第四話 断罪の夜、我慢できませんでした
夜会の当日、王宮はひどく華やいでいた。
私には夜会への出席権限がないため、当然のように通常通り書記官室で仕事をしていた。
夜会は夕方から始まる。
日暮れとともに王宮の大広間へ招待客が集まり、食事と音楽と歓談を楽しみ、深夜まで続く。
書記官室は早々に消灯し、勤務者は基本的に全員退勤する。
私も定時で帰るつもりだった。
本当に、その予定だったのだ。
上着を手に取り、立ち上がり、部屋の戸締まりを確認する。
同僚たちと連れ立って廊下に出ると、夜会の準備のため、王宮の各所はいつもより明るく、華やかに飾り立てられていた。
廊下にも花が飾られ、窓越しには庭園の噴水へ光が当てられているのが見える。
昼間とはまるで別の場所みたいで、少しだけ落ち着かない。
美しい。
素直にそう思った。
私は同僚たちと別れ、正門に向かう廊下を歩いた。
けれど、その途中で足が止まる。
大広間への廊下と、正門への廊下の分岐点だった。
そこで私は、ほんの少しだけ立ち止まった。
正門への道は右手。
大広間への道は左手。
「…………」
私は右を向いた。正門の方向だ。
あちらへ行けば、今日もパティスリー・ルルンに間に合う。今日は何を食べようか。
次に左を向く。大広間の方向。
あちらへ行けば、夜会が開かれている場所に近づける。
私には夜会への出席権限がない。
平民の書記官が、招待もなしに夜会会場へ近づくなど非常識だ。
見つかったら、言い訳のしようもない。
わかっている。
わかっているのに。
「……ちょっとだけ」
左へ歩き出した。
ちょっとだけ。様子を見るだけ。
何かするわけではない。ただ、まだ間に合ううちに、自分の目で確かめたいだけだ。
そう自分に言い聞かせながら。
夜会の会場である大広間は、王宮の中央部にある。
巨大な扉が二枚、黄金の装飾をまとって開け放たれ、中からは音楽と大勢の人々の声が漏れ聞こえていた。
私はその手前の廊下、侍女たちの控えの間よりさらに手前、少し暗くなった柱の陰から様子を窺った。
夜会は盛況だった。
きらびやかな衣装の貴族たちが、水晶のシャンデリアの下で歓談している。
笑い声も、グラスの触れ合う音も、ここまで流れてくる。
どこかに、エリーン・ヴァンドール令嬢はいるだろうか。
ここからでは会場の全体は見えない。扉の隙間から覗ける範囲は限られている。
……正直、ここまで来て自分がどうするつもりなのか、まだよくわかっていなかった。
見るだけ見て、何も起きなければ帰ろう。
もし本当に婚約破棄の断罪が始まりそうになったら——その時は、どうする。
私に、いったい何ができるのか。
一書記官が王族の方の発言に口を挟むなど、本来ありえない。
身分的にも立場的にも、それはあまりに常軌を逸した行動だ。
でも。
でも、あの書類は確かに捏造されていた。
私はそれを知っている。
証拠を知っている人間が黙っているのは、本当に正しいのか。
「————」
会場内で、楽団の音楽がふっと止まった。
ざわめきも、波が引くみたいに少しずつ静まっていく。
誰かが、場の視線を集めようとしているのだ。
私は柱の陰から、そっと首を伸ばした。
会場の中央。
広間の一段高くなった場所に、鮮やかな青の軍服を着た若い男が立っていた。
端正な顔立ちの、二十歳前後だろうか。
あれが第二王子ジュリアン殿下だ。
「皆さん、少しよろしいでしょうか」
よく通る声だった。
広間が、しんと静まり返る。
第二王子殿下の言葉だ。誰もが自然と注目する。
「本日、大変遺憾ながら、発表しなければならないことがございます」
殿下はそう言って、ゆっくりと周囲を見渡した。
声にはいかにも『遺憾だ』という響きが込められている。
けれど私には、そこにどこか芝居じみたものを感じた。
「私の婚約者、エリーン・ヴァンドール令嬢に関しまして、複数の問題ある行為が発覚いたしました」
広間にざわめきが戻る。
高い悲鳴のような声。押し殺した囁き声。
私は唇を引き結んだ。
「具体的には——まず、令嬢が商人に対して不当な圧力をかけ、金銭を搾取した件。続いて、令嬢が侍女たちに過酷な扱いをしていた件。そしてさらに——」
続く言葉を聞きながら、私の中で何かが固まっていった。
ひとつひとつが、あの捏造書類に書かれていた内容と一致している。
あの日付。
あの証言者の名前。
全部、嘘だ。
私は知っている。
「——これらの証拠をもちまして、私はエリーン・ヴァンドール令嬢との婚約を、本日この場で解消することをここに宣言いたします」
どこかで、誰かが息を呑んだ。
広間の一角に、白いドレスを着た少女が立っている。
遠くて顔までは見えない。ただ、その細い肩が小刻みに震えているのが、ここからでもわかった。
あれがエリーン・ヴァンドール令嬢だ。
令嬢の周囲にいた貴族たちが、さっと距離を置き始める。
濡れ衣だとわかっていても、第二王子殿下に『断罪された』令嬢に近づける者は少ない。
まして、証拠が提示されたと言われてしまってはなおさらだ。
令嬢は、みるみる一人になっていく。
会場の視線が、全部、彼女ひとりに集まっていく。
「…………」
私はその光景を見ていた。
胸の奥が、じわじわと熱くなっていく。
前世の記憶が、またちらつく。
あの男に「気持ちが冷めた」と言われた時の、あの嫌な感覚。
理不尽さへの怒り。
なんで、正しいことをしていた側が損をしなければいけないのか。
なんで、嘘をついた側ではなく、傷つけられた側が追い詰められなければならないのか。
「——なんとかおっしゃってください、エリーン様!」
令嬢の侍女らしい少女が、泣きそうな声で叫んだ。
エリーン令嬢は——震えながら、それでも背筋を伸ばして立っていた。
反論する言葉が見つからないのだろう。
あるいは、第二王子殿下に真っ向から言い返せる立場ではないと思っているのかもしれない。
口を固く結び、視線を床に落として。
それでも、崩れないように立っている。
「私が持ち出した証拠は、しっかりと————」
「少々、よろしいでしょうか」
声が出た。
気づいた時には、もう柱の陰から歩み出ていた。
広間の入り口を越え、会場へ足を踏み入れている。
その瞬間、会場中の視線が一斉に私へ集まった。
きらびやかな貴族たちの衣装の中で、書記官の地味な制服のまま。
招待もされていない場に、いきなり現れた平民の書記官。
自分でも、正気の沙汰ではないと思う。
でも、ここで黙ったまま立ち尽くすほうが、今の私にはよほど息苦しかった。
ざわめきが、波紋のように広がった。
第二王子ジュリアン殿下が、驚きを隠せない顔でこちらを見ている。
私は深く礼をした。喉が乾いているのに、声だけは不思議と出た。
「出過ぎた真似をいたしますことをお許しください。私は王立文書管理局、第七書記官のミルフィ・ベルランと申します」
「……誰を許可して入場した」
第二王子の声には、はっきりと怒気が混じっていた。
「申し訳ございません。ただ、拝聴いたしました内容につきまして、事実と異なる点がございますため、発言をお許しいただきたく」
「事実と異なる?」
「はい」
私は一歩、前に出た。
足が震える。
当たり前だ。これは完全に常軌を逸した行動だった。
書記官の分際で、王族の夜会に乱入し、第二王子殿下の発言に異議を唱えようとしているのだから。
正気ではない。
でも、もうやめる気にはなれなかった。
エリーン令嬢の細い肩が、まだ視界の端に残っている。
「殿下がご提示された証拠書類の中に、捏造されたと思われる記録が含まれております」
しん、と広間が静まり返る。
さっきまで流れていたざわめきが、嘘みたいに消えた。
「なにを——」
「証言者として記された三名のうち、二名の署名の筆跡が、書類本文の筆跡と一致しておりません。書記官として三年間、書類の写本と真贋確認に携わってきた私には、その差異が明確にわかります」
第二王子の顔が、赤くなったり青くなったりを繰り返した。
「また、書類に記された事件の日付と、ヴァンドール公爵家の地方赴任記録の日付を照合いたしますと、その日にエリーン・ヴァンドール令嬢は王都に在籍されていなかった可能性が高うございます」
「——それは」
「この記録は、書記官室の物資輸送記録の写しの中に含まれておりました。私が直接写本いたしました記録でございますので、内容については確かです」
広間は、ますます静かになっていった。
第二王子は押し黙ったままだ。
誰もが次の言葉を待っているのに、その場にいる空気だけが重く沈んでいく。
令嬢の侍女が、わっと声を上げて泣き出した。
私は一度だけ、遠くに立つエリーン令嬢の方を見る。
細い肩。白いドレス。
令嬢は、驚いた顔でこちらを見ていた。
信じられないものを見るみたいに、でも確かにこちらを見ていた。
「……証拠書類の原本を、改めてご確認いただきたく存じます。専門の書記官および筆跡鑑定士の目で精査いただければ、捏造の事実は明らかになるかと」
私は頭を下げた。
「以上が、私からの発言でございます。無礼をお許しください」
しばらく、誰も口を開かなかった。
そして。
「……面白いことを言う書記官もいたものだ」
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