書評『父の背中』 Don't Analyze Me
これはある評論家による情熱の吐露である。
すでにご存じの向きも多いと思われるが、秩父山泰山の未発表の原稿「父の背中」が、このたび書籍化された。
このタイミングで発表を決意されたご遺族の方々には、様々な葛藤があったと思われるが、一ファンとしてまずは謝意を伝えたい。
秩父山自身が発表を見送った経緯についてはもはや知る術もないが、通読して感じたのは、この作品が書かれた「政治の季節」、すなわち1960年代後半から70年代という時代背景を鑑みたとき、おぼろげながらその真意も理解できるように思われる、ということである。
さて、僭越ながらこの遺稿の内容について、私なりの感想を述べつつ、封印の謎を紐解いてゆきたい。
まず本作において注目すべきは、主人公・蒲田 弘という人物の行動が、しばしばその動機を超えた象徴性を帯びている点である。
例えば冒頭、弘が結婚の許しを得るために、路子の実家を訪ねる場面。
弘は義父の前で着ているものをすべて脱ぎ捨てる。
一見、唐突にも思えるこの行為について、ここでは明確な動機への言及はない。
あるいは、講堂で同期の磯山と対峙するシークエンスもそうである。
日米安保の是非をめぐって論戦を交わし、磯山の張った論陣を完膚なきまでに叩き伏せた弘は、やはり着ているものをすべて脱ぎ捨てている。
あるいはまた、タイムズスクエアのニューススタンドでウォーターゲート事件の記事を目にした弘が、義憤に駆られ、生まれたままの姿で慟哭する一場も印象的である。
いずれの場合も、作者は敢えてその意図を説明しようとしない。
しかし、ここでは弘の着衣そのものを、欺瞞や虚飾のメタファーとして捉えれば辻褄が合うのではないか。
そこに一貫しているのは、世界の不条理を、剥き出しの身体性で告発しようとする姿勢である。
つまり、この反復は当時のラジカリズムに対する秩父山の怒りが意図せず顕在化した現象と言えるだろう。
秩父山自身は学生運動には懐疑的な立場を取り、終始慎重な姿勢を貫いた。
しかし、高度経済成長期のパラダイムシフトに直面した当時五十代の秩父山は、既存の価値観が大きく揺らぐ時代の只中で、言葉に尽くしがたい焦燥を覚えていたのではないかと私は推察する。
作品に内在する批評性はもはや疑いようがない。
同じ文脈で言えば、弘の行動に繰り返し現れるこの奇妙なまでの率直さも、秩父山の内面に渦巻く葛藤の表れと断じてもいいだろう。
そうした意味で、この作品は極めて個人的な、というより内省的な物語と読み換えることも出来る。
秩父山の内面の葛藤を考えるうえで重要な意味を持つのが、弘と父の相克だ。
弘の父・泰平は厳格な人物として描かれている。
違法賭博で連行された際は、取り調べに当たった警官を眼力でねじ伏せ、
妾との痴情のもつれから包丁で尻を刺された時も、気合で出血を止める。
地下クラブで羽目を外し、全裸のまま連行された際も、顔を隠そうとすらしない。
こうした父の揺るぎない姿が、弘の自意識を相対化し、葛藤を生むのである。
秩父山は、この父を弘が踏破すべき巨大な山脈として設定した。
それは、単なる父親の権威を越えて、旧来の価値観を体現する「前時代」の象徴でもある。
物語中盤、オリンピック景気に沸く東京で起業した弘は、三越の屋上で高らかにこう宣言する。
「僕がこの大地に自分の足で立つことが出来るのも、この健康器具のおかげや」
百貨店の屋上を大地と呼んでよいのかという疑問は残るものの、見落とせない台詞である。
「健康」は秩父山晩年期の作品群を読み解くキーワードで、物語の後半では、弘の後妻・辰代に「白米は脚気の元」とまで言わせている。
これは以降の作品にも形を変えて度々登場する重要なモチーフであり、後年の傑作「靴擦れ」にも通じる命題の萌芽とみて良いだろう。
よく知られた、「奥様、米糠はお肌に良いようですよ」という人力車夫仁科権左による例の台詞の原型である。
そんな弘に、作者が与えた唯一の逃げ場所が、先妻・路子である。
路子の存在もまた、見過ごすことはできない。
路子は「シャボン玉ホリデー」を見るためにカラーテレビをせがみ、
同窓会に出るためにイヴ・サンローランのサファリルックをあつらえ、
純喫茶とゴーゴークラブのハシゴをするため、弘の名前で信用貸しを重ねる。
こうした彼女の奔放で即物的な姿は、泰平の権威的な理想主義とは対照を成しており、私はそこに秩父山自身の人間観の成熟を見る。
幼い頃に母を亡くした弘にとって、路子は失われた母性への憧憬を託す存在でもあるからだ。
路子の下着を履いて出かける父に激怒する弘の描写などは、エディプス的な葛藤の変形という解釈も成り立つだろう。
しかし、最終的に弘は路子との別れを選ぶ。
これは物語の分水嶺であり、必然的な帰結である。
この選択を考えるうえで、死の床にあった父の問いかけが重要な意味を持つ。
「お前が投資しようとしている健康食品は、私が半生を掛けて成そうとした事業の焼き直しに過ぎない。それでもお前は大義に殉じる覚悟があると胸を張って言えるのか」
弘は答えられない。
父は、ここに至り弘の独善性を喝破したのだと言えよう。
「絶対儲かるから」
という弘の説得に路子が納得しないのも同じ理由である。
弘の迷い込んだ袋小路は、ある意味でこの作品が封印された謎への回答と言えないだろうか。
すなわち、継承されるべき父権の断絶、さらに踏み込んで言うなら、旧来の権威体系の失墜である。
そして、物語は弘の最後の台詞に収斂する。
「あかん。もう破滅や」
五十年前、秩父山泰山はこの台詞をどのような想いで書いたのか。
世界が混迷を深めるこの時代に「父の背中」が世に出た意味は大きい。
秩父山の作品としては多少荒削りではあるものの、その筆致は今日においてなお、重要な問いを我々に投げかけている。
語るべきことは尽きないが、その問いの全貌については、未読の読者諸氏自身の読解に委ねたい。
(文中敬称略)
結城源岳
晩秋、鎌倉の書斎にて。
面白いかどうかは別として「なにを読まされているんだ」という気持ちになっていただければ、一応成功かと…




