犯人はヤス。
ほんの、本当に他愛もない不注意だった。もう少しだけ己の危険察知能力を浅く評価していたならば、それ故の最終確認を終えていたならば、きっと今。
「あったま・・・いてぇ・・・。」
食あたりに伴う発熱、いわゆる風邪の症状の併発。昨日の夕方から数えて約14時間。現在6畳一間の自室で布団に包まっていることはきっとなかったであろう。
犯人はヤス。
「はぁ……、何であんなもんが冷蔵庫に。」
事の始まりは冷蔵庫の奥深くに潜んでいたウーロン茶に起因する。夕食を外食で済ませ、ボロアパートの二階に上がり自室へと入った矢先のことだった。幾分か喉の渇きを感じていた俺は喉を潤すものがないかどうか、何の疑いもなく冷蔵庫を開けた。冷蔵庫の中には軽い食材、そして見事なまでに「飲み物」と称されるものが見当たらなかったのを覚えている。本当に何かないものか、手前のエリンギを退けたその奥に缶のウーロン茶を発見したのだ。
おかしいとは思った。こんなもの買った覚えは無いし、ましてやそのパッケージを見るに一昔前の代物であることはもはや明白であったと言えよう。正直に言えば、このとき既に頭の上では警報が鳴り響いていた。
飲むな、と。
絶対にやばい、と。
だが、一時の欲求とはかくも恐ろしいもの。そんな警告はどこへやら、むしろ絶対的な何かが俺を後押しした。確証も無く、証明なんて出来るはずもない形だけの自信がそのウーロン茶を煽らせた。
結果は先ほど申した通りだ。
「ぐぅ……。」
頭がズキズキと痛む。万力でゴリゴリやられたらきっとこんな感じの痛みなのだと勝手に妄想する。いや、本当にやられたら頭が割れちまうけどさ。
「……これじゃ、講義も出られねぇな。」
身体を動かすことすら億劫だ。ただ腹を下すだけならばどれだけ楽だっただろう。そもそも発熱まで併発するって一体いつのウーロン茶だったんだ、あれ?
近くに転がっていた空き缶を手を伸ばして掴み取る。賞味期限を360度くまなく探してみると底の面に印刷してあった。
【消費期限 H20 10.1】
目を疑った。
「しかも、これ消費期限かよ……。」
賞味期限より性質が悪い。おいしく飲めるどころか飲める限界値の一年後とは、腹痛と風邪が併発するのも頷ける。仕方が無いとは、思いたくは無いが。
「はぁ……。」
どちらにせよ俺が馬鹿だったことには微塵の変わりもなく、腹痛も頭痛も一向に良くならず、事態は更に泥沼化しているのだった。
「こんなことなら誰かに代返頼めば良かった……。」
後から後から悔やむことばかり。たまには先に立って俺達を警告してくれてもいいものではないかと文句を言いたくなる。
「チクショー……。」
最後の捨て台詞を吐き捨ていい加減寝ようと思ったそのとき。
ピンポーン。
呼び鈴が一つ鳴り響いた。一体誰だ、まだ朝八時過ぎ、人を訪ねるには些か非常識な時間帯ではなかろうか。でも仕方が無い。外で人が待っているのだから待たせるのは失礼に値する。
布団からモソモソと這い出て行く。身体を動かすのが今の俺にとって重労働なため、起き上がって歩いていくなどと出来るはずも無く四つんばいになって玄関までハイハイする。
「はーい……。」
何とか玄関まで辿りつき、ドアノブを倒してドアを開ける。冬の冷たい風が部屋の中に入り込みせっかく温まっていた俺の身体が冷めていく。
「何でしょう……。」
四つんばい状態の俺が顔を上げるとそこには。
「あの……。」
ボロアパート二階の住人、大き目の黒縁眼鏡が良く似合う斉藤さんが立っていた。
予想外、想定の範囲外の出来事が目の前に広がっている。どうして彼女がここにいるのか、どうして俺の部屋に訪ねて来るのか、頭痛で思考が安定しない俺には皆目検討がつかなかった。
「こ、これを……。」
少しだけどもりながら差し出された物を手にとって見てみる。
「あ……、はいはい、回覧板ですか。」
「そうです。」
大きめの赤いファイルの表紙には回覧板と銘打たれた紙が張られていた。そういえば二ヶ月に一回ぐらい回ってきていたようなそうでないような気がする。順番的に毎回斉藤さんが俺の部屋まで運んでくれるのだった。
「あ、ありがとうございます。これはちゃんと回しておくんで。」
「はい、よろしくお願いします。」
律儀に頭まで下げる斉藤さん。別に貴女が回覧板作っているわけではないのに、と思ってしまう歪んでる俺。
玄関の靴箱の上に回覧板を置こうとして、突然の頭痛に襲われる。
「あつつ……。」
こめかみを押さえて身体を伏せる。こうしたところで痛みが和らぐわけではないのだが、人間の本能的な行動には勝てない。
「どうかしたんですか?」
しまった。まだそこには斉藤さんがいたんだった。
「い、いえ、なんでもないですよ。ちょっと、頭痛が酷いだけです。」
なるべく平静を装って大したこと無いように見せる。
「……、ちょっと失礼します。」
一声上げたかと思えば斉藤さんはしゃがみ込み、俺の顔の真ん前へと陣取った。何をするかと思えば俺の額に右手を当てる。
「熱い・・・、熱があるじゃないですか!」
「あはは……、大したことは」
「あります!」
適当に流そうかと思ったが、どうも斉藤さんはそれを許してくれないみたいだ。
「ご飯はちゃんと食べているんですか?」
「昨日の夕方から何も……。」
ずっと寝ていたから食べる余裕なんてどこにも無かった。
「駄目です! ご飯はきちんと食べて栄養をつけないと治るものも治りません。」
「そのうち……」
「治ってるならこんな酷くなってはいません!」
もしかしたら人から見れば俺は割りと酷いぐらいにやつれているのかもしれない。自分ではいつも通りのつもりなのだけど。
「早く布団に戻って寝ていてください。栄養も大切ですけど、一番なのは休養ですから。」
「は、はぁ……。」
もともとそのつもりだった、とは言えまい。どうもいつもの斉藤さんよりも押しが強いので俺からは何もいえなくなってしまう。まさか自分が押しに弱い人間だったとは、新発見だ。
俺は彼女の言われた通りに四つんばいで布団に向かって這って行く。ドアから手を離したために支えを無くしたドアは自然に閉まっていく。バタン、と言う音がしてそういえば鍵を閉めておかなければと振り向いた。
「……。」
そこには少しだけ心配そうな斉藤さんが立っている。どうして彼女が俺の部屋に未だ留まっている?
「あ、あの……、もう大丈夫なんで。」
「……すいません、単刀直入に言ってもいいでしょうか?」
「あ、どうぞ。」
「正直とても心配なので、看病させてもらってもいいですか?」
彼女の表情は冗談などという混じりっ気は微塵も感じさせず、ただ純粋に俺のことを心配してのことに思えた。ただどうしても負い目というものは感じるものだ。それほど仲のよくない他人に自分の面倒を見させる、なんておいそれと出来るはずもない。
「気持ちは嬉しいのですが……、あつつ……。」
また頭痛が酷くなる。苦痛に歪んだ顔は彼女の介護心を更に増長させる。
「ふぅ……。」
「あはは……。」
ため息を一つ吐いて。
「困ったときは?」
と、問われてしまったので。
「……お願いします。」
最後の最後に、俺は折れてしまったのだ。
トントントン。
おおよそ俺の部屋に似つかわしくも無い包丁がまな板を叩く音が聞こえる。自分以外がそれを振るう音を俺は久しく聞いていなかった。
「ふぅ……。」
先ほど飲んだ頭痛薬が効いてきたのか、万力から鋭い針ぐらいにまで痛さランクが下がったような気がする。医者に処方された薬のほうが断然効きはいいんだろうが、最近の市販薬用品を舐めてはいけないと関心した。
キッチンのほうを眺めてみる。ここからでは料理をしている斉藤さんの後ろ姿しか見えないが、その手際の良さは十分に伺える。彼女も一人暮らしなのだと、そういえば引っ越した当初に言っていた気がする。
「……あれ、醤油……、あぁ、これか。」
調味料をどんどん加えて彼女の料理は進行していく。後ろから眺める長く伸びた黒髪はとても綺麗で、黒縁眼鏡と相まって知的な印象を与える。
まあ、最初から思っていたのだけれど。
彼女は美人さんである。
どこでどういう仕事をしているとか、もしかすると大学に通っているのかもしれないけれども、きっと異性にもてるんだろうなと思わせてしまう。至極一般人な俺が言うのだから間違いはない。
「よし、出来た!」
スプーンに掬ったお粥を一口味見した彼女はそう呟いた。適当にお椀を準備してそれによそって、こちらに近づいてくる。
「風邪のときはこれが一番なので。」
寝ている俺のそばにしゃがみ込むとレンゲでお粥を一すくい。身体を起こす俺の顔面に突き刺すようにレンゲを差し出す。
「え?」
「あーん。」
「は?」
「……あーん!」
これは罰ゲームか何かだろうか。羞恥心で顔が真っ赤になりそうだ。なんとかこの状況から抜け出そうかと適当に言葉を並べてみる。
「そ、そういうのは彼氏さんとかにやったほうが……。」
「私、そういう人はいないので心配ご無用です。」
失敗。
「じ、自分で食べられますので。」
「身体を起こすのもやっとなのに?」
またも失敗。
「俺の羞恥心を考えてくれ!」
「無理、無駄、無視。」
なんだこの女ジャイアン。いや、ディオか?
「……。」
どうしても、どうしてもその方式で俺の食べさせたいか。こんなにも、こんなにも俺は拒否をしているというのに。
あい解った! 俺も男だ! こうなれば腹を括っちまおう!
「あ…、あーん……。」
「よろしい。」
口の中に異物混入。同時に広がるほんのりしょうゆ味のどろどろとしたもの。いや、失礼だ、正直にお粥だと言っておこう。
「お味は?」
その笑顔を見るにきっと俺が不味いということなど全く想定していないのだろう。それほどまでに自分の作ったものに自信があるということか。全く、才女は自信満々でうらやましいものである。
「ご想像にお任せします。」
「その言葉、ほめ言葉として受け取っておきます。」
一度やってしまえば後は羞恥も糞も無い。まるでそうプログラムされた機械のように口を開け、咀嚼し、飲み込む、この動作の繰り返しである。
あぁ、誤解の無いように言っておくがこのお粥は店が開けるぐらいおいしかったです。
「ご馳走さまでした。」
「お粗末様でした。」
赤面に塗れた食事はレンゲがお椀に入る音で終焉を告げた。
「後は、ゆっくり寝て風邪を治してくださいね。」
「はい。」
彼女はキッチンに戻ったかと思えば、皿洗いを敢行し始める。そんなこと俺があとで幾らでもやったのにと考えたが、満腹になった俺から発せられるものは闘気でも殺気でもなく、ただの眠気だった。
彼女を前にして寝てしまうのも恥ずかしい。しかし、迫りくる睡魔の軍勢に勝てるとは到底思えない。せめて彼女が帰るそのときまで起きていようと決めた。
皿洗いが終わったようで、彼女はこちらに近づく。
「それじゃ、私はこれで。」
「…あぁ、ありがとう、ございます。」
「いえいえ、どういたしまして。」
これでやっと、寝れる。惰眠を貪り尽くすことが出来るのだ。安心感がどっと押し寄せて、眠気のダムは今にも決壊しそうだ。
「あ……。」
なのに、俺は声を上げてしまった。
「ん、何ですか?」
立ち上がろうとした彼女は再び座りなおす。あぁ、俺は一体彼女を引き止めて何をしたいというのだろう。
「どうして……、ここまで?」
看病してくれたのか、という言葉までは出なかったが彼女はその言葉の意味を理解したように後ろ頭を掻く。
「……、言ったでしょ。困ったときはってね。」
「それだけですか……?」
「それだけじゃないけど……、今はそれだけって事にしておいて。」
そのときの彼女の表情はとても、そう物憂げで。どうしてそんな顔をするのか俺には皆目見当がつかなくて、ただただ疑問に思うばかりだった。
「それじゃ私はお暇するから。夕方にも様子観に来るからね。」
その言葉を聞いて、俺の意識は闇へと堕ちた。
懐かしい夢を見た。
あれはまだ大学に入学したてのころだっただろうか。大学という場所を未だ理解できず、右往左往していたことを明確に覚えている。そんなことだから友達なんて出来るはずも無く、最初の辺りは一人で行動することが多かった。
ちょうどそんなころ、よく見かける女子生徒がいることを発見した。俺が講義に行けば大体そこにいて、食堂に行けば大体そこにいて、放課後何の気なしに図書室に行けば大体そこにいて。
きっと彼女も俺と似たような境遇だったんじゃないかと思う。放り出された新天地でうまく順応することが出来ずに周りから放れて行動する。はぶられたわけではないか、何か独りな位置を定義付けられたような感覚。
大きな黒縁眼鏡が、とても印象的だった女子生徒だった。
それほどまでに似通った行動をしながら、彼女とコンタクトしたことはたったの一度しかない。それも何の他愛も無い偶然で。
ただ、食堂の席が隣同士になったときだけ。だから、少しずつ環境に順応していった俺は彼女の存在を徐々に忘れていった。それほど重要なことではないと、むしろ自分の恥ずかしい時期の出来事だ。忘れたいと願うのは理にかなっている。
ただ、覚えているときにずっと思っていたことは。
彼女はきちんと順応できただろうか、ということだけだった。
目が覚める。
「うぅ……、んぁ……。」
腹筋を使って思い切り起き上がる。意識はまだ混濁しているがあれほど俺の頭を悩ませてた頭痛が全く感じられないことに気がついた。
「さっすが、市販薬品……。」
あと、斉藤さんのお粥のお陰だろう。やはり人間、エネルギーを貯めなければ抵抗力も何事もお話にならないのだ。
窓の外を見てみれば空が朱に染まっていた。これが夕暮れなのか、朝焼けなのか、少し考えたが赤く染まるということは間違いなく夕暮れなのでおよそ8時間ほど寝たことになる。
「よく寝たな、俺。」
起き上がって背伸びをする。血がめぐる感じがとても心地よい。ちょうど一日経って、俺は毒ウーロン茶の呪縛から解放されたのだ。
「そうだ、お礼言っておかないとな。」
真っ先に思い浮かんだのはお節介な隣人のことだった。この回復に少なからずお世話になった人だから、無下にするわけにはいくまい。
早速御礼言いに行こうと寝巻きから外に出ても恥ずかしくない服装に着替える。逸る気持ちを抑えて、彼女の部屋の前まで歩いていく。
ピンポーン。
呼び鈴を一つ。しばらくお待ちください。
部屋の中からゴトゴトと何かが這いずるような音がする。この音、もしかすると俺がつい8時間前まで発していた音ではなかろうか。
ガチャ。
ドアがゆっくりと開く。嫌な予感の扉もゆっくりと開いていく。こういうときのお約束として、風邪はうつし、そしてうつされるものだと明言しよう。
「はい……。」
開かれた扉の奥に居たのは四つんばいの黒縁眼鏡の美人さん。目の前に居るのが俺と解ると、気まずそうに頭を掻く。
「あははは……。」
「ふふふふ……。」
乾いた笑いが一頻り響いた後、俺は待ってましたと言わんばかりにこの一言を言った。
「困ったときは?」
勝ち誇った俺の顔、悔しげに歪む彼女の顔。もう、言わざるを得ない言葉は一つだけだ。
「お、お願いします……、ヤスさん。」
「よろしい!」
さてさて、この関係はもう少しだけ続いていくみたいだ。しかし、ふと思えば、どうして彼女は俺のあだ名を知っているのだろう?
「なんだか、よく見かけるよね。」
「あら、私もそう思っていたところ。」
「お互い、ストーカーじゃないよね。」
「貴方がそうでないなら、容疑は無実ってことね。」
「よかった、話のわかる人で。」
「でも、一歩手前なのは確かよね。」
「それもそうだ。」
「……。」
「……。」
「なぁ。」
「何?」
「俺はヤスっていうんだけど・・・。」
そうやって始まる。
二人の関係。
注:風邪がうつるの早すぎるだろ、とかそういう突っ込みはナシで。
とまぁ、そんな感じの短編です。
初投稿ということで誤字脱字等あると思いますが、こんな文書く奴なんだー、と生暖かい目で見ていただけてるとありがたいです。