「裏切りの果てに」
十年前──
鋼たち八犬衆は天元陛下自らの手引きにより、絶佳の要塞、五稜郭へと侵入した。
天略事件の目的は天位の簒奪、絶対にして唯一の存在である天元陛下御本人を誘拐し、民の前で大詔を賜って新王朝を建立させることにあった。
天元陛下の実権は武家社会の台頭により張り子の虎になっていたのだ。昔ながらの中央集権構造は蟻塚のように食い荒らされ、複雑怪奇な過程を経て政の実効機関である総統府の肥やしにされた。民に回るはずの利益は不当に吸い上げられて、各地で戦が絶えず、混迷の時代を迎えていたのだ。
時の朝廷は腐れ落ちる大樹であった。自浄作用はもはや働かない。膿で溢れかえった旧居を捨て、真っさらな新居を求めることを誰が咎められるだろう。
天元陛下の協力は表立って明らかにされていない。
あくまで陛下は権力側の立場だったし、八犬衆は民意を受け止め次代を導く英雄だった。神である人が、民意を貶め世に闇をもたらそうとしているなど誰も信じない。腐りきった総統府とそれに協力する五稜郭こそ諸悪の根源であると皆疑わなかった。たとえこの世が腐っていても、人さえいれば救われる、それだけが血に眠る絶対の真理であった。
天略事件の失敗。
それは陛下の裏切りによって終わる。
誤解を排せば裏切りではなく、そこには確かに世の有り様を案じる為政者の姿があったのだ。誰にも罪は無い。すべては善意と正義の意志によって運ばれていた。それは偽らざる真実である。
陛下の姿は犬だった。
天元を隠す帳の間で、鋼を動かすものは止まった。
人さえあれば世は救われると信じて疑わなかった心が止まった。
人はすでにこの世に無く、世を支えていたのは張り子に書かれた絵であったと知らされた。
そして人器の力が急激に衰えた。
人器は心で動かすものだ。天元の間でバラバラになった八犬衆の心には、もはや無双の力は宿らず烏合の衆と成り果てた。人器の力を頼りに立てた逃走計画も果たせず、敵に囲まれ、あとは世に聞く通りである。
+
面を取ろうとするアヤヒを必死で止めなだめすかし仲裁し酒を飲ませておだて上げついには酔い潰れさせた鋼の政治的手腕を褒めてやって欲しい。その頃には雅も鋼もすっかり憔悴してしまい、倒れるように眠っていた。まずいと思って鋼が目を覚ましたのは草木も眠る真夜中だ。
畳の上で川の字だった。
「やべえ…やべえ…」
巫女たちに見つかったら殺される。
幸いまだ宴は続いていた。眠っていたのもそう長くない時間だろう。黄尾の張り切りに感謝しつつ、今のうちに雅を連れて浅葱のところにでも泊めてもらおうと、鋼はそっと身を起こす。途端アヤヒに掴まれ死ぬほどビビった。
「何故じゃ…」
消え入りそうな声。
「何故…わらわの父が…そなたでないのじゃ…」
過去が笑う。
再び寝息を立てはじめ、うわごとだと分かっても、鋼を駆動する力はそこに縫いとめられたまま、血を失って冷えていく。
アヤヒは宮廷のもっと深いところにいる。故に、どれだけの欺瞞がそこに渦巻いているか、誰よりも知る立場にあるはずだ。
アヤヒにとって天元は、魂を洗いすべての還る源となる彼岸などではない。総統府や五稜郭に操られ意志を剥奪された偶像であり、ただの犬で、自分の母親なのだ。
神のいない日常。しかし不滅の神はあると羨望する世界。
表裏の狭間にあって導くものの無い不安。
あの日、雪の中に放り出された鋼は、抱える赤子の意味など知らず、その意識は茫漠とした荒野にいた。
神を奪い、国を取る夢に敗れた犬が、本物の神を手にしている。
その意味を、考えないわけではなかった。
だがあのときは──
自分の手の内に、死にいく命があることを、許せなかっただけなのだ。
神様のいない日々を過ごしていた彼女らは、ずっとそんな気持ちだったのかもしれない。
五稜郭に入った日、裏切られたと思った。だが、神様の一人に期待をかけて、土壇場で裏切ったのは、鋼も同じだ。




