第七話 予約一年待ちのホールケーキで雇われました
翌日から早速、というのは、さすがに話が早すぎると思う。
私はそう思っていた。
思っていたのだが、どうやらその認識は甘かったらしい。
翌朝、出勤してから一刻も経たないうちに、書記官室の扉の前に見覚えのある王宮騎士が立った時点で、もう嫌な予感はしていた。
「ベルラン書記官でいらっしゃいますか」
「……はい」
「王太子殿下よりご指示です。西棟第二資料室までお越しください」
「今ですか」
「今です」
きっぱり言われた。
私は周囲の視線が集まる気配を感じながら、鼻梁のメガネを指先で押し上げた。
朝一番から呼び出されるような覚えは、ある。あるのが困る。
「……昼前には戻れますか」
「殿下からは、一時間ほどと伺っております」
「一時間」
それなら昼食には間に合う。
ぎりぎり許容範囲だ。
「わかりました」
席を立つと、向かいのマリウスがいかにも何か言いたげな顔をした。
だが幸い、彼は何も聞かなかった。
聞かないのが大人というものだろう。たぶん。
私も何も言わず、一礼だけして騎士の後について書記官室を出た。
西棟第二資料室というのは、初めて入る場所だった。
王宮の西棟は北棟よりもずっと華やかで、廊下の敷物の厚みからして違う。
足音すら沈み込むような深い赤の絨毯を踏みながら、私はあまりきょろきょろしないよう努力した。
田舎から出てきた子どもみたいに見えるのは避けたい。もう遅いかもしれないが。
案内された資料室の前には、ラルフが立っていた。
王太子殿下の側近である。
いつ見ても表情が崩れない男だ。人形のように整っているのに、妙に隙がない。
「お待ちしておりました、ベルラン書記官」
「お待たせいたしました」
「中へどうぞ」
扉の向こうには、王太子リシャール殿下がいた。
窓際の机にいくつかの帳簿と書類を積み上げ、椅子に腰かけている。
執務服姿で、昨日と同じく無駄がない。
飾り気は少ないのに、いるだけで空気の中心になる人というのは、たぶんこういう人のことを言うのだろう。
「来たか」
「はい。ご指示とのことでしたので」
「座れ」
「失礼いたします」
机を挟んで向かいに座ると、私の前に三冊の帳簿が置かれた。
厚みのある革表紙の出納記録帳と、紙束を綴じた配送記録、それに侍従長名でまとめられた購買申請書の控えらしい。
「……これを?」
「見ろ」
「ずいぶんと簡潔なご説明ですね」
「余計な先入観を与えたくない」
殿下はそう言って、椅子の背にもたれた。
試されているのだろうな、とすぐわかる。
露骨ではないが、そういう空気はある。
「昨夜お前は、書類の違和感を見抜いた。ならばこれも、お前の目で見てほしい」
「私の目を随分買ってくださるんですね」
「買っている。でなければ呼ばない」
「……左様ですか」
真顔で言われると、少し返しに困る。
私は帳簿を開いた。
最初は、ただの出納記録に見えた。
王宮西棟の改装費、照明器具の補修費、厨房への新規納入、夜会用の花材、織物、食材。
数字が並ぶ。項目が並ぶ。書式も整っている。
一見しただけでは、どこにも不自然なところはない。
だが、三ページほど進んだところで、目が止まった。
「……あれ」
ごく小さく呟くと、殿下が机の向こうで視線を上げた。
「何かあったか」
「いえ、まだ断定はできません。ただ……少し」
私は出納記録帳の右下に打たれた通し番号を指先でなぞった。
頁番号のインクの色が、一冊の中で途中からわずかに違う。
黒に近い濃紺から、少し茶色がかった黒に変わっているのだ。
ぱっと見ではまず気づかない程度だ。
けれど、毎日写本と照合をしている目には引っかかる。
それに、紙の端の擦れ方も微妙に違う。
前の頁より、ここだけ妙に新しい。
「この帳簿、途中の数頁だけ後から差し替えられている可能性があります」
「理由は」
「頁番号のインク色が違います。それと、綴じ糸の締め方も少しだけ違うんです。ここからここまでの四頁だけ、綴じ直した形跡があります」
ラルフが私の横に立ち、帳簿を覗き込んだ。
リシャール殿下も席を立ち、机のこちら側へ回ってくる。
「本当だな」
「ええ。たぶん、綴じ直した人はかなり手慣れています。普通なら見落とすと思います」
「普通ではない人間を呼んだつもりだ」
「褒められているのか働かされているのか、だんだん判断がつかなくなってきました」
殿下が、かすかに笑った気がした。
私はさらに帳簿をめくった。
差し替えられたと思われる四頁には、はっきりした共通点がある。
夜会関連の支出と、厨房からの特別発注、それに西棟倉庫への物資搬入記録が妙に集中していた。
「おかしいですね」
「どこが」
「この量の砂糖とバター、それに小麦粉です。西棟の厨房へ入った記録になっていますけれど、金額に対して搬入回数が少なすぎます」
「少ない?」
「はい。もしこの金額どおりに仕入れているなら、荷馬車の往復が最低でもあと二回は必要です。でも配送記録には一回分しかありません」
私は隣の配送記録を引き寄せた。
日付を合わせる。納品先を追う。署名欄を見る。
数字の並びを頭の中で組み直していくと、ますます噛み合わなくなる。
「それに、受領印が変です」
「また筆跡か」
「いえ、今度は印章です。西棟厨房付き主任の印になっていますが、この押し方、たぶん印章そのものではなく、蝋に押した型を上からなぞっています」
「そんなことがわかるのか」
「日々押印された原本を見ていますので。縁の潰れ方が不自然です。本物の印章なら、もっと深く、均一に出るはずです」
ラルフが無言で息を呑んだ。
私はそのまま購買申請書の控えも開いた。
そこに記された発注者の名前を見て、さらに眉をひそめる。
「……この署名も変ですね」
「どれだ」
「西棟補佐官、ネイト・コルウェル。申請者本人の筆跡に見せていますけど、末尾の跳ね方だけ別人です。急いで真似した時の癖に近い」
「つまり」
「差し替え帳簿、偽造印、署名の不自然さ。全部がたまたま重なるとは思えません」
私はそこでいったん手を止めた。
そして、もう一度最初の頁に戻る。
「でも、これだけだとせいぜい『帳簿に不備がある』で終わります」
「足りないか」
「足りません。不正流用を証明するには、消えた物資か金の流れを別口で押さえる必要があります。これだと、まだ疑わしい止まりです」
自分でも、ずいぶん当たり前のように言っていると思った。
昨日まで私は、ただの第七書記官だったはずなのに。
それなのに今は、王太子の前で宰相周りの帳簿の不正を洗っている。
「では、どうする」
「王宮倉庫の搬入記録と、各棟の消費量記録を照合します。砂糖や小麦粉みたいな消耗品なら、どこかで必ず数が合わなくなるはずです」
「できるか」
「北棟の文書庫に副本があります。ただし、正規の閲覧申請を出すと時間がかかります」
「申請は不要だ。私の名で通す」
「権力というのは便利ですね」
「今さら実感したのか」
「普段縁がありませんので」
リシャール殿下はラルフに目配せした。
「必要な副本を全部持ってこい。北棟にも伝えろ。ベルラン書記官の閲覧を最優先で通す」
「承知いたしました」
ラルフが下がると、資料室は一気に静かになった。
私は帳簿を閉じ、ひとつ息を吐く。
静かになったせいで、逆に自分の心臓の音が少しだけ大きく聞こえた。
「思っていたより、早く見つかりました」
「やはり使えるな」
「その言い方だと道具みたいなんですが」
「道具なら、ケーキで釣れたりはしないだろう」
「それはそうですが」
否定しづらい。
私はメガネを外し、こめかみを軽く押さえた。
朝から細かい数字と字面ばかり追っていたせいで、少しだけ目の奥が熱い。
すると、机の端からすっとカップが差し出された。
見上げると、リシャール殿下が立っている。いつの間にか給仕用の卓から紅茶を持ってきていたらしい。
「飲め」
「……ありがとうございます」
「甘い方がいいだろう」
「よくご存じで」
受け取ると、湯気の向こうに微かな蜂蜜の香りがした。
ひと口飲んだだけで、思っていた以上に肩の力が抜ける。
あたたかいものは、それだけで少し人をまともにする。
「美味しいです」
「よかった」
「……王太子殿下が自ら紅茶を運んでくださるとは思いませんでした」
「淹れたのは私ではない。そこまで器用そうに見えるか」
「いいえ、まったく」
「即答だな」
「失礼いたしました」
殿下は口元だけで笑った。
その表情を見て、私はほんの少しだけ意外に思う。
夜会で遠目に見た時より、こうして近い距離で向き合うこの人は、思っていたよりずっと人間らしい顔をする。
「ベルラン書記官」
「はい」
「昨夜、お前に頼んだのは間違いではなかったようだ」
「今のところは、帳簿の差し替えを見つけただけです」
「十分だ。誰も気づかなかった」
その言い方は、予想していた以上にまっすぐだった。
お世辞や場当たりの持ち上げ方ではなく、本当にそう思って口にしている声音だったから、少しだけ返答に困る。
私はカップを机に戻した。
「……それで、これが本当にドレイク宰相につながるんですか」
「今のままではまだ弱い。ただ、この差し替えが西棟の会計経由で動いているなら、その承認印の先に必ず奴の息のかかった人間がいる」
「末端ではなく、承認の流れを辿るべきだと」
「ああ」
「なるほど」
私はもう一度帳簿に目を落とした。
差し替え頁の隅に、細い癖字で書かれた確認欄の記号がある。
単なる整理番号にも見える。だが、同じ記号が購買申請書の控えにも繰り返されていた。
書式の一部に見せかけているが、見慣れた目には妙に浮いて見える。
「……殿下」
「何だ」
「これ、同じ人が目を通しています」
「わかるのか」
「確認欄の書き癖です。数字の七の横棒が長い。払いも少し右に流れる。こういう癖は案外消えません」
私は二枚の書類を並べて見せた。
殿下はすぐに気づいたらしく、目を細める。
「本当だな」
「たぶん内部の確認役が一人います。この人を押さえれば、帳簿差し替えの経路が追えるかもしれません」
「名前は」
「ここにはありません。でも記号の使い方からして、同じ部署の人間が複数の書類をまとめて処理しています。西棟会計か、宰相府付の文官か」
「面白い」
「私はあまり面白くはありません。仕事が増えそうなので」
「報酬は出す」
「ホールケーキ込みでお願いします」
「もちろんだ」
当然のように返されて、私は少しだけ黙った。
なんというか、この人は本気で私をケーキで動かせると思っているらしい。
……実際、半分くらいはその通りなので反論しづらいのだけれど。
その時、扉が叩かれ、ラルフが戻ってきた。
両腕に副本の束を抱えている。
「お持ちしました」
「早いですね」
「王太子殿下のお名前は大変便利ですので」
「本当に便利ですね」
ラルフは無表情のまま、私の前に副本を積み上げた。
どさり、と紙の重みが机に落ちる。
私はその厚みに一瞬だけ現実逃避したくなったが、ぐっとこらえる。
「……昼までに終わるでしょうか」
「一時間ほどと言ったはずだが」
「これを見てなお、その希望をお持ちですか」
「お前ならできるかもしれないと思った」
「買いかぶりです」
「では二時間だ」
「昼食は」
「用意させる」
「ケーキは」
「それもつけよう」
「……やりましょう」
私がそう言うと、リシャール殿下はあからさまに満足そうな顔をした。
本当に、人を使うのが上手い。
私はメガネを掛け直し、副本のいちばん上を開いた。
王太子殿下の資料室で、王宮の不正を追う。
たった一日前まで、そんなことは私の人生に無縁だった。
定時退勤とケーキだけを考えていればよかった世界は、確かに少しずつ遠ざかっている。
その事実に薄々気づきながら、それでも私は頁をめくった。
——少なくとも、書類の嘘を見つけるのは嫌いではない。
そう思ってしまった時点で、たぶんもう手遅れだったのだと思う。
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