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戦う犬の冒険  作者: 地藤零一
序章
1/38

「砕けた希望の物語」

 

コミックマーケット83で頒布する予定の「戦う犬の冒険」の既刊、第1巻分をまるまる掲載しました。


 

続きとなる2巻と新刊の3巻は一日目「東R-54a 線香くさい花火」のスペースで頒布いたします。



 右を見ても左を見ても味方はもういなかった。どこに逃げればいいのか少しでも考えがあったなら、あんな槍ぶすまになって、最後に残ったの尊厳までも擦り潰すような断末魔を、何度も、何度も、聞く羽目にはならなかったはずだ。


 犬の断末魔は良く響く。

 全部で七回そいつを聞いた。

 自分もまたあんな風に哭いて命を落とすのかと思うと、脚に力が入らなくなった。


 命からがら無我夢中に灯りを辿って逃げ惑い、運良く見張りのいない建屋まで逃げ込んだ。錠前を破壊してやたら重たい門扉を開ければ、そこはよっぽど貴重なものを仕舞い込む蔵だったらしく、内側から閂を掛け閉じ篭もる事ができた。


 力が抜け、笑いさえ込み上げる。いよいよ終わりだ。

 逃げる事をやめ、もはや戦わず、敵地に隠れてやり過ごせるなんて、生まれ変わったって叶いそうに無い望みだ。


 扉の向こうに興奮した犬の吐息が集まっていた。すぐに扉が叩かれる。ぶち破るような強さ。

 重たそうな物をできるだけ扉に積んで時間稼ぎをしてみたが、大して意味があるようには思えなかった。意識がどこか遠いところでおいおいまだやるのかと呆れていた。やがて力尽き、背中で扉の衝撃を感じるようになると、ようやく自分を見下ろす事ができた。

 肩と脇腹と、首に矢が刺さっている。計七本。息が苦しいはずだ。筋肉が強張って抜けないだろうし抜こうとも思わない。

 痛くはなかった。代わりにひどく窮屈な感じがした。


 大きな祭りの跡を眺めているように寒々しい。

 いや、実にこれまでは、祭りのようなものだったのだ。

 憂国の士として立ち上がり一体何匹の犬を斬ったか。悪名を嗅ぎつけては誅を下し、名声を馳せ、民を鼓舞して信頼を得た。支持されて仲間も増えた。脇目も振らず羅刹のように敵の犬どもを斬り飛ばし、辻に巷に、屍を築いた。

 熱病のような狂騒。歯止めをかける者は無く、その牙はついに天領まで及んだ。

 してこのザマだ。

 大義はあるはずだったのに。

 醒めてしまえば、面白みの無い現実が、幻の欠片を踏みにじっていた。

 弱かったわけじゃない。皆も自分も。ただ少し能天気だったのだ。


 ──敗走。

 退路は開かず、仲間と散り散りになり、今ここにいる。

 背中の大剣を放り捨てた。

 こいつのおかげで背に矢傷も無く、いくつもの命を拾ったが、もはや無用の長物だ。命尽きるまで戦って果てる意義も失った。まったく自分の生き様は無意味だったのだ。


 扉を破る音がいっそう強くなる。破城槌を持ち出してきたらしい。貴重な物を仕舞い込んでいる社のようだから、焼き討ちなど出来ないのだろう。焼かれて死ぬのごめんだなぁと思い、再び笑いがこみ上げてきた。死に方なんぞ選べるものか。生け捕りされたらきっと焼かれて死ぬより酷い死に様が待っている。四肢を縄に結ばれて、四方から引き裂かれるとか、手足を潰されて生きたまま豚に食べられるとか、指先爪先から順繰りに、見物人に切り刻ませるとか、卵と小麦粉に漬けられたあと、煮えたぎった油に突き落とされるとか。

 想像すると、少しだけ生きていたくなってくる。


 暗闇に目が慣れてきて、建屋の中を見回してみた。大小様々な祭具の類が並べられている。絵巻や屏風などといった芸術品、壷、茶道具などの工芸品。価値の分からない、何の目的に使うのかも知らない数々の品。

 天窓から月明りが差し込む。

 奥の壁一面に浮かび上がったのは、宮殿の装飾よりも華々しい祭壇だ。

 神の座。

 救済の象徴。


 ……救いを求めたわけじゃない。

 今更信じる神なんか持ち合わせちゃいない。

 あるいは、そこへ本当に死の後先を預けたかったかもしれないが、ありがたがる殊勝な気持ちも、どうにでもなれという自棄な気持ちも無く、ただ自然に吸い込まれるように、祭壇の前へ立っていた。


 装飾過多な作り込みにある煌びやかな印象は、むしろ狂信的な禍々しさを感じさせるほどで、周りを囲うように置かれた宝の山が、怒れる神を鎮めるための供物にさえ思えてくる。目を逸らしたいのに凝視を強いられるような、抗いがたい魔力があったのだ。


 祭壇の中心に柩がある。

 小さな石作りの柩。

 内向きの札でべたべたに封のされた、不気味な、一目で触れてはいけないものと分かる、そんな。


 ──遠からず訪れる死が、理性や判断力を麻痺させていた、といえばそうなのだろう。

 けれどそのときは、痛みも恐れもなく、確かに気持ちは澄んでいたのだ。何かの運命めいたものをその柩に感じていたのだ。


 そこから先の記憶は曖昧になる。

 聞いたのは、扉の破られる音と、荷物の崩れる音。

 見たものは、紅葉が葉を散らすように、それまで見ていた景色が、がらがらと崩れ去っていったこと。

 手の中にある柩の感覚──


 雪が降っていた。


 白い塵が灰色になって、あやふやに空を覆っていた。

 浅く雪の降りしきる広い草原に、膝をつき、何することもなく、佇んでいた。

 腕には蓋の開いた石柩。


 胸に抱けるほどしかない小さな柩の中には、顔を真っ赤にして泣き喚く赤ん坊が収まっていた。

 途方に、暮れた。

 何もかもわからない。

 やがて立ち上がり、当ても無く歩き始める。





 夢敗れ、仲間を失い、まだ心臓は動いている。

 ならば、生きるしかないのだろう。

 この子を抱いて生きるのだろう。

 夢を見ず、ただ凡庸に、命尽きるまで生きるのだろう。

 それが運命だと、彼は思った。


                  +


 この世界はかみさまのものでした。

 かみさまは”ヒト”という生きものです。

 かつてすべての大陸をおさめ、繁栄をきわめていた、すごい生きものです。

 けれどやがて、かみさまの時代はおわってしまいます。

 生きものとしてのおわりは、かみさまにもおとずれる、さけられない運命でした。

 そこでかみさまは、ほかの生きものに、地上をたくすことにしました。

 えらばれたのはイヌでした。

 イヌをじぶんと似せた姿にかえて、かみさまはこう言いました。

 わたしたちはこれまでだから、きみたちががんばって、つぎの世界をささえていくように。

 イヌは、おいおいないてしまいます。

 いかないでください。わたしたちはかみさまのように、うまく世界をおさめられません。

 わたしたちをみちびいてください。と、ないてすがるのです。

 かみさまはイヌをあわれに思い、ヒトを一人だけのこしていきました。

 こうしてイヌたちの世界は、何百年もつづいています。

 かみさまはいまも、イヌたちを見まもっているのです。



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