5章 初めての感情
ドーブルハントはまだ眠そうな瞳を細めながら厩舎を出た。母馬の温もりを思い出すように小さく鼻を鳴らし、田村の導きに従ってコースへ向かう。今日の目的は、初めてレース前の全馬トレーニング。緊張感が漂い、周囲には競走馬としての顔を覗かせる同世代の馬たちが集まっていた。
その中でも、ひときわ目を引く黒毛の馬――ノワールスター。体の使い方は完璧で、蹄を踏み出すたびに地面を蹴る力が整然とリズムを刻む。その隣に立つのは、栗毛の雄々しい牡馬、ルビーレイ。大きな筋肉が隆起し、迫力あるフォームで立つ姿は、他の馬たちを圧倒する。
二頭は並んだ瞬間から、まるで周囲の空気を支配するかのようだった。ゆっくりと歩き出すだけで、他の馬は微かに距離を取り、自然と威圧感に押される。ドーブルハントはその光景を目にし、小さな胸に畏怖と憧れを抱く。
「…あの二頭、すごすぎる」田村は小さく呟く。高橋も静かに頷きながら、目を細める。「他馬はまだ追いつけない。あの二頭は別格だな…しかし、ドーブルハントにも光るものがある。忘れるな」
コースが開かれ、二頭が走り出す。瞬間、空気が震える。ノワールスターは黒い筋肉をしなやかに伸ばし、風を切る音だけが耳に届く。ルビーレイは豪快に蹄を踏み鳴らし、他馬を圧倒する豪速で駆け抜ける。その迫力に、コースの他の馬たちはついていけず、差がどんどん開いていった。
ドーブルハントは目を見開く。初めて目にする光景に心が躍ると同時に、自分がまだこの世界の一端に過ぎないことを痛感する。だが胸の奥で、わずかな闘志が芽生えた。「自分も、あの場所に立ちたい」
高橋は観察を続ける。「器用さでは敵わない。しかし瞬発力や反応の速さなら、ドーブルハントにもチャンスはある。あの二頭のようにはいかなくても、自分の武器を活かせば…」
午前中のトレーニングが進むにつれ、ドーブルハントは慎重にフォームを整え、直線の加速練習に集中する。ノワールスターやルビーレイの並走する迫力は、彼にとって刺激であり、学びでもあった。二頭の併走は、周囲の馬たちが全く歯が立たない圧倒的な走りで、コース全体が息を呑む光景になっていた。
田村は背後で静かに見守りながら、ドーブルハントに語りかける。「焦らなくていい、ドーブル。あの二頭みたいにはまだ無理だ。だが、自分の力を信じろ。必ず追いつける」
午後の練習が終わる頃、ドーブルハントは少し疲れた足取りで戻る。だが瞳の奥には、午前中の二頭の迫力ある走りの記憶が残り、小さな火種のように熱を帯びていた。
「まだまだだけど…あの二頭に負けたくない」小さな蹄で地面を踏みしめるたび、闘志は少しずつ形成していく。




