16章 過去の影
夜の厩舎には、しんとした静けさが満ちていた。レースを終えて馬たちが眠りにつくころ、田中だけはまだ片付けを終えずに残っていた。手にはブラシを持ち、ドーブルハントのたてがみをゆっくりと撫でる。その仕草には、単なる世話以上のものがあった。まるで言葉にならない思いを、馬体に刻み込むように。
ドーブルは疲れを見せながらも、大人しく田中に身を預けていた。諸星はもう宿舎に戻っている。高橋も帰宅した。静かな空間に二人だけ。田中はふと、目を閉じた。
──翔。
胸の奥で、あの日から決して消えない名前を呼ぶ。
回想
翔は田中の一人息子だった。 小さい頃から父の背中を見て育ち、馬と共に生きる道を自然と選んだ。競馬学校に入ったときも、田中は誇らしく、そして少しだけ心配だった。だが翔は順調に課程を終え、無事に騎手免許を得た。
デビュー戦。田中は緊張で胸が潰れそうだった。翔の騎乗馬は人気薄の牝馬で、結果は着外。それでも、ゴールを駆け抜けて戻ってきた息子の笑顔を見て、涙が出そうになった。
数戦を重ねるうちに、翔は「勝ちたい」という欲を強めていった。同期が勝ち星を挙げていくなかで、自分だけが取り残されていると感じていたのだろう。父である田中には、それがよく分かっていた。 「焦るな。お前には馬を見る目がある。必ず勝てる時は来る」 そう何度も言った。だが、若さと悔しさは、理屈で抑えきれるものではなかった。
──その日も、翔は人気薄の馬に跨っていた。直線に入ると前が塞がり、勝ち目はほとんどないように見えた。だが翔は、無理をした。 狭いインに突っ込み、強引に手綱を押し込んだ。馬は驚き、バランスを崩した。次の瞬間、大きく体勢を崩して前のめりに倒れ込み──翔の体が宙を舞った。
観客席からは悲鳴が上がった。田中はその場にいなかった。レースをテレビ見守っていた。画面に映った瞬間を今も忘れられない。 翔は、立ち上がることはなかった。
俺が……止めていれば……」 田中はあの日から、何百回もその言葉を胸の内で繰り返してきた。 まだ早いと、もっと時間をかけろと、強く言うべきだった。 馬の怖さを知っているのに、父親である自分が一番近くにいながら、なぜ守れなかったのか。
葬儀で、息子の騎手仲間や厩舎関係者が口々に「立派だった」と言った。だが田中にとっては、誇りではなく痛みでしかなかった。 妻は泣き崩れ、その後、夫婦の関係は冷え切った。家庭は静かに壊れていった。
田中にはもう、馬しか残らなかった。 だが同時に決意した。「もう二度と、若さゆえの焦りで馬も人も失わせはしない」と。
ドーブルハントの首筋を撫でながら、田中は息子の影を重ねていた。 「お前は……翔と同じだ」 まだ荒削りで、力を持て余している。けれど、その奥に確かな光がある。焦りさえしなければ、大きな舞台で羽ばたけるはずだ。
諸星にも、翔の面影を感じる。 不器用で、迷いも多い。だが、その純粋さと真剣さが心を揺さぶる。 田中にとって、二人は「もう二度と失ってはならない存在」だった。
夜が明けようとしていた。 東の空に薄い光が差し込むころ、田中はドーブルの馬房から一歩下がり、深く息をついた。 「翔……今度こそ、守ってみせる」
その言葉は、静かな厩舎の空気に溶けて消えていった。 だが田中の胸には、確かに刻まれていた。 ──息子を救えなかった自分が、今度はこの馬と騎手を支える。命を懸けても。
その強い決意とともに、田中は次なる挑戦へと歩みを進めていった。




