第一話 定時退勤だけが人生です
この世界で最も大切なものはなにかと聞かれたら、私はためらわずに答える。
定時退勤、と。
一拍も置かずに、そう答える。
我ながら、夢もロマンもない。けれど、しょうがない。
それが私、ミルフィ・ベルランの生きる指針なのだから。
王都エルムローゼの中心に聳える白亜の王宮。
幾千もの部屋を抱え、庭園は一日かけても歩き切れず、廊下だけで小さな町ひとつ分の長さがあるとも言われる巨大な宮殿。その北棟三階、日当たりも風通しもいまひとつな薄暗い一室。
そこが、私の職場である。
正式な役職名は『王立文書管理局・第七書記官』。
響きだけなら立派だ。古い歴史と権威がありそうで、知らない人が聞けば少し目を丸くするかもしれない。
だが実態は、山と積まれた羊皮紙の写本作業と、来る日も来る日も果てしなく続く数字の照合作業。その繰り返しである。
朝の鐘が鳴れば出勤し、昼の鐘が鳴れば食堂でクロワッサンと野菜スープをかきこみ、夕方の定時の鐘が鳴ると同時に、鼻梁にかかった銀縁のメガネを押し上げ、鵜の羽ペンを置いて立ち上がる。
それだけだ。
王宮に勤めていても、国王陛下のお顔を拝見したことはない。
王太子殿下方と話したことも、当然ながらない。
廊下ですれ違ったことすら稀で、もし万が一そういう事態になれば、私は素早く壁際に寄り、深々と礼をして、嵐が通り過ぎるのを待つだけである。
私は王宮という巨大な歯車のなかの、ごく小さな、それでいて欠ければ少し困る、けれど代わりはいくらでも利く歯のひとつだ。
……うん。そういう自己認識で生きていると、案外、肩の力を抜いていられる。
「ベルラン書記官、例の第七師団の物資輸送記録の写し、終わりましたか」
書類の山の向こうから、同僚のマリウスがひょいと顔を出した。
三十半ばの、生え際が少々後退した実直な男である。
王宮に二十年近く勤める大ベテランで、私に仕事を一から叩き込んでくれた先輩でもあった。
「さっき終わりました。棚の三番に入れてあります」
「早いですね、相変わらず」
「定時に帰るためですから」
マリウスは、ですよね、とでも言いたげに苦笑した。
私が入局してから三年。この会話はもう何十回どころか、何百回も繰り返している気がする。
「また今日もケーキですか」
私は鼻梁のメガネを指先で押し上げる。
「ええ。今日はフルーツタルトの予定です。いちごが入荷したと聞きましたので」
「……ベルラン書記官の人生の、なんと明快なことか」
「ありがとうございます」
褒め言葉として受け取っておく。
私が王宮書記官になったのは十六のときだ。
貴族とはいえ下級も下級。男爵家の三女として生まれた私には、婿取りをするほどの家格も、嫁に行くほどの持参金もなかった。
さりとて修道院に入るほど敬虔でもなく、かといって才覚ひとつで商売を起こすような行動力もない。
そんな私に、父が取ってきてくれたのが書記官の試験だった。
文字の読み書きと計算ができれば受験資格がある。
採用されれば安定した俸給と、それなりに安全な職場が保証される。
王宮勤めという肩書きまでつけば、社会的な信用もそこそこ得られる。
完璧だと思った。
以来三年。
私は忠実に、熱心に、そして決して残業せず、この職を全うしてきた。
なにせ、定時で上がらないとケーキ屋が閉まってしまうのだ。
王都の外れにある「パティスリー・ルルン」は、私のお気に入りの洋菓子店である。
夕方の五時の鐘が鳴ると同時に閉店してしまうため、仕事を定時で終え、小走りで向かわなければ間に合わない。
そこのケーキは本当に素晴らしい。
ショートケーキのふわふわした生地。フルーツタルトの繊細なクリーム。ガトーショコラに沈む深いカカオの香り。
ひとつひとつが丁寧に、きちんと手をかけて作られていることが、ひと口食べればわかる。
値段もそれなりにする。けれど、残業代をもらわないぶん精神的な余裕はある。
毎日ひとつ、自分へのご褒美として買って帰る。それが私の、唯一にして最大の楽しみだった。
この日も私は写本作業を淡々とこなしながら、定時の鐘を待っていた。
窓の外では、春の終わりの陽光が斜めに差し込み、窓台に積まれた書類を橙色に染めている。
美しい光景だと思う。
でも、美しさに見惚れていると手が止まる。手が止まると仕事が終わらない。仕事が終わらないと定時に帰れない。定時に帰れないとケーキ屋が閉まる。
それは非常に困る。
よって私は、光景など気にしない。
「——ねえ、聞いた?」
廊下の向こうから、女性書記官たちのひそひそ声が聞こえてきた。
私の部屋は扉が半開きになっていることが多い。こういう時に限って、どうでもいい噂話まで妙によく聞こえる。
「なんの話?」
「今度の王妃陛下主催の春の夜会、あるじゃない。あそこで第二王子殿下が、婚約者のエリーン・ヴァンドール公爵令嬢と婚約破棄をされるんですって」
「えっ、まさか! あの清廉で高潔と名高いエリーン様が?」
「そう、だから驚きよ。でも本当みたい。令嬢に素行の問題があったとかで、殿下が証拠を突きつけて公開で破棄を宣言されるって話よ」
「可哀想に……あのエリーン様がそんなことをされるなんて、信じられないけれど」
「世の中なにがあるかわからないわ。それに、殿下が言うなら……ね?」
声はそのまま遠ざかっていく。
私はペンを走らせたまま、ふうん、と思った。
書類の数字を追いながら、銀縁のメガネを指先で押し上げる。
王宮の噂話には事欠かない。
書記官室は情報の集積地でもあるから、こういう話は放っておいても耳に入るのだ。
エリーン・ヴァンドール公爵令嬢、という名前は私も知っていた。
王国で一、二を争う名門ヴァンドール公爵家の一人娘で、第二王子ジュリアン殿下の婚約者。
顔を見たことはない。でも王宮内では『令嬢のなかの令嬢』として名高いひとだ。
その令嬢が婚約破棄、か。
大変だなあ、と思った。
きわめて他人事として。
私には関係のない話だ。
王族の恋愛沙汰など、私の定時退勤にもケーキにも一切関係がない。
ただ、そこで——。
なぜだろう。
『婚約破棄』という言葉を聞いた瞬間、頭の奥でなにかがずきんと疼いた気がした。
なにかが引っかかる。
うまく言えないけれど、聞き流してはいけない言葉を聞いたような、そんな妙な感覚だった。
なんだろう、と首の奥に小さな違和感を残したままペンを走らせていた、そのとき。
ぶわっと。
まるで水の底に沈んでいた記憶が、一気に水面へ浮かび上がるみたいに。
私の頭の中へ、見覚えのある映像が流れ込んできた。
ここではない、別の場所の光景。
蛍光灯の白い光。ぎっしり積まれた書類ファイル。モニターの青白い明かり。乾いたコピー用紙の手触りまで、急にはっきりと思い出す。
そして私は思い出した。
私はかつて、まったく別の世界で生きていたことを。
前世の私は、佐藤実果。
二十七歳。
検察庁に勤める事務官だった。
あの世界には魔法も精霊も王様もいなかった。
その代わり、電気があり、インターネットがあり、コンビニがあった。
私はコンビニのケーキが好きだった。
百五十円のロールケーキと、三百円のチーズケーキ。あれが好きで、疲れた日にはよく買って帰っていた。
仕事は書類仕事が中心だった。
起訴状の作成補助、証拠記録の管理、公判期日の調整。
地味だけれど、正確さと速さが求められる仕事で、私はそれがそれなりに得意だった。
そして——私には、三年付き合った彼氏がいた。
同じ職場の先輩で、真面目で頼りになると思っていた人だ。
騙されていた。
付き合って一年目から、ずっと別の女と二股をかけていたのだ。
それが発覚したのは、ある春の夜だった。
証拠は明白だった。
検察事務官という仕事柄、証拠の集め方にも、記録の突き合わせにも慣れている。
向こうは隠せているつもりだったのだろうが、甘い。砂糖より甘い。
私の目の前に並んだ『証拠』は、見れば見るほど穴だらけだった。
私は淡々と事実を突きつけ、淡々と別れを告げた。
泣かなかった。
三年間という時間が無駄だった、その怒りはあった。けれど涙は出なかった。
帰り道にコンビニへ寄って、チーズケーキを買った。
腹いせに二個。
両方、美味しく食べてやった。
——そして翌日、私は死んだ。
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