第10話 ミントにだけは気をつけなさい
「まあ、今日はミントがみずみずしく育ってるわね」
出勤してとりあえずハーブの香りを楽しみたかったエルザは、温室の入口付近にある花壇を見て笑みをほころばせた。
花壇に植えられているのはミントだった。緑色のみずみずしい葉っぱを誇るようにどっしりと育っている。
(あれ、でもこんなところにミントなんて植えられていたかしら?)
疑問に思っていると、エルザに気づいたジョセフがやってきた。
「管理人さん、おはよう」
「おはようございます、ジョセフさん」
挨拶を返して、おやと首を傾げる。
いつも穏やかに微笑んでいるジョセフの顔色が、心なしか悪かったからだ。
困ったように眉を顰めている普段とは違う様子に、エルザはそっと問いかける。
「何か、あったのですか?」
「……ああ、実はそうなんだ。困ったことになってね」
ジョセフが見ているのは、先ほどまでエルザが眺めていた花壇だった。
そこに生えているミントを見て、白いあごひげを撫でながらため息を吐いた。
「実は、ロニーがやらかしてしまったって、ジェイソンさんがかんかんなんだ」
「ジェイソンさんが……」
その名前を聞いた瞬間、エルザの全身に緊張が走る。
大ベテランであるジョセフよりも、さらに古株の庭師がいるのだ。
ジェイソンという名前で、管理人になったエルザのことをいまだに好ましく思っていない人物でもある。
管理人になったばかりの頃は、「小娘に何ができる」とか「貴族令嬢がお遊びで触っていいものではない」とか、いろいろ言われたものだ。
いまもたまに小言を言われるが、エルザが手伝いを申し出ると、フンッと鼻を鳴らしながらも拒むことはなくなった。
「そこにあるミントなんだけどね」
「あ、ちょうど収穫の時期ですよね!」
「ああ、花が咲く前に摘まないとなんだけどね。……でも、本来ならそこにミントは植えられていなかったはずなんだ」
「え?」
花壇にはどこからどう見てもミントが植えられている。
(でも、確かにここのスペースは別のハーブが植えられる予定だったところだわ)
それにミントはあまり地植えに適していない。
ミントは繁殖力が高く、地植えにするとあっという間に広がってしまうのだ。他のハーブの成長を妨害する場合もあるから、温室ではほとんどプランターで育てていたはずだった。
(それなのに、どうしてここにミントが?)
「実は、ロニーが間違ってそこにミントの苗を植えてしまったんだ。そのせいでね、ほら」
そっとジョセフが周囲を見渡す。その視線につられたエルザは、「わあ」と衝撃の声を上げた。
「ミントが、いっぱい」
「ああ、思ったよりも広がってしまったんだ」
その光景を見て、エルザは亡き祖母の言葉を思い出した。
『いいかい、エルザ。ミントにだけは気をつけなさい。ミントは繁殖力が強く、すぐに広がってしまうんだ。気づいたら地面に根を張り、足をすくわれる可能性だってあるんだよ。――だから、ミントにだけはくれぐれも気をつけなさい』
ミントは育てやすいハーブではあるけれど、危険がいっぱいのハーブなのだ。
「除草剤を使うと他の植物にも影響があるからね、すべて根から引っこ抜かなきゃいけないんだけど」
「気が遠くなりそうな作業ですね……」
「そうだねぇ」
ジョセフと顔を見合わせて、お互いにため息を吐く。
気が遠くなりそうな作業だけれど、ほかのハーブに影響があるのならこのままにしておくことはできない。
何か手伝えることがあるのであればと、周囲を見渡していると、ちょうど温室にロニーが入ってくるところだった。すっかり落ち込んでいるのか俯きがちで、エルザの姿には気づいていないようだった。
「ロニー君、おはよう」
「……っ、あ、おはようございます、管理人さん」
ロニーはジェイソンの孫で、庭師の見習いとして温室で働いている少年だ。歳はエルザよりも下の十四歳だった。
ジェイソンにこっぴどく叱られて泣いてしまったのか、目の下に泣き腫らした跡が残っている。
「ジョセフさんから話は聞いたわ」
「……っ、ごめんなさい、管理人さん。僕のせいで」
すっかり自分を責めてしまっているのが、ロニーの表情からわかる。
エルザは安心させるように微笑むと、ぐいっと自分の服の袖を捲った。
エルザは、温室に出勤するときは土に汚れてもいいような身軽な服装をしていた。もしほかの令嬢たちに見られたら鼻で笑われるかもしれないけれど、温室に訪問する貴族たちでエルザの格好を馬鹿にする人はいまのところ居なかった。
「私も手伝うから、ちゃっちゃとやっつけちゃいましょう!」
「わしも手伝うよ」
「っ、ありがとうございます、管理人さん。ジョセフさん」
三人もいれば早く終わるかもしれない。
暗かった表情を輝かせるロニーを見て、エルザは気合を入れて作業に取り掛かった。




