っかけられたように。

 その腕の先には数珠が伸びており、その根元は鋼の首に絡み付いている。


 真っ白な衝撃に襲われた。


 形容しがたい痛みが全身を貫き、鋼はもんどり打って倒れた。坊主を轢き飛ばした勢いが、そのまま首に返ってきたのだ。


 鋼に轢かれた坊主もまた、地面に全身を強打し転がっていた。溺れるようにもがきながらも、直ちに立ち上がろうとする。バラバラにされた意識を繋ぎ止め、鋼も復帰しようとして、目を疑った。坊主は、この状況で笑っていた。


「ははははははははははは!!」


「おおおおおおおおおおッ!!」


 意志の力が互いを立ち上がらせる。


 再び睨み合い。

 確信する。坊主は、わざとあの突撃を食らったのである。


 数珠は首から解けていた。坊主はそれを両手に垂らすように持ち、その端は地に触れている。長い。鋼は自分がその攻撃範囲にいるのが分かった。


 右足は動かない。

 視界がぼやける。

 相手も同じようなもので、突撃の際、肋骨を折った感触があった。

 呼吸が不規則に乱れている。血反吐を吐いて脚を震わせ、しかし確かに笑っている。


 ──来る。


 坊主の右手が霞んだ。


 一拍遅れ、目にも留まらぬ速さで数珠の先端が飛来した。下。身を沈め、突撃の姿勢でかいくぐる。長物の弱点はその予備動作が大きいことだ。得物が伸び切った今なら迎撃する手段は無い。


 全身全霊を込め、飛び出そうとした矢先、不可視の一撃が鋼の顔面を打った。


「────ッ!?」


 二度、三度と打擲を受け、後退を強いられる。頭を守っても脚に、腹に暴風の連打が叩き込まれた。


 坊主が持っているのは数珠だ。


 数珠が槍のように伸び、固く伸長した柄を振るって打撃を繰り出していた。

 遠心力の乗った振り、刺突は完全に槍術のそれであり、一撃一撃が骨を軋ませる重みを伴っていた。


 それだけじゃない。かいくぐった突きが突如軌道を曲げ襲いかかって来るのだ。慣性を無視して直角に。受け止めたはずの大振りは接触の瞬間たわみ、肩に背中に浴びせられる。防御の隙間を縫って殺到する連撃。毛が弾け飛び、肉をえぐられ、防御も回避も意味をなさなかった。


「見たか破城の鋼牙! これが模倣人器〝吊天弦(ちょうてんげん)〟の力だ! 使い手、玄海の力だ!」


 ──思う。


 やはりそうだ。

 こいつは戦って打ち倒したいのだ。

 己が力を示したいのだ。


 玄海といったか──の力が模倣人器によるものだとしても、技の賜物だったとしても、今更驚きはない。これだけの使い手に、覚悟に抱く感情は、昔から変わっていない。奴はこちらの正体を知って向かって来たのだから。


 鋼は真後ろに跳んで、暴風圏を離脱した。

 玄海は追う。必殺の機会を逃すまいと。

 後退と前進。重なる負傷に関わらず、速いのは鋼の方だった。


 どれだけの傷を負おうと、地に足が着いてさえいれば鋼の〝力〟は衰えない。十間ほど離れたとき、砂利を巻き上げ、宙から石を掴み取った。逃げるな仕合えと言う玄海の目を正面に見据えながら、切り裂かれた袖を千切り取る。


 ここで玄海の動きが止まる。

 石を放り投げ、宙にあるまますべて袖の切れ端で拾った。


「投石か。小賢しいぞ」


「何とでも言え」


 袖の切れ端は即席の投石具だ。高速回転を加え撃ち出せば、拳大の石で容易に頭部を破壊する。

 ただし、投石具の中に収まったのは砂利石がたったの三粒。

 玄海が迫る。躱すまでもないという鉄壁の気迫をもって。

 鋼は石を振るう。そこには焦りも躊躇いも無かった。



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