裏切りの地に咲く花
白い陽光が、地平の端から差し込んでいた。
空には三つの太陽が並び、その下で黒鉄の森がざわめくように揺れている。
俺は、岩陰で膝を抱えて座っていた。乾いた風が頬を撫で、肩にかかる外套の端がはためいた。何時間も水を飲んでいないせいか、舌が張り付くように乾いている。目の奥もずきずきと痛んでいた。
(……なんで俺、生きてるんだっけ)
思い出すのも億劫だ。足柄PAで降ろされ、連絡を絶たれ、空っぽのポケットに文庫本と折れたメガネだけ。あの時の、背中から声をかけてきた“なにか”の存在を思い出すだけで、胸がひどく冷たくなる。
ここは――グレイ=ネフティリア。裏切ることで力を得る呪いの世界。
俺の右手の甲には、今も「逆信」の印が淡く光っている。
「うおっ……」
草むらが突然激しく揺れた。
本能的に身を起こした俺は、腰の短剣を握る。いや、それも元々この世界に転移したとき、地面に刺さっていた見覚えのない武具だ。持ち慣れていない。
「くそ……」
だが、草むらから現れたのは魔物ではなく、一人の人間だった。
「――っけ、くそ、逃げ切れねぇ……」
女だった。銀の甲冑をまとい、濃い栗色の髪を高く結い上げている。肩で息をし、剣を構えて俺の前に立ったが、明らかに傷だらけだった。左腕には血が滲み、肩口は破れて皮膚が見えている。
「おい、そこのお前。……傭兵か?旅人か? 戦えるか?」
「は? いや……俺は」
「ならいい、邪魔だけはするな!」
彼女は俺の前に立ち、剣を構えた。
次の瞬間、背後の草むらから二体の魔物が飛び出してきた。四肢が異様に長く、肌は岩のように黒く硬質。犬と蜘蛛を合わせたような奇怪な形状で、目は無数にある。
(やべぇ……)
俺は木の陰に身を伏せた。
女騎士は剣を構えたまま、ひときわ大きく息を吐き、地面を蹴った。
そして――
「はああああああああッ!!」
咆哮のような声とともに、一直線に魔物へと突っ込んだ。
一体を薙ぎ払い、もう一体の背に剣を深く突き立てる。動きは洗練されていたが、ダメージが蓄積していたのか、次の一撃の前に膝をついてしまった。
「……ちっ」
その隙を突くように、残った魔物が彼女の右肩を噛んだ。
「ぐっ……!」
鉄が砕けるような音。女騎士は剣を振り抜いたが、魔物は彼女を引き倒し、噛みついたまま引きずり始めた。
(ああ、死ぬな)
俺はただ、無意識のうちに草むらを走っていた。
「おい、離れろッ!」
叫びながら、手にした短剣を魔物の目に突き立てた。
ズブリ――という感触と、体中に浴びる生臭い体液の飛沫。
「おおおおおッ!」
自分でもよくわからない叫び声をあげながら、俺は魔物を押しのけ、女騎士を引きずって後退した。
彼女は片腕を失っていた。右肩から下が、すでに血と肉にまみれていた。
「お、おい……!」
「……助け……られた、か?」
「ふざけんな、こんな傷じゃ……!」
「逃げろ……。あんた、戦えないんだろ。逃げろ、早く」
「いや、お前が――!」
「私は騎士だ。名もなき村を守る、ただの騎士だ。だが……」
彼女は俺の目を見て、微笑んだ。
「誰か一人でも助けられれば、それで本望だ」
その言葉は、どこまでも真っ直ぐだった。
俺は思った。
――こんなやつを、裏切れば……とんでもない力が手に入る、と。