蛇足、あるいはアイリスの秘密
それはリュシアンにとって最後の夜だった。
リュシアンの砂時計はもうほとんど砂を落としていた。そのため、そばには誰かしらがいたのだが、その時はぽっかり穴が開いたように静かだった。
音もなく、明かりを持ったアイリスがそばに立つ。リュシアンはふと目を開けた。
リュシアンはアイリスを認め、『ああ』と息を漏らした。そして、かつてのように若々しく喋り出した。
「君は変わらず綺麗だね」
「何十年も変わらないなんて、化け物ですよ」
「私は君のそういうところも好きだよ」
「お戯れを」
明かりを置き、年季の入った手に置かれたのは、みずみずしいつるりとした若い手だ。
「私は、君の好きな王子様でいられたかな?」
「ええ、ほとんどは」
アイリスは吐息を漏らす。
「政治的な婚姻を結び、血を残すことをしなかった以外は」
リュシアンな手を軽くつねる。老いた肌は容易にのびた。
「後進を育てるという教育まで徹底していたのに、自分の子は作らないところまで徹底して……」
「君がそう望んでも嫌だったんだ。例え君とそうなれなくても。ああ、でもそうなってくれない君だから好きなのかもしれない」
「何もしていないのに、私の悪名ばかり大きくなっていたじゃないですか」
結局リュシアン誰とも婚姻を結ばず、子も作らなかった。アイリスが姿を消しても、それはアイリスのせいだと言う民は最後までいたのである。
「君を理解しない国民が悪い。私は国民を、この国を愛しているけれど、それだけは愛せないところだよ」
ほとんど穏やかなリュシアンの声に、少しばかり怒りが混ざる。その点に関しては、よっぽど怒り心頭なのだろう。
「リュシアン様がこの国を愛していらっしゃることは私もよく存じています。そばで見ていましたからね」
「うん。君が守ってくれると分かっていたから、どこへ出向くのも怖くはなかったよ」
「ええ。ずっと、見ていましたから」
国政をとりしきるリュシアンは、必要とあれば躊躇なく出向いた。アイリスは、姿を見せないながらも、リュシアンを危険な目に合わせることはなかったのだ。
「人の悪意を退けることはできます。しかし、人の老いは退けられませんでした」
「それが叶っていたら、今度は私が怖がられるよ」
重ねた手に表れた年齢は、とても数歳の差しかないようには見えなかった。
「……君はこれからどうするんだい?」
「そうですね。リュシアン様から授かった一代守のお役目はもう終わりますが。──リュシアン様が御身を尽くしてきたこの国はもう、リュシアン様と同等です。この国を守っていきましょうか」
「ああ、そんな、この国に嫉妬してしまう」
「この国はあなたのようなもの、と言ったのです。愛していますよ、リュシアン様」
「……今からでも婚姻を結ばないか?」
「リュシアン様、乙女が過ぎますよ」
リュシアンは思わず息を呑む。
「……アイリス、それは」
「リュシアン様をお手本にして練習しました」
「そう。俺は君を笑顔にすることができたんだね」
リュシアンは微笑む。アイリスと同じように。
明かりが消えた。たまたま席を外してきた一人がちょうど戻り、もう動かなくなってしまったリュシアンを淡く照らす。
にわかに騒がしくなっている様子を、アイリスはもう見ていなかったのだった。




