【間章】風の鳴く路地、灰の果て
主人公の本名、シンゴにします。
風の鳴く街。
旧都の名残を残すこの中規模都市は、地図の中心からはやや南に外れた盆地に沈み込んでいる。陽が沈むとすぐ、四方の山肌から吹き下ろす風が、石と石の隙間、木造建築の軒下、張り巡らされた布製の天幕を這うように吹きすさび、まるで街そのものが呻いているかのような音を立てた。
そのせいか、この街の灯りは、どれもおそろしく暖かい。
風除けに、祈りに、安心のために。
光のひとつひとつが、人々の暮らしにしがみついている。
シンゴ――彼は、街の南側、《忘れの通り》と呼ばれる狭く曲がりくねった裏路地を歩いていた。
正確には、歩いていたというより、ただ、流されていた。道の曲がり方がまるで生き物の骨のようで、どこに向かっているのかも曖昧だった。軒を連ねる建物はどれも低く、店先に吊されたランタンの灯りが風に揺れながら、彼の影を細く、長く、引き伸ばしていった。
(……なぜ、ここに来たんだ?)
問いは、頭の中だけで響いた。
明確な目的があるわけではなかった。ただ、眠れなかった。
あの《裏切り》の夜から三日。魔力の流れは安定し、体の傷もほぼ癒えた。けれど、精神の傷は――
あの女騎士の瞳が、今も網膜の裏側にこびりついて離れない。
剣を突き立てる瞬間、彼女が口にした、あの言葉。
「あなたを信じたのに」
(……そうだ。俺は、最強になるために、裏切った。それだけのはずだったのに……)
心臓の奥に、ぬるい鉛の塊のような感情が沈んでいる。
罪悪感ではない。
かといって、後悔とも違う。
ただ、何かが削られた感覚。何か、大事なものを、永遠に失ってしまったような。
「にいさん」
しゃがれた声が、不意に耳元に落ちてきた。
気づけばシンゴは、道の途中で止まっていた。
足元には、布を幾重にも巻いた腰布と、土色の上衣をまとった老婆が座っていた。
彼女は下を向いたまま、手元で木の枝をナイフで削っていた。すでに足元には十数本の枝が転がっており、どれも歪で、何の役にも立ちそうにない。
「にいさん、迷子じゃろ」
「……いや。散歩してるだけだ」
「そう言うやつは、みんなそう言う。迷っとるやつの口癖じゃ。……心でも、道でもな」
シンゴは立ち去ろうとしたが、ふと老婆が削っていた木の枝に目を奪われた。
どれも奇妙な形をしていた。曲がったもの、裂けたもの、ねじれたもの。けれどどれも、どこか有機的で……人間の骨のようだった。
「これ、何を作ってる?」
「護符じゃよ。……灰の夢に入らぬように」
「灰の夢?」
老婆はナイフを止め、初めて顔を上げた。
目の周りに深い皺が刻まれ、片目は白く濁っていた。
「風が鳴く夜、心を殺した者は灰の夢を見るんじゃ。罪に目を背けた者、信を捨てた者、裏切った者……。おまえさんには、もう灰の匂いがついておる」
「……は?」
老婆はふっと口の端を上げた。
その笑みに、シンゴはかすかに背筋が冷えるのを感じた。
まるで、すべてを見透かされたようだった。
「夢に引きずられたら、戻ってはこれんぞ。……目を閉じるときは気をつけなされ」
シンゴはその場を離れ、老婆の忠告を冗談半分に頭の片隅へ押しやった。
けれど、その夜、夢は深く、底が抜けていた。
――風が鳴いている。
どこかで子どもが泣いている。
振り返るたびに世界が折れ曲がっていた。
彼は《フェリダス》の街を歩いていた。だが、路地はまるで生きているかのように、歩を進めるたびに形を変えていく。
石畳が柔らかく沈み込み、建物は裏返って空へ溶けてゆく。
街灯の灯りは燃えるような赤に染まり、路上には誰もいない。
(これは、夢だ……)
そう自覚しても、目を覚ますことはできなかった。
理性はある。意識もある。けれど、この夢から脱け出す道だけが、消えていた。
しばらく歩いた先――広場のような空間に出た。
中心に、倒れた石碑。上には何も刻まれていない。
その周囲を、無数の《仮面》が囲んでいた。
人の顔ほどの大きさの、それぞれ異なる歪な仮面。
動かない。喋らない。ただ、彼の方を見ていた。
どの仮面にも、目がついていた。瞳の奥には、揺らめく炎のような光。
空気が息苦しい。ここにいてはいけない――そう直感した。
けれどそのとき、仮面たちのあいだから、ひとつだけ異なる存在が姿を現した。
彼女は“歩いて”きた。
土偶のような、しかしどこか異国的な曲線を持つ仮面をつけ、しなやかな体つきの若い女性。
仮面の下から覗く唇は青白く、金色の髪が風になびいている。
まるで、ずっと前からそこにいたかのような、静かな確信をたたえて。
彼は彼女から目を離せなかった。
彼女はなにも言わない。ただ、その場に佇んで、こちらを見ている。
仮面の奥の視線が、心の底に突き刺さる。
(誰だ……?)
聞こえないはずの声が、夢の空間を震わせる。
「……おめ、ほんとにそれでええんが?」
声は、訛っていた。
彼の過去のどこかを踏みにじるような、突き放すような、それでいてあまりにも人間らしい声。
仮面の下に隠された女の目が、彼の心の奥底の、罪の部分だけをすくい上げて見せつける。
「裏切りば、やめらんねが? それしか、道のねぇんが?」
足が動かない。声も出ない。
口の中が干からび、視界が歪む。
彼女の声は、どこか母音が粘つき、鋭く脳髄に刺さるようだった。
彼女が一歩近づいた。
仮面の影が落ちて、彼の胸にかかる。
「自分ば殺した者は、最後に自分しか信じらんなぐなる。……それが、いっちゃん哀しい結末だべさ」
その瞬間、仮面の奥で――何かが、泣いた。
風が轟音に変わり、仮面たちが砕け散った。
石碑が崩れ、灰が舞い上がる。
そして彼の視界は、濃い闇に包まれた。
*
目を覚ますと、見慣れた宿の天井があった。
体が汗で濡れている。息が乱れていた。
あの仮面の女の姿は、どこにもない。
けれど、あの声だけが、耳の奥に残っていた。
「……仮面の、女……?」
彼は起き上がり、ゆっくりと立ち上がった。
窓の外には、もう朝の光が差していた。
けれど、風はまだ――街のどこかで、低く鳴いていた。
(あの夢は……ただの悪夢じゃない)
彼は直感した。
“彼女”は、近くにいる。
この《グレイ=ネフティリア》のどこかで、自分と出会うべく、待っている。
それが、再び始まる《裏切り》の物語だとしても。