裏切りの地に咲く花
その夜、森の外れにある洞窟で、俺たちは焚き火を囲んでいた。
「名前は?」
「は?」
「お前の名前だ。さっきは聞く余裕もなかった」
「……ツルギ。偽名みたいなもんだ」
「……ツルギ、か。名乗ってくれただけで十分だ」
そう言って、女騎士は笑った。焚き火の赤い光が、彼女の横顔を照らしていた。あれだけ深手を負ったのに、応急処置の後、文句一つ言わずに俺の肩を借りながらここまで来た。
「私はリィナ。ヴェルゼ地方南部の警備隊所属の騎士だ」
「……ヴェルゼって、どこ?」
「お前、本当にここの人間じゃないのか?」
俺は笑ってごまかした。
リィナは怪しむ様子もなく、軽く頷く。
「まあ、いい。お前には命を助けられた。借りは返す。今日から二日間、お前を保護する」
「保護って……なんで?」
「その手に握ってる剣、私の見立てでは“未鍛成”の鋳潰し物だ。素人に渡ってる理由があるなら、それなりに危険な目にも遭ってるってことだろ」
そう言って、リィナは短剣を指差した。
俺は無意識に柄を握る。まるでそれを握っている間だけ、俺がこの世界で“生きている”ような錯覚がある。けれどその手の甲には、相変わらず《逆信》の刻印が、じくじくとした熱を持って灯っている。
「……信じてるのか、俺のこと」
「……あ?」
「いや。俺が裏切るような人間だったら、どうする」
「そうだな」
リィナは少し考えたあと、また笑った。
「そん時は、斬る」
「……」
「でも、そうでないなら。一度、命を救ってくれたお前を、私は信じたいと思うよ」
胸がズキリと痛んだ。
それは肩の傷でも、空腹でもない。言葉の奥にあるまっすぐな善意が、心のどこかを抉った。
(裏切れば、強くなる。わかってる。そうすればこの腐った世界でも生き残れる)
だが――。
翌朝、俺は目を覚ますと、焚き火のそばに新しい包帯と水袋が置かれていた。リィナの姿は見えない。
辺りを見渡すと、洞窟の奥から金属音が聞こえてくる。
俺が近づくと、リィナは一人で剣を振っていた。まだ腕は治っていないはずなのに。
「……無茶するなよ」
「体を動かしてないと、傷が疼くんだよ。気が滅入る」
「……」
彼女の剣筋は荒れていた。まだ全快には程遠い。
けれど、その目には迷いがなかった。あの時、俺をかばってまで戦ったのは偶然でも気まぐれでもない。
「お前、何で騎士になったんだ?」
「故郷の村が魔族に焼かれた。家族も皆殺しだ。誰も守ってくれなかった。……なら、自分がそうなるしかない」
あっさりとした声だった。だが、そこに乗っているものの重さは、想像もできない。
俺は言葉を失った。
そんな奴を――俺は、裏切ろうとしてる。
(でも……)
右手の刻印が熱を帯びる。
《逆信》。裏切ることで、力になる。相手の“信頼”が深ければ深いほど、その“反動”は大きく、力も膨大になる。
――リィナを裏切れば、きっと俺はこの世界で無敵に近い力を手に入れるだろう。
だからこそ、俺は彼女と行動を共にし始めた。
三日間。森の外れにある集落を目指して、リィナと俺は進んだ。
道中、傷を抱えながらも魔物を倒し、時には雨風をしのいで狭い洞に身を寄せ合った。
焚き火を囲み、笑い合い、時には過去の話をした。
彼女は多くを語らなかったが、俺が質問すれば、どこか恥ずかしそうにぽつぽつと答えた。
(――信じてる)
その目を、声を、俺は何度も見た。聞いた。
(裏切れば……終わる)
それでも、俺は夜中、そっとリィナの荷物に手を伸ばす。
集落に近づいた今――裏切るなら、今しかない。
信頼を最大にしてから裏切れば、それだけ《逆信》の力は膨らむ。
指先が、短剣の柄を握った。
その時だった。
「……ツルギ」
闇の中から、小さく俺の名が呼ばれた。
リィナだ。寝ているはずの彼女が、目を覚ましていた。
「なに、してる」
その声には、怒りも、悲しみも、何もなかった。ただ、静かだった。
「俺は……」
言葉が出なかった。
何か言えば、全てが崩れる気がした。
「……戻って、寝ろ」
リィナはそれだけ言って、また目を閉じた。
(……まだ、間に合う)
そう思った。でも、その瞬間――
《逆信》が、光った。
俺の右手が、灼けるような熱を放ち、脳裏に力が流れ込む。
彼女の“信頼”が、“裏切り”へと変換される瞬間――
俺は、取り返しのつかない一線を、越えてしまった。