第十話 王太子殿下は本気で国を変えたい
夜会から十四日が過ぎた、ある昼下がりのことだった。
私はいつも通りクロワッサンをかじりながら写本をこなしていたのだが、そこへ、殿下の側近であるラルフという名の若い騎士が書記官室に現れた。
「ベルラン書記官、殿下がお呼びです。昼休みが終わり次第、執務室へ」
「……はい」
向かいでそれを聞いていたマリウスが、「また呼ばれてますね」と言った。
もはや驚きも薄れてきたらしい。慣れというのは怖い。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り、私は西棟の執務室へ向かった。
執務室はいつも通り整然としていたが、今日は少しいつもと雰囲気が違う。
机の上に複数の書類が広げられ、その横には細長い地図まで置かれていた。明らかに、今日は確認作業だけでは終わらない空気である。
「座れ」
殿下はいつも通りそう言い、私が椅子に腰を下ろすのを待ってから口を開いた。
「ドレイクの件で、新しいことがわかった」
「はい」
「まず、先日お前が見つけた商人の件だ。名前はボルゲン商会という。王都でも有数の規模を持つ貿易商だが、実態は宰相の傀儡組織に近い」
「架空取引の証拠は?」
「断片はある。だが、断片では足りない。ドレイクは用意周到で、書類改竄の痕跡を巧みに隠してきている」
私は手元の書類に目を落としながら言った。
「前職の経験から申しますと、こういう案件は複数の証拠を積み重ねる必要があります。一点突破では弱いです。量で圧倒する形にしないと、相手が一点を否定した瞬間に全体が崩れます」
「お前の前世というのは、よほど似た仕事をしていたんだな」
「ええ、まあ。検察というところに勤めていましたので、起訴に必要な証拠基準の感覚はあります」
「検察」
殿下はその言葉を静かに繰り返した。
「前世の世界では、罪を犯した人間を法廷で裁くために、証拠を集めて訴える役目を担う組織がありました。私はその組織の事務方で、書類の管理と記録の整理が主な仕事でした」
「なるほど。それは確かに使える経験だ」
「ただし、私は事務官であって、調査官や捜査官ではありません。書類を読んで不自然な点を見つけることはできますが、外へ出て直接証人を探したり、聞き込みをしたりというのは」
「それは別の者が担う。お前には書類の精査と、証拠の整理を頼みたい」
「それであれば、ある程度できます」
「では本題に入る」
殿下は地図を私の方へ向けた。
王都の地図だ。いくつかの場所に印がついている。
「ドレイクとボルゲン商会の取引が行われている可能性のある拠点が、現在三か所把握できている。倉庫、邸宅、それから王都外れの別荘だ。これらの場所に出入りする人物と、持ち込まれる荷物の記録をとることを、信頼できる者に依頼している」
「外側の調査は進んでいるわけですね」
「ああ。問題は内側だ」
「内側、というのは」
「ドレイクの執務記録と、王宮内での取引記録だ。宰相は王宮の文書管理にも深く関与している。書類の書き換えや削除が、組織的に行われている可能性がある」
その言葉に、私は地図から書類へ視線を戻した。
なるほど。外で荷を追い、内で書類を洗う。
両方が噛み合えば、断片は証拠になる。
書類を見ながら、私はわずかにずれたメガネを指で押し上げ、少し考えた。
「……それは確認が難しいですね。元の書類と改竄後の書類を比較する必要がありますが、改竄された側が現存しているとは限りませんし」
「だが、お前は先日、物資輸送記録の写しの中に欠損があることを見つけた」
「はい」
「そういう『欠損のパターン』を、過去の記録に遡って追うことはできるか。欠損している箇所に規則性があるなら、意図的な改竄だと証明できる」
なるほど。
確かに、それは有効な手段だ。
無作為に書類が欠損することはない。特定の時期、特定の種類の記録だけが繰り返し「欠けている」なら、それは誰かが意図して削除した証拠になる。
ないものを探すのは面倒だが、ないこと自体が証拠になるなら話は別だ。
「できます。時間はかかりますが」
「どのくらいだ」
「過去五年分を確認するなら、一週間から十日ほど見てください。通常業務と並行するなら、もう少しかかります」
「通常業務は今の部署の上長に話をつけておく。専任で動いてもらって構わない」
「……それは大変ありがたいのですが、殿下が直接書記官に指示を出すのは少々目立ちませんか」
「目立たないように話をつける。お前には表向き、別の書類整理を担当しているように見せる段取りを整える」
「用意周到ですね」
「そうでなければドレイクには勝てない」
私は机の上の書類を引き寄せながら、改めて思った。
この人は、かなり本気で動いている。
単に婚約を回避したいだけなら、もっと楽な方法を探すはずだ。ドレイク宰相の不正を暴くというのは、それだけ危険の大きい賭けだった。
「一つ聞いていいですか」
「なんだ」
「殿下がここまで本気になる理由は、ドレイク嬢との婚約を避けたいというだけではないですよね」
殿下は少し間を置いてから答えた。
答える前のその短い沈黙が、かえって嘘のなさを感じさせる。
「ドレイクはジュリアンを利用して、ヴァンドール公爵家を陥れようとした」
「はい」
「ヴァンドール公爵は、王国の中でも数少ない、政治的に清廉な人物だ。ドレイクはそういう人間を組織的に排除してきた。エリーン令嬢の件は、その一環だった」
「……つまり」
「そのまま放置すれば、王国の政治の浄化が遅れる。私が将来この国を治めることになるとしたら、今のうちにこの膿を出しておく必要がある」
静かに、けれど確かな重みを持って、殿下はそう言った。
声を荒らげたわけでもないのに、その言葉は妙に深く残った。
私はしばらく黙って、その言葉を受け止めていた。
……なるほど。
この人は本当に、王になることを考えている。
将来への責任を、今から背負っているのだ。
「わかりました。全力でお手伝いします」
私は書類を手元に引き寄せた。
さっきまでより、少しだけ指先に力が入る。
「ケーキのためか?」
「……それだけではないです。今は」
殿下は一瞬、目を細めた。
「そうか」
短い返事だったが、どこか満足したような気配があった。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




