第三話 王太子殿下と捏造書類
「さっき、その書類を読んだな」
断言するように言われて、私は返す言葉に詰まった。
「……拾う際に、誤って目に入ってしまいました。内容については、一切外には」
「そういう意味で聞いたのではない」
殿下は書類の束を片腕に抱えたまま、私の方へ向き直った。
「どう思った」
「…………」
なぜ、そんなことを聞くのか。
どうして面識もない一書記官に、そんな問いを向けるのか。
普段の私なら、ここで「存じません」か「私には判断しかねます」と答えて、丁重に頭を下げて去る。
それが正解だ。
王族の方の書類に、一書記官が口を挟む必要はない。
余計なことは言わない。見ない。関わらない。
そのほうが平和に長く勤められる。私はそういうやり方で、この王宮を生きてきた。
ただ、今日の私は、普段の私ではなかった。
頭の中ではまだ、前世の記憶がぐるぐるとよみがえっている。
三年間向き合ってきた書類の山。証拠の突き合わせ。筆跡の不自然さ。
そして、理不尽な裏切り。理不尽な死。
胸の奥でくすぶっていた苛立ちが、じわりと熱を帯びた。
「……おかしいと思います」
気づけば、口から言葉が出ていた。
殿下の目が、わずかに細まる。
「続きを」
「証言者の署名の筆跡が、記録本文の筆跡と一致していません。後から書き足した可能性があります」
「それだけか」
「いえ。日付も不自然です。この書類に記載されている事件の日、令嬢が王都を離れていた可能性があります」
「可能性がある、というのは?」
問い返され、喉がひりついた。
けれど、もうここまで言ってしまった以上、引っ込めても遅い。
「私は物資輸送記録の写本を担当しておりました。その際に、ヴァンドール公爵家の地方赴任に関する記録が含まれていたのです。記憶が正しければ、この日付の時期、令嬢は公爵家の領地に滞在されていたはずです」
「記憶違いではなく?」
「その可能性もございます。ですが、私の記憶違いでなければ、この書類の日付は成り立ちません」
言い切った瞬間、自分で自分に少し青くなった。
勢いで喋りすぎた。普段の私なら絶対にしないことだ。
殿下は無言だった。
その沈黙が妙に長く感じられる。
「……出過ぎたことを申し上げました。失礼いたしました」
「いや」
殿下は首を振った。
「それが本当なら、この書類は偽物だということになる」
「……はい」
「そしてそれが偽物であるなら、夜会での婚約破棄の予告は——」
「濡れ衣、ということになるかと存じます」
私たちはしばらく、廊下の真ん中で向かい合ったままだった。
殿下の目が、何かを計っているように動く。
「お前の名前は」
「ミルフィ・ベルランです」
「ミルフィ・ベルラン」
「はい」
「覚えておこう」
それだけ言うと、殿下はすたすたと廊下を歩いていってしまった。
私はその背中を見送り、それからふと気づく。
……あれ、王太子殿下だったのかな。
それとも別の王族の方だったのだろうか。
考えてもわからない。
私が王族の方々の顔を、正確に把握しているわけではないのだから。
ただ、年齢からして王太子殿下のお二人のどちらかだとは思う。
……まあ、いいか。
私はケーキ屋に向かって歩き出した。
その日はガトーショコラを買った。
美味しかった。
濃くて、重くて、今日の気分にちょうどよかった。
翌日も、その翌日も、私は淡々と仕事をした。
殿下との廊下での一件は、胸の中に小さく引っかかりながらも、日常の業務という砂の中に少しずつ埋もれていった。
買った苺ショートは美味しかった。
モンブランも美味しかった。
結局のところ、人生はケーキがあればわりとなんとかなる、というのが私の哲学である。
夜会の日は三日後に迫っていた。
王宮の中では、それに向けて慌ただしさが増していた。
給仕の人員確認、会場の飾り付け、招待客の名簿の照合。
その最後の作業が書記官室にも回ってきて、私は名簿の写しを二部作成する仕事を追加で任されていた。
名簿をしたためながら、私はふと『エリーン・ヴァンドール』という名前に目を留めた。
……どうなるんだろうな。
あの証拠書類が本当に捏造なら、この令嬢は公衆の面前で濡れ衣を着せられ、婚約破棄という恥辱を受けることになる。
想像しただけで、胸の中で何かが不快に波打った。
前世の私も、理不尽に断じられるような感覚を知っている。
正確には濡れ衣ではなかった。けれど、三年間誠実に付き合っていたのに、「気持ちが冷めた」の一言で浮気を正当化されかけた、あの不愉快さは今でもはっきり思い出せる。
「……関係ない話だ」
私は小さく呟いた。
そうだ。関係ない。
私がどう思おうが、夜会で何が起きようが、私の定時退勤にもケーキにも関係がない。
王太子殿下——あの時の方が王太子のリシャール殿下だということは、翌日に同僚から確認した——が、あの書類を見て何か動くかどうかも、私には関係のない話だ。
私は書類を写すだけの書記官だ。
書いて、写して、定時に帰る。
それだけでいい。
……でも。
でも、もし。
あの夜会で、エリーン・ヴァンドール令嬢が、捏造された証拠で公衆の前で断罪されるとしたら。
それを、そのまま見過ごしていいのか。
「……いや」
私は首を振った。
関係ない。関係ない。
他人の人生に口を出すほど、私は暇ではない。
——本当に?
頭の奥で、前世の私が囁いた気がした。
本当に、関係ないと言い切れるのか。
あの書類の筆跡の不自然さを見てしまった私が。
令嬢が王都にいなかった記録を知っている私が。
そのまま、何も言わずにいられるのか。
「…………」
私はペンを止め、窓の外を見た。
王宮の庭園には春の花が咲いている。
白。薄紅。あざやかな黄色。
風に揺れる花びらが、夕陽の光の中でゆらゆらと踊っていた。
こんなに美しい世界で、あんな汚い捏造がまかり通るのか。
そう思ったら、なんとなく悔しかった。
それだけのことだった。
理屈ではない。正義感、と言うほど立派なものでもない。
ただ、それだけの引っかかりが、私の胸の奥に小さなしこりみたいに残っていた。
見ないふりをしようとしても、妙にそこだけ触れると痛い。
その夜、私はパティスリー・ルルンで買ってきたプリン・ア・ラ・モードを食べながら、夜会のことを考えた。
席の配置。出席者の顔ぶれ。夜会の進行。
私が書き写した名簿の内容を、頭の中で順に繰っていく。
招待客には、王国各地の貴族が集まる。
王妃陛下主催の春の夜会は、年に一度の大きな社交の場だ。
その場でエリーン・ヴァンドール令嬢を断罪するとなれば、政治的にも相当な意味を持つはずだった。
ヴァンドール公爵家は、王国でも屈指の名門だ。
そこの令嬢に恥をかかせることは、他の貴族たちへの牽制にもなる。
……なるほど。
これは単純な『第二王子が婚約者に嫌気が差した』という話ではなさそうだ。
誰かが計画的に仕組んだのかもしれない。
ヴァンドール公爵家を失脚させることで、得をする人間がいる。
誰だろう。
私はプリンを口に運びながら考えた。
前世の記憶が、じわじわと役に立ってくる。
証拠の読み方、状況の分析、利害関係の整理。検察事務官として三年間、似たような思考を毎日のようにしていた。
少なくとも、筆跡を変えて証拠書類を改竄できる立場の人間がいる。
第二王子の周辺に。
そして、第二王子にそれを実行させるだけの影響力を持つ人間が。
……まあ、私には調べる手段もないし、そもそも関係ないんだけど。
プリンを食べ終えた皿を洗いながら、私はため息をついた。
関係ない。関係ない。
そうやって何度も言い聞かせている時点で、たぶんほんの少しは気になっている。
夜会まで、あと二日ある。
夜会の前日も、私はいつも通り、定時で帰るために仕事をした。
いつも通り写本をして、いつも通り数字を照合して、いつも通り定時の鐘を聞いて帰宅する。
パティスリー・ルルンでは、その日の残りのケーキが三種類だった。
しばらく迷って、私はいちばん大きいフルーツタルトを選んだ。
「今日は大きいのを選ぶんですね」
顔なじみの女主人が、にこにこしながら包んでくれる。
「なんとなく、大きいのが食べたい気分なので」
「なにかありましたか」
「……いいえ、別に」
本当は少しだけ、もやもやした気持ちを抱えていた。
でも、それを言葉にするのが面倒で、私は代金を払って店を出た。
家の窓から、夜空を見上げる。
明日、とうとう夜会がある。
エリーン・ヴァンドール令嬢が、捏造された証拠で断罪される。
私はそれを知っている。
「…………」
フルーツタルトを一口食べた。
いつもより、甘く感じた。




