裏切りの地に咲く花
夜の森は腐葉土の甘い匂いと、血の生臭さが混ざり合っていた。
木々のざわめきすら、今の俺には聞こえない。
右手が焼けるように熱い。《逆信》の刻印が、裏切りの契約を果たしたことを喜んでいる。
「……強くなった、のか」
湿った土に座り込んだまま、俺は震える指で剣を握り締めた。
リィナ――あの女騎士が握っていた、誇り高き剣。今は、俺の血と彼女の涙で濡れている。
近くの木陰、背を向けた姿勢で倒れているリィナの肩が、小さく揺れた。
「なぜ……あなたが……」
その声に責める色はなかった。ただ、疑問。
信じていた者が刃を向けてきたことを、彼女の心がまだ理解しきれていない。
「騙すしかなかったんだ。……ごめん」
言葉にした瞬間、喉の奥が焼けるように痛んだ。
謝罪など、俺には似合わない。強さを得るための裏切りに、後悔などあるはずがない――はずだった。
「あなたを……信じたのに」
リィナの甲冑はひび割れ、胸元から血が滴り落ちていた。
肌が覗く。白く、滑らかで、戦場に似つかわしくないほど美しい肌。
その傷のひとつひとつが、俺の裏切りの代償だ。
(なぜ、こんなにも……)
戦う前、焚き火を囲んでいた夜を思い出す。
リィナが少し酔って、頬を赤らめながら俺のことを「ちょっと頼りないけど、優しい人だと思う」なんて言ったのが、胸の奥にまだ残っている。
その口が、もう言葉を紡がないかもしれないと思うと、頭がぐらりと揺れた。
「……生きろ。できれば、な」
そう言って俺は、リィナの傍から立ち上がった。
◆ ◆ ◆
盗賊団のアジトにたどり着いた時、俺はもう人間ではなかった。
痛みも、迷いもない。
あるのは、“力”と“本能”だけ。
「誰だテメ……うぐっ!」
門番の喉に剣を突き立て、そのまま体を蹴り飛ばす。
血が噴き出し、壁に叩きつけられた体は重い音を立てて崩れた。
アジトの中から怒号と足音が響く。
男たちが次々に現れ、俺に斬りかかる。
「クソッ、化け物か!? こいつは……!」
斬撃を躱し、腕を斬り飛ばす。
悲鳴を上げる盗賊の顔に、返り血が降りかかる。
その赤は、もう俺の中でなんの感情も呼び起こさない。
女の盗賊が背後から刃を振り下ろしてくる。
気配に気づき、振り返りざまにその手首をへし折った。
「きゃあああっ!!」
耳をつんざくような叫び。
女の瞳は恐怖で大きく見開かれ、俺の顔を見て凍りついた。
「……助けて……お願い……」
衣服が乱れ、傷だらけの体を抱えて後ずさる彼女。
俺は、そこに何も感じなかった。
むしろ、喉の奥が疼く。
信頼を踏みにじった後の、甘ったるい力が脳を麻痺させていく。
(これが……《逆信》の代償……?)
倒れた女を見下ろしながら、俺は剣を下ろした。
これ以上斬る必要もなかった。もう、全てを失っていた。
◆ ◆ ◆
戦いが終わった頃には、俺の服は返り血で黒く染まり、刃は既にボロボロだった。
盗賊団のアジトは焼き払った。
金も、食糧も、そして女たちもいた。
だが、何一つ心は満たされない。
風の冷たさが、やけに身に沁みた。
夜空に浮かぶ月を見上げながら、俺はぽつりと呟いた。
「もう……誰も、信じられないのかな」
その時だった。
身体が重くなり、視界が歪み始めた。
右手の刻印がうっすらと発光し、まるで“飢え”ているように疼き始める。
(また……裏切らなきゃ、ダメなのか)
“信頼を裏切ることでしか力を得られない”
そんな呪いが、いつのまにか俺の心をも支配していた。
◆ ◆ ◆
それから数日後。
リィナの姿は、もう見えなかった。
生き延びてどこかに行ったのか、それとも――
だが、俺の中にはまだ、あの時の感触が残っていた。
優しさに触れたこと。
その優しさを自ら裏切ったこと。
今度は、もし誰かが信じてくれるのなら、裏切らずに済むのだろうか。
――いや、弱くなっても、信頼される側になってみたい。
そんな思いが、ほんのわずかに芽生えていた。
(……くだらねぇ)
笑ってみせたが、胸の奥は静かに疼いていた。