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第22話 苦手な香り

 夕方になると、降り注いでいた日差しが隠れて、日影が伸びていく。

 それでもまだ額から滲む汗を、エルザはハンカチで拭った。


「今日も暑いわ」


 ずっと雨も降らないで夏日ばかりが続いている。

 温室の中は温度が一定に保たれているけれど、温室から出ると汗が噴き出てきた。


 でもここで立ち止まっているわけにはいかない。

 そろそろ管理人室に戻らなければ。

 エルザは籠を抱え直すと近くに居るジョセフに声を掛けた。


「ジョセフさん、今日も一日お疲れさまです」

「管理人さんも、暑い中ありがとうね」


 今日は庭師がひとり体調不良で休んだこともあり、エルザも収穫の手伝いをしたのだ。

 運の良いことに、今日の訪問予定者もこのあと一人いるだけで、手持ち無沙汰だったというのもある。


(うん、いい香りね)


 抱えた籠の中には、穂状に小さな紫色の花が集まっているラベンダーがたくさん入っている。晴天が続いていたから、ドライフラワーなどにいいだろう。

 香油にも最適だ。ラベンダーはリラックス効果もあり、香油は女性貴族を中心に人気がある。


 いい香りに、思わず足取りが軽くなってスキップしそうになる。

 ラベンダーの収穫を手伝えたのも嬉しいけれど、もうひとつ嬉しいことがあるからだ。


(久しぶりに会えるわ)


 パーティーで正体を知って以来、ずっと顔を合わせていなかったダリウスが、今日管理人室を訪問するのだ。

 朝に名前を見たときから心が踊り、今日は一日どうしても浮かれた気持ちを隠せずに、ジョセフたちにも不思議がられてしまった。


(そういえば、今回もカモミールをご所望だけれど、ラベンダーも勧めてみようかしら)


 きっと、今日も眠れなくてやってくるだろうから、ラベンダーのリラックス効果が役に立つはずだ。


 管理人室に戻ってラベンダーの入った籠を机の上に置くと、少しもしないうちに扉からノック音が響いた。

 外を覗くと、そこには思った通りの人物がいた。


「ダリさん……じゃなかった、ダリウス殿下」

「……エルザさん」


 ダリウスはいつも着ている黒いマントを羽織っていなかった。もしかしたらもう正体がバレているから、隠す必要がないのかもしれない。

 カレンデュラのようなオレンジ色の瞳がぼんやりとエルザを映す。


 彼はエルザを避けるように中に入ってくると、フラフラとした足取りでソファーに向かって顔面から倒れた。

 すぐに寝息が聞こえてくる。


(久しぶりだけれど、もう睡魔の限界だったのね)


 ダリウスのことはしばらくそっとして置くことにして、エルザはラベンダーを片付けることにした。

 ふと思い立って、ラベンダーを見る。


(そういえば、最近作ったあれがあるわね)




 三十分ぐらいすると、いつものようにダリウスがソファーから体を起こした。


「おはよう。……オレは、どれだけ寝ていた?」

「三十分ぐらいですね」

「……そうか。世話を掛けたな」


 ダリウスが欠伸をもらす。久しぶりに来たからか、まだ寝足りないみたいだ。

 目の下にこびりついている隈が痛々しく見える。


「ダリウス殿下」


 呼びかけると、ダリウス殿下はこちらに向けたカレンデュラのようなオレンジ色の瞳を細めた。


「ダリさんとは、もう呼んでくれないのか?」

「さすがに殿下の名前を気安く呼ぶわけにはいきませんので」

「二人のときぐらいは気にしなくてもいい。オレは、君にとっては殿下ではなくダリだろう?」


 パーティーのときに、エルザ自身が言った言葉を思い出した。


「そうでしたね。それじゃあ、改めて。――ダリさん」


 呼びかけると、どこか満足したようにダリウスがうなずく。


「それで、どうしたんだ?」

「借りていたハンカチを、お返ししようかと」


 いつダリウスが来てもいいように、準備していた包み紙を渡す。

 中には先日のパーティーで彼から借りたハンカチが入っている。


「ああ、ありがとう」

「それからこれを」


 今度は布製の巾着を渡した。

 受け取ったダリウスが、ふと眉を顰める。


「これは、なんだ?」

「ラベンダーのサシェです。前に自分用に作っていたのが余っていたので、ダリさんにどうかなと」


 笑顔で答えるが、ダリウスは巾着袋を見つめ続けている。


(どうしたんだろう)


 やけに険しい顔をしている。

 彼はオレンジ色の瞳から力を抜くと、受け取ったばかりの巾着袋をエルザに押し付けるように渡してきた。


「苦手な香りなんだ。すまないが、それだけは近づけないでくれ」


 絞り出したような声でそう告げるダリウスの様子は、どこか苦しそうにも見えた。


「す、すみません軽率でした」


 いくら香りのいいハーブとはいえ、香りには好みがある。

 ラベンダーの香りが苦手な人がいたとしてもおかしくはない。

 苦手な香りは逆効果にもなりえるから、なるべく使わないほうがいいだろう。

 

「今日はありがとう。また来るよ」

「はい、いつでも来てくださいね」


 ダリウスが求めていたカモミールを渡すと、彼はいつものように立ち去って行った。

 後ろ姿を見送っていると、ふと暗闇が動いた気がした。

 驚いて見ると、そこに立っていたのはエドウィンだった。

 彼はエルザを見て一礼すると、ダリウスの後を追うようについて行く。


(側近だったわね)


 パーティーのドタバタで忘れていたけれど、あのときにエドウィンの言っていた「あの方」というのはダリウスのことだったのだろう。今日は護衛としてついてきていたのかもしれない。

 もしかしたら、いままでも姿が見えないだけでいた可能性もある。


(ダリさんは、やっぱりダリウス殿下なのね)


 あたりまえのことなのに、なぜか改めてそう思うと、彼との間に随分と長い距離があるように感じてしまった。


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