転生
足柄PAのベンチに座り込み、俺はただ黙って空を見上げていた。
頭の中が空っぽで、スマホの画面も、手のひらの感覚も、すべて遠くのことのようだった。
「……死ぬ気で逃げて、これかよ」
つぶやいた声も、自分のものじゃない気がした。
あの人に電話したとき、心のどこかで助けてくれるんじゃないかと思っていた。でも返ってきたのは――
「こっちもちょっと大変で助けられないから、自分でなんとか頑張って」
わかってたはずだった。
でも、いざそう言われると、体の芯が急激に冷えていった。
足柄の夜は想像以上に寒かった。
吐く息が白い。自販機の明かりが、やけに眩しい。
そのときだった。
ぐぅ――と腹が鳴った。
「……情けねぇ」
空腹と疲労と後悔と絶望が、同時に押し寄せてきたその瞬間。
頭の奥で「ピーッ」という甲高い音が鳴った。
直後、視界がぶれる。世界がゆがむ。
地面がゆっくりと傾き、俺の意識は、ベンチの上から滑り落ちるように闇へと沈んでいった。
「転移完了――対象、生存確認」
耳元で、どこか無機質な音声が響いた。
「……え?」
目を開けると、そこはもう足柄PAではなかった。
空は三つの太陽に焼かれ、地平線には浮かぶ島々が漂っている。白と金を基調とした広大な空間。天井も壁もなく、浮遊する何かに支えられているような不安定な場。
「夢か?」
そう呟いた俺の前に、ローブをまとった人物が現れる。顔は見えない。ただ、その声は男とも女ともつかず、透明な響きを持っていた。
「夢ではありません。あなたは『グレイ=ネフティリア』へ転送されました」
「意味がわかんねぇよ……」
「理解は必要ありません。ただ、あなたには“代償”が科されます」
その言葉と同時に、右手に焼けつくような激痛が走った。叫び声を上げようとした瞬間――
「――お前、騙し続けてきたな?」
背後から、冷たい声がした。振り返ると、そこに立っていたのは異形の存在だった。
仮面をつけた頭部。背丈は2メートルを超え、身体はまるで霧と粘土が混ざり合ったような、形を保っているのが不思議なくらい曖昧だった。
そいつは、俺を見下ろしながらゆっくりと近づいてきた。
「この世界で、お前の“嘘”が試される」
声には怒りも慈悲もなかった。ただ淡々と、ルールを告げる者のそれだった。
「信じる者に災いを、裏切る者に力を。お前の過去が、この地の法となる」
そして俺の手の甲に、奇妙な紋様が浮かび上がる。それはまるで、閉ざされた瞳のように脈動していた。
「ここは、罰の地だ。お前のような存在にふさわしい世界だ」
そう言い残し、異形は霧のように溶けて消えた。
静寂が戻った空間で、俺はただ立ち尽くした。
(……マジで、ここどこだよ)
右手に浮かぶ紋様が、脈打つたびに過去の罪を刻んでくるようで、ひどく胸が苦しかった。
この世界で与えられた能力は「逆信」――
人から信頼されるほどに力を失い、裏切るほどに力を得るという呪いのようなスキル。
それはこの世界の神が与えた“矛盾した贖罪”。
人を騙すことでしか生きられなかった俺に対して、この世界は新たな問いを投げかけてきた。
「今度は、それでも生きるか?」
俺は――答えられなかった。
でも、生きるしかない。