「ただ平穏を心から願う」
この村に辿り着いたころ、鋼には何もなかった。
生きてはいた。けどそれだけの、ぬけ殻だった。抱いていた赤ん坊さえ、そのまま気づかず捨てていても、少しもおかしくはなかったのだ。
子供を育てる気なんて無かった。雅を、無事に大きくなるまで育てようと決めたのは、ずっと後のことだ。
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村はずれの木立の先に、街道から離れるようにして鋼の家が建っている。石造りの庭と菜園、動物をよけるだけの低い柵に囲まれ、中から漏れ出る光が、導くものの少ない道をわずかに照らしていた。
入ろうとして手を止める。足下。
玄関先に、ザルいっぱいの芋や野草が置かれている。
憎々しげにそれを拾い、扉に手をかける前に雅が飛び出してきた。
「パパ! 遅かったのです」
「あ、ああごめんな、用事があって」
「ごはん冷めてしまいました。私はとても腹ペコで少し怒っています!」
「なんだ、先に食べてれば良かったじゃないか」
「そういうことはしません。パパはわかっていません。一緒に食べないと意味が無いじゃないですか」
家にいるとよく話す雅は、そう言って口を尖らせた。面はしていない。家の中では付けなくて良い決まりである。
「パパ、それより聞いてください。買っていただいた書物にこのようなことが書いてありました。古来、都では西の砂界とさまざまな交流があって、その特使として選ばれたかたはなんと、あの伝説にある地に──」
雅はころころと楽しそうに話す。
人間の顔の造形というものをよく知らない鋼でも、雅のよく変わる表情は美しいと感じる。怒ってそっぽを向く横顔や物語を語るときの輝く瞳、朗々と詩を奏でる紅を付けたような唇は、陶器のようになめらかで、瑞々しい。けむくじゃらでごわごわの自分が恥ずかしく思えるほどだった。
雅は賢い。
雅は美しい。
雅は普通とは違う。
そう感じるたび、焦燥に駆られるような、何か大きなことを忘れているような、得体の知れない掻痒感が下っ腹をくすぐるのだ。
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夕飯を食べ終えたころ、何やらもじもじして雅は切り出した。
「あの、パパ、お願い事があるのです」
食器を洗っていた鋼はうわの空で話を聞いた。千尋が残していった言葉と坊主が言っていた噂がどうにも気になり、背中で生返事をしている。
「…なので、今度町へ行くときは私も連れて行って欲しいのです」
町。
耳が勝手に動く。
「なんでそうなる?」
「町の鍛冶屋さんに作って欲しい物があります。黄尾様に頼まれました。模倣人器の設計です」
黄尾というのは村長のことだ。模倣人器は見てそのまま、人器を真似て犬の作った稚拙な道具である。錠前や蝶番、千歯扱きや織機など当てはまる。ちょっとしたからくり仕掛けも有難がってわざわざ〝人〟の名前を付けるのは、犬の悪いクセだと思う。
「また何か頼まれたのか。あのジジイ、雅に何か頼むときは俺を通せって言ってるのに」
「黄尾様は頼み辛そうにしていたのです。パパに頼んだらきっと断られるって思っていたのですよ」
「だからって直接雅に言うのは気に入らないぜ。巫女ってのは人の遣いだ。人器の扱いに長けてると見られるのは仕方ないが、修理屋みたいに使われるのは感心しないぜ。はっきり断りゃいいんだよ」
そう言われると雅はしゅんとうな垂れた。
「村の、役に立ちたいです」
う。
鋼はこうなると、弱い。
雅は優しい子だ。誰かの役に立ちたいと、鋼が言い聞かせたわけでもないのに何かと気を遣っている節がある。
そして、伝説のとおり自分が困ってる犬たちを導かねばならないと、少なからず思っている。
それは負い目だ。嘘をついて生かされていることへの。
「まあ…できる範囲でなら」
「本当ですかっ!?」
目に星が輝いて見えた。
「いいのは仕事を引き受けることで、町に連れて行くことじゃないぞ。今は危険なんだ」
町で戦が起こるかもしれないことを伏せておくべきか一瞬迷ったけれど、追及はされず「そうですか」と雅は納得したようだ。
鍛冶屋に図面を持っていく約束をして、鋼はひとまず胸を撫でおろした。
(…心配しすぎだ)
今までも、雅に危険の及ぶような出来事は多くあった。そのたび肝を冷やしたが、やれることはすべてやってきた。これからも、やるべきことに変わりはない。
いずれ雅も大人になって、自分の手を離れていく。
不安に思うのは当然。変化を恐れるのは仕方ない。けれど、それらは本来喜ぶべきことだ。父親として、子の成長を願わない道理はないのだから。
平穏である証。
これはそういう不安だろうと、鋼は自分に言い聞かせるのだった。
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そのとき坊主はこう思った。
鳥籠の中の鳥は、空に憧れるだろうか。
檻の中のネズミは、暗闇に地を這う自由を求めるだろうか。
きっとそうだと誰もが答える。
自分が何処かに閉じ込められれば、逃げ出したいと思うのだから。
「だが違う。重要な事が欠けている。それは満ち足りた者の理屈だ。自由を知る者が、抑圧を嫌うがゆえの願いだ」
壁板の隙間から光の中へ目を凝らす。
「豚を飼う農家があった。親豚には十二匹の子供がおり、いずれ皆潰されて皿の上に並ぶ運命にある。ある日、農家の主人は豚小屋の鍵をかけ忘れた。風で扉は開き、中からも外からも自由に出入りできてしまう状態にあった」
光の中には犬がいた。犬と、そしてもう一匹の──
「翌朝、主人が気づいたとき小屋はもぬけの殻だった。主人は己の失態を悔いたが、驚く事にその夜には一匹残らず豚は帰ってきたのだ。子豚たちも皆穏やかに母親の乳を飲んでいた。彼らは〝自由〟を知らなかった。知る必要がなかったのだろう」
否、一匹ではない。
一人。
もう一人の『人物』が、いた。
「豚も犬も同じだ。安寧の中で飼い殺されている。しかし、神は、神だけはそうであってはならない!」
『天略事件』。かつて僅か八匹の犬が無頼の剛力もって天領に押し行った。八犬衆と呼ばれたその賊は人の怒りに触れ、人の手によって直々に退けられたと聞くが、ただ一匹が難を逃れ、あろうことか宝物殿に忍び込み、秘蔵の人器まで持ち出して逃げおおせたことも有名である。
通り名は『破城の鋼牙』。
五稜郭は今もその生き残りを探している。
──怪しんで尾けてみたが、まさかこんなものを目の当たりにしてしまうとは…!
「鋼牙の持ち出したものは人器ではなかった。天子…神の化身たる、人のそのものだったのか! これこそが天略事件の真実!」
そして鋼牙は天子様を自分の娘として育て、安穏と暮らしていたのだ。
神を犬に、豚に貶めたのだ。
「万死に値する──」