第30話 蛇のような瞳
「今日はありがとう、エルザさん」
「ラヴェン君こそ。これ、少し預かるわね」
受け取った日記は布に包まれている。それを胸に抱くようにして持つと、エルザは歩き出した。
「森を出るところまでは送るよ」
ラヴェンがエルザの隣に並んだ。
森の宮殿を出るとき使用人とすれ違ったけれど、不思議そうにエルザを見るだけで特に何も言われなかった。エルザが着ているのが簡素な服だったから、使用人の一人だとでも思われたのかもしれない。
ラヴェンに挨拶すらしないのはどうかとは思ったものの、彼自身気にしていないようなので口には出さなかった。
(まるで、透明人間のような扱いなのね)
使用人はラヴェンに対して無関心すぎる。
(少し、寂しいわ)
よく整備されている森の道を抜けると、そこでラヴェンとは別れることになった。
「じゃあ、何かわかったら報告するわね」
「うん。エルザさんなら、いつでも歓迎するから」
簡単に挨拶を交わすと、エルザは踵を返した。
温室に続く道を歩き出そうとすると、いつの間にか目の前に大きな影のようなものができていた。
顔をあげると、それは人影だった。
「……おや、宮殿に見慣れない人物が出入りしているといわれて来てみれば、あなたでしたか」
背の高い男だ。
気品にあふれた言葉遣いをしている。その顔をよく見た瞬間、エルザは頭を下げていた。
「レミンティーノ大公殿下、失礼しました」
「いえ、お気になさらず。たまたま、通りがかっただけですから」
本宮から遠く離れた森のそばをたまたま通りがかったというのには少し無理があるだろう。
ランドルフ・レミンティーノは、そっとエルザに近づくと少し腰をかがめた。ひとつに結われた長い黒髪が、彼の肩を流れるように垂れる。
「第二王子宮で何をされていたのか聞こうかと思いましたが、それよりもお持ちになっているそれが気になりますね。プレゼントでしょうか。それとも……。はてさて」
「こ、これは……っ」
思わず後退る。
ランドルフは穏やかな顔をしているが、鋭い目つきはエルザの一挙手一投足を逃すまいとしているかのようだった。
どうしようかと迷っていると、間に割って入ってくる人物がいた。
「叔父様っ!」
「……おや、第二王子殿下ではないですか。お散歩ですか?」
ランドルフは腰を伸ばすと、自分の顎を掴むように指を滑らせた。
彼の興味はエルザからラヴェンに移ったようだ。
「お久しぶりですね。お元気そうでなによりです」
にこやかに挨拶をするランドルフの笑みは、仲のいい親族に向けるもののようでもある。
ラヴェンから、父や兄とは違い、叔父はたまに宮殿にやってくるという話を聞いていなければ、エルザは表情を強張らせてしまっていたかもしれない。
ごくりと唾を飲み込む。
「今日はどうしたの?」
「甥っ子に会いに来たんですよ」
「僕はこれから宮殿に戻るところだから、一緒に」
「そうしようと思ったのですが……」
ランドルフはやはり、エルザの抱えているものに興味があるようだが、これを彼に見られたら大変なことになる。
それはラヴェンもわかっているのだろう。叔父に対する親しみと同時に、焦りも見える。
(どうしましょう)
いますぐ逃げ出したいけれど、大公を相手にいくらなんでもそんな態度はとれない。
まるで蛇のような瞳だ、とエルザは思った。
朗らかな笑みを見せながらも、彼の視線は獲物を逃すまいと絡みついてくる。
もしこの場を逃れたとしても、近いうちに彼に捕まってしまいそうだと、そう身をすくめていると――。
「大公殿下? こんなところでどうしたんだ?」
思わぬ声が割って入ってきた。
その声の主は、エルザもよく知っている人だった。
(ダリさん!)
まさかここで会えるなんて。昨日の事件で忙しくしていると思っていたから、会えるのはもっと先だと思っていた。
焦っていた気持ちが、カレンデュラのように鮮やかなオレンジ色の瞳を見ると、落ち着きを取り戻す。
ダリウスはランドルフから視線を外すと、エルザとそれからラヴェンに顔を向けて少し眉を顰めた。この組み合わせはなんだと思っているような表情だ。
「甥っ子に会いに行こうとしたら、ここで偶然にも二人とお会いしたのです」
「……そうか」
「そうしたら、ミツレイ伯爵令嬢が大切そうに何かを抱えていらしたので、どうしたのかと思いお声がけしたのですが……」
ランドルフが困ったようにため息をつく。
(あれ、どうして私の名前を知っているの? 名乗ったかしら)
鉢合わせた時も、「あなたでしたか」と言っていたような気がする。
ランドルフと、こうして面と向かって顔を会わせるのは初めてのことだ。
それなのにエルザの名前を知っているのはおかしいのだが、疑問を考えている余裕はなかった。
オレンジ色の瞳が、エルザが抱えている布に包まれている日記に向けられる。
「大切そうなもの? ……ああ、そういえば、オレがお願いしていたんだったな」
思わぬ助け舟だ。
「ああ、そうでしたか。でも、殿下の献上品でしたら中身は改めたほうがいいでしょうな」
「オレには優秀な側近が多いからな、あとでしっかり確認するから問題ない」
「……そうですか。これは出すぎた真似をしてしまいましたね」
ランドルフの視線が逸らされてほっと胸をなで下ろす。
「こんなところで長々と話し込むものではないですからな。私は、これで失礼します」
ランドルフは恭しく礼をすると、すーと細めた瞳でエルザを一瞥してから、この場を離れていった。
ランドルフがいなくなったのを確かめていたダリウスが、静かにため息をついた。
「行ったようだな。大丈夫だったか、エルザさん」
「はい。ダリさんが来てくれたので、どうにかなりました」
「そっか」
「それで、ダリさん。……いいえ、ダリウス殿下にお渡ししたいものがあるんです」
「オレに?」
ここで会ったのは偶然だけれど、これはチャンスだ。
抱えていた日記を、包んである布ごとダリウスに差し出す。
「これを読んでほしいんです」
「これはなんだ?」
「それは、ラヴェン君の――お母様の日記です」
「っ!?」
ダリウスの顔色が変わった。
険しい瞳を向けられて、エルザがたじろぎそうになっていると、ラヴェンが横から声を上げる。
「お、お兄様に、読んでほしいんです!」
「……なぜ、オレがそんなものを……」
何かを堪えるような眼差しだった。
ダリウスが一歩後ろに下がる。日記には手を伸ばそうとすらしなかった。
彼にとって、オリビアは自分を殺そうとした人だ。
そんな人が書いた日記なんて読みたくないのだろう。
だけど、この日記にはオリビアの想いが込められている。
どうして彼女がダリウスに毒を盛ることになったのか、その理由を知ることができる。
エルザはオレンジ色の瞳を、ただまっすぐに見つめる。
その真剣な瞳を見て、今度はダリウスがたじろいだ。
「ダリウス殿下の事情はその日記で知りました。慕っていた相手に殺されかけて、どれだけつらかったことか。想像するだけでも胸が苦しくなります。……でも、だからこそ、その日記を読んでほしいんです。そこにはオリビア様がどうして毒を飲まざるを得なかったのか。その理由が書かれていますから」




