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戦う犬の冒険  作者: 地藤零一
1章
2/38

「敗残の末、手にしたもの」



 あれから十年の月日が流れた。



 経が重い太鼓のようにゴロゴロと鳴り響く。四肢を地に伏せ、完全な犬の体型に変化した僧犬が、装身具を振り回し、退化した喉でおぼつかない経を唱え続ける。

 火を宿した櫓を注連縄で囲い、その周りを一心不乱に犬どもが踊っている。


 (はがね)も経を読みながら、その様子をじっと見つめている。


 儀式を行なう犬を囲って車座になった見物人は、皆踊る犬の親類縁者で、数珠を手に巻く者もあれば、経も唱えず酒を呑み、忌々しげにする不心得者までいる。その点で見れば鋼はずいぶん落ち着いていて、櫓の前を回り続ける犬に、少しも関心を払っていないようにさえ見えた。


 彼らと、鋼の格好は違っている。

 踊る犬は服を着ていない。

 背中と頭に儀式用の装身具を身につけているだけだ。その様は、戦に駆り出される闘犬のように凛々しいが、見物人は普段着のまま胡座をかいたり、正座したり寝転がったりとそれぞれである。


 決定的に違うのは、踊る犬は四本足で立っていること。

 彼らが背筋を伸ばし、二本足で立つことは、二度と無いであろうこと。

 すでに骨格が違う。喋るのさえ難しいだろう。

 経を唱えて踊る犬は、犬に退化した犬なのだ。


 半人半犬の鋼や見物人たちは、厳しい面持ちで儀式を見守る。歳経た犬が半人のまま死なず、先祖返りを起こすことは、犬として生まれたからには覚悟しなければならない病であった。


 その病は「犬返り」と呼ばれている。


「ねー」


 耳が勝手に動く。


「おいってば」


 無視しようとした。鋼は真面目な犬なのだ。読経中に私語なんて罰あたりだろうと思う。

 ふっと耳に息が吹きかけられ、たまらず相手を睨んだ。一緒に寺に来た浅葱(あさぎ)だ。


「睨むなよぅ退屈なんだよぅ」


「大事な式の最中だぞ」


「そうそれ、ずぅっとあたし疑問に思ってたんだけどね、なんでたかが犬返りにこんなことしなきゃなんないの? て。犬が犬になるなんて、当たり前のこっちゃろーね」


 それは、つまり犬が死ぬのは当然なんだからいちいちなんで葬式なんか挙げなきゃならんのか、そう言っている。


「馬鹿かお前、それだから学が無いとか言われるんだよ」


「無いもんは無いからね。こいつと別に葬式もあるんだし、めんどくさいったらないもん」


 気持ちは分からなくもない。

 死んだ犬ならともかく、犬返りを起こした犬は、まだ生きている。


「馬鹿知らねーのかよ。犬は前世の行いが良かったから人に近付けたんだ。完全に犬になって喋れなくなっちまう奴は、現世の穢れを溜めすぎて輪廻転生のあともまた獣になっちまう。人に戻れないから、ああやって穢れを落としてるんじゃねーか」


 浅葱は困ったような顔をした。


「それってさ、あたしらは罪深い生きもんだから反省しなさいって言われてるようなもんじゃん。あいつらそんな悪い連中かな。ずっと畑仕事ばっかして酒飲んで子供作って、そりゃ喧嘩もしたけどさ、気のいい犬ばっかりだったよ。普通の奴らだよ。なんで天罰みたいに言われなきゃなんないのさ」


 鋼もあいつらとは十年来の付き合いだ。神や仏がそうだと言っても受け入れがたい部分はあった。


「やだよねぇ、こういうの。天に昇って人の身に成ることがそんなに上等かなぁ。あたしは犬のままでもいいよ」


「……ああ、そうだな」


 それ以上の言葉も無く、踊り狂う犬を眺め続ける。

 その姿に後ろめたさは無かった。雄々しく、ありのままの犬として躍る彼らは、美しくもあった。半分人で半分犬の自分たちよりは、よっぽど完成された生き物に、鋼は見えたのだった。


 犬返りは獣化の病だ。

 歳を重ねた犬なら誰でもかかり、数ヶ月で命を落とす。完全な犬になれば、それは寿命を知らせる事と同じで、その前に別れを済ますのが犬たちの慣わしだった。

 彼らは穢れを退けるため、生きてるうちに野生へ還るのだ。


 亡骸の無い葬式。

 犬は死んで人になることを、末期の願いとしていた。

 人は神であり、神は一人宮城(きゅうじょう)に御座し、今も静かに下天を見守っている。


                +


 鋼は大柄な犬で、黒と青がかった白い毛並みが首の周りだけごわごわの、一目で北方出身とわかる犬だった。南方の村に来てからというものその暑さに苛まれては毛を刈ってくれ刈ってくれと娘にせがむので、季節によって面相が天と地ほども違う。けれども、眉間にあるシワのような模様と、青白い瞳のせいで、おおむね凶悪な顔をしていたし、子供達のあいだでは鋼が今まで何匹犬を殺してきたか自前の鋲銭を賭け、紛糾舌戦が繰り広げられている。

 そんなものだから、鋼は十年たった今でも村に馴染めている気がしない。話をするたび外はどうだとか都に行った事はあるかだとか、北方では街ひとつが埋もれるほど雪が積もるのは本当か、だとか、他人事のように訊かれるからだ。


 今際の際に、お前には笑顔が足りん、と村に来て最初に世話になったジジイは言った。

 そういうことは死ぬ前に言え。


 鋼が舌を出し、無闇にはっはっはっとアホ面を晒すさまは、失笑を買いこそすれ特別村に溶け込むための助けにはならなかった。鋼は実直な雄なので結局は黙々と仕事をしている方がマシなのだ。浅葱はそういう犬に面白がってかまってくるし、千尋(ちひろ)の野郎は仕事の出来でしか犬を判断しない、絵に描いたような堅物である。


 その少ない友の一匹が、今日の葬式で踊っていた。


                +


 葬式が終わっても実際に別れを済ますのは後のことになる。


 決まりでは会ってはいけないし、遺族から物を受け取ることも浄土に穢れを持ち込むからといって禁じられているのだけれど、村では誰一人守っているのを見たことがない。冥土の渡し賃とばかりに貴金属を持たせたり厄除けのお守りや食糧を渡したり、生前より派手な格好をして見送られる犬もいる。どころか、ひょっこり戻って来て食い物をせびりにくる莫迦者までいるので、ありがたみの無さがよく分かるものだろう。


 その日は、珍しく隊商が訪れていた。

 村の広場を貫く街道沿いで、食糧品を物々交換していた。

 彼らが来ると、娯楽の少ない村はお祭りみたいに活気付く。


 いやだ帰ると言う鋼の尻尾を引っ張り、浅葱は露店を冷やかしていた。女の買い物に付き合うと時間と金が無くなるのを知っている鋼はすでにげんなりだ。機嫌を損ねると後がめんどくさいので適当に世辞を言ったりする。


「この服いーなーホラこのすらっとして、ヒラヒラした感じ、あたしに似合うと思わない?」


「ああ、まるでお前のためにあつらえられたかのようだ。存分に、存分に買えばいい」


「でもお金無いんだよね」


 帰りたかった。


「ねーねー」


「死ね」


 鋼は沸点が低かった。

 自分の畑から何か持って来ればいいのだ。物々交換してるんだから。ただでさえ収穫前で金も無いってのに。


「そうじゃなくて…あれ、雅ちゃんじゃない? うん? え? 死ねって言った? ひどくない?」


 見れば、車載の幌を広げた店に面を被った子供がいた。

 お祭りのお面ではなく自前の仮面だ。木彫りで、山の神と言われる白オオカミをかたどったおどろおどろしい面を付けている。

 その面とは裏腹に、黒い真珠のような髪がまっすぐ背中に流れていた。


 鋼は困った。

 髪の長い犬はそういない。犬のたくさん混み合う場所でも面と黒髪のせいであの子はよく目立つ。


「雅、こんなところで何してるんだ」


「雅ちゃんはろはろ~!」


 振り向いた雅は、じっと何かを訴えるようにこっちを見てきた。露店には装身具や筆記用具、鞄などが飾られている。

 奥の方、棚に装丁のしっかりした難しそうな本が並んでいる。


「主人、あの本は何の本だ?」


「へぇ、それがあっしにもよく分からんのでさ。えらく古い言葉で書かれてるもんで。でも立派な本でしょう?」


 本なんてものは所詮金持ちの道楽品で、生きるのに精一杯な庶民には縁の無い高級品だ。雅がくいっと袖を引っ張り、面の下からこちらの毛色を窺っているのが良く分かった。


「主人、くれ」


「ええー! あたしには買ってくれなかったのにぃ~! ハガネのバカー!」


「なんで俺が、ひとんちの娘の服を買ってやらにゃならんのだ」


 銅銭をじゃらじゃら払い、本を受け取ると雅は小躍りして喜んだ。言いつけで、人前であまり喋れないぶん雅は体を動かしてよく感情表現をする。まるで子犬のようだった。


「ありがとう、パパ」


 喜んだ顔がここでは見れないのが残念だ。


                +


 雅は鋼の娘だ。


 どうして面を付けているのか、どうしてあまり喋れないのか、問われたときは決まって彼女が巫女だからと答えている。

 巫女は神の側仕えとして、生まれた時から目隠しをされ宮廷教育をされている犬だ。神の姿を目にしてはならず、外の世界から穢れを取り込ませないため、一部の者としか話すことも許されていない。


 という設定。


 この嘘で、鋼は雅を守ってきた。


 そもそもそんな高位の巫女は宮廷から出ることを許されていないし、ここには巫女のいるような大層な社も建てられていない。


 仮面を被っているのは単に顔を見せられないからだ。

 声を聞かせられないのは、その声が普通と少し違うからだ。

 雅は普通の犬とは違う。

 隠さなければいけない理由がある。


 十年前、この村に流れ着いた鋼は、宮廷の宝物殿から持ち出した赤ん坊を育てる決心をした。

 それが雅だ。

 雅は犬ではない。


 人間なのだ。



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