第五話 王太子殿下に目をつけられました
静寂を破ったのは、会場の中央近くから歩み出てきた人物だった。
どこか涼やかな、落ち着いた声。
その声に、聞き覚えがあった。
顔を上げると、あの日の廊下で書類を一緒に拾った男が、こちらへ向かって歩いてきていた。
深い青灰色の目と、淡い茶色の髪。
やはり王太子、リシャール殿下だったのだ。
殿下は私の目の前で足を止め、そっと目を細めた。
「先日、廊下で会ったな」
「……はい」
「あの時お前が言っていたことを、今この場で証明してみせた、ということか」
「……たまたま、行き違いになってしまいまして」
「たまたま夜会に乗り込んできたのか?」
「……その、少し通りかかっただけのつもりだったのですが」
殿下は一瞬だけ、唇の端を持ち上げた気がした。
笑った、のだろうか。いや、たぶん気のせいだと思いたい。
「ジュリアン」
王太子殿下が、弟である第二王子の方を向く。
「証拠書類の再精査を行え。この書記官の言う通りにな」
「…………兄上」
「お前が用意したその証拠書類が捏造であるなら、夜会での婚約破棄宣言は無効だ。それだけでなく、捏造書類を用いて公爵令嬢に濡れ衣を着せようとした行為について、父上にご報告申し上げる必要がある」
「————」
「……否定できるか?」
第二王子は沈黙した。
その沈黙が、何より雄弁だった。
しばらくして——広間の奥から、もう一人の人物が歩み出てきた。
背の高い壮年の男性。白髪交じりの、威厳ある顔立ち。
国王陛下だ。
書類の中でしか見たことのないお顔を、今、初めてこの目で見た。
「……リシャール、事情を説明せよ」
国王陛下の声は低く、落ち着いていた。
けれど重い。ただ低いだけではない、場をそのまま押さえ込むような重さだった。
「ただいまより、この場にて説明を申し上げます」
王太子殿下は落ち着いた足取りで、父王の前に進み出た。
そこから先は、私にはほとんど意味をなさなかった。
目が、くらくらしてきた。
たぶん、アドレナリンが切れたのだと思う。
自分がとんでもないことをやってしまったのだと、今頃になって全身が理解し始める。
足が震えた。手も震えた。
私はひっそりと広間の端に移動し、柱に体を預けた。
会場の中央では、国王陛下と王太子殿下のやりとりが続いている。第二王子は青い顔をしたまま立ち尽くしていた。
エリーン・ヴァンドール令嬢のもとには侍女たちが駆け寄り、令嬢を取り囲んでいた。
泣いているのか、笑っているのか、それともまだ呆然としているのか。ここからではよく見えない。
「……やってしまった」
呟いた声は、誰にも聞こえなかった。
普段の私なら絶対にしない。
絶対に関わらない。
見ない、聞かない、巻き込まれない。それが私の処世術だったはずなのに。
なんで今日に限って、こんな暴挙に出てしまったのか。
前世の記憶がよみがえったから。苛立っていたから。エリーン令嬢の震える肩を見てしまったから。
言い訳はいくらでもできる。
でも現実として、私は今、相当まずい状況にいる。
一書記官が、招待もなしに夜会へ乗り込んだ。
王族の婚約破棄の場に割り込んだ。
どう考えても処罰の対象になりうる。
最悪、職を失う可能性だってある。
「…………」
職を失ったら、ケーキが買えなくなる。
頭の中でそんなことを考えた瞬間、なんだか急に涙が出そうになった。
そこか、と自分でも思う。でも、そこは大事だ。とても大事だ。
「……こっちに来い」
低い声がして、腕を引かれた。
王太子殿下だった。
いつの間にか、私のすぐ隣に来ていたらしい。
「え、あの」
「静かに」
有無を言わせぬ力で、私は広間の裏手にある小部屋へ連れ込まれた。
扉が閉まると、外のざわめきが一段遠くなる。
ついさっきまであれほど近くにあった夜会の喧騒が、厚い扉一枚を挟んだだけで別世界のものみたいだった。
王太子殿下は私の正面に立ち、ドアに片手をついたまま、しばらく無言でこちらを見下ろした。
私は居心地が悪くて、まともに視線を合わせられない。
さっきまでの勢いが綺麗に消えている。非常によくない。
「俺のことが怖いか」
「……少し」
「正直だな」
「嘘をついても仕方がないと思いまして」
「そうか」
殿下は腕を組んだ。
責め立てるでもなく、ただ観察するみたいに私を見ている。その落ち着きが、かえって怖い。
「お前は今日、相当な無茶をした」
「……自覚しております」
「招待なしで夜会に入場し、王族の発言に異議を唱えた。普通なら即座に衛兵に連れ出されてもおかしくない状況だ」
「…………そうですね」
「なぜやった」
単刀直入な問いだった。
私は少しだけ考えてから、結局いちばん正直な言葉を選ぶ。
「……なんとなく、我慢できなかったんです」
「我慢できなかった?」
「あの令嬢が、捏造された書類で断罪されるのが。理不尽だと思って」
「お前が関係することではないだろう」
「わかってます。でも、知ってしまったので」
「知っていても、黙っている選択もあった」
「……普段はそうします。今日は——少し、いつもと気分が違いましたので」
自分で言っていて、なんとも情けない説明だと思う。
もっとこう、筋の通った言い方があるだろうに。
でも本当のことだから、仕方がなかった。
「前世の記憶がよみがえってきまして、少し気分が荒れておりました」
口にした瞬間、私はしまったと思った。
前世などという話をして、正気を疑われないだろうか。
だが王太子殿下は、特に驚いた様子も見せない。
「前世の、か。貴族の中にも転生者はそれなりにいる。お前も転生者だったのか」
「……そのようですが、先日まで気づいていませんでした。……他にもいるんですか!?」
「前世で何をしていた」
「書類仕事です。証拠の管理や記録の照合が仕事でした」
「だから書類の捏造に気づいた」
「はい」
殿下はふむ、と低く唸った。
「お前への処罰については、私から父上に取り成す。今回の件で、お前の行動は結果的に正しかった。捏造書類を用いた婚約破棄の謀略は、ジュリアンの単独の行動ではないことも、すでにわかっている」
「……背後に誰かいるのですか」
「それについては今は言えない」
殿下はまっすぐに私を見た。
「ベルラン書記官」
「はい」
「今日の件で、お前のことが少しわかった」
突然そんなことを言われ、言葉が詰まる。
「…………」
「正直に言おう。興味が湧いた」
「……それは、どういった意味合いの興味でしょうか」
「どういった意味合いだと思う」
「……私には判断がつきかねます」
殿下はもう一度、唇の端を持ち上げた。
今度は見間違いではない。明確な笑みだった。
「明日、また話がある」
「あの——私は定時に帰る予定なのですが」
「少しだけ待ってもらう必要があるかもしれないが、それはまた明日の話だ」
「……その場合、時間外手当の申請は」
「必要な書類は私が出す」
思わず、そんなことまで面倒を見てくださるのか、と聞きかけてやめた。
さすがに厚かましい。
殿下はそう言って、小部屋の扉に手をかけた。
「今夜のことについて、よくやった」
「——はあ」
気の抜けた返事が出てしまった。
「あの、処罰は本当にないのでしょうか」
「ない」
「わかりました」
「ケーキは買えたか」
……なぜそれを知っているのか。
私は固まった。
「定時に帰れなかったな」
「……はい」
「明日、代わりのものを用意してやる。好みのケーキはあるか」
「……ガトーショコラが好きです」
「わかった」
王太子殿下は扉を開き、そのまま迷いなく出て行った。
私は一人残された小部屋の中で、しばらく立ち尽くしていた。
……なんだったんだ、今のは。
頭の中が、少し遅れて処理を始める。
第二王子の婚約破棄は無効になった。
エリーン令嬢は助かった。
私への処罰は、王太子殿下が取り成してくれるらしい。
明日、また話があると言われた。
そして、ガトーショコラを用意してくれるらしい。
「……まあ、ケーキがもらえるなら、悪くないか」
私は上着を整えながら、小さく呟いた。
現金だとは思う。
でも、私はそういう人間なのだから仕方がない。
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