第2話 管理人になりました
「いつもありがとうございます、子爵様」
「こちらこそ、いつもお世話になっているよ。ここのハーブは、いい薬になるんだ」
ニコニコ顔でそんなことを言うのは、王宮薬剤師である子爵だった。六十代ぐらいだと聞いたが、まだ若々しい笑みを見せている。
「お役に立てて、嬉しいです」
「それじゃあ、ミツレイ君。これからも頼むよ」
「はい!」
元気に返事をすると、子爵は目を細めた。
前に「自分の孫娘を見ているみたいだよ」と、和やかに言っていたのを思い出す。
エルザは孫娘という歳ではないけれど早くに祖父を亡くしている。だからか、子爵と話しているとすこし懐かしい感じがするのだ。
背を向けて去っていく子爵を見送ると、エルザは温室の併設されている管理人室に戻った。
この後もまだ、訪問客が何人かいる。一日に何件も重なることは珍しいけれど、これもエルザの任された仕事のひとつだった。
あれから――デレクに婚約解消をされてから、もう一年が経っていた。
エルザはもうひとつ歳を重ねて、いまは十九歳だ。
本来なら嫁いでいてもおかしくはない歳だけれど、エルザは新しい縁談を探すこともなく、王宮で役職に就いていた。
それも王宮にある、温室の管理人だ。
婚約解消の知らせを聞いた両親は、デレクに対して憤った。
実は両親にも卒業後結婚すると伝えていたため、もうすでに結婚準備が整いつつあったのだ。
それが直前になって破談。しかもほとんどデレクからの一方的なことで、デレクの父であるビアサル侯爵も知らないところだった。
卒業式の後にエルザと婚約解消することになったということを伝えられたビアサル侯爵はデレクを問い詰めたものの、デレクはのらりくらりと言葉を交わして、あろうことかすぐに家から出て行ってしまったらしい。
デレクはローズマリーが新たに起こす事業のパートナーに選ばれたということもあり、あれ以来、マロリス公爵家の所有する事務所のひとつに泊まり込みしているのだった。
「確かに私は、デレクに本気の恋の相手ができたら婚約解消してもいいと言った。だが、さすがに常識というものがあるだろう。結婚準備が進んでいるというのに、あの息子は……。すまない、エルザさん。息子の代わりに、私に謝らせてくれ」
ビアサル侯爵は平謝りだったが、エルザの中からはもうすっかりデレクに対する愛情は失くなってしまっていた。
ビアサル侯爵からは、もっといい条件の縁談を探すよと言われたけれど、エルザはそれを断った。しばらくは、婚約とか結婚とかに振り回されたくないと思ったからだ。
両親は心配したが、エルザにはやりたいことがあった。
幼いころ、祖母のいる領地の邸宅で、祖母から教えてもらったことがある。
それは、ハーブを育てること。
領地にいる間に、祖母のあとについてハーブについていろいろ教えてもらった。
記憶があいまいで忘れていることもあるけれど、それでもあの時に感じた、楽しい気持ちはいまも胸の内に残っている。
だからエルザは両親に頼んで、しばらくは縁談を考えることなくハーブを育てたいのだという気持ちを伝えたのだった。
母は、手に傷ができるかもしれないとか、令嬢が手を土で汚すのはとか反対したけれど、父はすこし考えた末にエルザの気持ちを尊重してくれた。
そして、こんな提案をしてきたのだ。
「王宮にある温室の、管理人にならないか?」
王宮には様々なハーブなどを育てている魔法の温室がいくつかある。
数人の庭師が世話をしているものの、それを束ねる管理人が、いきなり辞職するという話があったのだ。腰を痛めたのと、もう歳だということもあり引退して田舎の領地に戻るそうだ。
だから代わりの管理人を探したのだが、貴族の多くは難色を示した。
温室で働いている庭師はほとんど平民で、王宮の役職に就くことはできない。
父は多くの貴族に当たったらしいが、温室の管理人を希望する者は現れなかった。
それもそのはずだ。
貴族の多くは、自らの手を土で汚すことをよしとしない。そういう仕事は平民の仕事だと思っていて、趣味で花を育てる貴婦人がいても、手入れなどは使用人に任せていることがほとんどらしい。
(おばあさまが、珍しかっただけなのよね)
管理人の仕事は主に温室の管理と、それから温室にあるハーブを求めてやってくる客人の対応が求められる。
土に触れたりする必要もあるから、敬遠する貴族のほうが多いのだ。
父としても苦肉の策だったのかもしれない。
婚約者もいないのに役職に就けば、結婚はどんどん遠のくだろう。娘がそうなることを望む親はいない。
それでも、エルザにとっては願ってもないことだった。
「私、やるわ!」
またハーブに触れられることが、嬉しかったからだ。
そして、エルザは父の勧めもあり、王宮にある温室の管理人を務めることになったのだった。