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第29話 オリビアの日記

 革張りの面を撫でてから、エルザは日記を開いた。


『〇月×日。

 今日、私を支援してくれていたパトロンから、プロポーズを受けた。

 でも、まさか彼がこの国の王だったなんて。

 彼の真剣な眼差しを見てしまっては、断ることができなかった。

 私に王妃が務まるのかしら』


 どうやら日記は、オリビアが国王にプロポーズを受けたころから始まっているようだ。

 プロポーズに喜ぶというよりも、どこか不安の色が濃い文章が続く。


 彼女は自分の出自を憂えているようだった。

 詳しくは書かれていないけれど、第二王妃が平民出身だということは誰もが知っていることだ。

 自分に王妃が務まるのだろうか。

 そんな不安が文章からも伝わってくる。


『〇月×日。

 陛下に自分の気持ちを打ち明けてみた。

 彼は真剣な顔をして私の話を聞いてくれて、そして君だからこそ任せられるのだと言ってくれた。

 前王妃を亡くしてから落ち込んでいたところを、私の演技で救われたそうだ。

 花のように笑う私であれば、王子殿下のよき母親になれるだろうと、そう真剣に伝えてくれた』


(ここに出てくる王子殿下は、ダリさんのことね。陛下は、ダリさんのために第二王妃を迎え入れたのだわ)


 でも平民である王妃は、貴族たちからいい顔をされなかったそうだ。

 いくら巷を賑わせているプリマドンナだとはいえ、彼女は貴族の血を引いていない。

 それがオリビアを気後れさせていて、ほかの貴族たちは陰で彼女の噂をしていた。


 貴族の噂に不慣れなオリビアは、ほかの貴族夫人たちと馴染めなかったと、日記にも記されている。


『〇月×日。

 貴族夫人たちとのお茶の席は苦しいばかりだわ。

 みんな笑顔の仮面で嫌味ばかりだもの。

 舞台の主役に選ばれたときもほかの演者たちから嫌がらせをされたけれど、あれはまだかわいいほうだったのね。

 でも、苦しいことばかりではないわ。陛下は優しくしてくれるし、ダリウス殿下も私を慕ってくれる。私も頑張らないとね』


 自分を愛してくれる陛下への信頼と、ダリウスへの愛情。

 それが幸せなのだと、オリビアは記している。

 オリビアは少しでもほかの貴族たちに受け入れてもらえるように、立派な王妃に見えるように演技を続けたらしい。

 彼女の出自に眉を顰めるものもまだいるが、国王から愛されてダリウスからも慕われるオリビアを見て、次第に彼女への態度を緩和させていく貴族もいたそうだ。


 そんな中、第二王子が生まれた。


『〇月×日。

 陛下との間に愛らしい子供を授かったわ。

 名前は、ラヴェン。まるで故郷に咲いていたあの花のように美しい紫色の瞳をしているの。

 私と同じ瞳。誰よりも愛しい私の息子』


 我が子に対する愛情に、ついエルザも引き込まれてしまう。

 それからしばらくは、自分の息子に対する愛情に耽溺するような日記が続いた。


 でもそんな幸せに暗雲が立ち込めたのは、第二王子が三歳の誕生日を迎えたころだった。

 いまから十三年前のことだ。


『〇月×日。

 どうしましょう。ずっと隠していたことが見つかってしまった。

 これだけは知られたくなかったのに。

 でも、まだ陛下は知らないわ。

 どうにかあの人を説得して、この秘密だけは守り切らないと』


 どんな秘密だろうかと、続きを読んでも肝心なことは書かれていなかった。

 オリビアの焦燥と共に、次第に文章にも乱れが生じている。

 うまく読めないところもあったけれど、彼女は誰かから脅されているようだ。


『〇月×日。

 ……まだこの日記は見つかっていないわね。

 誰も信じられないわ。私の秘密を知ったら、きっと陛下だって……。

 だからここに記しておくわ。

 私にとって大切な息子を、守るためにも』


 オリビアの決意を表しているように、インクが濃くなっている。

 もう残りのページ数も少ない。

 まるで、彼女の終わりを示しているかのように。


 緊張しながらも、エルザはページを開いた。


 そこに長々と書かれている文章。

 途中に滲んでいる個所もあって、うまく読み取れない部分もあった。

 でも、だからこそ、オリビアの気持ちがより濃く伝わってきた。


(……これは)


 エルザは第二王妃オリビアについてよく知らなかった。

 ただ、十三年前に事件に巻き込まれて亡くなっているとだけ伝えられていた。


(でも、まさか、こんなことが……)


 ページをめくる手が震える。

 最後のページをめくると、続きは書かれていなかった。



    ◇



「ラヴェン君――いいえ、ラヴェン殿下。ひとつお聞きしてもいいですか?」

「殿下じゃなくていいよ。それにいままでみたいに話してよ」

「……じゃあ、ラヴェン君。この日記、読んだことある?」


 ためらいながらも、ラヴェンはうなずいた。


「うん。お母様が亡くなったのは僕が三歳のころだったから、僕が事件の内容を知ったのはもっと後だったんだけど――」


 第二王妃オリビアが亡くなった後、せめてもの慈悲にと、国王がラヴェンのために彼女の遺品をいくつか譲渡してくれたそうだ。

 その中に木棚もあった。

 ラヴェンがその木棚の仕組みに気づいたのは、もっと後だという。

 たまたま木棚の中に入っていた本を取り出したとき、そこの仕掛けが作動したそうだ。


 そして、ラヴェンはオリビアの日記を見つけた。


「当時はまだ文字が読めなかったけど、これは大切なものだと思ったんだ。だから誰にも言わなかった」


 母との思い出を少しでもそばに置いておきたいと、そう思っていたのもあるそうだ。

 エルザは王位継承権を持たない第二王子がいることは知っていた。名前までは知らなかったけれど、森の宮殿で療養しているみたいな話を聞いたことがあった。


「僕はここに幽閉されているも同然だったんだ。――まあ、使用人たちは僕のことを疎ましく思っているから、少しぐらい姿を消しても気にされないんだけどね」


 森の宮殿で暮らしていたラヴェンは、まともな教育を受けなかったという。

 言葉を覚えたのも、文字の読み書きを覚えたのも、ほとんど独学だったそうだ。


 使用人の中にはラヴェンに同情して言葉を教えてくれる人もいたけれど、そういう人は長続きしないですぐにいなくなってしまった。

 だからラヴェンはほとんど自力で言葉を覚えて、オリビアの日記を読めるようになったのは十歳かそこらだったらしい。


 読んで驚いて誰かに伝えようとは考えたものの、使用人は信用できない。もしかしたらあの人の手先も紛れているかもしれない。

 一番いいのは父やダリウスに伝えることだけれど、二人ともほとんど森の宮殿に顔を出すことはなかった。

 ダリウスにとっては、自分を毒殺しようとした相手の息子だから、距離を取っていたのかもしれない。


 とにかく、日記の情報を共有できる信用できる人がいなかったから、ラヴェンはいままでずっとこのことを秘密にしていたそうだ。


「エルザさんなら、僕の話を聞いてくれると思ったんだ」

「――そう、だったのね」


 ラヴェンの気持ちは嬉しい。

 でも、エルザにはこの日記帳をどうしたらいいのかがわからない。


 国王とは面識がないから無理だとしても、ダリウスなら受け取ってくれるのではないだろうか。それか、エドウィンにでも。


(ダリウス殿下は、知ったほうがいいわ)


 でも、どうしたらいいのだろうか。

 悩んでいると、ラヴェンが口を開いた。


「それを、兄上に渡してほしいんだ」

「ダリさん――ダリウス殿下に?」

「うん。僕からじゃ受け取ってもらえないけど、もしかしたらエルザさんならって思って」


 ラヴェンの微笑は、どこかダリウスに似ていた。

 エルザはうなずく。


「わかったわ。どうにか渡してみる」

 

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