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第31話 守りたかったもの


 寝室で、ダリウスは机の上にある日記を見下ろしていた。

 古びた装丁の本は色褪せたり日焼けしている部分もある。

 手を伸ばそうとして、すぐに引っ込めた。

 自分を殺そうとした女の日記だというのに、これを読んでどうするというのだろうか。


「……はあ。いまは駄目だな。エルザさんにはすぐ読んでほしいと言われたが」


 まだ心の準備ができていない。

 どうしようかと立ち上がると、ダリウスはベッドに向かった。

 今日は久しぶりにエルザに会ったからか、眠気が残っている。いつもみたいにすぐに寝落ちしなかったのは、彼女が思わぬ人物と一緒にいたからだろう。

 今日こそは、エルザのそばにいなくてもぐっすり眠れるのではないだろうか。


(……それにしても、不思議だな)


 いつの間にかエルザの存在が大きくなっている。

 彼女と出会ったのは偶然で、よく温室に行くようになったのは、エルザのそばにいるとよく眠れるからだった。

 その理由が何かは、まだ詳しくわかっていない。

 彼女はハーブの力と言っていたが、それはほとんど関係ないだろう。

 もしハーブが関係あるのであれば、彼女のそばにいなくても眠れるはずだ。


(その理由はおそらく……)


 エルザのことを思い出すと、先ほど向けられた白に近い黄色の瞳が脳裏に浮かんだ。

 それと同時に、彼女の言葉が頭の中に響く。


『そこにはオリビア様がどうして毒を飲まざるを得なかったのか。その理由が書かれていますから』


「――くっ。思い出したくないことまで」


 エルザの瞳が薄れたと思ったら、次に脳裏を過ったのは悪夢だった。

 ダリウスが口をつけたカップを奪い、毒と知っていながら自ら飲んで、崩れていくオリビアの姿。

 苦しみながら、地面に倒れた彼女からかけられた言葉まで。

 お義母様と呼ばないで。私のことは忘れろと。

 毒を飲まされたことよりも、その拒絶に幼いダリウスは衝撃を受けたのだ。


 記憶から消せるものなら消したいのに、あの紫色の瞳を見るとどうしても思い出してしまう。

 幸せだった日々に入った亀裂。その脆さを。


(……そういえば、久しぶりに顔を会わせたな)


 腹違いの弟であり、オリビアの忘れ形見の第二王子ラヴェンは、彼女と同じ瞳をしている。

 ラヴェンの瞳を見るとどうしてもオリビアのことを思い出してしまうから、ダリウスはなるべく彼には近づかないようにしていた。


(大きくなっていたな)


 オリビアが生きていたころは、とてとてとダリウスの背中を追いかけてくるだけの小さな子供だった。初めての兄弟ということで、ラヴェンのことをしっかり見ていなければいけないと、幼いながらダリウスは思っていた。


 毒殺未遂でオリビアが亡くなった後、ラヴェンの身柄をどうするのか貴族たちが騒いでいたらしい。

 平民だったオリビアには後ろ盾がなく、父である王も彼の処遇は決めかねていた。

 ラヴェンは、王族の血を引いている第二王子だ。

 どうか慈悲を、と声をあげたのがランドルフだった。

 王位継承権は剥奪されているラヴェンが、まだ王族として王宮で暮らすことができているのはランドルフのおかげでもある。


(……そういえば、日記を叔父上には見せるなと言われていたな)


 なぜかわからないけれど、エルザに釘を刺されている。


(……眠れない)


 布団に入ってからずっと考え事をしていたからか、睡魔はやってこなかった。

 すっかりさえてしまった頭とともに、ダリウスは上半身を起こした。


「今夜も、眠れそうにないな」


 ため息が漏れる。

 ふと横に視線を向けると、机の上に置かれている日記が目に入った。


 読みたくはないのに、なぜか気になるのだ。

 これも、エルザの真剣な瞳を見てしまったせいかもしれない。


「……どうせ眠れないからな」


 悪夢を見るのであれば、日記を読んでも同じだろう。

 ベッドを降りると、ダリウスは再び椅子に座った。

 エルザからもらったカモミールのサシェの香りに心を落ち着けると、ダリウスは心を決めて、ページを捲った。




 一ページずつ目を通していると、思っていたよりも時間がかかっていたらしい。いや、オリビアのことを思い出すたびにページを捲る手が止まったせいでもある。

 読み終わったのは、朝日が昇ったころだった。

 カーテンの隙間から差し込む光の中、ダリウスは日記を呆然と見下ろしていた。


「……ここに書かれていることは、本当なのか?」


 にわかには信じがたいことだ。

 まさか、あの毒殺事件の裏側で、こんなことが起こっていたなんて。

 混乱する頭を働かせそうとするが、徹夜した頭は思うように動いてくれない。

 サシェを手繰り寄せてカモミールの香りで落ち着こうとしたが、胸のざわつきはおさまらなかった。

 日記を閉じることもできない。

 最後に書かれているページからそっと目を離す。


「……これは、あの女が書いたことだ」


 あの女は、ダリウスを毒殺しようとしたのだ。

 それなのに、ここに書かれていることを信じてもいいのだろうか。


「そういえば、あの時に飲まされたものって」


 後になって医者から聞かされて驚いた。

 あの時、毒の入ったお茶の後に無理やり口に入れられたものは、解毒剤だったという。


 飲んだ毒は、少量でも強力な効果があるものだった。

 飲めば五分もしないうちに意識低下を引き起こし、呼吸もままならなくなって、最悪の場合には死に至る。

 ダリウスは飲んだ量が少なかったのと、すぐに飲まされた解毒剤のおかげで一命を取り留めたものの、オリビアはそのまま呼吸不全を起こして亡くなっている。

 舞台女優として輝かしくデビューをして、第二王妃にまでなった美しい女性の最期としては、あまりにも酷いものだったと聞いたこともある。


(……自分の身を犠牲にしてまで、守りたかったものか)


『〇月×日。

 今日で最後になるかもしれない。

 本当は、私もこんなことをしたくはない。

 でも、あの方の命令には逆らうことはできない。もし逆らえば、ラヴェンを守る人はいなくなってしまうから。心を決めるしかないわ。

 第一王子に毒を飲ませれば、ラヴェンを助けてくれると言っていたもの。

 でも、あの男のことはいまいち信じられない。

 口ではああ言っていたけれど、腹の内のわからない笑みをしていた。

 だから少しだけ保険をかけておきましょう。

 第一王子に毒を飲ませるように指示した人物の名前をここに記すわ。

 彼の名前は――――』


 日記に書かれている名前を、ダリウスは口の中で転がした。

 発されなかった言葉は、静かに消えていく。


(……調べなくてはならないな)


 ダリウスがまともに眠れなくなってから、もう十三年が経っている。

 その間、ダリウスはなかなか前に進めていなかった。

 オリビアについて考えることはもちろんのこと、あの人の行動や発言に違和感があっても、それから目を逸らしていた。


 それらと、そろそろ向き合わなければいけなくなったのだろう。



    ◇



 ダリウスは起床すると、すぐに行動を移すことにした。

 徹夜明けの頭を動かして、十三年前の事件について調べるためにも何からすればいいかと、考えながら廊下を歩いていると、侍従が今日の予定とともにあることを告げてきた。


「マロリス公爵令嬢が目を覚まされたようです」

「――本当か?」

「どうされますか?」

「すぐに向かう。聞かねばならないこともあるからな」

「かしこまりました。使いを出します」


 十三年前の事件を調べる前に、やらなければいけないことがあるようだ。

 侍従が使用人に伝達を任せているのを横目にしていると、慌てた様子のエドウィンが近づいてきた。

 エドウィンは腰を折って仰々しくも挨拶をすると、そっとダリウスの耳元で囁いた。

 その言葉を耳にした瞬間、ダリウスは思わず慌てた声を上げた。


「そ、それは、本当か? エルザさんが、逮捕されただなんて!?」


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