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塔に幽閉された令嬢、黒衣の魔導師に攫われる

作者: 百鬼清風

 分厚い石壁に囲まれた塔は、昼も夜も変わらず冷えた空気を漂わせていた。

 窓は高く、狭く、そこから差し込む光だけが、閉ざされた部屋の唯一の救いである。


 伯爵令嬢セリーナは、幼い頃からこの塔の中で暮らしてきた。

 生まれてすぐ、政略の駒として定められ、彼女の人生は自由を奪われることと引き換えに、血統を守るための“保管物”とされた。


 華やかな舞踏会も、友と語らう学び舎も、彼女にはなかった。

 唯一与えられたのは、書庫に積まれた本と、窓から見える空の青さ。


「……今日も同じ空」

 彼女は窓辺に立ち、両手を組んで見上げる。雲がゆっくりと流れ、鳥たちが翼を広げて飛んでいく。


 ――羨ましい。


 その言葉を胸にしまい込み、セリーナは微笑んだ。

 外の世界に憧れても、意味はない。この塔から出られることは決してないのだから。


 塔に仕える侍女たちは日替わりでやって来ては、必要な食事と衣を運び込む。だが、彼女と深く関わることは許されていなかった。

 伯爵家の命令であり、王国の掟でもある。

 誰もが彼女を、ただ血統を守るための存在としか見ていなかった。


 その日も侍女が食事を置いて立ち去ると、セリーナは一人きりになった。

 机に広げられた本の頁をめくりながら、彼女は小さくため息をついた。


「物語の中の姫は、みんな救われるのに……」


 そこに書かれた英雄譚や冒険譚のヒロインは、必ず誰かに助けられ、塔から解放され、運命の人と共に歩いていく。

 だが、現実の自分にそんな奇跡は訪れない。

 そう理解していたからこそ、彼女は本の世界に逃げ込むしかなかった。


 夜が訪れる。

 蝋燭の火を灯しながら、セリーナはまた窓辺に立つ。

 見上げた夜空には、星々が散らばり、月が塔を青白く照らしていた。


「……もしも願いが叶うなら」

 彼女は胸の奥でそっと呟いた。

「たった一度でいい、この塔の外を歩いてみたい」


 それは誰にも聞かれることのない、囁きにもならない小さな願い。

 しかし、その願いが叶う夜は、思いのほか早く訪れた。


 塔の周囲を、突如として激しい風が吹き荒れた。

 窓から見える空がざわめき、黒雲が渦を巻く。

 雷鳴が轟き、塔の石壁が震えた。


「なに……?」

 セリーナは思わず後ずさる。

 嵐が来るには早すぎる季節だった。しかも、この塔は古くから結界によって守られ、自然の風雨にすら揺らぐことはなかったはず。


 次の瞬間、部屋の中に冷たい風が吹き込んだ。

 窓の外に、黒い影が浮かんでいる。


 ――人?


 闇夜に溶け込むような漆黒の外套を纏い、長い杖を携えた人物。

 その顔は仮面で覆われていたが、瞳だけが鋭く光を放っていた。


「……ようやく見つけた」

 低く響く声が、嵐の音を押しのけて届く。


 セリーナは胸を押さえ、後ずさった。

「だ、誰……?」


「お前は、ここにいるべき存在ではない」

 その男は窓辺に立ち、結界の残滓を黒炎で焼き払いながら言い放った。

「俺と来い」


 その一言が、セリーナの世界を打ち砕いた。


「……攫う、の?」

 彼女の声は震えていた。

 恐怖か、それとも別の感情か。自分でも分からなかった。


「攫う? そう思いたければそう思え。だが、このままここで朽ちることは、お前自身が望むのか?」


 仮面の下から投げかけられる声は冷たく、だが真っ直ぐだった。

 胸の奥に刺さるような響きに、セリーナは言葉を失った。


 彼女は塔に生まれた瞬間から、すでに未来を閉ざされていた。

 ただ生きているだけの存在。

 そこに、初めて「選べ」と言ってくれる人が現れた。


 窓の外から差し伸べられた手は、黒衣に包まれ、冷たくも鋭い。

 けれど――その手が彼女にとって、世界の扉を開く唯一の鍵であると直感した。


「……私を、本当に……外に?」


「ああ。だが、もう戻れない」

 魔導師は短く答えた。


 セリーナの心臓が高鳴る。

 怖い。けれど、胸の奥が熱くなる。

 この瞬間を逃せば、二度と自由を掴めないと悟った。


 小さく深呼吸をして、彼女は手を伸ばした。

 指先が黒衣の男の手に触れる。

 冷たいと思ったその手は、意外にも確かな温もりを帯びていた。


 次の瞬間、彼の腕が彼女を強く引き寄せる。

 身体が宙に浮き、塔の部屋が遠ざかっていく。

 嵐の夜、幽閉の鳥籠から、伯爵令嬢は解き放たれた。


 嵐の夜風が、セリーナの頬を切り裂くように吹き付けた。

 塔から飛び出した瞬間、これまで彼女の世界を囲んでいた壁は一瞬で遠ざかっていく。

 心臓が早鐘を打ち、恐怖と高揚が入り混じった。


 黒衣の魔導師――アゼルは、片腕に彼女を抱え、もう片方の手で長杖を振るった。

 闇の中に浮かぶ紋章が輝き、嵐を裂くように空を駆け抜ける。

 重力が彼女の身体を下へ引きずり落とそうとするが、彼の腕は鋼のように力強く、決して放さなかった。


「しっかり掴まっていろ」

 低く短い声が耳元に届く。


 セリーナは必死に頷き、彼の黒衣に縋りつく。

 外の空気は冷たい。けれど、その冷たさすら新鮮だった。

 塔の中の閉ざされた空気では決して味わえない、世界の息吹が全身に沁み込んでくる。


 眼下に広がる大地は闇に包まれていたが、遠くに村の灯りが揺れているのが見えた。

 ――あれが人々の暮らす場所。

 セリーナは目を見開いた。これまで本でしか知らなかった“日常の世界”が、確かにそこに存在している。


 けれど、同時に恐怖も襲ってきた。

 塔にいれば安全だった。食事も与えられ、病気を防ぐ薬も用意されていた。

 外の世界は、彼女にとって未知そのものだ。

 この先、何が待ち受けているのか――。


「どうして、私を……?」

 風の中で、セリーナはか細い声を絞り出した。

「あなたは、なぜ……?」


 アゼルは答えなかった。

 ただ、仮面の奥の瞳が一瞬、何かを映した。

 憐憫か、決意か。けれど彼の横顔はすぐに嵐の闇に溶けた。


 やがて地上に降り立つと、彼は魔法陣を描いて風を鎮めた。

 二人は森の中に降り立ち、ざわめく木々の影に身を潜める。


 セリーナの足は震えていた。

 塔の中で一生を過ごしてきた彼女にとって、大地を踏むのは初めてだった。

 石畳でも絨毯でもなく、土と草の感触。

 湿った匂いが鼻を突き、鳥や虫の鳴き声が響く。

 彼女はその全てに呆然とした。


「ここから先、俺が行く先を決める。ついて来い」

 アゼルが短く告げる。


「……本当に、私は攫われたのね」

 セリーナは苦笑を浮かべた。

「でも、心のどこかで……救われた気がしているの」


 アゼルは振り返らなかった。

 けれど、その歩みはわずかに緩んだ。


 森を抜け、川辺に辿り着く。

 月明かりが水面に映り、揺れる光が彼女の顔を照らした。

 セリーナはその光景に息を呑む。


「……綺麗」


 彼女は子供のように川に駆け寄り、水に指先を浸した。

 冷たさに小さく声を上げる。

 ――これが自由。これが外の世界。

 胸がいっぱいになり、涙が頬を伝った。


 アゼルは無言でその姿を見つめていた。

 やがて、静かに告げる。

「今の涙は、恐怖か、喜びか」


「両方……かもしれない」

 セリーナは振り返り、微笑んだ。

「怖い。でも、嬉しいの。私、生まれて初めて生きてる気がする」


 アゼルの瞳が僅かに揺れた。

 彼は答えず、ただ歩き出す。

 セリーナはその背を追い、初めての夜を進んでいった。


 森を抜け、夜明けの気配が空を染め始めたころ、アゼルとセリーナは小高い丘に立っていた。

 朝霧が漂い、草木の間を淡い光が差し込む。

 塔の中では決して感じられなかった、湿った土と朝露の匂いが彼女の胸を満たした。


「ここから北へ進む。追っ手が来る前に距離を稼ぐぞ」

 アゼルが短く言う。


 セリーナは頷いたが、心臓はまだ落ち着かなかった。

 彼に抱えられて飛んだ夜のこと、森を初めて踏みしめた感覚――すべてが強烈すぎて、まだ夢を見ているようだった。


 だが、夢ではない。

 現実はすぐに追いかけてくる。


 王都ではすでに、塔から令嬢が消えたことが騒ぎになっていた。

 伯爵家の威信、王国の掟を守るため、騎士団が動員される。

 彼らは「誘拐犯を討伐せよ」と命じられ、塔に残された結界の痕跡を追っていた。


 丘を下り、村の入り口に辿り着く。

 まだ朝早く、人々は家畜を世話したり、井戸に水を汲みに行ったりと忙しく立ち働いていた。


 セリーナは息を呑む。

 窓から遠くに見えた灯火の正体が、今こうして目の前にある。

 村人たちは汗を流し、笑い合い、時に喧嘩しながら生きていた。


「……本当に、本で読んだ通り」

 彼女の瞳が輝いた。

「人が、こんなに近くに……」


 アゼルは外套のフードを深く被り、彼女の腕を取る。

「余計な注目を浴びるな。俺たちは目立つ存在だ」


 だが、セリーナは隠しきれない興奮で胸が高鳴っていた。

 井戸端で笑う子どもたち、店先で売られる焼きたてのパンの匂い――塔では決して触れられなかった世界。


「あなたは、こんな光景をずっと知っていたのね」

 小さな声で呟くと、アゼルの横顔がわずかに揺れた。

 だが彼は何も言わず、村外れの宿へと彼女を導いた。


 宿の一室。

 粗末な木のベッドと、古びた机、火の落ちかけた暖炉。

 セリーナにとってはすべてが新鮮で、思わず部屋の隅々まで目を輝かせて見回した。


「……狭いけれど、温かいわ」


 塔の石造りの部屋よりも、ずっと人の気配を感じる。

 壁にかかった布、机に置かれた花瓶。小さな工夫が彼女の心を満たした。


 その時、外から甲冑の音が響いた。

 アゼルは窓辺に素早く寄り、外を睨む。

 村の入り口に、王国の紋章を掲げた騎士団が現れていた。


「……もう来たか」


 セリーナの顔から血の気が引く。

 アゼルは彼女の肩を掴み、低く告げた。

「俺から離れるな。奴らはお前を『奪還対象』としか見ない」


 宿の裏口から逃げ出すと、すでに数人の兵士が村を封鎖していた。

 鋭い視線が二人を捕らえ、剣が抜かれる。


「そこまでだ、黒衣の魔導師! 令嬢を返せ!」


 アゼルは冷笑し、杖を掲げた。

 黒い炎が渦巻き、兵士たちの剣を弾き飛ばす。

「返す? この女は、もうお前たちの所有物ではない」


 その言葉にセリーナの胸が震える。

 “所有物”――自分がずっとそう扱われてきたことを、彼は否定してくれた。


 混乱の中、二人は村を駆け抜ける。

 だが、逃げる途中でセリーナは小さな子どもと目が合った。

 怯えたその瞳に、彼女は思わず立ち止まる。


「……怖がらせて、ごめんなさい」


 小さく囁き、子どもの頭を撫でて駆け出した。

 その一瞬のやりとりが、彼女にとっては大きな意味を持っていた。

 塔では決して交わることのなかった“人と人の繋がり”。

 彼女は確かにそれを感じていた。


 村を抜け、再び森へ。

 追手の気配は途切れない。

 セリーナは息を切らしながらも、振り返らずに走った。


「アゼル……」

 彼の名を呼ぶ声は、恐怖よりも信頼に満ちていた。

「私、逃げるのは怖くない。あなたと一緒なら」


 アゼルは足を止めずに答えた。

「甘い言葉に酔うな。これからが本当の試練だ」


 だが、その背中は以前よりもわずかに柔らかく見えた。


 こうして二人の逃避行は始まった。

 追跡の影が常につきまとう中で、セリーナは初めて世界に触れ、人々と交わり、少しずつ“生きる”意味を知っていくのだった。


 森を抜け、険しい山道を越えた先に、小さな洞窟が口を開けていた。

 アゼルは周囲を慎重に確かめ、セリーナをその中へと導く。

 火を灯すと、洞窟の壁に黒い影が揺れ、二人の姿を映した。


「今夜はここで休む」

 アゼルはそう告げると、背負っていた荷を下ろし、焚き火を作り始めた。


 セリーナは少し離れた岩に腰を下ろす。

 焚き火の明かりがアゼルの横顔を照らし出すたび、彼女の胸には不思議なざわめきが広がった。

 冷酷に見える彼の目元には、ほんの一瞬、深い疲れと孤独の色が混じるのだ。


 塔に閉じ込められていたときは、誰の瞳にも自分が映っていないように思えた。

 けれど、この男の瞳には確かに何かが映っている――そう感じてしまう。


「……聞いてもいい?」

 セリーナは恐る恐る口を開いた。

「あなたは、なぜ私を助けてくれたの?」


 アゼルは手を止めず、黙って薪を組んでいく。

 長い沈黙の後、ようやく低い声が落ちた。


「俺はかつて、王国の宮廷魔導師だった」


 セリーナの目が大きく見開かれる。

 宮廷魔導師――それは王国において、最も名誉ある役職のひとつだ。

 だが、彼の名を彼女は聞いたことがなかった。


「禁呪の研究に没頭していた。だが、それは王国にとって都合が悪かった」

 アゼルは炎を見つめ、抑揚のない声で続ける。

「俺は裏切り者とされ、追放された。以来、俺の存在は『処刑済みの死者』として扱われている」


 焚き火がぱちりと弾けた。

 セリーナは息を呑む。


「……じゃあ、あなたは……」


「生きてはいけない存在だ。誰も俺を必要とはしない」

 アゼルの声には微かな苦笑が混じった。

「俺を覚えている者がいるとすれば、それは『恐れるべき怪物』としてだ」


 セリーナの胸が締め付けられる。

 塔に幽閉され、誰からも必要とされなかった自分と重なって見えたのだ。


「どうして……そんなあなたが、私を?」

 彼女は思わず身を乗り出した。

「塔で生きることを強いられてきた私を、なぜ……」


 アゼルは仮面越しに彼女を見つめた。

 長い沈黙が流れる。

 やがて彼は小さく息を吐いた。


「理由は一つだ。お前が……俺と同じだからだ」


「同じ……?」


「自由を奪われ、存在を縛られ、ただ生きているだけの駒として扱われてきた。俺も、お前も」

 その声は淡々としていたが、奥底に激しい痛みを孕んでいた。

「だから俺は、お前をあの塔から連れ出した。お前が望もうが望むまいが」


 セリーナは胸が震えるのを感じた。

 彼は冷酷な攫い人ではなかった。

 孤独を知り、同じ痛みを抱える者として、彼女を見ていたのだ。


 目頭が熱くなる。

「……ありがとう」


「礼を言うな」

 アゼルは火を見つめたまま答える。

「俺はお前を救ったのではない。俺自身を、救おうとしているだけだ」


 そう言い切った声には、自嘲と苦さが滲んでいた。


 セリーナはその言葉を否定しなかった。

 だが、心の中で強く思った。

 ――この人は、本当は救われたいと願っている。


 焚き火の炎が静かに揺れる。

 二人の影が洞窟の壁に寄り添うように映し出されていた。


 夜明けの霧が晴れたころ、森を抜けた二人は古い街道に出た。

 街道は石畳が割れ、草が隙間から生えている。かつては交易で賑わったのだろうが、今は旅人の姿も少なく、静けさに包まれていた。


 しかし、その静けさは長く続かなかった。

 道の先から甲冑の鈍い音が響き、やがて数人の騎士が姿を現した。


「見つけたぞ、黒衣の魔導師!」


 アゼルは瞬時にセリーナを背後へ下がらせ、杖を構える。

 騎士たちの鎧には王国の紋章。彼らの目は冷たく、令嬢を奪還する使命だけを宿していた。


「アゼル……!」

 セリーナは思わず声を上げた。

 彼が戦う姿を見るのは初めてだった。


 次の瞬間、黒い炎が杖の先から迸った。

 地面を走る闇の紋様が騎士たちの足元を絡め取り、剣を振り下ろす前に弾き飛ばす。

 轟音と共に石畳が砕け、砂塵が舞い上がった。


 それでも騎士たちは怯まない。

 「禁呪使いを討て!」という怒声と共に突撃してくる。

 剣の煌めきが闇を裂き、アゼルの外套をかすめた。


 セリーナの心臓が凍りつく。

 塔の窓から本で読んだ“戦”の光景が、今まさに目の前で繰り広げられていた。

 だがこれは物語ではない。彼女が生き延びるための現実だ。


 アゼルは巧みに魔法陣を展開し、黒炎と風を操って次々と騎士を退ける。

 だがその額には汗が滲み、呼吸も荒くなっていた。


 そして――一瞬の隙を突かれた。


 鋭い剣が彼の腕を掠め、鮮血が舞った。

 黒衣が裂け、赤が滲む。


「アゼル!」


 セリーナの叫びが響く。

 アゼルは表情を変えず、逆にその騎士を闇で弾き飛ばしたが、動きに鈍さが出ていた。


「退くぞ」

 彼は低く言い、セリーナの腕を掴んで走り出した。


 二人は森の奥へ逃げ込み、ようやく追跡の音が遠ざかると、倒木に身を預けた。

 アゼルは黙って自分の傷口を押さえたが、血は止まらない。


 セリーナは震える手で彼の肩に触れた。

「見せて。私が……手当てするから」


「必要ない」

 冷たい声。だがその手は力なく震えていた。


「必要ないことなんてない!」

 セリーナは声を荒げた。

「私だって何かできる。あなたに助けられてばかりじゃ嫌なの!」


 アゼルは一瞬目を見開いたが、抵抗をやめた。

 セリーナは必死に外套を裂き、布で腕を縛る。血がにじみ、彼女の指を染める。


「痛くない……?」

「慣れている」

 短い返答だが、その声には微かな安堵が混じっていた。


 セリーナは唇を噛んだ。

 冷酷に見えても、この人も傷つく。血を流す。生きている。

 そう思うと、胸の奥が熱く締め付けられた。


「どうして、そんなに無茶をするの……」

「俺には戦う以外に術がない」

 アゼルの声は焚き火の煙のようにかすれていた。

「生き延びるためには、奪うしかない。だからこそ……お前は俺から離れるべきだ」


「嫌」

 セリーナは首を振った。

「私を攫ったのはあなた。なら、最後まで責任をとって」


 アゼルの唇がわずかに揺れた。

 無感情に見える彼の瞳に、一瞬だけ苦笑が浮かぶ。


 セリーナはその表情を見逃さなかった。

 ――この人は冷酷な魔導師なんかじゃない。

 心の奥に、誰よりも深い孤独と優しさを隠している。


 その夜、セリーナは眠らずに彼の傍に座り続けた。

 焚き火の光に照らされる横顔を見つめながら、胸の内で強く願った。


 ――私はこの人を守りたい。

 攫われた姫ではなく、彼と共に歩む者として。


 心の奥に芽生えた感情は、恐怖ではなかった。

 それは、初めて抱く恋のような、切なくも温かい揺らぎだった。


 夜が明けると同時に、王都の鐘が鳴り響いた。

 街中に布告が貼られ、人々の口々から同じ言葉が漏れる。


「黒衣の魔導師、アゼル討伐令」

「塔から攫われた伯爵令嬢を奪還せよ」


 王国は国の威信をかけて宣言したのだ。

 かつて宮廷魔導師として名を馳せた男は裏切り者となり、今や国家の敵。

 そして、令嬢はただの駒として、再び閉じ込められるべき存在とされた。


 セリーナはその知らせを、山間の隠れ村で耳にした。

 村人たちが怯えた表情で彼女とアゼルを見る。

 「黒衣の魔導師を匿えば罪に問われる」と噂が駆け巡り、二人の居場所は日に日に狭まっていった。


 夜。

 小屋の片隅で焚き火の火を見つめながら、セリーナは膝を抱えていた。

 アゼルは黙って杖を磨き、その横顔には疲れが滲んでいる。


「……ねえ」

 セリーナは震える声を出した。

「もし、私があなたと一緒にいるせいで、あなたが追われているのだとしたら」


 アゼルの手が止まる。仮面の下の視線が彼女に向けられた。


「お前は何を言いたい」


「私が戻れば、あなたは――」


「愚か者」

 アゼルの声が鋭く響いた。

「お前が戻れば、俺は討伐されずに済むとでも思っているのか? 俺はとっくに“死者”だ。王国にとって存在してはならない影だ」


 セリーナの胸が痛んだ。

 彼は自分の命など惜しくないと言わんばかりだった。

 けれど、彼女にとっては違う。

 アゼルは自分を救い、初めて外の世界を見せてくれた人。

 その存在を失うことなど、考えられなかった。


 セリーナは立ち上がり、焚き火の光に照らされながら彼を見つめる。

「私は攫われたんじゃない」


 アゼルの目がわずかに細められた。


「私は、自分の意志でここにいるの」

 声は震えていたが、確かな力を帯びていた。

「塔に閉じ込められたまま生きるくらいなら、あなたと共に追われる方がいい。私は――」


 胸が熱くなり、涙が滲む。

 けれど、その感情を隠すことはできなかった。


「私はあなたと生きたいの」


 言葉は夜の闇に吸い込まれ、しばし静寂が訪れた。

 アゼルの手から杖がわずかに滑り落ち、焚き火の火がぱちぱちと音を立てる。


「……愚かだ」

 彼の声は低く、掠れていた。

「お前は何も知らない。俺の罪も、王国の闇も、これから背負うものも」


「それでもいい」

 セリーナは一歩近づいた。

「知らないなら、一緒に知ればいい。背負うなら、一緒に背負えばいい」


 アゼルの瞳が揺れる。

 冷酷で揺るがぬはずの瞳が、初めて弱さを見せていた。


「……お前は俺を救うつもりか」


「違うわ」

 セリーナは首を振り、涙を拭った。

「私は、あなたと一緒に生きたいだけ」


 その瞬間、アゼルは視線を逸らし、焚き火に顔を向けた。

 炎が彼の横顔を照らし、仮面の奥で揺れる瞳を映し出す。


 彼は長い間、誰にも必要とされず、孤独を抱えてきた。

 だが今、ひとりの少女が「あなたを選ぶ」と告げたのだ。


 アゼルは深く息を吐き、低く呟いた。

「……お前という存在は、俺にとって災厄かもしれん」


 それは拒絶の言葉のようで、どこか諦めにも似た受け入れの響きを含んでいた。


 セリーナは微笑んだ。

「災厄でもいい。私にとっては、あなたが初めての自由なの」


 その言葉に、アゼルは返答しなかった。

 だが焚き火が消えるまでの間、彼はいつもより近くに座り続けていた。


 曇天の空の下、王都近郊の荒野に黒煙が立ち込めていた。

 アゼルとセリーナは追い詰められていた。四方から迫る騎士団の陣。旗には王国の紋章が翻り、数百の兵が剣と槍を構えている。


「……これ以上、逃げ場はない」

 アゼルが低く呟く。


 セリーナは彼の外套の裾を握りしめた。

「どうするの……?」


「戦うしかない」


 その声は淡々としていたが、決意に満ちていた。

 彼はゆっくりと杖を掲げる。

 地面に黒い紋様が走り、空気が震えた。


「禁呪……!」

 兵たちの間に動揺が走る。


 アゼルが解き放った魔力は、空を覆うような巨大な魔法陣を描いた。

 暗黒の炎が立ち昇り、地響きと共に兵の列を弾き飛ばす。

 剣や盾は次々と砕け、叫び声が荒野にこだました。


 セリーナはその光景に息を呑んだ。

 ――これが、彼が背負ってきた力。

 人を守るためにではなく、敵を薙ぎ払うための呪いのような力。


 だが同時に、アゼルの顔色は見る間に青ざめていった。

 血の気を失い、手が震える。

 魔力の奔流が彼の肉体を削り取っていく。


「アゼル!」

 セリーナは駆け寄った。

「やめて! こんなの、あなたが壊れてしまう!」


「黙れ」

 彼の声は掠れ、息が荒い。

「俺が止まれば……お前は捕らえられる」


「それでも……!」

 セリーナは彼の手を強く握った。

「私は攫われたのじゃない! 自分でここにいるの! だから、あなたが死ぬなんて……絶対に嫌!」


 その叫びに、アゼルの瞳が揺れた。

 黒炎が荒れ狂う中、彼は一瞬、魔力の制御を乱しかける。

 暴走すれば、彼自身もろとも周囲を焼き尽くすだろう。


 セリーナは必死に抱きつき、涙で顔を濡らしながら叫ぶ。

「生きて! お願い、あなたは生きて!」


 その言葉は魔力の渦を突き抜け、彼の心の奥へと届いた。

 孤独を前提に生きてきた彼にとって、「生きてほしい」と願う声は初めてだった。


 アゼルは大きく息を吐き、杖を下ろした。

 黒炎が一気に収束し、荒野に静寂が戻る。

 残された兵たちは恐怖に後退し、誰も近づけなかった。


 アゼルは膝をつき、苦しげに肩で息をした。

 セリーナはその胸にすがり、震える声で言う。

「もう……無茶はしないで。私を守るために、あなたがいなくなるなんて……そんなの望んでない」


 アゼルの腕がゆっくりと彼女の背に回る。

 力は弱々しかったが、その抱擁は確かだった。


「……お前の声が、俺を止めた」

 掠れた声が耳元に落ちる。

「生きろと言われたのは、初めてだ」


 セリーナは涙をこぼしながら首を振る。

「これからだって、何度でも言うわ。だから生きて、一緒に歩いて」


 荒野の風が二人の髪を揺らした。

 追い詰められても、血を流しても、彼らはまだ生きていた。

 その事実が、何よりも強い絆になっていった。


 戦いの翌朝、荒野を包んでいた黒煙はようやく薄れ、青空が戻っていた。

 騎士団は壊滅的な被害を受け、生き残った者たちは恐怖に駆られて退却していった。

 セリーナとアゼルは、重苦しい静寂の中に取り残されていた。


 アゼルの体は衰弱していた。禁呪を無理に解き放った代償は大きく、顔色は青白く、肩で荒い呼吸を繰り返している。

 セリーナは必死に彼の腕を支え、揺れる視界の中で目的地を見据えた。


 ――塔。


 遠くにそびえ立つ灰色の影。それは彼女が生まれてからずっと囚われてきた象徴だった。

 彼女を幽閉し、存在を“駒”として縛ってきた檻。


「アゼル……」

 セリーナは彼を支えながら小さく囁く。

「私は、あの塔を壊したい」


 アゼルは瞼を開け、ゆっくりと頷いた。

「お前自身の手で……終わらせろ」


 二人はふらつきながら塔へと向かった。


 やがて塔の前に立ったとき、セリーナの心臓は激しく脈打っていた。

 石壁は高く、かつての自分を閉じ込めた牢獄のように冷たく聳えている。

 だが、もう怯えはなかった。


 セリーナは深呼吸し、アゼルから杖を受け取った。

 彼の力が宿る黒曜の杖は、彼女にとって重すぎるはずだった。

 けれど今は、不思議と手に馴染んだ。


「さあ……お前の選んだ道を示せ」

 アゼルの声は掠れていたが、確かな力を宿していた。


 セリーナは両手で杖を掲げ、目を閉じる。

 これまでのすべてが胸に去来した。

 閉ざされた窓から見た空、物語の中でしか知らなかった自由、人々の生活、アゼルの孤独、そして――初めて抱いた恋心。


「私は……もう囚われの娘じゃない!」


 叫びと共に杖を振り下ろす。

 轟音と共に黒炎が塔を包み込み、石壁がひび割れた。

 長年閉ざされてきた牢獄は、崩壊を始める。


 塔が瓦礫となって崩れ落ちる中、セリーナは震える手でアゼルの腕を掴んだ。

 涙が頬を伝っていたが、それは悲しみではなかった。


「ありがとう……」


 アゼルは彼女を見つめ、ゆっくりと仮面を外した。

 そこにあったのは、傷と疲労に覆われた顔。だが同時に、彼女が見たことのない穏やかな表情だった。


「お前のおかげで、俺はまだ生きている」

 彼は低く告げた。

「孤独の中で朽ちるはずだった俺が……お前に救われた」


 セリーナは首を振り、彼の胸に顔を埋める。

「救ったのはあなたよ。私に外の世界を見せてくれた。私を自由にしてくれたのは、あなた」


 二人は互いを抱きしめた。

 崩れ落ちる塔の音が遠ざかり、荒野の風が吹き抜ける。

 そこに残ったのは、自由を手にした男女の姿だけだった。


 夕暮れ。

 瓦礫の上に立ち、セリーナは赤く染まる空を見上げた。

 アゼルが隣に立ち、静かに手を取る。


「これからどうする?」

 セリーナは問いかける。


「分からん」

 アゼルはわずかに微笑んだ。

「だが、お前とならどこへでも行ける」


 セリーナの胸が熱くなった。

 かつて塔に囚われていた少女は、今や自らの意志で未来を選ぶ女性になった。


「私も。あなたとなら」


 二人の唇が重なり、夕陽がその姿を照らした。

 それは誓いの口づけ。

 囚われと孤独から解放された二人が、共に歩む未来を示す光だった。

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