第13話 また眠れない日があったら
初夏のパーティーも翌日に迫ったある日、それは待っていたかのようにして起こった。
もしかしたら最悪の事態になるかもしれないとは思っていたけれど、まさかこのタイミングだなんて。
花壇の前で、エルザはため息を吐いた。
「ミントが、復活してしまったわね」
「そうだねぇ」
ジョセフと一緒にため息を吐く。ジョセフの隣では、ロニーが青ざめた顔をしていた。
全部抜いたと思ったけれど、残っていた根があったらしい。
花壇の隅で咲くミントを見ると、なぜか思い出したくもないデレクの顔が浮かび、思わず拳を握りしめる。
「ひとつ残らず根から抜き取ってあげるわ」
普段とは違う淡々としたエルザの声に、ロニーがなぜか「ひぃ」と喉から悲鳴を出した。
すぐ正気に戻ったエルザは、ロニーに向かって優しく微笑む。
「まだ少ししか広がっていないから、これなら今日中にどうにかできると思うわ」
「でも、管理人さんは、明日のパーティーに参加するんじゃあ……」
「夕方までに終わらせれば平気よ。二人で頑張りましょう」
ジョセフやほかの庭師たちは、明日のパーティーの準備に駆り出されている。見習いのロニーは、ミント騒動のこともあり今回はお留守番だった。
「すまないね、管理人さん。できることならわしも力になってあげたいんだけどねぇ」
「こちらはロニー君とふたりでどうにかしてみせます」
申し訳なさそうなジョセフに拳を握って伝える。
今度こそ、ひとつ残らず根から抜いてやるぞ。その意思を込めて。
「なんとも頼もしい管理人さんだ。ロニーも、頼んだよ」
「……はい!」
まだ少し不安そうだけれど、そう答えるロニーの瞳には確かな意思がこもっていた。
ミントの根をひとつ残らず抜くために、エルザは袖をまくる。
「さあ、頑張りましょう!」
◇
夏か近づいているからか、一日中動いていると額にうっすらと汗が滲んでくる。
服の袖で汗を拭うと、ふぅっとエルザは息を吐いた。
「これで、どうかしら」
「たぶん、大丈夫だと思います!」
隣でロニーも似たような動作で、安堵の息を吐いている。
顔を見合わせると、お互いにやり切った表情になっていた。
「これで、きっとミントも生えてこないわ」
「……だと、いいですが」
「そんな不安な顔をしないで。もし生えてきても、また根絶やしにすればいいのだから」
「根絶やし……」
ミントを抜くとき、どうしてもデレクの顔が横切った。
ミント並に強い生命力を持っているデレクからの手紙は、あれ以来一通も届いていない。もしかしたらエルザの許に来る前に、燃やされているのかもしれないけれど。
(でも、何かしら、この不安は……)
パーティーの前日だからだろうか。
いやな胸騒ぎがしていた。
「あれ、あの人……どうしたんでしょう」
ロニーと一緒に温室から出ると、夕闇の中を歩いてくる黒ずくめの人物がいた。
黒いマントを纏っていて、その隙間からオレンジ色の瞳が覗いている。
彼はエルザの姿を見つけると、フラフラと危なっかしい足取りで近づいてきた。
「不審者?」
「いえ、違うわ。お客様よ」
怯えているロニーに安心するように微笑みかけると、エルザは青年の許に歩いていく。
「お久しぶりですね、ダリさん」
カレンデュラのような瞳でエルザの姿をみたダリは、安心したのか糸が切れたマリオネットのように顔面から地面に倒れた。そのまま身動きしなくなる。
「し、死んだ?」
「大丈夫よ。たぶん、生きてるわよ」
近づくと、寝息が聞こえてくる。どうやら今回は、眠気に抗えなかったようだ。
「寝てるんですか?」
「ええ、この方はお客様なのだけれど、私のそばに来ると落ち着いて眠れるらしいのよ。こうして突然眠ることもあるの」
「変わった方も、いるんですね」
ロニーはまだ怖々と、眠るダリを見ている。
最初はエルザも驚いたものだ。いきなり目の前で倒れて寝息を立てる名前の知らない青年。
不審者かと思ったけれど、話してみると意外とまともで、彼が突然寝てしまうのはずっとわけあって眠れていなかっただけみたいだった。
エルザのそばに来るとよく眠れるのはたぶんハーブのおかげだけれど、彼の寝姿を見ているとエルザも安心できた。
「どうしましょう?」
「うーん。たぶん一時間ぐらいで起きると思うから、私が見ているわ」
「ここでですか?」
「移動させられないもの」
ロニーと一緒に運ぶことも考えたけれど、その間にダリが起きたら申しわけなくなる。
(せっかく寝ているのだから、少しだけ寝かせておきましょう)
ロニーはまだ不安そうだったが、寝返りを打ったダリが仰向けになる。それでもスヤスヤ寝ている姿を見て、彼も「悪い人ではないのかなぁ」と呟いていた。
それから一時間ほどロニーと一緒にダリの様子を見ながら片づけをしていると、のっそりとダリが地面から体を起こした。
「すまない、また眠ってしまっていたな」
「お久しぶりです。今日もよくお休みでした」
「……ああ、またこんな醜態を見せてしまったな。しかも、また土の上で……」
「あ、顔に汚れが付いていますよ」
起きたダリの頬には、土の汚れが付いたままだった。
そっと手を伸ばして拭おうとすると、はっとした様子でダリがその手を掴む。
「あ、ごめんなさい」
すぐエルザは自分の失態に気づいた。
いきなり素肌に触れられたら、誰もが気分が悪いだろう。
ダリは呆然とした様子だったが、しまったというようにエルザの手をそっと解放した。
「すまない。人に触れられるのは苦手なんだ」
ダリは懐から出したハンカチで、自分の頬を拭った。
(あれ?)
ふと、そのハンカチに施されていた刺繍に視線が吸い寄せられる。
(あの紋章って……)
一瞬だけ見えた、扇状に広がった先のとがった葉っぱの紋章。
もしあれが見間違えじゃないとすると……。
(いえ、きっと気のせいよ。王国に似た柄はたくさんあるわ)
思案していたエルザに、ダリが不思議そうに問いかけてくる。
「どうかしたのか?」
「いえ、なんでもありません。それよりも、今日はどうしたのですか?」
「ああ、今日は予約していなかったのだが……どうしても睡眠不足が溜まっていてな。一度、君の顔を見ておきたかったんだ」
ダリが来なくなってから二週間ぐらい経っている。
あれからほとんど眠れていなかったとしたら、彼の睡眠不足は相当なはずだ。
「今日は君のおかげでぐっすり眠れたよ。……ありがとう」
「いえ、仕事が落ち着いたら、また来てくださいね」
「ああ、明日のパーティーが終わったら時間ができるはずだから、また来るよ」
「そういえばパーティーの準備をされていたんでしたね。ということは、明日のパーティーにダリさんも参加されるのですか?」
「ああ、舞踏会には参加するつもりだ」
「会えると良いですねぇ」
温室以外のところでダリと会ったことはないけれど、彼と過ごす時間は落ち着いていて心地よかった。
ダリが何をしている人なのかはわからないけれど、ただ彼と会いたい一心でそう口にすると、ダリはオレンジ色の瞳を不安そうに細めた。
「もし、明日のパーティーでオレと会って、それで君の気持ちが変わったら……」
言いかけて言葉を切る。
「何でもない。明日は、いい日になることを祈っている」
「こちらこそ。また眠れない日があったら、いつでも私のところに来てくださいね」
「……ああ。ありがとう」
夕闇はさらに濃くなっていた。
その夕闇に隠れるように、カレンデュラのようなオレンジ色の瞳が少し曇っていたように見えて、エルザはなぜか不安になった。