第六話 ガトーショコラと極秘依頼
翌朝の王宮は、嵐の後のような静けさに包まれていた。
いや、正確には嵐の前かもしれない。
少なくとも表面上は、妙に落ち着いた空気が漂っていた。
書記官室に出勤すると、同僚のマリウスが開口一番、「昨夜の夜会、何かありましたか」と聞いてきた。
「なぜですか」
「いや、今朝から王宮全体が少しおかしな雰囲気なもので。第二王子殿下が朝から謹慎状態になられたとか、ヴァンドール公爵がこれから登城されるとか、なんとか」
「……そうなんですか」
「ベルラン書記官は昨夜、定時に帰宅しましたよね?」
「……はい。帰りました」
嘘ではない。
夜会に乱入したあと、小部屋から出て、少し遅くはなったが帰宅はした。
だから間違ってはいない。間違ってはいないのだが、胸の内がほんの少しだけちくりとした。
「何も知らないですか」
「私は書記官ですから、夜会の内情などは」
「そうですよね。失礼しました」
マリウスは首をかしげながら自分の席へ戻っていった。
私は平静を装いながら、自分の席に腰を下ろす。
インク瓶の位置を直し、ペン先を確かめ、いつも通りに見えるよう小さく呼吸を整えた。
……昨夜のことが、少し夢みたいだ。
本当に私はあんなことをしたのか。
王族の夜会に乗り込んで、第二王子の婚約破棄に異議を唱えて。
おかしい。
どう考えてもおかしい。
普段の私は、そんなことをする人間ではない。
でも、結果として——エリーン・ヴァンドール令嬢は助かった、らしい。
それについては良かったと思う。
理屈ではなく、素直に良かったと思った。
あの震える白い肩に、濡れ衣が着せられ続けるのを見たくなかったのだ。
私が何かをしたかったというより、あれを見て見ぬふりをすることができなかった。
前世の影響か、それとも元々そういう気質だったのか。
どちらでもいいか、と思いながら、私はペンを取り上げた。
今日も写本をして、数字を照合して、定時に帰る。
昨日あんな暴挙に出た翌日でも、やることは結局いつもと同じだ。
王宮の日常は、よっぽどのことがない限り変わらない。
変わらないからこそ、みんな黙って仕事をする。
——と、思っていたのだが。
午前中の書類仕事を終え、昼食から戻ってきた私を待っていたのは、書記官室の前に立つ王宮騎士が一名だった。
銀の装飾を帯びた制服。背筋の伸びた立ち姿。
明らかに、ただの伝言役ではない空気をまとっている。
「ベルラン書記官でいらっしゃいますか」
「……はい」
「リシャール王太子殿下より、執務室へのご来訪のご要請です。ご同行をお願いいたします」
書記官室の空気が、ぴり、と張るのを感じた。
同僚たちの視線が、いっせいに私へ集まるのがわかった。
紙をめくる音まで止まった気がする。
「……はい」
紅茶を入れたカップを机の上に残したまま、私は立ち上がった。
マリウスの目が丸くなっているのが見える。
申し訳ないけれど、説明はできないし、する気もない。
そもそも、私だって何をどう説明すればいいのかわからなかった。
私は騎士の後に続いて、書記官室を出た。
王太子殿下の執務室は、王宮の西棟、書記官室よりはるかに格の高い場所にあった。
廊下が違う。飾り付けが違う。なんなら、空気の質まで違う気がする。
連れてこられた重厚な扉の前で、私は一度深呼吸した。
隣の騎士が扉を叩く。
「どうぞ」
中から声がして、扉が開いた。
広い執務室だった。大きな窓からは王宮の庭園が一望できる。
調度品はシンプルなのに、どれも質がいいとひと目でわかる。書物と書類も整然と並んでいて、無駄がない。
机の向こうには、王太子殿下が座っていた。
昨夜の夜会の衣装とは打って変わって、今日は飾り気の少ない執務服を纏っている。
それでも、いや、だからこそなのか、十分すぎるほど存在感があった。
「昨夜はお手数をおかけいたしました」
「かけたのはこちらも同じだ。座れ」
私は深く礼をし、机を挟んだ向かいの椅子へ腰を下ろした。
その時、机の上に置かれた金属製のトレイが目に入る。
綺麗な皿がひとつ。
そして——ガトーショコラが一切れ。
「……」
視線が、吸い寄せられた。
「昨夜の約束だ」
「……ありがとうございます」
「食べながら聞け」
食べながら聞くのか、と少しだけ思った。
けれど、ケーキを前にして遠慮するという選択肢が私にあるはずもない。
私は素直にフォークを取り、一口食べる。
……美味しい。
パティスリー・ルルンのものとはまた違う、しっとりとしたガトーショコラだった。
カカオの苦みと甘みの釣り合いが絶妙で、後からふわりと洋酒の香りが抜ける。
前世でも、こういう少し大人っぽいケーキには憧れた。
「気に入ったか」
「はい。美味しいです」
「王宮の専属菓子職人が作った。気に入ったなら、また食べさせてやる」
「……それは大変嬉しい申し出ですが、見返りに何かを要求される流れな気がして少し怖いです」
殿下は眉をわずかに上げた。
「勘がいいな」
「ご不快でしたら申し訳ありません」
「いや、嫌いではない」
否定しないということは、やはり何か要求されるのだろうか。
少しだけ身構える私の前で、殿下は書類に目を落としながら話を続けた。
「昨夜の件について、いくつか報告がある。まず、お前への処罰については、父王から不問にするという許可が下りた」
「ありがとうございます」
「ただし、今後は夜会への無断入場はするな、という言葉つきだが」
「今後そのような機会があるとも思いませんが……はい、肝に銘じます」
「次に、ジュリアンの件だ」
殿下は書類から目を上げ、まっすぐ私を見た。
「捏造書類を用いた公爵令嬢への濡れ衣については、証拠を精査した結果、お前の指摘が正しかったと確認された。ジュリアンは父王から厳しく叱責を受け、しばらくの謹慎処分と、王位継承権の一時停止が命じられた」
「……王位継承権まで」
「捏造書類を用いて、公衆の場で公爵家の令嬢に濡れ衣を着せようとした。この行為の重大性を、父王は重く見た」
思っていた以上に重い処分だった。
それだけ、昨夜のことは王家にとっても見過ごせない問題だったのだろう。
「エリーン・ヴァンドール令嬢は」
「婚約の完全な破棄は取り消された。ただし、ジュリアンとの関係がこのまま継続されるかについては、ヴァンドール公爵家の判断に委ねられている」
令嬢がどう判断するかはわからない。
けれど少なくとも、一方的な公開断罪という最悪の事態だけは免れた。
それだけで、胸の奥の硬いものが少しだけほどける気がした。
「令嬢から、お前に礼を述べたいという申し出があった」
「……私はただ、知っていることを言っただけですので」
「それでも令嬢は礼を言いたいらしい。時間をとってやれるか」
「はい、定時前であれば」
「相変わらずだな」
殿下は呆れたような、けれどどこか面白がっているような表情をした。
「では、エリーン令嬢との面会については後日あらためて日程を調整する。そちらはいったん置いておいて」
「はい」
「本題に入ろう」
来た。本題だ。
殿下は机の上の書類をひとつ取り、私の方へ差し出した。
「これを見ろ」
受け取って目を通す。
ざっと内容を追っただけで、私は眉をひそめた。
「……宰相?」
「現在の王国宰相、グレイン・ドレイク侯爵についての、私が個人的に集めた情報だ。まだ証拠として使えるほどのものではない。だが、私はこの男が相当黒い橋を渡ってきていると見ている」
「ジュリアン殿下の件も——」
「ドレイクが糸を引いていると私は考えている。ジュリアンは利用されただけだ」
なるほど。
話が、一本につながってくる。
私はガトーショコラをひと口食べながら、もう一度書類に目を落とした。
断片的な記録。名前。金の流れ。曖昧な証言。
まだ決め手はない。でも、たしかに匂う。
「殿下は今、その証拠を集めようとしている」
「ああ」
「なぜ私に見せるのですか」
「昨夜と今日の件で、お前が書類の読み方と情報の照合に長けているとわかった。それに——」
殿下は椅子の背に身を預け、静かに言った。
「お前の観察眼は使えると思った」
「……私に、ドレイク宰相の不正の証拠集めを手伝えと」
率直だな、と私は思った。
遠回しに探りを入れるでもなく、欲しいものをそのまま差し出してくる。
「頼みたい」
「理由は?」
「王宮の中で、私が完全に信頼できる人間の数は限られている。昨夜の件でわかったのは、お前が正直で、かつ理不尽なことに対して黙っていられない人間だということだ」
「……それは褒め言葉なのか批判なのか、判断がつきかねます」
「褒めている」
「左様ですか」
私はもうひと口、ガトーショコラを食べた。
美味しい。美味しいが、それとこれとは話が別だ。
考える。
面倒極まりない。
こんな話に、普通は乗るべきではない。
一書記官が宰相の不正調査に関わるなど、話が大きすぎる。
定時に帰れなくなるかもしれない。ケーキが買えなくなるかもしれない。
その上、危険もある。
宰相の不正を調べるということは、宰相の怒りを買う可能性があるということだ。
昨夜だって、あんな暴挙に出て無事で済んだのは、たまたま運が良かっただけにすぎない。
「断っても構わない」
「えっ。いいんですか!?」
思わず即答してしまった。
殿下は少しも気を悪くした様子はない。
「強制するつもりはない。ただ、頼める人間がいないので頼んでいる」
「…………」
「報酬も出す。それと、今後の書記官としての任務の環境改善も約束する。残業が発生した場合は、必ず手当も出す」
「……残業手当はそれほど重要ではないのですが」
「では何が重要だ」
「……定時退勤の保証と、ケーキの確保です」
殿下は私を、なんとも言えない目で見た。
「……本気で言っているか」
「はい」
「ずいぶんぶれないな」
「生活の基盤ですので」
「なるほど」
殿下は一度頷いた。
「わかった。定時退勤は基本的に保証する。急を要する場合を除いて。そしてケーキは——」
そこで言葉を切り、少しだけ考える。
その間が、妙に長く感じた。
「フラン・マリーニの、予約待ち一年のカスタムホールケーキが取り寄せられる菓子師の知り合いがいる。今回の件を完遂したら——」
「完遂したら——」
私はフォークを持ったまま固まった。
その先の言葉を想像しただけで、喉が鳴る。
「ホールケーキだ。食べ放題だ」
「……」
「どうする」
「……予約待ち一年の」
どうする、と聞かれたら。
そんなもの、答えは最初から決まっている。
「……わかりました。お引き受けします」
私は静かにフォークを置いた。
「そうか」
殿下は、満足したように頷いた。
……後になって、私は気づく。
この一言が、私の平穏な定時退勤ライフを大きく変えていく出発点だったのだと。
そしてさらにずっと後になって、ようやく思い知る。
これが、殿下の策略の最初の一手だったのだということを。
でも、この時の私はまだそんなことは知らない。
ただ、ホールケーキという言葉に目がくらんだだけの、少しばかりのんきな書記官だった。




