17章 託された想い
朝の調教が終わったあと、厩舎には湯気のような白い息がまだ漂っていた。汗をかいた馬たちが順番に馬房へ戻され、静けさを取り戻していく。ドーブルハントも、力強く駆けた後の高揚感を残したまま、落ち着いた眼差しで水を飲んでいた。
諸星はその横で、手綱を解きながらぼんやりと考え込んでいた。 田中の姿が、頭に浮かんでいた。
調教中も、レースの前後も、田中は常に彼とドーブルに寄り添ってくれている。他の厩務員よりも一歩も二歩も深く。時に厳しく、時に優しく、迷った時は答えを与えてくれる。新人の騎手としては心強い存在だったが、同時に「なぜそこまで?」という疑問が胸に残り続けていた。
ふと視線を向けると、少し離れたところで高橋が馬の手入れをしている姿があった
諸星は、しばらく迷った末に歩み寄った。「高橋さん、ちょっといいですか」
高橋は顔を上げ、タオルで額の汗を拭った。「どうした、諸星」
諸星は言葉を選びながら口を開いた。「……田中さんって、どうして僕たちに、あんなに時間を割いてくれるんでしょうか」
言い終えて、諸星は自分でも少し子どもっぽい質問だと感じた。だが胸の奥にずっとひっかかっていたのだ。
高橋は一瞬だけ表情を曇らせた。視線をドーブルに移し、手を止める。しばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。「……ああ、やっぱり気になるか」
諸星は思わず背筋を伸ばす。高橋の声は、普段の軽口とは違っていた。「田中さんには、な……息子さんがいたんだ」
諸星の目が見開かれる。「息子さん……?」
「ああ。翔って名前だ。お前より少し上の世代かな。競馬学校を卒業して、すぐに騎手になった。夢があってな、田中さんも嬉しそうだったよ」
高橋は遠くを見つめるように、言葉を続けた。「でも……デビューして何戦目かのレースで、焦って無理をしたんだ。狭いところに突っ込んで、馬がバランスを崩して……落馬した。立ち上がれなかった」
諸星は息を呑んだ。 周囲の音がすべて遠ざかり、自分の鼓動だけが耳に響く。
「田中さんは、それから変わった。あの人はずっと、自分が止められたんじゃないか、自分のせいじゃないかって責めてる。……だからだろうな。お前やドーブルを見てると、あの人には翔くんが重なって見えるんだろう」
諸星の喉が詰まった。 田中の真剣な眼差しが、昨日の調教での言葉が、すべて脳裏に蘇る。あれは単なる仕事の熱心さではなかった。
「……だから、僕らを守ろうとしてくれてるんですね」
「ああ。勝つことも大事だが、あの人にとっては『失わせないこと』が一番なんだ」 高橋は深くため息をつき、諸星の肩を叩いた。「だからこそ、お前も忘れるなよ。焦って無理すれば、すべてを壊す。田中さんの想いを、無駄にするな」
諸星は小さく頷いた。胸の奥に熱いものが広がっていた。
レース当日。
ゲートが開く。ドーブルは力強く飛び出した。中団の外目で脚をため、呼吸を整える。焦って突っ込むことはない。田中の言葉と、翔の教訓が頭をよぎる。
向正面。観客席の声援が渦を巻くが、諸星の視界はドーブルだけに集中していた。馬の呼吸、脚のリズム、背中から伝わる心拍。すべてを体で感じながら、慎重に、しかし確実に加速するタイミングを計った。
直線に差し掛かる。 「行け、ドーブル!」
ドーブルは大きく踏み込み、鋭く前を伸びる。全力で駆けるたびに地面を蹴る力が伝わり、空気が切り裂かれる音さえ聞こえるようだ。諸星の心も一つになった。
残り100メートル、ドーブルの脚がさらに伸び、ゴール板が目前に迫る。歓声が身体を包み、視界が一瞬だけ光で満たされる。
──そしてゴール。
ドーブルは完璧に駆け抜けた。勝利だ。諸星は息を切らしながらも笑った。拳を握り、背中を叩いたドーブルの首に顔を寄せる。 「やった……勝ったんだ……!」
まだ息の荒いドーブルハントに田中は、静かに近づき、肩を叩いた。目には涙が光っていた。 「よくやったな……」
諸星は深く頷いた。田中はまだ、自分が翔の過去を知っていることは知らない。だが諸星の眼差しに宿る決意と喜びを見て、言葉はなくともすべてを理解しているようだった。
ドーブルの首を撫で、諸星は心の中で誓った。 「田中さんの想いも、翔さんの想いも、無駄にはしない」
その夜、厩舎に戻った田中は一人、馬の世話をしながらつぶやく。 「ありがとう……翔、守れたよ」
ドーブルは静かに首を下げ、諸星と田中の間に立つ。三人の絆は確かな形となり、初重賞制覇という喜びとともに、新たな挑戦への希望を胸に刻んだ。




